第26話 人格のボーダーライン


 ※ ※ ※




 二人きりになった途端、榎本はぐいっと匡の左腕を握ってきた。

 銃による傷があるのもお構いなく、強く、握りしめられる。



「い、ってぇええええ! てめえいきなりなにしやがんだ!」

「うっさい。いいからちょっとくらい大人しく痛めつけられろ、このド阿呆!」

「うわ、こら傷口が開く。やめろこの馬鹿!」

「馬鹿はそっちだ! 一度傷口開いた方が、おどれの馬鹿さ加減もわかるやろう!」



 もはやキャラ付の言葉づかいも崩れるくらいに、榎本は暴走していた。

 そうかと思うと、強く握っていた腕を離して、急にしおらしくなった。


「まったく……ほんま、心配したんよ」


 その様子は、榎本をよく知る者からすれば意外としか言いようがないものだった。

 これほど取り乱すほどに無防備な姿を彼女が見せるのは、それこそ本当に親しい、心を許した相手だけなのだから。


 あまりにも直球だったため、匡は罰の悪い思いをごまかすように頭をかく。


「あー。いやそりゃ悪かったが、しかしそもそもの原因はお前にも」

「龍光寺紗彩」


 ぽつりと、榎本は顔を伏せたままでその名をつぶやいた。


「あの子――いや、『彼』のやることは、はっきり言って限度がないんよ。特に、能力があればある人間ほど、過剰な罠を仕掛けて試そうとする」


 今回だって、と榎本は苦々しそうに言う。


 匡を誘い出し、真樹を誘い出し、そして羽柴組を誘い出した。それも、ディーラーの殺人を撒き餌にする形にして。


「うちも、罠を仕掛けられたくらいや。むしろ、それくらい匡くんのことを評価しとるっていう証拠なんかもしれへんけどな。せやから、出来ることなら、うちからちゃんと話したうえで、対等な勝負の場を設けたかった」

「……その『彼』っつーけど。それって要するに、龍光寺比澄ってことなんだろ?」


 解説を二段ほど飛ばした理解に、榎本は驚きもせずにうなずく。


 ここまでくれば、お互いに事情を説明し合わずとも分かっていた。

 龍光寺紗彩の姦計がもとで、匡は監禁され、そして試された。


 あとは匡の知らない事情。

 榎本だけが知っている情報を教えてもらうだけだ。



「龍光寺比澄が死んだ、って話はもうしたな?」

「ああ。そこから先を聞きたくて、ずっと待ってる」



 自分からがっつくのもどうかと思って、そして様々な事情が重なった挙句に、この状況である。

 出来るのならば早めに聞きたかったのだが、しかしあまり焦り過ぎるのはみっともないのではないかと言う感情もある。


 何事もたやすく行ってきた匡だからこそ、本当の楽しみを前に、尻込みしてしまうところがあるのだった。


「正直、な」


 榎本は顔をあげて、少し戸惑ったように言う。


「ついさっき、うちにも分からんところができてしもうたんや。だから、これは今のところ確定している情報だけを伝える、ってことで判断してくれ」

「なんだ。随分と予防線を張ろうとするんだな」

「仕方ないんよ。あの子、サーヤちゃんは、ちょっと面倒な子やから」


 ふぅ、と一息ついて、榎本はゆっくりと語り始める。



「二年前、比澄は死亡した。理由は分からへん。ただ、事故のようなものやってことを、晴孝さんからは聞いた。けどな、匡くんが知っているように、そのことは世間に公表されていない」

「ああ。そうだな」


 匡はうなずく。

 実際、この船に来るまで、龍光寺比澄は生きているものと思っていたのだから。


「だが、そこまで隠し続けることができるもんか? だって、もう二年だぞ。それくらい経てば、事業関係で問題が出てくると思うんだが」


 なにせ、龍光寺比澄は、グループ内の利権の半分近くを掌握していたのだ。

 例え代理を立てたとしても、同じようにいくわけがない。


「匡君の疑問はもっともや。実際、一部のプロジェクトは凍結されたり、解体されたりしとる。けれど、最低限の部分は――代わりとなる人物が、仕切っておった」

「代わり、と言うと。社内の人間か?」

「いや。違うんや。――それが、、サーヤちゃんってだけの話なんや」



 ここで、その名前が出てくるか。

 匡は大して驚きもせず、ただ気になる部分だけを追求していく。



「あのお嬢様に、それほどの采配ができるっていうのか? 確かに大人びてはいたが、まだ十四歳の小娘だぞ? それとも、あの子は天才とでもいうつもりか」

「まあ、才能はあると思うけれども、まだ子供やから発展途上ってところやな。あの子が大人びて見せているのは、ただのポーズや。そうじゃなくて、やな」


 ふぅ、と息を一息ついて。


「うちが受けた依頼の内容は、こうや」



 榎本は覚悟を決めたように言う。


 

「――『』ってな」




「……それは」

「そう。要するに、死んだはずの龍光寺比澄が、妹の身体を乗っ取って、指示を出す形で統治を行っとった、ちゅうんが、晴孝さんの言い分や」

「……だから、オカルト寄りだ、と言っていたんだな」


 特別驚くことはない。匡もこれまで、二度ほど死者にまつわる事件にかかわったことがある。


 だが、霊現象と言うのは、結局のところ生きている人間が起こすものだ。

 紗彩が取りつかれているというのならば、その原因は紗彩自身にあるはずなのである。



「現実的に考えれば、解離性同一障害って所か。自分の中に、兄を模した人格を作っているんだろ?」

「ああ。うちも最初はそう思うとった。――けどな」


 困ったように榎本は表情をしかめる。


「見えへんのよ」

「あん? 何が」

「だから、線や。サーヤちゃんから延びる、龍光寺比澄への線が、ないんや」


 何の話かと思ったら、榎本の『能力』の話だ。


 榎本は人と人の関係性を視ることができる。

 それは、個人と個人がお互いをどう思っているかによって形作られるものだ。多少なりとも関係を持った人間は、必ず何らかの『線』でつながることになる。


 しかし、それが見えないと彼女は言う。


「サーヤちゃんの中で、龍光寺比澄なんていないんや。ただいるのは、彼女自身が作り出している、『兄』っていう演技した人格だけ。それに、彼女の演じる『兄』は、龍光寺比澄の一面でしかない。本来は、冷徹な面と快活な面の二面性が、龍光寺比澄の性格なんやけど、サーヤちゃんは、冷徹な面しか再現しきれとらんのよ」


 そこから考えて、榎本は一つの答えを出していた。



「境界例。それも、演技性パーソナリティ障害と境界性パーソナリティ障害の併発。あんはんやったらそれでわかるやろ。それが、彼女の病名やと、うちは思う」


 境界例。

 精神医学における用語の一つで、パーソナリティ障害における広義の意味での精神疾患である。

 不安定な自己からくる空虚感、他者イメージの固執による対人関係の障害、二極思考や衝動的行動や自己破壊と行った、様々な症状を持つ精神疾患で、その根底にあるのは、環境などの影響における自己喪失である。



 榎本が、匡ならわかるといった意味がようやく理解できた。

 彼らには共通の友人として、この境界例に当てはまる人間がいた。

 萩原明日奈。

 人の模倣しか出来ない、自己を持たない依存型の天才。彼女は、匡にとっての師匠のような存在である。

 精神疾患とはいうが、日常生活を送る上で問題は無い女だった。だが、その生き方は、どこか強迫観念に囚われたものだった。


 だからこそ、ある程度の知識を有している匡だったが、そこで疑問が浮かぶ。



「パーソナリティ障害じゃ、基本的なスペック以上は出せないはずだ。しかし、これまでの話だと、紗彩はまるで龍光寺比澄と大差ないスペックを持っている、みたいに聞こえるぞ」

「うちも最初はそう聞いておったから、判断に困ったんや。けれど、おそらくはサーヤちゃん自身もそこそこの才能があったんやろうし、それに父親の晴孝さんが、サポートしていたのが問題なんやと思う」

「根拠は? 演技性の特徴としては、他者を意識しての行動があげられるが、おれが見たところ、紗彩の様子は、他者を意識しているものではなかった。症状としては、兄の真似をする以上のことは、何かあるのか?」


 匡の疑問に、榎本は根拠を述べる。


「徹底したギャンブル依存。それも、自己破壊の方向に向かうものが多い。せやけど、同時に理想の兄が負けるはずがないという強迫観念も見られる。そこが、より『理想の兄』の演技に綱がっとる。感情的な表現はそれほどやらんけれど、その分すぐに行動に出る。他者破壊をためらわず、一定のルールを設けたうえで攻撃的、ってとこや」

「……そのルールっていうのは、ギャンブルのことか」

「そうや。それと、これが一番の根拠なんやけど」


 榎本はうなずいた後で、最後に付け加える。



「記憶の欠落がない。サーヤちゃんは、自分が行った行動と、『彼』の行動をしっかりと把握しておる。それが、解離性障害じゃなくて境界例やって思った、一番の理由や」



 榎本の結論に、匡は少しだけ考える。

 やがて、考えをまとめて、発言をした。


「それだけの要素じゃ、病名まではっきりするのには無理があるとおれは思う。確かに境界例って言われたら納得しそうだが、主な症状が当てはまらな過ぎる。だいたい、『あいつ』と紗彩ちゃんじゃ、印象が違いすぎる」


 だが、と。

 匡は付け加えた。


「記憶の欠落がないってのは大きいな。人格が乖離していない。それなら、はっきりと事実を突き付けてやれば、治療に向かいやすい」


 演技性パーソナリティ障害と言うのは、要するに構って欲しいからこそ自己を偽って見せるものだ。

 治療が困難な点として、『治療を行う』という自覚自体が、『特別』だと思わせてしまうことにある。


 だからこそ、まずはその『特別』を崩してしまえばいい。



「だから、おれに勝負して欲しいって言ったんだな」

「そうや。あんはんの手で、サーヤちゃんの中の、『龍光寺比澄』を負かせば、彼女は幻想から解放される」

「……だけど、そんな乱暴な手段をとっても大丈夫か? 医師に診せたほうがいいと思うが」

「その点なら心配いらへん。すでに黒木さんに相談しておる。とりあえず今は、龍光寺比澄が負けたっていう事実だけは欲しいみたいや」

「そっか。……ちなみに」



 最後に。

 一番尋ねたかったことを、榎本に聞いた。



「その『理想の兄』は、ギャンブルの腕前自体はどれくらいなんだ?」



 それに、ニヤリと榎本は笑って答える。



「兄を騙れるくらいには、十分『できる』みたいやで」

 勝負を決めるのに、それ以上の言葉はなかった。




 ※ ※ ※




 話が終わって。


 龍光寺比澄との勝負をセッティングするために、龍光寺紗彩へと榎本が電話をかけ始める。

 時間としては、もう朝日が昇っている時間帯だ。


 しかし、どうやらお嬢様はお休みらしく、勝負ができるのは夜になるだろうということだった。

 ならこちらも一度休むことにしようと、四日目の朝を睡眠に当てようと匡は考えた。


 部屋に戻ろうとした匡に、最後に榎本が不穏なことを言い出した。


「まあここまで語っといて何やけどな」

「うん? どうした」


 困ったような。

 それは、これまで信じてきたものに、かすかな矛盾が生まれたような、そんな表情を榎本はした。


「サーヤちゃんは、龍光寺比澄のキャラクターを完全に再現できとらん。と言うんが、うちが彼女の解離性同一障害を否定する一番の理由や」

「そうだな。本当に理想の兄を再現するんなら、理想じゃない面まで再現されてないとおかしい」


 匡の言葉に、榎本はうなずく。

 実際、故人の再現として人格を形成させるときは、その対象への依存が強ければ強いほど、本人のフィルターよりも第三者的な視点で見た人格が重視される。


 しかし、龍光寺紗彩はどちらかと言えば龍光寺比澄の冷たい一面を強調している。つまりはそれこそが彼女にとっての兄だったのだろうが、この場合、快活な方の兄も再現していなければ、おかしいのだ。


 そう思っての、榎本の推論だった。

 しかし――



「実はな。うち、龍光寺比澄本人と知り合いなんや」

「そりゃ初耳だな」

「うん。彼――比澄くんはな、昔うちに占いを頼んだことがあったんや。それから、しばらくの間、友人としての付き合いがあったんよ。まあそれ自体は、そんなに重要やない。問題は、うちが比澄くんを知っとった、ちゅうことや。それがあったから、サーヤちゃんの演技も分かった」



 けどな。と

 一呼吸おいて、彼女は言った。



「比澄くんを名乗る奴と、この船で電話を一度だけしたんや。あの口調は、快活な状態の、完璧な比澄くんやった。そして――」




「――その声は、サーヤちゃんのものやった」





 そして、勝負の時は来る。






 ■ ■ ■







「なあ、榎本」



 かつて、龍光寺比澄と関係を持っていたころに、榎本はそんな質問をされた。



「お前は、自分の命が賭けるに値するものだと思うか?」



 その時に彼女が答えたことは、彼の妹である紗彩に答えたものと同じだ。

 自分の命など二束三文だ。

 かけるに値するほどの価値を見出す相手がいない、と。


 その言葉を聞いた彼は、けらけらと笑って言った。


「自分の価値がわかってねェ女ってのは、可愛いなぁおい」

「もちろん、うちは自分がどれだけ可愛いか知っとるよ。せやけど、外見の問題と、命は違うやろ。月並みな言葉やけれど、命に値段はつけられない。せやったら、その場での価値観で定めるしかあらへんやんか」

「そして、今現在のお前の価値観で定めた結果が、二束三文ってことか」


 だったら――と、比澄は懐から小さな紙包みを出しながら、言った。



「その二束三文。オレに売れよ」



 紙包みを、榎本の前に置く。

 それらの中には、カプセル状のものが三つ入っていた。


「三つのうち二つはただのハーブパウダーだ。しかし一つは、ストリキリーネ。劇薬だ」

「……それをうちに飲め、っちゅうんか」

「ああ。そして、残った二つのうち、どれかをオレが飲む。それも、お前が決めていい」


 ギャンブルをしよう。と比澄は言った。



「お前の命は、オレの命を賭けるに値する。だから、勝負しようぜ、榎本」



 それは、彼が榎本に占いを依頼してきてから、一年間続く関係の中で、初めて振ってきた勝負だった。


 ギャンブル好きとして名高い龍光寺比澄。

 しかし彼は、榎本とは、純粋に友人として話をしに来ていただけだった。

 悪名高い彼が、この一年の間、ただ話をしに来ていただけというのは奇妙な話だった。ギャンブルでしか人とつながれなかった男が、珍しく作った『ふつう』の友人。


 そんな彼が、ギャンブルを求めてきた。



「なあ、あんはん」


 気遣わしげに、榎本は尋ねる。


「なにかあったんか?」

「何もない――って言っても、お前なら、わかっちまうんだろうな」


 そんな風に、不敵に笑った後で。

 彼はふと、目を細めて、声のトーンを落とす。





 冷淡な、温度を感じさせない言葉だった。

 それもまた、彼の一面だった。他者と敵対し、勝負をするときに使うペルソナの一つ。


「だから、最後に清算がしたい。友人としてのお前を、私は好ましく思っているが、そのままの関係で終わってしまったら、どうしても未練が残る」


 感情が欠落したかのような淡々とした言葉を重ねた後。

 彼はニッと笑うと、恥ずかしそうに言った。


「オレは、高校以来、友人なんか作ったことなかったからよ。どうせなら、お前とは敵としての関係で終わった方が、後腐れなさそうだ」

「……ええよ。分かった」


 どうしてそんな風に答えてしまったのか、わからない。


 そもそも、なぜ比澄は突然別れを切り出したりしたのか。

 榎本は彼の背後を見てみるが、どうやらそれには家の事情がかかわっているらしい。それなら、多くは詮索しないでおこうと思い、榎本は素直に言った。


「正直ここで死ぬんはいやなんやけど。まあ、あんはん相手にやったら、避けきれん勝負やろうな」


 一度勝負を振ってきたなら、比澄はしつこい。ここで断っても、無理やりにでも勝負をさせに来るだろう。


 それに――この時の榎本は、少しだけ自暴自棄になっていたというのもあった。

 大きな事件に巻き込まれ、己の無力をひしひしと感じていた。ならば、ここで死ぬのなら、それも仕方がないのかもしれないな、という思いもあった。



「もしかしたら、これでうちは死ぬのかもしれへんな」


 そんな風に言いながら、彼女は三つのカプセルのうち、一つをとる。


「いいや、死なねぇよ」


 予想に反して、比澄はあっさりとそんな風に言った。


「オレにはわかる。ここでお前やオレが死ぬようなら、オレは、ここまで絶望せずに済んだんだからな」


 どういう意味かをたずねようとしたが、やめた。


 榎本は比澄のカプセルを指定する。

 二人がカプセルを持ったところで、比澄が用意した飲み物を使って、同時に飲み込んだ。


 ストリキニーネの効果が表れるまでには、三十分くらいかかる。

 カプセルがとけるのにも、さらに時間がかかる。一応、比澄が用意したドリンクがカプセルの溶解を速めてくれるが、それでも一時間は結果が出るまでにかかるだろうと思われた。


「タバコ吸うぜ」


 比澄はそういって、シガレットを懐から取り出す。

 市販されているものではない。いわゆる合法ハーブといわれるものだった。もちろん中毒性はあるし、下手をすれば違法ともなる、脱法ハーブに近い。


「タバコ、吸うんやな」

「ああ。最近な。――ちょっとした厄除けみたいなもんだ」


 詳しくは語らず、彼はそのハーブシガレットを吹かす。

 ゆらりゆらりと揺れる煙が、まるで揺れる心を示すようだった。



「なあ榎本。負けないことの苦しさって、知ってるか」



 待ち時間の間、ぼやくように彼は言った。



「負けられないんじゃない。負けたいんだ。どんなに勝負しても、どんなに強敵を相手にしても、勝ち方がわかってしまうんだ。それは、攻略本見てゲームしているようなもんだ。純粋に勝負を楽しみたい人間からすれば、面白くもなんともねェ」



 それは単に、絶対勝ってしまうというわけではないのだろう。


 負けようと思えば、その勝負に負けることはできる。


 しかし、それは本当の意味での負けじゃない。

 わざと負けて何が楽しいのか。

 全力で勝負して、勝つか負けるかわからないぎりぎりのところでの結果を望む人間にとって、結果が最初からわかる勝負など、なんの魅力もない。



「ギャンブルにおいて、オレは一度でいいから負けてみたい。一世一代の大勝負をして、勝つか負けるかわからないぎりぎりを経験してみたい。けれどそれは無理だ。だって、この勝負だって――」


 彼はおもむろに、残った一個のカプセルを分解する。


 中からは、白い結晶性の粉末が出てきた。彼はそれを見せながら、痛々しい笑顔を浮かべる。


「オレは死なず、お前も死なない」

「……一人だけ」


 そんな、絶望に満ちた比澄の笑顔を前に、榎本は言った。


「あんはんと同じ人間を知っとる。彼も、『出来ない』探しをしとった。自分にできないことを探して、延々と挑戦を続けるような人や」



 近江匡。



 その名を榎本が口にしたとき、比澄は神妙にその名を口の中で転がす。

 それから、しんみりとした口調で言った。



「ああ。そうだな。覚えておこう」



 その彼の瞳は、とても見ていられないほどに、痛々しい弱さが写っていた。






 結局、そのあと二時間たっても、どちらも健康体だった。


 榎本の前から去った比澄の後ろ姿は、今にも消えそうなほどに存在感が希薄だった。その一か月後、彼は死亡することになるが、その事実を榎本が知ったのは、それからさらに二年後のことだった。


 天に望まれ、天に臨んだギャンブルの申し子は、ギャンブルとは関係ない、くだらない争いの清算として、その命を絶ったのだった。






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