#16-3 七百年前の真実
「強い欲望や恐怖を抱いた人間は鬼になる。真祖に影響された人々と鬼になった人が世界に溢れて、世界は破滅に向かった。それが七百年前に実際に起こった事だよ」
「混沌に呑まれた世界。それを救おうと立ち上がった人間が瀧石嶺千里。そして、彼の実の弟である瀧石嶺神無」
補足するように付け足された皐月の言葉。
その名も聞き覚えがあった。大河の前世――天童虎之介の記憶を見た時に現れた銀髪の少年がそんな名前をしていた。
「退鬼師を集結させて鬼を退治する道を選んだ瀧石嶺千里と違って、瀧石嶺神無は真祖と和解する道を選んだ。兄である瀧石嶺千里も他の退鬼師達も瀧石嶺神無を笑った。そんな事出来る筈がないと誰もが馬鹿にした。真祖に近付くなんて自殺行為だからね。欲望に呑まれてお終いだ」
「…………もしかして、それが真祖が退治出来ないと言われてた理由ですか?」
「そう。真祖は殺せないんじゃない。近付くだけで欲望に呑まれ、その目的を達成できないだけなんだ」
それならば、瀧石嶺神無だって欲望に呑まれたのではないか?
そんな考えが優斗の脳裏に浮かぶ。
優斗の考えを見透かすように朔は小さく笑った。
「うん、誰もがそう思ったよ。俺達だって馬鹿な人間が来たと思った。けどね、彼は呑まれなかった。どんなに欲望を広げても呑まれる事がなかった。そして、彼は俺達を救ってくれたんだよ。俺達に宿っていた真祖を剥がしてくれたんだ」
「そんな事が……」
出来るのかと言いかけて、あの記憶の中で瀧石嶺神無が鬼を人間に戻していた事を思い出す。
鬼を人間の姿に戻す事が出来るのならば真祖だって例外ではないのかもしれない。そう考えたのだ。
「神無さんは俺達全員を普通の人間に戻してくれた。真祖の影響を受けた人達も元に戻った。鬼は瀧石嶺千里率いる退鬼師軍団が全部退治した」
「それで、世界が平和になったんですか?」
優斗の疑問に朔の表情が悲しげなものに変わる。
「……そう、だったら良かったんだけどね。…………神無さんは、鬼と化した人を人間に戻すことが出来た。でもさ、よく考えてみてよ。そんな常人の域を越した事が何の代償もなく出来るわけないよね?」
「っ!」
「神無さんは…………鬼を祓ったわけじゃない。自分の中に取り込んだんだよ。真祖だって例外じゃない。神無さんは沢山の欲望を、真祖と呼ばれるほど強い欲望をその身に宿したんだ」
たった一体でもその身を破滅に導くという真祖を七体もその身に宿した人間がはたして無事だというのか。そもそも、その人間がもしその身を鬼に変えたとしたら、どれほどの災厄を撒き散らす事になるというのか。
想像するだけで恐ろしい。
「……瀧石嶺千里は神無さんを殺したんだ。危険だから、真祖に手を貸した大罪人として実の弟を処刑した。そして、俺達も真祖として処刑された。かくして、瀧石嶺千里は世界を救った英雄として崇められたのでした。これが、七百年前の真実。まあ、ある意味では世界を救った英雄に間違いないのかもしれないね。彼は……」
「何を言う! 本当に世界を救った若者を殺し、もはや何の力もなかった吾輩達を問答無用で悪として殺した奴が英雄だと抜かすのかお主は!」
「それは俺達の目線っすよ。瀧石嶺千里の行為で救われた人間だって確かにいたんだってことっす。もし、神無さんが鬼になったとしたらその被害は俺達とは比べ物にならなかっただろうし、ある意味では彼は正しい事をしたんじゃないかってね」
「ふざけたことを言わないで。神無さんは真祖を抑えてた。アイツは既に無害な人間を殺して、民衆に英雄と思われたかっただけよ」
嫌悪感を露わにする二人に朔は小さく溜め息をつく。
「落ち着いてほしいっす。別に俺は瀧石嶺千里を擁護するわけじゃないっす。俺も彼は許せないんで。けど、ユウ君に真実を伝える時に俺達だけの情報を与えるわけにはいかないっすよ。都合の悪い事を隠すなんてどっかの誰かさんと同じやり口っすから」
その言葉に二人の脳内に同じ人物が浮かんだのか、彼女達は忌々しげに表情を歪めたあと、黙り込んだ。
二人が黙ったのを見た後、朔はもう一度息を吐きだしてから、優斗に向き直る。
「この際、正義がどちらにあったかはどうでもいい。俺達は確かに大罪を犯した。神無さんは俺達を庇った。それに世界を滅亡に導く危険を孕んでいた。処刑される理由は充分。けど、瀧石嶺千里は本当に世界を救った英雄を殺し、抵抗する気がなかった俺達を殺した。その事実を知ってもらえたら充分」
優斗は何も言えなかった。
どちらが正しかったのかなんて優斗に決められるわけがなかった。
ただもう少し何か方法がなかったのかと考える。
誰もが傷付かなかった方法がなかったのかと考える。けど、何も浮かばなかった。
「……ユウ君。俺達は退鬼師の……いや、全人類の敵だ。存在するだけで悪だよ。瀧石嶺千里は何としても俺達を殺そうとするだろうね。だから、聞くよ。君は、これからどうしたい?」
「え?」
気付けば全員の視線が優斗に向かっていた。
朔だけではない。珠洲も皐月も千沙都と白まで優斗を見つめていた。
その視線は優斗の意思を尊重するとでも言いたげな優しいものだ。
彼等は選択肢を与えてくれているのだと気付く。
優斗が彼等につくか。それとも瀧石嶺千里につくか。
もし此処で優斗が逃げ出しても構わない。最悪、瀧石嶺千里側についたとしても彼等は恨み言一つ言わないだろう。そう理解できてしまった。
朔達は優斗にとって良く知らない人達だ。名前も顔も知っている。だが、友達かと言われると首を傾げてしまう。ただの顔見知り程度の関係。
それでも、彼等が何度も優斗を助けてくれたのは確かで、優斗を信頼してくれるのも確かだった。
そして、月舘優斗という人間にとってはそれだけで彼等を見捨てるという選択肢がなくなってしまうのだ。何よりも真祖の中に花音がいる。理由は充分すぎた。
「……俺には、どっちが正しいかなんて分からない。けど、花音は何度も俺を助けてくれた。文月さん達だって俺を助けてくれた。だから、俺もその恩を返したい。朔さん達を見殺しになんか出来ない」
その言葉を聞いた瞬間、朔達が困ったように笑う。
まるで優斗がそう言うのだと予想していて、その答えを望んでおり、望んでいなかった。そんな複雑な表情だった。
「分かってるの? それがどんな道かって……」
声を上げたのは今までずっと黙って話を聞いていた白であった。
彼は鋭い視線で優斗を見据えている。それは彼の厳しさであり、優しさであった。
「退鬼師を……全人類を敵に回すことになるかもしれないんだよ。君のお仲間……石動君達とだって敵対する可能性もある」
「っ!?」
その言葉は優斗にとって予想外すぎるものであった。だが、よく考えれば彼等は瀧石嶺千里によって捕らえられていた。そんな彼等が瀧石嶺千里側に回らないとは限らないのだ。
こちらは世界を滅ぼす真祖。全人類の敵。常識的に考えれば、朔達を庇おうとする優斗がおかしくて、彼等が正しいのだろう。
優斗は何も言えない。
花音達と嵐達。そのどちらか一方を取る事など優斗には出来ない。だが、何故だろうか。
それでも優斗の心の奥にいるもう一人の自分が叫んでいた気がした。
――
何も言えなくなった優斗に白はため息をつく。
「……月舘君は此処に隠れてなよ。あとは僕達が動くから」
「え?」
「卯月君達がどうしても君に説明したいっていうから、黙って待ってたけど、実際はそんなに悠長にしてる余裕なんてないんだ。覚悟が決まらないなら、引っ込んでなよ」
突き放すような冷たい声と視線。
そこで優斗は今の状況が一刻の猶予もないのだと気付く。けれど、それならばいま何が起こっているのだろうか。
そんな優斗の困惑に気付いた朔が溜め息をついた後に口を開く。
「レイ先輩がさ、真祖化したんだよ。それに引っ張られるようにアキ先輩とシュウ先輩もね」
「……真祖、化?」
それはどういう事なのだろうか。朔達とは違うのか。そんな疑問が優斗の脳裏に過ぎる。
「俺達は鬼を抑えて主導権を握らせないようにしてる。だから、いまの俺達の傍に近寄ったところで欲望に呑まれることはない。けど、レイ先輩達は鬼に主導権を握られてる。つまり、いまレイ先輩達に近付けば、欲望に呑まれる。……簡単に言えば、七百年前に世界を滅ぼしかけた真祖が完全復活したってこと」
息を呑む。立て続けに色んな事を言われて、混乱しきった頭に更なる衝撃。
何故こんなに畳みかけるように色んな事が起こるのか。それはひとえに彼が何も知らなかったからだろうか。花音達が話してさえいればここまで酷いことにはならなかったかもしれない。
反対に話さなかった事でこの程度の被害ですんでいたのかもしれない。真相など分かるわけがなかった。
ただ優斗としてはやはり知ってさえいれば何か出来たのではないかと考えてしまう。真実を知ってさえいれば何かが出来たのではないかと思ってしまった。
優斗は既に背を向けて、部屋を出ていこうとしている白を見る。
そもそもなんで彼が真祖側についているのか。その理由がどうしても優斗には分からなかった。
「……妙菊先生は、なんでこっちに? 瀧石嶺家に仕えてたんですよね?」
そんな言葉を掛けられた白は、ぴたりと動きを止めて肩越しに振り返る。
その顔はひどく嫌悪感に満ちていた。そして、彼は吐き捨てるようにその理由を告げた。
「勘違いしないで。僕は瀧石嶺家に仕えてたわけじゃない。僕の主は千沙都様ただ一人。それに今は平気でも、今後瀧石嶺家は千沙都様の事を殺そうとするだろうね。僕はそれが許せない。千沙都様を守るためなら、世界だって敵に回す。それだけだ」
深い覚悟を宿した真紅の双眸が優斗を射抜く。その瞳から伝わってくる覚悟に優斗は白が本気でそう思っているのだと理解した。
ただ一人の少女を守る為に全てを敵に回す覚悟が彼にはあるのだ。
何も言えなくなって黙り込んだ優斗の隣に座っていた珠洲が不意に立ち上がる。
思わず彼女の顔を見上げてしまった優斗と目が合うと、珠洲は笑みを浮かべて優斗の口にサンドウィッチを突っ込んだ。
いきなりサンドウィッチを食べさせられた優斗は意味が分からず、声を出そうとしたが口を塞がれている為、声を出せなかった。
急いで口の中に含まれたタマゴサンドを咀嚼する。
「妙菊の小童の言う通りだ。お主は此処で待っているがよい。ここからは吾輩達の領分であるからな」
「……いいんすか? 無策に突っ込んで」
「仕方なかろう。色欲の気配が濃厚になってきておる。これ以上放置するわけにもいかないからの」
「分かったっす。待ってください、いま準備を――」
「吾輩だけで充分だ。主らは、その間に作戦でも立てておれ」
朔の言葉を遮って、珠洲は部屋の入口に向かって歩き出す。既に扉の所にいた白を見ると僅かに目を細める。
「主も留守番していても良いのだぞ」
「馬鹿言わないでくれる? 真祖だろうがなんだろうが、僕の敵は僕が倒す」
「……あまり生き急ぐなよ。主の事を想う小娘を悲しませる気か?」
「っ!」
痛い所を突かれたとでも言いたげに表情を歪めた白。彼の視線は珠洲から外れて、ソファーに腰掛けたままの千沙都に向かう。
心配そうに眉を下げて、それでも彼女は白を引き留める事などしない。自分がどんなに止めた所で彼が止まらないと彼女は良く知っていたからだ。それならば、彼の選択を尊重する。
それが何の力もない少女にできる唯一の事だった。だから、千沙都は白を安心させるように微笑んだ。
「いってらっしゃい。シロ」
その言葉に、その笑顔に、白は目を見張り――それから、今まで優斗が一度も見た事がないくらい優しく微笑んだ。
「……はい、行ってまいります」
どこまでも優しく、愛情に満ちた声と眼差しを主に向けて、従者は部屋を出ていった。
その後に続くように珠洲も扉をくぐりかけて、思い出したように振り返る。そして、まっすぐ優斗を見ると彼女も笑った。
「ではな。また逢えて嬉しかったぞ」
短い言葉と共に珠洲も出ていく。
その言葉の意味が優斗には分からなかった。それでも、彼女が今生の別れを告げた気がして、優斗は完全に閉じた扉を茫然と見つめた。
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