#17-5 愛を望む者


 色欲の真祖は思い出していた。

 七百年前、愚かにも自分の元にやってきた一人の人間のことを。

 彼女はいつもと同じようにその人間も欲望に落とせると高を括っていた。しかし、どれほどの欲望を浴びせても、どれほどの愛欲を煽っても、その青年は動じることがなかった。

 ありえないことだった。人は生きているだけで欲望を抱いている。それなのに何故、彼は欲望に呑まれないのか。


 色欲は初めて人間に恐怖した。愛欲に溺れない人間に戦慄した。

 欲望に呑まれない人間などいるはずがないと思っていた色欲は器と引き剥がされ、その身を封じられた。

 そして、七百年経ったいま、ようやく自由になれたというのに再び色欲の真祖の前に立ち塞がったのは、あの輝きを持つ少年であった。


「……瀧石嶺……神無っ!」


 苦痛。絶望。憎悪。恐怖。様々な感情が入り混じった表情で真祖は眼前の少年を睨みつけた。

 視線だけで人を殺せそうなほど強い負の感情を向けられた少年は、静かな目で真祖を真っ直ぐ見据え――。


「悪いけど、俺は瀧石嶺神無じゃない。俺は……」


 一度目を瞑り、自分が何者かを確かめるように息を吐き出す。そして、彼はゆっくりと瞼を開き、漆黒の双眸で真祖を見返しながら口を開く。


「優斗。……月舘優斗だ」


 優しく温かな光を灯した双剣を構えながら、月舘優斗はそう告げた。


「ユウ君、スズちゃんのお陰で、シロ先生は無事みたい。問題は……」


 僅かに視線をずらして、声の主を見れば、そこには倒れている白と彼を抱き起こしている千沙都の姿があった。彼らのすぐ傍には優斗に声を掛けた朔が立っている。しかし、彼の視線はすでに白から離れて、真剣な表情で別の場所を見ていた。

 朔の近くにいた皐月も彼と同様に目を細めて、一点を見つめている。


「珠洲ね。……あと数秒で覚醒するわよ」


 皐月の言葉を肯定するように優斗の背後で倒れていた珠洲の気配が変質していく。周囲の空気が変化していく。

 色欲の真祖による甘ったるく淫靡な気配と拮抗するように耐え難い空腹感が襲ってくるようになる。

 暴食の真祖が覚醒したのだと誰もが理解すると同時に倒れていた珠洲が静かに起きあがる。


 虚ろな目はどこも見ておらず、光を灯すことはない。水無月珠洲の意志がどこにもないことは明白であった。

 色欲の真祖につけられた胸元の傷が、みるみる修復していく。時間は掛かるだろうが、彼女が持つ治癒の力と真祖の再生力を考えれば、致命傷と思われた傷も完全に塞がるだろう。


 もし治癒の力を持つ暴食の真祖を倒そうと考えるならば、一撃で仕留めなければ即座に傷を修復されてしまい、厳しい戦いになるのは間違いない。

 おまけに未だに色欲の真祖は健在なのだ。珠洲や白の奮闘によって弱っているとはいえ、完全覚醒した真祖二人が相手など分が悪いにもほどがある。もっともそれは真祖を倒すと決めた場合に限るのだが。


「……本当にやるの?」


 念を押すような皐月の言葉に優斗は小さく笑う。その顔はもう一切の迷いなどない。


「何度止めても無駄ですよ。俺はもう決めましたから」


 静かな声に皐月は複雑そうに表情を歪め、それから諦めたように肩を竦めた。彼にはもう何を言っても止めることは出来ないと悟ったのだろう。

 優斗は自らを心配してくれている皐月と朔に優しく笑い、色欲の真祖へと視線を戻した。


 いま色欲の真祖と暴食の真祖に挟まれている状態の優斗は決して楽観視できる状況ではない。もし彼女達が同時に襲ってきたとしたら、ただではすまないだろう。

 それでも優斗には確信があった。

 色欲も暴食も決して襲ってこないと。

 七百年前、真祖達は迂闊に襲いかかって、器から引き剥がされたのだから。


 その証拠に色欲の真祖は優斗を睨みつけるだけで動こうとしない。考えているのだろう。いまのこの状況でどう動くのが正しいのかを。

 そもそも暴食の真祖は完全に傷を修復し終えるまでは動かないだろう。珠洲の傷は決して浅くはないのだから。

 憎悪の視線を向けてくる色欲の真祖。その彼女の内から悲痛な声が響いてくる。本来ならば誰にも届かない筈の声が優斗の鼓膜を揺さぶる。


『やめて! お願いやめて! そんなことをしたらまた七百年前の繰り返しになってしまう! そんなのは嫌! 嫌なの! お願い殺して! 私を殺して!』


 悲痛な叫びは自分の命よりも優斗の身を心配してのもの。

 色欲の真祖によるものではない。文月麗香の懇願。

 優斗の脳裏に浮かぶのは七百年前の記憶。泣いて助けを求めていた少女の記憶。

 懇願の内容は違えども昔も今も彼女は同じように泣いていた。だから──。


「もう誰かが泣いて傷つく姿は見たくない。だから、泣いたって嫌だと叫んだって、勝手に助けさせてもらいますよ。麗香さん」

「い、嫌! ワタシはもう閉じこめられるのは嫌よ! アンタの中はもう嫌よ!」

「確かにみんなと比べたら居心地悪いかもしれないけどさ、我慢してくれよ」


 優斗が暖かな光を纏った双剣を向ければ、色欲は恐怖に顔を歪めながら、優斗に襲いかかろうとした。しかし、数発の銃声と共に色欲の真祖の体に何本も光の杭が打ち込まれ、自由を奪われる。


「ああああああああっ!」


 優斗は色欲に光の杭を打ち込んだ朔に一瞬だけ視線を移す。

 朔は複雑そうな、それでいてどこか満足そうに笑っている。


「ありがとうございます。朔さん」


 朔に礼を告げて、優斗は動けない色欲に向かって双剣を振りかぶる。


「や、やめ……」


 青ざめてひきつった表情を浮かべている真祖の体を光が切り裂いた。


「ぎゃあああああああああああ!」


 絶叫と共に優斗の体の中に何かが入り込んでいく。

 色欲の真祖が、人間を堕落させる甘美な欲望が、優斗の中に侵入していく。全身を蝕んでいく激しい衝動に優斗は苦しげに表情を歪め──倒れそうになる体を無理矢理動かす。

 色欲を切り裂いた勢いを殺すことなく、体を回転させて、背後にいた暴食の体に双剣を滑り込ませた。

 修復に専念していた暴食は、未だに焦点の定まらぬ瞳を優斗に向けて、小さく微笑む。それと同時に珠洲の体から抜け出した暴食が優斗の中に吸収されていく。


「ぐっ……ぅ」


 二体の真祖を取り込んだことによる負荷に耐えきれず、優斗は膝をつく。そのまま地面に倒れそうになる優斗の体を素早く駆け寄ってきた皐月が支えた。


「大丈夫!?」

「……っ、ぅ……はっ……」


 焦った皐月の声に優斗は平気だと答えようと口を開くが、彼女を安心させる為の言葉を口にすることはできなかった。

 気を抜けば、すぐに意識を奪われそうになる。自分が自分でなくなりそうな、強い欲望が優斗の中に渦巻いていた。


「ぐっ……ぅ……」

「ハッ、たった二体の真祖でもうへばんのかよ? 情けねぇな、ユウト」


 次々と襲い来る欲望に意識が遠退きかけた優斗の意識を再び引き戻したのは、いつの間にか目の前に立っていた日宮花音の声。……否、彼女の体を奪っている傲慢の真祖の声であった。

 彼女は不遜な笑みのまま、皐月に支えられている優斗を見下ろしていた。


「真祖はまだ五体残ってんだぜ? その様子じゃ最後まで持ちそうにねえな。あんなに格好つけて、カンナの奴に記憶を渡してもらったっていうのに……だっせえな」

「……っ、はぁ、これくらい、平気、だ」

「上等だ。精々俺様を楽しませてくれよ?」


 息も絶え絶えに返事する優斗は、明らかにやせ我慢していると分かるのだが、それを指摘する者はいない。ただ傲慢の真祖だけが楽しそうに口角を上げた。


「……とりあえず、一度戻りましょう」


 皐月の提案に気を失っている珠洲や麗香の様子を確認していた朔も同意するように頷いた。


「そうっすね。スズちゃん達も休ませないと。……あー、アサちゃん。お願いできるっすか?」

「仕方ないわね。人を運ぶのはあんまり得意じゃないけど、あんたよりは私の方がマシだものね」


 一瞬だけ嫌そうな顔をした皐月だが、朔に任せる方が危険だと判断して、溜息をつきながら指を鳴らす。すると、珠洲と麗香、白と千沙都の体が闇に包まれて、そのまま地面に呑まれていった。

 その場にいた誰もがその瞬間は油断していた。気を抜いていた。色々と思うところはあるが、とりあえずの危機は去ったと考えていた。

 だからこそ、その一瞬の隙が命取りだった。

 気を張っている状態の彼等なら、普段の彼等なら気付けた微かな殺気に気付くことができなかったのだ。


「っ、う……」


 気付いた時にはもう遅い。鋭すぎる殺意と悲しすぎるほどの憎しみが込められた一閃が朔の背中を切り裂いた。だが、流石は学園のエリート集団――七隊の一人というべきだろう。

 完全に虚を突かれた一閃は、寸でのところで攻撃を察知した朔の回避行動によって、致命傷を避けた。しかし、致命傷を避けたとはいえ、大きく切り裂かれた背中からは止めどなく血が溢れ出ており、決して楽観視できる状態ではなかった。


「……卯月、朔……」


 憎々しげに朔の名前を呼んだ黒髪の少女――夜槻綾乃の顔を見るなり、朔は弱々しく笑う。


「綾乃、いきなり後ろから斬りかかるのは酷いと思うけど……」

「うるさい! ずっとずっと、この時を待っていたの。あんたを殺すこの時を!」

「朔!」

「っ、皐月さん危ない!」


 朔に気を取られた隙に皐月の背後に音もなく回り込んだ一人の少年が、彼女の首を狙って、鎌を一閃する。


「っ!」


 皐月は咄嗟に愛用の鉄扇でその斬撃を防いで、距離を取る。


「あー、失敗か。けど、次はその首貰うよ。おねーさん」


 鎖鎌を構えて、無邪気に笑うのは霧谷空だ。幼い見た目に反して、その体から放たれる殺気は到底子どもがだせるものではない。

 皐月も警戒するように空を見返した。

 優斗は皐月の援護に回ろうと未だに苦痛に苛む体を無理矢理動かして立ち上がった。しかし、彼の援護を阻止するように何本もの雷を纏う矢が優斗に向かって放たれる。

 双剣で矢を切り払い、矢が飛んできた方向を見る。するとそこに立っていたのは金髪の少女――雷堂壱伽。彼女は厳しい眼差しで優斗を睨みつけていた。

 そこで優斗は、ようやく自分達の置かれている状況を理解した。


「……あーあ、完全に囲まれてやがんな」


 危機的状況だというのに場にそぐわないほど楽しげな傲慢の声に優斗達も周囲を見渡す。

 いつの間にか彼等を囲むように何十人もの生徒がそれぞれの武器を構えて立っていた。そして、生徒達を先導するように立つ一人の少年。


「……田中」


 優斗の口から自然と零れ落ちた少年の名前。その名前で呼ばれた少年は、ぴくりと眉を動かし、それから声高に宣言した。


「田中明彦なぞもういない。私は瀧石嶺千里。七百年前、世界を救った英雄であり、再び現世を救う為に転生した英雄だ」


 田中明彦――否、瀧石嶺千里の宣言に周囲の生徒達から熱狂的な歓声が上がる。彼等にとって優斗達は人類の敵だ。そして、いま七百年前の英雄が自分達の味方であり、彼に従う事で世界を救う手伝いをしたことになる。

 自分達が世界を救うのだ。正義はこちらにある。


 狂気にも似た熱気が生徒達を扇動していた。

 退鬼師にとって瀧石嶺家は絶対だ。瀧石嶺千里は崇拝の対象だ。その瀧石嶺千里が……七百年前に世界を救った英雄が転生したという事実は、生徒達の意思を統一させるには充分であった。

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