#17-3 愛を望む者


 自らの体の痛みに妙菊白は意識を取り戻す。自分の意識が飛んでいた事に気付いた白は、状況を確認しようと体を起こそうとしたが、胸に走った激痛によって阻まれた。


「っ……」


 視線だけ動かして、自らの胸の辺りを見れば、深々と突き刺さった苦無が見えた。痛みの原因を理解して、それと同時になぜ自分が生きているのかを考える。しかし、その理由はすぐに判明する。

 薄い水の膜が白の体を包み込んでいたからだ。水の中にいるというのに不思議と呼吸は出来て、むしろ心地良いと思えるその膜の正体は、治癒の効果を持つ水である。


 支援系の水属性の中でも珍しい治癒の効果を持つ水を生成することができるのは、白が知る限り一人しかいない。

 彼と共にいた水無月珠洲だけだ。

 白は再び視線だけを動かして、珠洲の姿を探す。嫌な予感がした。それは恐らく、彼が珠洲が生み出した水の中にいるから余計敏感に感じ取る事ができたのだろう。

 胸に走る激痛の他に白の体を苛むのは、ひどい空腹感だった。



◇◆



「うふ、うふふふふふふ。つらそうね、苦しそうね。そうよね、苦しいわね? 貴方の中の暴食の気配が強くなってるの。あと少しで、出てきそう。我慢しないでいいんじゃない? お腹空いたでしょう?」

「……だま、れ……」


 ぜえぜえと肩で息をしながら、悪態をつく珠洲だが、その顔色は真っ白だ。華奢な体には幾つもの苦無が突き刺さり、彼女の全身を赤く染め上げている。

 それでも真祖を睨みつける空色の双眸だけは、どこまでも強い意志を宿していた。


「ふふ、たいした強がりね。もう限界でしょうに。お腹が空いて空いて、仕方がないくせに」


 くすくすと妖艶に笑う真祖を珠洲は睨みつける。悔しいが真祖の言葉を否定しきれないのだ。

 いま彼女はひどい空腹に襲われていた。くらくらと目眩がして、意識が遠くなりそうになる。視界に映る全てのものが食べ物に見えてしまう。

 彼女の中の鬼の声がもう抑えきれないほど大きく響いていた。

 色欲の真祖の言うとおりであった。もう幾ばくの猶予すらなかった。

 数分後には珠洲の体は暴食の真祖によって奪われるだろう。それを止める術を珠洲はもう失ってしまった。あまりにも真祖の力を引き出しすぎてしまったのだ。


(……もうこれしかないの)


 一度目を閉じて、珠洲は覚悟を決める。

 瞼を閉じれば、彼女の脳裏に過ぎるのは記憶だ。現世の記憶と前世の記憶。

 決して楽しいだけのものではなかった。むしろ辛い記憶ばかりだ。それでも珠洲は笑う。

 満足そうに、幸福に満ち足りた笑顔で笑うのだ。


「……なんで笑っているのかしら?」


 色欲の真祖が訝しげな表情で、珠洲を見る。彼女には何故この状況で珠洲が笑うのか到底理解できないのだろう。


「ほほっ、お主には理解できぬだろうよ」


 そう、理解できない。欲望の化身とも呼べる真祖には到底理解できる筈がない。欲望の種類は違えども、彼等は『生』に固執しているのだから。

 珠洲が一足飛びで真祖の懐に飛び込み、間髪入れずに舞布で攻撃を仕掛ける。

 彼女の意志で固くも柔らかくもなるその武器は、研ぎ澄まされた刃のような鋭さで真祖の体を切りつけようとして──それより早く、相手の苦無によって防がれた。だが、珠洲は怯むことなく、幾度も真祖に攻撃を仕掛ける。

 息をつく間もない連撃に真祖は防御に徹することしかできない。

 何とか反撃の隙を探りながらも真祖は防ぎ続ける。だが、激しい攻撃に耐えきれず、彼女の苦無が吹き飛ばされた。


「……っ」

「もらった」


 その隙を見逃さずに珠洲が無防備な体に鋭い切れ味を持つ舞布を滑らせた。


「うあああああああっ!」


 痛みに呻く真祖にとどめを差そうと、拝借していた真祖の武器である苦無で彼女の心臓を貫こうとした時──。


「駄目だ!」


 響いた声に珠洲は思わず動きを止めてしまった。そして、そんな隙を見逃す真祖ではない。


「がっ……」


 水無月珠洲の小柄な体に一本の苦無が深々と突き刺された。

 鮮血が周囲を赤く染め上げる。

 赤い血を浴びながら、真祖は勝利を確信して笑った。目障りな器を壊せたと喜んだ。だが、そんな笑顔も次の瞬間、消える事となる。


 胸を貫かれた珠洲が最後の力を振り絞って、真祖の首を斬りつけたのだ。しかし、それはあまりにも弱々しい抵抗であった為、頸動脈を傷付けることは叶わなかった。

 その程度の傷ならば、真祖の生命力で修復される。みるみる治っていく傷口を珠洲は悔しそうに睨みつけ……真祖によって、投げ飛ばされた。


 地面に落下した珠洲は動くこともままならず、遠ざかっていく意識を懸命に保ちながら、真祖を睨みつけ続ける。

 真祖も不愉快そうに珠洲を睨みながら、彼女の命を消そうと近付いてくる。


「やめろっ!」


 響いた声は先程と同じもの。それでも先程よりも近くなった声に二人が目を見張ると同時に真祖の行動を阻むように白銀が煌めいた。

 どこまでも優しく、温かな光。それはかつて、真祖の中に閉じ込められていた時に見た輝き。暗闇の中に差し込んだ一筋の光明。

 その光に。その輝きに。彼女を庇うように真祖の前に立ち塞がった光り輝く二本の双剣を構えた一人の少年の背中に。珠洲は泣きたくなった。


「…………か、ん……な……」


 息も絶え絶えに呟いたのは、彼女にとっての救世主の名前。

 もう一度会いたくて、もう二度と会いたくなかった相手の名前。

 彼がその双剣を手にしているのを見て、彼女は全てを悟った。やはりこうなってしまうのだと。


(……すまない。止められなかった)


 心の中で誰かに謝罪をして、七百年前と変わらぬ輝きを目に焼き付けながら、水無月珠洲の意識は完全に途切れた――。

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