#15-4 生離死別
「……え? あ、あれ……?」
唐突に脳裏に流れてきた映像。
見たこともない景色。見たことのない人達。
あんな景色知らない。あんな人達知らない。
知らない筈なのにその景色が、その人達が、優斗の心を締め付けた。
いつの間にか涙が流れて、優斗自身も何故自分が泣いているのか理解できなかった。
鬼の体に抱きついたまま涙を流す優斗に鬼が振り上げた腕を降ろす事はなかった。
感情の読めない筈の薄茶の瞳から涙が一筋流れる。
「……たい、が……?」
優斗の言葉に鬼は答えない。ただ苦しそうに呻いて、それから優斗を引き剥がして放り投げる。
いきなり放り投げられた優斗は地面を転がった。痛みに呻きながらも顔を上げて、鬼を見れば鬼は膝を折って頭を抱えていた。
時折苦しそうに頭を掻き毟るせいで、鋭利な爪が自身を傷付ける。
鬼の自傷行為とも言える行動に聡と晴を安全な場所に避難させていた嵐達も動きを止めて、鬼を見つめてしまう。
硬い皮膚が引き裂かれ、薄茶の剛毛が赤く染まっていく。それでも鬼は自傷行為を止めなかった。
「や、止めろ大河!」
自傷行為を止めるように優斗は再び鬼に手を伸ばす。だが、彼の手が鬼の体に触れるより早く、振り回された腕に当たって吹き飛ばされる。
「優斗君!」
吹き飛ばされて地面を転がった優斗に花音が駆け寄る。花音に支えられて優斗は立ち上がり、未だに苦しんでいる鬼を見た。
自らを傷付け、苦しいと訴えるように涙を流す鬼。鋭い牙を覗かせる口が何度も開き、苦痛の声を上げる。そして、呻いていた鬼の目が花音の姿を捉えた。
「…………グッ、ガ……コ……コロ、シテ……」
「っ!」
絞り出すように鬼の口から零れ出たのは優斗達にも理解できる言葉。その言葉を理解できたからこそ、花音は強く唇を噛みしめた。
「……タノ、ム……グッ、ウ……コロシテ……クレ」
涙を流し、自傷行為を続けながら鬼は殺してくれと懇願する。その意味を理解した優斗は目を見張り、ゆっくり首を横に振った。
「な、何言ってんだよ大河。そんなこと――花音!?」
優斗の隣にいた花音がそっと彼から離れる。その手には大剣が握られており、翡翠の双眸は真っ直ぐ鬼を見据えていた。
その行動の意味に気付いた優斗は花音を止めるように彼女の手を掴む。
「ま、待ってくれ! 頼む! あれは大河なんだ!」
「……鬼になった人間は決して戻れない。彼の為にも殺すのが一番」
淡々とした声。何の感情も込められていない声はどこまでも冷たく優斗の鼓膜を揺らす。
鬼になった人間は決して戻れない。何も知らなかったら、その言葉を受け入れいたのかもしれない。だが、優斗は知っていた。
鬼となった人間が元の姿に戻っていた光景を知っていた。
(……あの神無とか呼ばれてた人は同じ光属性だった。光属性が鍵なのかは分からない。けど、もしそうなら俺にも出来るかもしれない)
確証はない。失敗するかもしれない。大河を助ける事など出来ないかもしれない。それでも、1%でも可能性があるのならば、その可能性を試さないわけにはいかなかった。
花音を説得している時間はない。そう判断した優斗は意識を集中させる。
花音は優斗の手を振り払い、鬼に向かって駆けだした。だから、気付くのに遅れた。背後にいた優斗の体が光に包まれた事に。
彼女がその光に気付いた時にはもう遅い。
優斗を中心に莫大な光が周囲を満たした。既に太陽は沈みきったというのに昼間かと勘違いしてしまうほど、一帯が光に包まれたのだ。
「っ!」
花音が異常に気付いて振り返った時にはもう遅い。
強烈でありながら、どこまでも優しく、全てを包み込む光に身を包んだ優斗が鬼に向かって走っていく。
それだけは駄目だった。たとえ優斗に怨まれたとしてもそれだけは阻止せねばいけなかった。
(あの力を使ったら優斗君は……!)
花音は地面を蹴って、大きく跳躍した。
自分でもよく分からない力が全身を満たしている気がする。確証はなかった。だけど、いまなら大河を救える気がした。
無我夢中で優斗は走った。途中で花音の声が聞こえた気がしたが、優斗は止まる事など出来ずに真っ直ぐ大河の元に走る。
苦しみもがく親友を助けられる。
あの時とは違う。あの時のように何も出来なかった自分とは違う。今なら大河を救える可能性があった。
未だに苦しむ鬼が優斗の姿を見て、雄叫びを上げて大きく腕を振り回す。その姿はまるで優斗に来るなと言っているようだ。
それでも優斗は走る。
鬼までの距離はあと十歩もない。
全身から力が溢れてくる。優斗の脳裏に思い浮かぶのはいつだって無力な自分の姿。傷付く仲間達を見ている事しか出来なかった役立たずの自分の姿。
「大河!」
声を張り上げて、手を伸ばす。
あと一歩。あと一歩で大河が救える。
そのあと一歩を優斗が踏み出すより早く、眼前の鬼が血を吐き出す。その血が優斗の顔にかかった。
「……え?」
顔にかかった生暖かい液体に優斗は目を丸くさせる。自分の顔に何がかかったのか確かめる前に伸ばした手が鬼に触れた。
ひと際強い光を纏った手が鬼の体に触れるとその体が蒸気を放つ。
同時に優斗が纏っていた光も、周囲一帯を照らし出していた光も役目を終えたとばかりに消える。
周囲は再び月明りに照らされるだけの闇に包まれた。
優斗は目をこらして、ようやく眼前で起こった事を理解する。
無造作に跳ねている薄茶の髪。全身の至る所に巻かれた包帯。見間違える事なんてない。
その姿は紛れもなく優斗の親友である星野大河のもの。しかし、彼の胸を貫いている白銀。白い入院着がそこから中心に赤く染まっていく。
大河の胸を貫いていた切っ先が引き抜かれる。支えを失い、後ろに倒れる大河の体を優しく受け止めた人物を見て、優斗は目を見張った。
「か、花音……なんで?」
震える声で訊ねた優斗に花音は無表情で見返すだけで何も言わない。
いっそのこと、鬼を憎んでいたとでも言ってくれた方がマシだった。
殺してほしいと頼まれたから殺したとでも言ってくれた方がマシだった。
何かしらの感情を見せてくれた方がまだ納得できたかもしれない。だというのに花音は何の感情も見せない。
大河を殺した事に何の感情も抱いていないとすら感じる冷酷さだった。
その冷酷さは優斗の心を波立たせ、湧き上がってくる感情を抑えきれずに爆発した。
「なんでだよ!? なんで大河を! 助けられた……助けられた筈なのに! なんで……」
何故よりによって花音が殺したのか。
仲間だと思っていた。友達だと思っていた。だからこそ、花音の行動が裏切りのように感じてしまい、優斗は感情を抑えられない。
ひどく悲しかった。
ひどく苦しかった。
涙を浮かべ、睨みつける優斗に花音は何も言わない。その顔には何の感情も浮かばない。ただ何かを我慢したように唇を強く噛みしめるだけ。
花音はゆっくり大河の体を地面に寝かせる。
地面に寝かされた大河の顔は満足そうで、それもまた優斗は理解できなかった。
彼等は優斗が知らない何かを知っている。そう分かっていてもそれを口に出す事が出来なかった。様々な感情が優斗の中に渦巻き、自分でもどうしようも出来ないほど混乱していたのだ。
互いに何も言わない。そんな二人の空気を壊したのは鳴き声と共に姿を見せた一匹の猫だった。
茶トラ模様の猫は軽やかに花音の前に降り立つ。
「……ムツキ?」
何故このタイミングで現れるのか。
流石に予想だにしていなかった猫の存在に優斗は怪訝な顔をする。だが、ムツキは真っ直ぐ花音を見つめていた。
「ふん、随分と心が揺らいでいるようだな。おかげで、少し封印がとけた。どうだ? このまま全てを俺様に委ねるのは?」
ムツキの口から零れたのは人間の言語。
その事に驚きを見せたのは優斗だけだった。花音は驚くことなく、忌々しそうにムツキを睨みつける。
「ふざけないで」
「口の利き方には気をつけろよ小娘。俺様はお前を気に入っているからこそ、前のように無理矢理心を奪っておらぬ。じゃが、あまり生意気な口を利くと小娘の意見など無視して奪う事など造作もない」
猫の形をしたとてつもなく恐ろしい何かがそこにいた。
花音は無言でムツキを睨みつける。だが、ムツキは先程まで滲ませていた殺気を消して、優雅に毛繕いを始める。
「まあ、俺様はこの姿も気に入ってるからな。もう暫くはこのままでも良いけどな……他の連中はそうもいかないようだぜ?」
「え?」
「……『色欲』。奴はもう限界だろうな」
「っ!」
その言葉を耳にした瞬間、花音の脳裏に浮かぶのは一人の少女。
息を呑む花音の反応にムツキは楽しそうに喉を鳴らす。
二人……いや、一人と一匹の会話についていけず、優斗は一度落ち着く為に息を吐き出す。
死んだと思った筈の大河が生きていた。しかし、大河が鬼となり、花音に殺された。それだけでも優斗の心をかき乱すというのに普通の猫だと思っていたムツキが喋り、花音と意味の分からない会話をしている。
訳が分からなかった。ただむやみに騒いで混乱するのは良くないと自分を鎮める。
ムツキの登場によって激情した心がいったん冷静になった。だから、優斗は状況を確認しようと周囲を見渡して――。
そこに広がっていた光景に目を見開いた。
スーツ姿の人達に押さえつけられている嵐達の姿。彼等は一様に組み伏せられ、怪我をして動けない聡と晴は担架に乗せられている。
彼等が敵なのか、味方なのか。一瞬で判断する事など出来なかった。
優斗の驚く様子に気付いたのか花音も振り返り、そこに広がる光景に目を見張る。
黒服の男数人が優斗達に向かって歩いてこようとする。
「待て。そいつは私の獲物だ」
響いた声はどこまでも酷薄なもの。
威圧的で人を屈服させる力が込められたその声に黒服達は動きを止めて道を開ける。
開けられた道を優雅な足取りで歩いてくるのは一人の少年。
その顔を見た瞬間、優斗の顔に驚愕の表情が浮かぶ。大河が目の前に現れた以上の驚きが優斗を襲った。
風に揺られる黒髪。理知的な黒の瞳。いかにも優等生といった風貌の少年は野暮ったい黒縁眼鏡を掛けて、紺の着物を身に纏っていた。
その顔を優斗は知っていた。
その人物の名を優斗は知っていた。
だが、それは有り得る事なのか。そこまで考えて優斗は思い出す。
大河と同じで彼の遺体は見つかっていない。優斗もその死に様を見たわけではない。ただ話を聞いただけだった。
優斗に助けを求めた鈴木が彼の名前を口に出していたから、彼もその場にいたのだと判断していた。現場の血の多さから彼が殺されたという話を信じていた。
優斗の前まで歩いてきた少年は軽く右手を挙げて、あの頃と同じように挨拶を口にする。
「よう、月舘。久しぶりだな」
「……た、田中……」
震える声で紡がれたのは中学時代の同級生の名前。
優斗が鬼を知るきっかけとなったあの事件で命を落とした筈の人物がそこに立っていた。
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