#15-2 生離死別


 今まで見たどの鬼とも遜色がない。いや、纏う空気は今までの鬼よりも禍々しく、おどろおどろしい。まるで人間の負の感情を凝縮したような、見る者に畏怖を抱かせる、そんな空気をまき散らしている。

 そんな鬼の姿に誰もが動けない。誰もが鬼から目を離せない。

 自分の眼前で起きた光景が信じられない。理解できない。認められない。


 退鬼師にとって鬼は人類を害する敵であり、退治すべき悪であった。人間とは違う存在……そう例えば災害のようなもので、それを退治するのに心は痛まなかった。

 迫り来る災害を想い、心を砕く理由などなかったのだ。人とは違う。人の心すら持たない化け物を想う心など……。


 だが、あれは何だ。たったいま目の前で起こった事は何だ。あれが化け物の正体だとでもいうのか。

 人の世に害なす敵。いつの時代も鬼とは人に退治される存在だった。これ以上ないくらい分かりやすい悪だったのだ。それがどうだ。退治されるべき化け物の正体が同じ人だったなんて、とんだ喜劇だ。

 石動嵐は、何時だったか霧谷空に言われた事を思い出す。


退って言うのにさ』


 言われた時には意味が分からなかった。理解できなかった。だが、いま最悪の形でその意味を理解してしまった。

 いままで自分が退治してきた鬼も同じ人間で、自分と同じように感情があったとするならば……。そこまで考えて、嵐は自らが犯してきた罪の重さを知る。


──この両手はとっくに血にまみれていたのだ。 


 鬼の正体が元人間だという事を知っている退鬼師はそう多くない。同じ人間だということを知ると鬼退治を遂行できる者が減る為だ。

 その事実を秘匿しているわけではない。鬼と関わっていればその内知る事になるのだから。だが、積極的に教えることもしない。それが瀧石嶺家の方針であったから、知らなかったのだ。


 嵐も晴も聡も幸太郎も、そして当然優斗もその事実を知らなかった。この場にいた誰もがその事実を知らなかったから、鬼と化した大河を茫然と見る事しか出来なかった。

 獰猛な雄叫びをあげて、鬼が動く。感情の読めない薄茶の目は優斗を捉えたまま。


 動けない。誰も動けなかった。

 仲間の危機だと分かっていた。

 自らの危機だと分かっていた。

 だが、それ以上に鬼の正体が人間だという事実が彼等の判断力を奪っていたのだ。

 誰も動けない中、ただ一人動いたのは花音だった。


「っ……」


 彼女は自らの武器である大剣で鬼の爪を受け止める。攻撃を受け止められた鬼は憤ったように咆哮をあげた。

 同時に鬼の体が光を纏う。その光景に誰もが息を呑む。


 驚くべき事じゃない。不思議な事でもない。

 退鬼師に必要な素質は属性の有無。その退鬼師が鬼と化したのならば、その鬼が属性を扱えたとしても別段異常な事ではないのだ。

 それでも、それでもだ。優斗達の衝撃は計り知れない。

 眼前で花音が戦っている鬼が先程までのだという事実が証明されてしまったのだから。


 退鬼師が属性を纏う事で得られる効果は二つある。

 一つは自らの身を守る事。そして、もう一つは一時的に身体能力を向上させる事。

 属性を纏ったことで動きが早くなった鬼を花音が対処しようとするが、先程から防戦一方を強いられている。それもかなりぎりぎりで持ちこたえているといった具合だ。

 あと数分も持てばいい方だろう。花音の表情に苦悶が浮かぶ。


「……っ、たい、が君……」


 名を呼び掛けたところで鬼になってしまった人間はもう戻れない。ただ一つの方法を除いて、彼は決して助からない。そう分かっていたが、それでも花音は呼び掛けずにはいられなかった。


 彼が……星野大河がこんな事をしたいと思う人間ではない事を花音は知っていた。同時に彼が助かる唯一の方法を望む事など絶対にないと知っていた。だから、花音には彼を……鬼となってしまった星野大河を退治する選択肢しかない。そう分かっていてもかつての友人を殺す事に躊躇いを覚えていた。

 

 咆哮を上げながら鬼は執拗に花音を追い詰めていく。鋭い爪が、強靭な牙が、屈強な手足が花音の命を奪おうと彼女に襲い掛かる。

 何度目かの攻防の後、属性で強化された爪の猛攻に耐えきれなくなり、大剣が粉々に砕け散った。

 武器を失った花音は急いで新しい武器を生成しようとしたが、それより早く鬼の鋭利な爪が上から振り下ろされる。


 間に合わない。そう確信した花音は少しでも衝撃を和らげようと後ろに跳ぶ。

 当然その程度で避けられる筈がないと花音にも分かっていた。致命傷さえ避けられればいいと考えていたのだ。

 しかし、鬼の爪が花音に届くことはなかった。彼女が感じたのは自らを庇うように覆いかぶさった誰かの温もり。


 目を見張った花音の視界に飛び込んできたのは、ガタガタ震えて自分を抱きしめる黒髪の少年。そして、甲高い金属音と共に花音の前に立ちふさがった緑髪の少年だった。

 彼は愛用の武器である日本刀で鬼の一撃を受け止めていた。鬼は突然の乱入者に警戒するように距離を取る。そんな鬼の行動を見透かしていたように炎を纏う拳が鬼に振るわれる。


「ぬんっ!」


 だが、その拳を受け流し、咆哮を上げながら鬼は新たな獲物に襲い掛かろうとした。しかし、鬼が動くより先に一発の銃弾が鬼に向かって放たれる。

 その銃弾がただの銃弾ではないと気付いたのだろう。鬼は自ら纏っていた光を強めて、光の壁でその銃弾を防ぐ。着弾すると同時に凍り付く壁から離れるように大きく跳躍して、距離をとる。


 その光景に花音は驚いた様子で目を丸くさせた。そこで、彼女は気付く。自らを庇うように覆いかぶさっていた温もりが優斗のものだと。

 優斗は固く目を閉じて、襲い来るであろう衝撃に備えている。その体は抱きしめられている花音にも伝わるぐらい恐怖に震えていた。

 もうその危険は遠ざかったと教えるべきか花音が戸惑っていると聡が花音に駆け寄ってくる。


「だ、大丈夫? 花音さん」

「……聡君」

「……あ、あれ……?」


 聡の声に優斗も危険が遠ざかった事に気付いたのだろう。ゆっくり目を開けて、状況を確認する。そして、自分が抱きしめている花音の顔を見て、彼女の無事を確認して安堵の表情を浮かべた。


「無事か?」

「……うん」


 花音が頷いた事を確かめると優斗は鬼となった大河に視線を向ける。

 嵐と晴、幸太郎の三人が鬼を食い止めているが、それも長くは続かないだろう。

 花音は再び大剣を生成して、優斗の体を優しく引き離す。心配そうに見上げてきた優斗を安心させるように笑う。


「大丈夫。私に任せて」


 全ての感情を呑み込んで、彼女は笑う。

 星野大河は……いや、虎之介は彼女の友人でもある。だが、それがなんだ。たとえ、前世で友人であったとしても鬼と化した彼を倒さない理由はない。むしろ、友人であったからこそ彼を一刻も早く殺す救うのだ。


 もっとも今の花音では鬼になった大河を殺すのは難しい。

 花音には……。

 それでも、やらなければいけないのだ。それがかつて友だった男に対する礼儀と己を奮い立たせて。

 ずっしりと重い柄を両手で握りしめる。心なしかいつもよりも重く感じる気がした。

 それを気のせいだと振り払って、花音は鬼に向かって走り出す。


 視線の先にいる鬼は、嵐を脅威と感じているのか執拗に彼ばかりを狙っていた。

 嵐の剣戟が、晴の炎を纏った拳が、幸太郎の銃弾が鬼を襲う。だが、それらは鬼の体を傷付ける事すら出来なかった。反対に鬼の猛攻により、彼らの体は傷を増やしていく。

 決して彼等が弱いわけではない。

 属性を纏った元退鬼師の鬼は今までの鬼と比べものにならないだけなのだ。危険度は最高ランクのSSオーバーなのだから。それでも、それでもだ。


 普段の彼等ならこんな一方的にやられるだけの筈がない。普段の彼等ならもうすこし鬼とまともにやりあえただろう。

 彼等はあきらかに迷っていた。自分達と同じ人間を殺してもいいのか、自分達は今まで何人の人間を知らぬ間に屠ってきたのか。その迷いが彼等の判断力を奪い、動きに精彩さを欠けさせていた。

 嵐が鬼の太い腕によって吹き飛ばされる。鬼の無防備な背中に晴が拳を振るうが、簡単に受け止められて即座に反撃を喰らう。鋭い爪が晴の腹を裂く。


「くっ……」

「晴っ!」


 聡が悲痛な叫びを上げて、晴に駆け寄ろうとする。だが、みすみす駆け寄ってきた無防備な聡を鬼が見逃すはずもなく、新たなターゲットに向かって跳躍した。


「っ!」


 寸でのところで水の障壁が聡の眼前に現れて、彼を鬼の爪から守った。水の壁によって攻撃を防がれた鬼は咆哮を上げて、爪に光を集中させる。

 鬼に障壁を破られないように聡も両手を前に突き出して、集中する。こうして鬼が自分を狙っている間に仲間が活路を見出してくれる事を信じて、今すぐに逃げ出したくなる恐怖を押し殺して聡は集中する。


「聡! 止めるのだ!」

「……やめ、ない……」


 聡の危機だというのに晴が立ち上がれないところを見ると相当傷が深いのが分かる。聡もそれが分かっているからこそ、晴の叫びに首を振った。


(昔からいつも晴に守られてばかりだった。小柄で内気ですぐ泣く弱虫なぼく。そんなぼくを守る為に晴が強くなっていくのをずっと見てるだけだった。最初は、ぼくと同じくらい小さくて華奢な女の子らしい女の子だった晴)


 ぴしり、と水の障壁にヒビが入る。それでも聡は動かない。逃げない。いつだって臆病で俯いてばかりの聡がまっすぐ鬼を見据え、決して目を逸らさない。これが戦えない自分が出来る最善だと彼は理解していた。


(ぼくと違って、強くて格好良くて、ぼくにとっては本当にヒーローみたいだったんだ。だけど、ぼくだって知っていた。ぼくとそう変わらない背丈の晴の背中がいつだって震えていた事に。臆病なぼくはそれに気付かない振りをして、ずっと晴の背中に隠れてた)


 ヒビが広がっていく。亀裂が入っていく。それでも聡の視線は鬼から外れない。


「させない!」

「こっちを向け!」

「これでどうですか!」


 花音達が鬼に攻撃を仕掛けても鬼は軽く花音達を薙ぎ払い、再び障壁を狙う。徐々に亀裂が広がっていく。


「さ、聡……」


 動かない体にむち打って、ほふく全身しながら晴が聡の元に向かおうとする。聡はやはりその行動に首を振るだけだ。


(いつからだっただろう。ぼくを庇う晴の背中に恐怖がなくなったのは……。ぼくは普通の女の子をヒーローに仕立て上げてしまったんだ。ぼくを守るためだけの機械人形ヒーロー。それがどれほど罪深い事なのか。どれほど彼女に自分の感情を殺させたのか。……晴がぼくを守ってくれるのは嬉しかった。だけどね、ぼくだって……)


「……晴を守りたかったんだよ」


 囁きと同時に障壁が粉々に砕け散った。間髪入れずに鬼の爪が真上から聡に向かって振り下ろされる。それでも聡は逃げなかった。青の双眸がまっすぐ鬼を睨みつける。


「聡ーーーーっ!」


 晴の絶叫と共に鬼の爪が聡の胸から腹までを引き裂いた。一瞬にして赤に染まる制服。小柄な聡の体は力を失い、糸の切れた操り人形のように地面に倒れる。そんな聡に向かって更に攻撃を加えようと鬼が再び腕を振り上げた。


「大河! もう止めろ!」


 そんな声と共に鬼の体にタックルした少年がいた。

 当然、ほとんど攻撃力のないそれは軽く鬼の体を揺らすだけで何の傷も負わせない。それでも黒髪の少年──月舘優斗は鬼の体を抱きしめて離さない。

 感情の読めない薄茶の瞳が優斗を捉える。ついさっき聡の体を引き裂いた爪がいつ自分に向けられるのか分からなくて体が震える。それでも優斗は鬼から離れるわけにはいかなかった。


 彼の視界の隅では聡に駆け寄る嵐達の姿。そして、腕だけを使って体を引きずり、地面を赤く染めながら聡の元に向かう晴の姿。

 聡と同じだ。戦えない優斗が出来ることは時間稼ぎぐらいだった。それがたかが数秒のものだとしても聡の保護や応急手当くらいをする事が出来ると信じて。


「優斗君、駄目っ!」


 花音の声が優斗の耳に届くのと鬼の腕が持ち上がるのは同時だった。

 優斗は意識を集中させて全身に属性を纏う。これで少しは時間稼ぎが出来るはずだと考えた。だが、属性を纏った瞬間、優斗の脳裏に映像が流れ込んできた。

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