#17-4 愛を望む者
時は少しだけ遡り、珠洲と白の二人がアジトを出て行った後のこと。
室内に残された優斗達は今後の事を話し合うが、一向に結論が出ずに困り果てていた。
そんな時、部屋の奥にある扉が開かれ、花音が姿を現したのだ。
優斗は花音の顔を見るなり目を見開き、彼女に駆け寄ろうとする。しかし、そんな優斗の動きを止めたのは朔であった。
朔は優斗を自らの背で隠し、彼の武器でもある銃を花音に突きつけている。花音に敵意を向けたのは朔だけでない。皐月も花音の首に鉄扇を押しつけていた。
二人の行動に驚く優斗と違い、花音は普段の彼女ならば決して浮かべない不遜な笑みを浮かべた。
「……誰に向かって武器向けてんだ? 怠惰、強欲」
その声は普段と変わらない彼女のもの。それなのに優斗には知らない声に聞こえた。
どこまでも自信に満ちた声は謙虚とはほど遠い。傲慢さすら感じる態度の少女は、彼らが知っている人物だとは到底思えない。
彼女は違う。彼女は優斗が知っている日宮花音ではない。ならば、目の前にいる花音そっくりの彼女は──。
「カノちゃんをどうした? 傲慢の真祖」
敵意を隠そうともせず、低い声で呼びかけられた花音の姿をした少女――傲慢の真祖は、不遜な笑みのまま口を開いた。
「安心しろよ。まだ俺様はこの体を奪う気なんてない。いつでも奪えるからな」
「なら、なんでアンタが出てきたのよ?」
「口の利き方に気をつけろよ、強欲。……まあいい、俺様は寛大だからな。お前の問いに答えてやるよ。俺様はただ奴に確認がしたかっただけだ」
「奴?」
それは一体誰の事なのかと皐月が眉を寄せる。その反応に傲慢の真祖はくつくつと笑い、視線を動かす。細められた翡翠の双眸が向けられたのは、息を呑んでいた優斗であった。
「お前がこの学園に入ってからずっと見てきたが……随分と人間らしくなったなぁ。あんなに人間らしくなかったのによ」
「どういう意味だ?」
「言葉通りさ。以前のお前はあまりにも欲がなかった。世が世ならば、聖人と呼ばれ、崇められていたかもしれねえな。あー、胸糞悪い。まあだからこそ、俺様達を取り込んでもその身を鬼に変じさせることがなかったのだろうけどな」
何がそんなに楽しいのかくつくつと笑う傲慢の真祖に優斗は困惑したように眉を下げた。
「なに馬鹿面晒してんだよ。まさかあいつらの話を理解していなかったのか?」
「り、理解できなかったわけじゃない」
馬鹿にされたような気がして、優斗はムッとしたように言い返したが、傲慢の真祖は呆れたように息を吐き出す。
「愚鈍な所は変わらねえな。少し考えれば分かんだろ。なんで真祖を宿した七人がお前を助けるのか。お前を巻き込まないようにお前を遠ざけていたのか」
それは優斗だって何度も考えた。
何故、朔達は優斗に全てを話し、それでいて優斗の意思を尊重しようとしてくれるのか。
何故、彼等はいつも優斗を助けてくれるのか。
七百年前の話を聞いた時から、なんとなく予想はしていた。けれど、優斗には何の記憶もない。何の実感もない。だからこそ、彼ら自身が断言しない限り、到底信じられなかった。
「……七百年前、俺様達をその身に封じたのはお前だろ。瀧石嶺神無」
ガツンと頭を殴られたような衝撃が優斗を襲う。
咄嗟に朔と皐月を見れば、彼等は神妙な顔をしたまま何も言わない。その反応が全てだった。その反応が肯定であった。
「……まあ、その反応も無理はないか。お前、なーんも覚えていないからな。けど、俺様達は見間違えることはない。俺様達を封じたお前の魂の色を決して忘れることはねえ」
「っ!」
一瞬、傲慢の真祖が見せた殺気に反応して、朔が即座に発砲する。近距離で発砲された銃弾は傲慢の真祖の体に当たることなく、部屋の壁に打ち込まれた。
「そう粋がるなよ、怠惰。お前らなんていつでも殺せる。それを見逃してやってるだけだって忘れんなよ?」
「相変わらずの傲慢っぷりっすね」
「ふん、傲慢なのはこの娘も同じだろ? この俺様を猫に封じるなんて……まさに俺様の器に相応しい傲慢さだろ?」
「猫?」
「なんだ、気付いていなかったのか。お前の傍にずっといた猫――ムツキは俺様の仮の器だったんだぜ? まあ、いつでも抜けられたんだけど、案外猫の姿も楽しかったからな。どうよ、俺様の猫っぷり。騙されただろ!」
ぎゃははと笑う傲慢の真祖に優斗は頭が痛くなるのを感じた。
「まあそんなことはどうでもいい。大事なのはこれからだ。……暴食の器。あいつ、死ぬぞ?」
「っ!」
端的に告げられた言葉。その言葉の重さに驚き、優斗は息を呑む。
「色欲を止めに行ったんだろう? ただの器に真祖を殺せるわけがねえ。となると、色欲に殺されるか、暴食に支配権を奪われるか。どちらにせよ、あの器とはもう会えねえよ」
優斗は何も言えなくなる。部屋を出ていく前の珠洲の様子を思い出す。覚悟を決めたあの顔は死ぬ覚悟だったというのか。それに珠洲と一緒に出て行った白だっている。
優斗は視線を動かし、先程から座ったまま一言も話さない千紗都を見る。彼女は何も言わずに静かに目を瞑っていた。だが、彼女の体が小刻みに震え、膝に置いた手が強く着物を握りしめている。
その態度に優斗は理解する。彼女は分かっていたのだ。
もう白が戻ってこない可能性を。そして、それは優斗以外の誰もが理解していたことだ。
優斗は唇を強く噛みしめ、それから踵を返す。だが、そんな彼の腕を掴んで引き留めたのは、傲慢の真祖である。
「おいおい、言っただろ。ただの人間に真祖はとめらんねぇよ。死体を更に増やす気か?」
傲慢の真祖が言いたいことは良く分かる。優斗が行ったところで、何もできないことだって分かっている。それでも、それでも彼は……。
「もう何もしないで後悔するのは嫌なんだ!」
強い覚悟を込めた漆黒の双眸が真祖を射抜く。決して逸らされる事のない強い視線に真祖は口角を上げた。
「ハッ、いい目だ。……ほんとうにてめぇは変わったな。昔のアイツは、んな顔しなかったぜ?」
「え?」
それはどういう事かと優斗が尋ねるより早く、傲慢の真祖の気配が変質する。
押しつぶされてしまいそうな重量感を伴う空気が優斗を包む。その変化に朔達が動くより早く、優斗の意識は闇に呑まれた。
◇◆
優斗が目を覚ました時、周囲の景色は一変していた。
一寸先すら見通す事の出来ない闇。自分の足元すら確認できない漆黒が広がっていたのだ。
「……ここは?」
その問いに答えるものはいない。
一筋の光すら許さない暗闇は自然と不安を煽り、優斗は息を呑む。
『よお、目を覚ましたか。気分はどうだ?』
不意に響いてきたのは花音の声。いや、違う。花音の体を使って活動している傲慢の真祖の声だった。
優斗は真祖の姿を見つけようと周囲を見渡す。
『ぎゃははは、んなにキョロキョロしたって、俺様は見つかんねえよ。そこは俺様の中だからな』
「お前の中?」
『そうだ。俺様の心の中と言ったほうがいいかもな』
「……なんで、俺はそんな所にいるんだ?」
『バッカだなぁ、てめぇはよ。んなの俺様が呼んだからに決まってんだろ』
優斗としては純粋な疑問を口にしただけなのに心底呆れた声音で馬鹿にされて、ムッとした様子で誰もいない空間を見つめる。
「じゃあ、なんで呼んだんだ?」
相変わらず姿は見えず、声だけがどこからか響いてくる。
『んなの決まってんだろ。その方が楽しそうだからだ』
「は?」
『てめぇは、なんで前世の記憶……瀧石嶺神無の記憶がないんだと思う?』
突然の問いかけに優斗は目を丸くさせる。そんなのいままで考えた事もなかったとでも言いたげな表情だ。
『くく、間抜け面だなぁ。良い事を教えてやるよ。七百年前、瀧石嶺神無は俺様達を自らの体内に閉じ込めることで封印した。そして、その代償に俺様達が奪ったものがある』
「まさか……」
『ああ、記憶さ。アイツにとってもっとも大切なもの。それが記憶だったわけだ。さて、ここまでヒントを出せば、いくら愚鈍なお前でも分かるよな?』
それは優斗が此処に連れてこられた理由。
優斗は誰もいない空間を睨みつける。
「此処にその記憶があるのか?」
『くくっ、だいせーかい! その記憶を取り戻しさえすれば、てめぇもまともに戦えるようになるだろ。なんせ俺様達を封じた瀧石嶺神無の力を完全に取り戻す事が出来んだからな!』
瀧石嶺神無の力を取り戻す。確かにそれならば、珠洲を助けることも、真祖化した麗香を助ける事も出来るだろう。
『ただし、制限時間は七分。七分の間にてめぇが記憶を取り戻せなければ、てめぇは永遠にこの中だ。それを肝に銘じておくんだな」
「っ、ちょ、ちょっと待ってくれ!」
『精々楽しませろよ? ユウト』
優斗の言葉など聞かずに一方的に話を打ち切った傲慢の真祖。彼の声はもう聞こえない。優斗が何を言おうと声が返ってくることはなかった。
「…………」
優斗はため息をついたあと、暗闇を見渡す。
相変わらず一寸先も見えない闇に優斗は、明かりをつけようと意識を集中させる。しかし、いくら集中したところでいつも感じる力を全く感じなかった。
「なんで……?」
最初の頃ならばともかく、いまの優斗ならば周囲を照らす光を出すことは造作もないことのはずだった。それなのに優斗がいくら意識を集中させようと光が出る気配はない。
『一分経過ー。あと六分ー』
「っ!」
再び聞こえてきた真祖の声は、タイムリミットを告げるものだ。優斗は六分しか時間がないことに焦り、あてもなく走り出す。
どれだけ走っても見える景色は同じ闇。右も左も広がるのは同じ景色。
あまりにも景色が変わらないから、本当に自分は走っているのかと疑いたくなる。
闇雲に走り続け、分かったことはこの空間が馬鹿みたいに広いことだけだった。一度も曲がることなく走り続けたというのに壁にぶつからなかったのだ。
優斗は完全に上がり切った息を整える為に一度足を止めた。
「……っ、はっ……」
息を整えながら、もう一度周囲を見渡す。やはり景色に変化はない。
本当にこの中に神無の記憶があるというのか。
そんな疑惑が優斗の中に思い浮かぶ。
『残り三分。あーあ、見込み違いだったか』
失望したような声が響く。その声に優斗は怒りと焦りを覚える。だが、どれほど焦ったところで見える景色は変わらない。
最初から無理なゲームだったのだ。
諦めにも似た気持ちが優斗の中に渦巻く。
強く唇を噛みしめ、俯く。
『優斗君』
「え?」
耳に届いたのは先程まで聞こえていた真祖と同じ声。だが、優斗は違うと確信していた。
傲慢の真祖による呼びかけではない。
真祖の器として選ばれた少女による呼びかけ。優斗が学園に入学してからずっと隣で守ってくれていた少女の声。
日宮花音の声であった。
「花音! いるのか!?」
優斗が声を上げても声は返ってこない。それでも確かに彼女もここにいるのだと優斗は確信する。
先程まで沈んでいた気持ちが浮き上がる。
(……嫌だ。諦めたくない)
ここで優斗が諦めてしまえば、誰が彼女を助けるというのだ。
ここで優斗が諦めれば、彼女達はどうなるのか。
次々と脳裏に浮かぶ仲間達の顔。
もう誰も失いたくない。もう誰かが泣くのは嫌だ。もう誰かが悲しい想いをするのは嫌だ。
もう一度優斗は目を瞑る。深呼吸をして、意識を集中する。
時間がないとか、そんな余計な事は考えず、精神を統一させる。
先程力を発動させようとした時に感じた違和感。
その正体を確かめようと優斗は深く深く意識を潜り込ませていていく。
「っ!」
ふと、優斗の自らの体の中に普段とは違う感覚を覚えて、目を開ける。すると、闇一色だった視界に光が浮かんでいた。
ふよふよと空中に浮かぶ光の球。球体のようなそうではないような言語化するのが難しい形状のソレに優斗は目を丸くさせ、ゆっくりと手を伸ばす。そして、優斗の手がソレに触れる直前──。
「本当に良いのか?」
背後から声が聞こえた。
知らない声の筈だが、知っている気がする。そんな不思議な感情を抱きながら、優斗は振り返る。そこにいたのは見知らぬ青年。
自分の姿すら確認することができない暗闇の筈なのにその青年の姿だけは、はっきりと視認できた。まるで青年の内側から、決して消せない輝きが彼を照らしているようだ。
柔らかそうな銀の髪。全てを見通すような銀の瞳。彼の纏う雰囲気は清浄で、見ているだけで何か大きなものを包まれるような安心感を覚える。
彼に任せれば安心できる。無条件で彼にすがりつきたくなる。
――聖人君子。
傲慢の真祖の言葉が蘇る。確かにその言葉がぴったり当てはまる青年だった。
「……瀧石嶺、神無……」
いつか見た誰かの記憶の中にいた青年。七百年前、花音達を救った救世主。そして、月舘優斗の前世の姿。
神無は優斗の言葉に応えることなく、光の球を見つめている。
「……それに触れたら、君はもう後戻りできなくなるけど」
「え?」
「それは俺にとってはとても大切なものだけど、君にとっては違うだろ?」
確かに神無の言うとおりだ。優斗にとっては前世の記憶など絶対に必要とはいえない。けれど、その記憶が、彼の経験が、今の優斗には必要なのだ。
「確かにそうかもしれない。俺は前世の記憶を取り戻したいとは思わない。けど、情けないことだけど、いまの俺じゃ誰も助けられない」
もしかしたら優斗だって今後修行を積めば、神無のようになれるかもしれない。それでも、それはあくまでも希望的観測で絶対ではない。いくら前世の自分だとはいえ、いまの彼は月舘優斗であり、もう瀧石嶺神無ではないのだから。そして、なによりも時間がなかった。
優斗がこうしている間にも色欲を止めに行った珠洲が死ぬかもしれない。逆に珠洲が
それだけは駄目だった。それだけは許せなかった。
優斗は顔を上げて、まっすぐ神無を見据える。優斗の視線に気付いた神無も全てを見通すような銀の双眸を彼に向けた。
「もう誰かが死ぬのは嫌だ。誰かが泣くのも嫌だ。大河の時のように何もできない自分の無力さが……嫌なんだ」
それは優斗の心からの叫びだった。いつだって優斗は守られてきた。
大河に。花音に。嵐に。麗香達に。いつだって、彼は何もできずに見ているだけだった。そして、何も知らずに守られている間に事態は悪化していった。もう彼等の手には負えないくらいに。
優斗が動くなら今しかない。いままで何もできなかった……いや、いつも口だけで何かをしようとしなかった優斗が動く時がきたのだ。
彼は、この事態を治める力を手にすることができるのだから。
「…………君はやっぱり俺なんだな」
「え?」
長い沈黙のあと、静かに告げられた言葉。その言葉の意味を理解しかねて優斗が目を見張ると同時に神無が光の球を指差した。
「持っていくと良い。けど、忘れないでほしい。君は君だ。もう瀧石嶺神無は死んだのだから。その記憶を引き継いでいようと、君は俺じゃなくて、月舘優斗という人間なのだと」
優斗は光の珠を一瞥したあと、もう一度神無に視線を戻す。
神無が放った言葉の意味を考えて、彼を安心させるように笑う。
「大丈夫だ。俺は俺だから。俺はあんたのようになれないよ。救世主なんて柄じゃないからさ。……だから、安心してほしい。俺は俺のまま、花音達を助けるって決めたから」
優斗の言葉に今度は神無が目を見張る番だった。彼は極限まで目を見開き――それから、笑う。澄んだ雰囲気が砕けた無邪気な笑顔で笑う。
「彼女達のこと頼んだよ。……優斗」
そう言って、神無が優斗に掌を見せるように片手をあげる。その行動に優斗は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに彼の意図を理解して、自らも片手をあげた。
「任せとけ、神無」
パチン、と小気味よい音が響き渡ると同時に神無の姿が掻き消えた。
彼がいた場所を優斗は見つめたあと、光の珠に向き直り、手を伸ばした。
指が触れると同時に周囲が明るくなり、優斗の中に膨大な記憶が流れ込んだ――。
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