最終章

#16-1 七百年前の真実


 誰かが泣いていた。

 それが誰なのか、男性なのか女性なのかすら判別ができない。

 その声も、その輪郭も、その表情も、すべてが靄に隠れてしまって何も分からない。それでも、その人が泣いていたというのだけは何故か理解できたのだ。


「なんで泣いてるんだ?」


 誰かが泣いている人に向かってそう問いかけた。

 その言葉に泣いていると思っていた人物は嘲笑を含んだ声音で返事をする。


「なに馬鹿な事言ってるのかしら? 私はこんなに楽しいのに! こんなに愉快なのに! これほど笑っているというのに何故貴方は私が泣いているなんて世迷い言を口にするのかしら?」


 その声は高く、妖艶さに満ちていた。そこで、泣いていた人は女性だったと気付く。

 女性だと理解すると靄が僅かに晴れて、表情が見えるようになる。

 その顔は彼女の言う通り、笑っている。この上もなく楽しそうに、恍惚とした笑みを浮かべていた。

 それでもやはり、彼女が泣いていると感じた。その考えを肯定するように彼女に話しかけた銀髪の少年は女性に静かな眼差しを向けたまま、言葉を紡ぐ。


「……やっぱり君、泣いているな」

「はぁ!? 何を言ってるの? この私に直接会いに来た愚か者が面白かったから会ってやっただけなのに……そんな事を言われるなんて興醒めね。もういいわ。貴方も他の人間と同じように愛欲に溺れなさい」


 女性が妖艶な笑みを浮かべると同時に周囲の空気が変わる。

 甘ったるく、全てを溶かすような倦怠感が広がっていく。

 ひどく甘美で、ひどく淫靡で、どうしようもなく情欲をそそられる。この女性の前ではどんな人間もたちどころに理性を失い、本能に溺れるであろう。

 だが、銀髪の少年はそんなもの一切感じていないように平然とした様子で彼女に話しかけた。


「君に話しているわけじゃない。俺は本当の君に話しているんだ。聞こえてるんだろう? 君の泣き声が俺には聞こえた。なら、俺の声だって届くはずだ」

「何を意味の分からない事を……っ!」

「……うん、聞こえた。君だってこんな事したくないだな。なら、俺は君を助ける」

「ふ、ふざけないで! 私はこのままがいいの! 助けてほしくなんてない! こんなに楽しいのに! こんなに愉快なのに! 気持ちいい事をしたいだけなの!」


 女性の表情から笑みが消えて、浮かぶのは恐怖。自分が消えるという恐怖を浮かべた女性に少年は悲しげに眉を寄せた後、両手に光り輝く双剣を構える。

 静かな銀の双眸が女性を射抜いた。


「……色欲の真祖。彼女の体は返してもらう」


 少しだけ低くなった声に女性は更に恐怖する。そんな女性に向かって、少年は躊躇なく光り輝く双剣を一閃させた。

 悲鳴を上げて、女性の体から何かが剥がれる。そして、その何かは少年の中に吸い込まれた。

 力を失って倒れ込む女性を支えて、少年は頭を押さえる。


「…………っ、悪いけど、俺で我慢してくれ。まあ、体を明け渡すわけにはいかないけどさ」


 その言葉は誰に向けたものなのか、少年以外には分からない。

 少年は苦しげに呻いたあと、静かに眠っている女性を見て、少しだけ表情を和らげた。そして、強い覚悟を宿した銀の双眸が虚空を射抜く。


「……必ず助ける。だから、待ってて…………睦月」


 小さな声で呟かれた言葉は誰の耳に届く事なく風にさらわれて消えた。



◇◆



「さて、状況は最悪だが……どうしたものか」

「申し訳ありません。私の力がもっと強ければ……」

千沙都ちさと様のせいではありません!」

「そうっすよ。たとえ巫女様の力が強かったとしてもこの展開は避けられなかったはずっす」

「そうね。あの瀧石嶺千里が転生していたなら、遅かれ早かれこれは避けられなかった。けど、想像以上に状況が最悪だったわね」

「レイ先輩、シュウ先輩にアキ先輩までっすからね。カノちゃんも戻っちゃったみたいだし…………わりと詰んでるっすよ」


 大きな溜め息と共に紡がれたその言葉に空気は一層重くなる。

 悲壮感が漂う中、声を上げたのは空色の髪をツーサイドアップにした少女──水無月珠洲だった。


「奴らを殺すしかなかろう。同じ真祖同士なら殺す事も出来るだろう。まあ、相打ちになるだろうがな」

「けど、それをしたら誰が瀧石嶺千里を止めるの? 言っておくけど、アイツを殺してからなんてとても間に合わないわよ。もう真祖化してるんだから」

「問題はそこっすよね。……それに相打ちは構わないんすけど、その前に俺個人の問題も終わらせないといけないんで、圧倒的に時間が足らないっす」

「…………うっ」


 神妙な顔つきで話し合っていた少女達は小さな呻き声を聞いて、誰もが一点に視線を集中させた。

 視線の先にいるのは簡易ベッドに寝かされた黒髪の少年。彼の体が軽く身じろぎ、瞼がゆっくりと開かれる。


「ようやくお目覚めね。気分はどう?」

「……君は?」


 真っ先に声をかけた明るい茶髪をポニーテールにした少女を見て、黒髪の少年――月舘優斗は訝しげに彼女の顔を見返す。まだ記憶が曖昧なのか、ぼんやりとした様子だった。


「そういえば、自己紹介がまだだったわね。私は朝永あさなが皐月さつき。改めてよろしく。月舘優斗君」

「なんで、名前を……」


 そこで優斗は室内に他の人がいたことに気付く。そこにいた人達の顔を見て、表情に困惑が浮かんだ。

 何故自分が此処にいるのか。何故こんな面子が集まっているのか分からなかったのだろう。

 八畳ほどの広さの部屋。ソファーやテーブルといった生活に必要な物が最低限置かれていた部屋にいたのは数人の男女。


 ソファーに腰かけているのは腰まで伸びた濡れ羽色の髪の少女――瀧石嶺千里。

 そんな彼女に寄り添うように立っているのは妙菊白。

 千里の座っているソファーの対面に置かれたソファーに腰掛けて、もぐもぐとパンを食べている水無月珠洲。

 何故か近くの壁に寄りかかっている卯月朔。

 そして、たったいま名乗った朝永皐月。まるで共通点が見えない面々であった。


「えっと……」


 自分の記憶を探る。そこで優斗は自分が意識を失う前に何があったかを思い出して、勢いよく起き上がった。


「花音はっ!? それに嵐達も!」

「落ち着いてユウ君。カノちゃんは無事だよ。……他の子達もたぶん平気だと思う」


 朔に声を掛けられて、優斗は安堵の息を漏らす。

 花音達が無事と聞いて、落ち着きを取り戻した優斗は改めて部屋の中にいる面々の顔を見る。


「……とりあえず、聞きたいことは沢山ありますが、なんで妙菊先生が此処に?」

「なに? 文句ある?」

「文句というか……意味が分からないというか……そもそも何で巫女様まで?」

「私はもう巫女ではありませんよ。千里の名も返上致しました。ですので、そんなに畏まらないでください」


 ふわりと穏やかな笑みを浮かべた少女だが、彼女の傍に控えている従者の視線は鋭い。失礼な事を言った瞬間、従者が飛び出してくるだろう。

 優斗は困惑した表情を浮かべる。


「……それならなんと呼べば?」

「千沙都、で構いませんわ。本来の私の名前ですので」

「は、はぁ……分かりました。ええっと、それでこの状況は一体……?」


 優斗としては普段から教えを請うている白を自然と見てしまうのだが、その視線に気付いた白は嫌そうに表情を歪めた。


「なんでそこで僕を見るの? 言っておくけど、いまの僕は教師でもなんでもないから、君に教える義理はないんだけど?」


 不機嫌そうに視線を逸らした白。どうやら状況を説明する気はないようだ。

 優斗は諦めて、他の面々に尋ねようと周囲を見渡す。

 部屋の中にいた朔達は互いに見合っている。まるで誰が説明するかを揉めているようだ。

 暫く無言の攻防を繰り広げた後、朔が根負けしたように肩を竦ませながら優斗に向き直る。


「……はいはい、俺が説明すればいいんすね。……それじゃあ、ユウ君。長い話になるから座ってな」


 朔が指差した先にあるのは珠洲が座っているソファーだ。珠洲は優斗を一瞥した後、無言で端に寄る。

 せっかく珠洲が端に寄ってくれたのだから好意を無駄にするわけにもいかず、優斗も大人しくソファーに腰掛けた。


「……最初に言っておくよ。俺達は、この話をユウ君に伝える気はなかった。それが全員の願いだったから。けど、今はそんな事を言っている場合じゃないから協定を破って教える事にした。でも、誤解しないでほしい。俺達は……ううん、カノちゃん達は君の幸せを願って黙っていただけなんだから」


 真剣な眼差しだった。

 優斗にはこれから朔が何を話す気なのか分からない。ただとても大事な事を言おうとしている事だけは分かった。

 それはきっと花音と大河が知っていた何かに関わる事なのだろうと漠然と理解した優斗は、まっすぐ朔を見返して頷いた。

 優斗が頷いた事に朔は少しだけ微笑んで、それから静かに口を開く。


「まず、ユウ君の前に現れたあの『瀧石嶺千里』。彼は七百年前の英雄と呼ばれた初代瀧石嶺千里。正確にはその生まれ変わり……つまり転生組ってこと」


 その言葉は優斗に衝撃を与える。

 それはそうだろう。大河だけではなく、田中までもが転生組だったのだから。自分の周りに二人も退鬼師に関する人物がいたのだという事実に驚いた。


「彼が生まれつき前世の記憶を持っていたのか、それとも何かきっかけがあって思い出したのかは分からないけど、とにかく彼は初代の瀧石嶺千里の生まれ変わりって事だけは確かだ。その辺りは実際に対峙したアサちゃん達が分かると思うけど」

「間違いないわよ。あの男の醜悪な雰囲気を間違えるわけない」

「そうさな。奴ほど恐ろしい人間を間違えるわけがない。七百年経とうとあの醜悪さは変わらぬよ」


 朔の言葉に同意を示した皐月と珠洲は忌々しそうに表情を歪めている。だが、優斗にはそれよりも気になる事があった。


「七百年?」


 何故彼女は昔の瀧石嶺千里を知っているような口ぶりをするのか。その答えが優斗の脳裏に浮かび上がるより早く、朔が言葉を続けた。


「スズちゃんだけじゃないよ。俺もアサちゃんも昔、実際に瀧石嶺千里に会ってるから」

「え?」

「俺達も転生組だから。七百年前のあの時代を生きた記憶を持った……ね」

「あ、そこにいる巫女様……じゃなくて、千沙都さんと妙菊先生は違うわよ。彼等は七百年前とは全く無関係だから」


 補足するような皐月の言葉に白は不快そうに眉を寄せたが何も言わずに視線を逸らすだけだった。千沙都も何も言わずに小さく頷くだけ。

 二人から視線を外して、優斗は再び朔達を見る。つまり、朔と皐月と珠洲の三人が転生組ということだろう。

 七百年前の記憶を持つ転生組という事は驚きだが、それがこの状況に何の関係があるのか分からずに優斗は再び困惑の表情を浮かべた。


「なんで瀧石嶺千里が再び瀧石嶺家の長として立ち上がったのか。その理由は簡単だよ。彼は七百年前の再現をしようとしている」

「七百年前の再現?」


 嫌な予感が優斗の中を駆け巡る。

 知らず知らずのうちに息を呑んだ優斗に朔は一度息を吐いてから、静かに告げた。


「真祖退治、だよ」

「え? け、けど、真祖って……封印されてるんじゃ……」


 いつだったか入学したての頃に白の授業でそんなことを聞いた。優斗の視線が思わず白に向かう。

 白は優斗と目が合うと小さくため息をついた後、千沙都を見る。白の視線を追うように優斗も千沙都に視線を向けて……二人の視線を受けた千沙都は静かに首を横に振った。

 その仕草が示す意味はただ一つ。

 ということだ。


 七百年前、真祖という存在によって世界が滅びかけた。

 真祖は普通の鬼と違い、退治することは出来ない。それならば、いまのこの世界はどうなるというのだ。

 優斗は想像する。

 町に、世界に鬼が溢れる光景を想像する。

 自分の家族が、自分の知り合いが、自分の知らない誰かが、なすすべもなく鬼に殺されていく光景を想像する。


 恐ろしい光景であった。そんなの絶対に駄目だった。

 どうすればいい。どうしたらそれを防げる。何の力もない自分にはどうにもできないのか。

 そこまで考えて、優斗は気付く。


(……田中が七百年前に世界を救った英雄の生まれ変わりなら……)


 今世でも瀧石嶺千里が世界を救うのではないか。

 そんな希望が優斗の胸に宿る。だが、心の奥ではそれは駄目だと叫ぶ誰かがいた。


「ユウ君は、真祖をどう思う? 何としてでも退治するべきだと思う?」

「え?」


 質問の意図がよく分からなかった。

 当然世界を滅亡に導く存在がいるならば、それを退治した方が良いに決まっている。もう大切な人が殺されるのはごめんだ。だが、優斗にも何故か分からないが真祖は悪だと断じる事が出来なかった。

 鬼は恐ろしい。けど、その鬼の正体は人間だった。

 それならば、真祖だって人間である筈なのだ。同じ人間なら救う事が出来る可能性がある。

 殺さなくても助けられるならばその方が良い。どんな相手だろうが殺すのだけは駄目なのだ。


「……正直分かりません。俺は真祖とかも良く知らないし。けど、もし分かり合えるなら俺はその方が良いと思います」


 優斗がその言葉を口にした瞬間、朔が……いや、朔だけではない。隣に座っている珠洲も先程まで優斗が眠っていた簡易ベッドに腰掛けていた皐月もその表情を和らげた。

 ひどく優しく温かい微笑みであった。懐かしさと嬉しさが混じり合ったその視線を向けられて、優斗は自分がおかしなことでも言ったのかと考えてしまう。


「……君は本当に変わらないね。そんな君だから俺達は救われた」


 ぽつりと呟かれた言葉の意味が分からずに優斗は首を傾げる。そんな優斗に朔は静かに笑うと衝撃の事実を口にした。


「七百年前、真祖と呼ばれた七人の鬼。…………それが、俺達なんだ」


 その言葉を耳にした瞬間、優斗は鈍器で思い切り頭を殴られた衝撃を覚えた。

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