#17-1 愛を望む者
一人の少女がいた。
その少女は貧しい村に生まれ、両親の顔すら知らずに育った子供である。
少女は生きる為にどんなことでもした。良いことも悪いことも少女には善悪など関係なかった。ただ生きることに必死でそんなことを考えている余裕などなかったのだ。
そんな生き方を続けていた少女はある時、ふと考えた。
なぜ自分はここまでして生きているのだろうか、と。
なぜこんなに必死になってまで生きなければいけないのだろうか、と。
少女には親はいない。友もいない。彼女の名を呼ぶものすらいない。そもそも彼女には名すらなかった。
誰も彼女を必要としない。誰も彼女を愛さない。
それならば、自分が生きる意味などあるのだろうか。そう少女は考えた。
暖かい家族など彼女は知らない。笑いあえる友など彼女は知らない。自分を愛してくれる人など彼女は知らない。
どうしようもない孤独感が少女を苛んだ。
ただ生きるのに必死だった少女は、孤独を恐れた。
誰かに愛されたいと願った。
そんな人として至極当たり前の感情を抱いた少女を誰が責められるというのだろうか。
彼女はただ誰かに愛されたかっただけなのだ。たった一人でいい。彼女を愛してくれて、また彼女も誰かを愛したかった。
ただそれだけで良かったのだ。
少女は世界を壊すことなど望んでいなかった──。
◇◆
瀧石嶺学園本校舎。
広大な敷地に幾つもある校舎の中でも最も優秀な退鬼師達が日々訓練をこなしているその校舎の前に二人の人影があった。
二人組の片割れ──妙菊白は、秀麗な顔を歪ませて、襲い来る感覚に意識を奪われないように耐えていた。
同等の力を持つ真祖同士だからこそ張れていた結界から一歩踏み出した瞬間、全身に絡みついてきたひどく淫靡で甘ったるい欲望は、本校舎に近付くほど抗いがたくなっていく。
それは真祖の元に近付いているという何よりの証なのだが、素直に喜ぶことができないのは白の予想以上に耐え難い感覚が全身を刺激しているからだろう。
顔を赤らめ、息も荒くなっていた白に彼の前を歩いていた少女──水無月珠洲は足を止めて、振り返る。
片手に持ったコロッケパンもぐもぐと租借している彼女の様子は至って普通で、彼女も自らに影響を与えている
珠洲はコロッケパンを食べ終わると、また新しいパンを取り出して、袋を開けながら口を開く。
「随分と辛そうだな。いまは吾輩が傍におるから、正気を保てているようだが……。無理をせずに帰ったらどうじゃ? 恐らく、お主を庇っておる余裕などないぞ?」
珠洲としては白の身を案じての提案であったのだが、白には伝わらなかったようだ。
彼は先程よりも意識がハッキリしたように深紅の双眸を細めて、珠洲を睨みつけた。
「馬鹿言わないでくれる? 君に庇ってもらうほど軟弱じゃない」
「ふむ。負けず嫌いも結構じゃが、忠告は素直に受け取った方が良いと思うがな。……まあよい、そこまで言うなら、頑張ると良い。好いた
白の脳裏に浮かんだのは一人の少女。たとえ、全人類を敵に回したとしても守ると決めている彼にとってただ一人の主。
「……言われなくても」
そんなことは珠洲に言われるまでもなく白も分かっているのだ。
悪態をついた白に珠洲は小さく笑う。
その瞬間、全身にのし掛かる欲望の渦に耐えきれず、白は膝をついた。
先程とは比にならないほどの強い影響力。ひどく甘美で、ひどく淫らで、全身がひどく熱を持つ。
「まさか──」
顔を上げた珠洲の前に軽やかに降り立った一人の少女は蠱惑的な笑みを浮かべて、新たな獲物を見つけて瞳を輝かせた。
「ふ、ふふ、うふふふふ。新しいお客さんね。いらっしゃーい」
その甘ったるい声が体中に巡る毒のように鼓膜を揺らし、刺激する。
白はかろうじて保っていた意識を失わないように顔を上げて、その声の主を見上げた。
そこにソレはいた。
明らかに人ではない。いや、姿形は人と全く同じだ。だが、それでも人間ではないのだと本能が訴える。
ソレは人ではない。人とは違う。人であるはずがないのだ。
あんな大きな欲望を抱えた人が人でいられる筈がないのだから。
姿形は以前の文月麗香と全く同じだというのに何故あそこまで本能が危険だと叫ぶのか。
蠱惑的な笑みも文月麗香が浮かべるものとよく似ているというのに何故これは人類に害なす存在だと理解してしまうのか。
人とは違う存在なのだと嫌でも分かってしまう。そして、それに逆らうなど無理だと悟ってしまう。
「あら? あらあらあら? 貴方、恋をしてるわね! 愛する者がいるわね! うふ、うふふふふふ、いい、いいわ!」
「あ……」
白の姿を認めるなり、爛々と瞳を輝かせて近付いてくる真祖に白は抵抗しようとするが、体が動かない。彼女の桃色の双眸から目が離せなくなる。
その瞳を見ているだけで、白の中の熱が高まっていく。全身がひどく疼いていく。
「いいのよ。何も恥じることはないの! 愛する者がいるならば、その人の元に行くといいわ! 掴まえて、押し倒して、誰のものにもならないように自分のものにするのよ! 貴方の愛を注ぎ込むの! そう、それがいいわ!」
「……っ、だれ、が……っ」
「うふ、ふふふふふ。無理しなくていいの。体が熱いでしょ? 疼くでしょ? 愛する人を自分の好きなようにしたいでしょう! いいの、いいのよ。他の誰もが許さなくてもワタシが許してあげる。だって、それがワタシなんだから!」
甘ったるい声が毒のように全身を巡り、白の意識を削いでいく。朦朧として、周囲の景色すらまともに見る事ができないのに、爛々と輝く桃の瞳だけがやけにハッキリと見えた。
強い欲望が白の理性を苛む。それを拒む事が出来ないのはひとえに相性の問題もあったのだろう。世界を敵に回してもいいと思えるほど誰かを愛している妙菊白など色欲の真祖にとっては格好の餌食であったのだ。
「妙菊の小僧! 気を強く持て! でなければ、呑まれるぞ!」
「っ!」
響いたのは今までに聞いたことがないほどの珠洲の鋭い怒声。その声に欲望に呑まれかけていた白は自我を取り戻す。とはいっても、まとも動く事など出来ずに未だに地面に膝をついたままだったが、それでも近付いてきた真祖の手を払いのけるくらいの精神力は戻っていた。もっとも、手を払いのけた時に自分の体を支えきれずに地面に倒れてしまったが……。
色欲の真祖は自分の手を払いのけられるなどと思っていなかったのか、驚いたように目を見開いて白を見ている。
「そこまでだ、レイカ……いや、色欲の真祖よ」
一歩、珠洲が足を踏み出すと、色欲の真祖は蠱惑的な笑みから一転。ひどく冷めた眼差しで珠洲に視線を移した。
「あらなーに? 未だに器に主導権を取られてる暴食が何の用かしら? ふふ、情けなーい。ただ食べる事しか能がない奴はこれだから駄目ね」
「…………悲しいのう、レイカよ。もう二度と真祖どもに体を渡さないという誓いを言い出したのはお主であったというのに……」
「あは、なに言ってるの? その器があっさりと主導権を渡したからワタシがここにいるんでしょう? まったく馬鹿みたい。ただの人間がワタシを封じられるとか本当に思ってたのかしら?」
「確かに七百年前なら無理であったであろうな。だが、吾輩達は一度救われた。そして、教えてもらった。吾輩達の感情自体は間違っていなかったのだと」
その言葉に何か思うところでもあったのだろうか。一瞬だけ、真祖の顔が歪んだ。しかし、すぐに不快だとばかりに眉を寄せて、数本の苦無を珠洲に向かって投げる。
珠洲はそれを避けると、無防備になった真祖の懐に飛び込んだ。
「聞こえておるのであろう麗香! 吾輩達は確かに罪を犯した。けれど、その感情は、お主が抱いた誰かに愛されたいという願いは間違ってなどおらぬのだ!」
「っ、うるっさいのよ! そんなこと言って、アイツがワタシを止められるとでも思ってるの? 無理よ無理! アイツにそんなことができるわけがない! アイツは弱くて、誰にも愛されなくて、誰にも必要とされなかった。そのくせ愛されたがりの弱虫だった! だからワタシの器にピッタリだったんだけどね」
近距離からの突風に珠洲は後方に飛んで距離を取る。軽やかに地面に着地した後、真祖を見る表情はどこまでも険しいものであった。
「黙れ。それ以上、我が友を侮辱するなよ。色欲」
ひやり、と周囲の温度が下がったのを色欲の真祖は感じた。それと同時に珠洲の体の内側から漏れ出してきた暴食の気配に笑みを深める。
「あら、いいのかしら? 暴食の力を引き出すと、主導権奪われるんじゃないかしら?」
「そんなことはさせぬよ。奴は二度と表には出さぬ。本来であるならば、奴の力を引き出さないのが一番なのだが、お主の相手をする為にはそうも言ってられぬであろう」
「あは、ワタシとやる気なの?」
「それが我らの贖罪なればこの命くれてやろう。……彼の安寧な生活の為にもな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます