第5話 テーブル外の心理戦
○ ○ ○
父は賭け事が好きだった。
賭け事なら何でもよかったのだろう。
パチンコやスロットには暇さえあれば出入りしていた。競馬や競輪には毎週のように顔を出していたし、夜になれば雀荘に入り浸っていた。
その父が何を考えて生きていたのか、私にはわからない。
ギャンブルに溺れるだけならまだしも、年端もいかない娘を連れて賭場に出向くという神経は、いまだに理解できない。
子供心に父の姿が哀れに思えてはいたものの、構ってもらいたさに、父に付いて歩くことが多かった。
当時は、父に遊んでもらっている感覚だったのだ。
でも、パチスロはつまらなかった。
騒音がうるさく、父の隣で何時間も待つのは苦痛だった。子連れということで、追い出されることも何度かあった。
競馬や競輪は、楽しい方だった。
見知らぬ施設に連れて行ってもらえたというのが、子供心に嬉しかったのだろう。大きな競技場で盛り上がるレースを見ていれば、不思議と心が湧いた。
ただ、負けた時の父は機嫌が悪く、少し怖かった。
雀荘は、ちょっとした楽しみだった。
父がよく顔を出す雀荘は、歓楽街のビルにあり、そこそこの広さの小奇麗な店だった。
雀荘に連れられるときは、いつもオレンジジュースを飲ませてもらった。
その時に、雀荘の店長さんによく話し相手になってもらっていた。
父が対局をしている間、店長さんと、席が空くのを待っているおじさんに話し相手になってもらうのが、私の楽しみでもあった。
同年代の子供がいない、大人ばかりの世界で相手にしてもらえるというのが、どこか誇らしくもあったのだ。
ある日のことだった。
その雀荘は、トイレが外に設けてあったため、トイレに行くには裏口から外に出なければいけなかった。
もっとも、外に出られるとはいっても、裏口には三階から下に降りる階段がないため、店内からこっそり抜け出すような真似はできない。
せいぜい、現実逃避のために勝負から逃げて、足りない賭け金をどう工面するか頭を抱えるくらいしか使えない場所である。
もうその頃には勝手知ったる何とやらで、私は一人で勝手にトイレに行くくらいの図太さがあった。いかに階段がないとはいえ、夜の屋外に小学生の女の子が出るというのも怖い話だが、それが当たり前になるくらいには、その店に馴染んでいた。
その日起こったことを、私は正確に理解していない。
ただ、トイレの前の通路には、怖い男の人たちが何人かいて――そして、その前にはぼろぼろになった男の人が膝をついていて――ひどく剣呑な空気で――息が詰まりそうで――見るからに痛々しそうで。
殴られていたのだ、と子供ながらに理解した。
だから、私は聞いたのだ。
怖かったけれど、痛々しさの方が目についたから、とっさにこう、尋ねていた。
「おじちゃん、痛そうだよ」
やめて欲しかった。
痛いのはダメだと思った。
初めて目の前で見る暴力は、あまりにも恐ろしくて、足がすくんでしまった。
覚えているのはそこまでだ。
結局あの男の人がどうなったか知らないし、私は怖くなって、泣き出してしまって、そのまま父に連れられて雀荘から帰った。
私は二度と、父に付いていかなくなった。
※ ※ ※
昼食前に真樹と匡は一度部屋に戻った。
二人の後ろ姿は見るからにうなだれていた。
無理もない。
昨夜の幸運もどこに行ったのやら、彼らに待っていたのは無慈悲なギャンブルの底なし沼だったのだから。
一言も会話のない状態というのは辛いものがある。
気まずい空気が漂う中、真樹は精神的な疲れから来る気だるさに、息が詰まりそうだった。
その瞬間だった。
「く、くはは。きひひひ」
くぐもった笑い声が響き始めた。
その笑いの主は匡だった。さすがに気が触れてしまったかと、真樹は虚ろな目を向ける。
「あっははははっ! 七十万って! あのレートで、しかも二時間で負ける金額じゃねぇよ! ちょっとくらい当たりがあってもいいってのに、全然カスりもしねぇとか。あっはっは!」
げらげらと、匡は面白そうに笑い転げる。
そんな匡の様子になんだか悲しくなった真樹は、涙を目じりに浮かべながら、ひどく申し訳ない気持ちで言う。
「近江さん。ごめんなさい、私、七十万も……」
「いいんだよ。真樹ちゃん」
ニィッと。
匡は自信たっぷりの笑みを満面に浮かべる。
「計画通り、ってやつだ。むしろありがとう。うまいこと負けてくれて」
「……へ?」
真樹は涙目のまま、匡の姿を見る。
匡の目は正気だった。
笑ってはいるが、それは自暴自棄になったというものではない。
その笑いは、思い通りに行ったとでもいうような、満足げな笑みだ。
「きっひひ。しっかし、欲を出したらどうせ負けるとは思っていたが、まさかここまで劇的に負けてくれるとはな。面白すぎて途中から応援も本気になっちまったよ」
「そ、それじゃあ。近江さんは、負けさせるために」
「だから昨日言ったろ? 劇的に百万負けろって」
平然と、匡は言い放つ。
「そもそも何の準備もしないでギャンブルで、確実に勝つなんてこと自体がありえねぇんだよ。まあ百万まではいかなかったが、十分だ。三十万儲けたと考えとこ」
あんまりな匡の言い分に、真樹は目の端に溜めた涙をどうしていいかわからなかった。きょとんとした瞳は、まるで生気が抜けたかのように呆然としている。
ただ――一度溢れそうになった感情は、どうしようもなく、
ひぅ。と。
一つしゃくりをあげたのが、防波堤を崩すきっかけとなった。
「ひ、ぐ。ひどい、ですよぉ。近江さぁん」
ぼろぼろと、一度は止まりかけた涙が次から次に瞳から零れ落ちる。
様々な感情がないまぜとなった涙は際限なく、止めることなどできない。
「ちょ、真樹ちゃん?」
「私、わたし、本気、だったのに。ひぅ。ほんとに勝たなきゃって。ひっぐ。それなのに、負けて。負けたらダメって、思って。それなのに、ひっぐ。どんどん、お金、減るし。すっごく、怖かったのに。ひどい、ですよぉ。ひっぐ。うぅ」
マジ泣きだった。
突然泣き出した真樹を見て、匡はらしくもなくオロオロとする。
それも気にならないくらい、真樹はせきを切ってあふれだす感情に包まれていた。
匡に乗せられるままお金を排出していた。
昨夜の成功もある。
なにより、匡からの応援があった。
初めの頃こそ場の熱に浮かれて次々とコインを投入していたが、気付けばシャレにならない金額になっていた。
桁が一つ増え、負けがこんでくるごとに、次第にプレッシャーが積み重なっていく。熱が引くごとに、身体が冷たくなっていく。
記憶に浮かぶのは、延々と負け続けていた父の姿だった。
それが自分に重なって見えた。
そして、現在の自分の立場を明確に意識するとともに、恐怖が心に滲んでいた。匡の声援が次第に精神をむしばみ、ギャラリーの視線が心を鷲掴みにする。
呼吸は浅くなり、冷や汗が背筋を伝う。お金をコインという価値に変換することで薄れていた金銭感覚が、徐々によみがえってくるにつれて、恐怖はずるずると足を引きずり降ろしていく。
スロットの台から立つ時、足が沈み込んでいくかと思った。
深い泥沼の中に沈み込み、もう絶対に浮かぶことができないと。
そして、大切なものがどんどん搾り取られていく強迫観念が、呼吸を浅くした。たとえこの場を逃れたとしても、この感覚はずっと残り続けるだろうと、胸の苦しさを感じながら思ったのだった。
二時間。
恐怖に晒された精神は疲弊し切り、涙は弱った心を表すように流れを止めない。
この悲しみは、きっと同じ体験した者にしか理解できないだろう。
子供のように泣きながら、真樹は必死に顔を伏せるのだった。
「……悪かった」
ポンと、暖かい手のひらが真樹の頭に乗せられる。
労うように、そしてあやすように頭を撫でながら、匡は申し訳なさそうに言った。
「一度、簡単に勝っちまったからな。ちゃんと負けを経験しておくべきだと思った。ギャンブルの怖さは身を以て知っておくべきだから。人が負けるのと、自分が負けるのじゃ違う。けど、やっぱり怖かったよな。悪かった。真樹ちゃんの気持ちを考えなくて」
負けること自体の目的は別にあったが、それを真樹にやらせたのは、匡の優しさでもあり、厳しさでもあったのだろう。
勝ったことが欲を生んだ。
その欲は、いつか必ず本人にしっぺ返しをする。
だからこそ、早めに対処しておくべきだったのだ。
数十万という大金、しかし、たかだか数十万と言えるこのクルーズ内で、その欲を処理することが、重要だったのだ。
匡は真樹をなだめながら、正直に告白する。
「負けが必要だったのは、自然な形で金を借りるためだったんだ」
「うぅ。ひっく。……おかね?」
「ああ。この船に出資してる、金融業者にな」
ゆっくりと、匡は真樹に語って聞かせる。
当初の目的は、成瀬が作った借金が、どこの金融業者によるものか探すためなのだ。そして、彼らをおびき寄せるために、大負けするつもりだったのだ。
「七十万っつったら、この船でもそこそこ大金だ。まして、おれたちみたいな一般人ならなおさらだ。それを負けたんだから、周囲は、おれたちのことを、『お金に困ってる』と思うだろう。せっかくこのクルーズに来たのに、もうギャンブルができないなんて、通常なら考えられない。そう思うことを見越して、金融業者が声をかけてくるはずだ」
向こうからすれば、絶好のカモのようなものだろう。
この船では、返済能力の有無そのものはさほど重要ではない。返済能力があるのならばそれでいいし、ないのならばないで、別の手段での回収ができる。それをさせるだけの組織力を、この船は持っている。
だからこそ――負債者にさらなる負債を背負わせるために、こんな船を紹介する。
ただの一般客でしかない匡たちがそこに切り込むためには、向こうから声をかけてくれるのを待つのが手っ取り早く、自然だった。
「だから、真樹ちゃんの仕事はここまで。あとはクルージングを純粋に楽しんでな」
「……近江、さんは?」
「おれは、これから一仕事」
よ、と。
匡は悠然と立ち上がり、真樹に視線を向ける。
気障な風に服を整え、こういった。
「人の腐肉にたかるハイエナを、ちょっと狩ってくるさ」
※ ※ ※
サングローリー号出港・三日前
近江匡は、金策に奔走し、その過程でとある男に頼ることを余儀なくされた。
双龍会森口組組長・
日本人離れした彫の深い顔立ちに、見るものを威圧する三白眼。
その天性の顔立ちだけで、彼と相対する者は身を竦ませることだろう。
その上、がっちりとした肩幅と、すらりと立ち上る長身のおかげで、彼を敵に回したものは例外なく恐怖を覚える。普段は飄々としている匡ですら、彼を敵に回すことだけはしたくないと考えるくらいだ。
森口とは、匡が高校生の頃からのつながりだった。
当時、能力を持て余していた匡は、気まぐれに街の不良を力でねじ伏せるという真似をしていたのだが、その所為でちょっとした勢力ができてしまった。
番長などという時代錯誤もいいことをやっていたのだが、その結果、当時その周辺をシマとしていた浪川組の若頭だった森口に目を付けられたのだ。
どこが気に入ったかは知らないが、森口は匡のことを随分と目にかけており、かつては冗談半分に、組に入らないかと誘われたくらいだ。
さすがにそれは断ったものの、今でも仕事で裏業界に関わることのある匡は、森口とも関係を続けている。
ただ――今では、その関係の意味合いも、少しだけ変わっているのだが。
「お久しぶりです。森口さん」
森口と会うときに恒例のバーで、匡は彼と対面した。
先にカウンターに座っていた森口は、匡の姿を見ると軽く片手をあげて迎えた。
「久しぶりだな。元気か?」
「ぼちぼちです」
苦笑しながら、匡は隣に座り、マスターに注文をした。高校生の頃から、森口と会うときはこのバーだった。馴染みの店なので対応も早い。
話の導入としてお互いに近況を報告し合う。
本題に入る前の肩慣らしという感じだったが、一見友好的に進んでいるその会話の間も、匡は慎重に話を運んでいく。
森口敏和という男は、ちょっとした隙を見せるだけで、こちらのすべてを暴きに来る。今はまだ伏せておくべきカードがあった匡は、それを悟られないように慎重に会話を進める。
「それで」
やがて、しびれを切らしたのは森口の方だった。
「お前がわざわざ俺を呼び出したんだ。ただ、世間話をするわけじゃないだろう」
バーボンをあおり、険しい瞳をこちらに向けながら、森口が口を開く。
「悪いが気が長い方ではないんだ。積もる話は後に回して、用件だけはさっさと済ませないか」
「……そう、ですね」
森口の提案に、匡は心の中でそっと胸をなでおろす。
今のところは、何とかこちらのペースで話を進めることができている。もちろん、森口はそれが分かった上で話を振ってきたのだろうが、彼を相手にそれだけの譲歩を引き出せたことが重要だった。
「森口さんは、サングローリー号という船を、ご存知ですか?」
「ああ。あのギャンブルクルーズか」
ぎろりと、森口の目がこちらに向けられる。
やはり知っていたのか。
しかし、その反応は、どこか過剰すぎるほどだった。
「近江。てめぇ、何を知ってやがる?」
「……何のことでしょう」
森口の低い声色に、背筋に電流が走るかと思った。
凄みの聞いた彼の声は、それだけで人を殺しかねない。
何かを誤ったか、と。匡は慎重に自分が話した内容を振り返る。しかし、どこかに問題があるようには思えない。
事実はただ一つ。サングローリー号の話を出した途端、森口が態度を変えた。
ならば――と、匡は慎重に言葉を選ぶ。
「組のこととは関係ありません。おれの身内が、個人的に面倒を起こしたので、知っただけです」
「……ほう」
森口は目を細めて、匡を見つめる。
人間心理については、匡も一定の教養がある。
目線の動き、手の置き方、表情の移り変わりに顔の向き。
それら全てを意識して、森口に対して、自分の言っていることが嘘ではないことを精一杯アピールする。
その甲斐あってか、森口は目の力を少し緩めると、匡に促してくる。
「聞いてやる。言ってみろ」
「元々は、失踪者の捜索依頼だったんですが――」
無駄口は一切挟まない。
ただ淡々と、これまでの経緯をかいつまんで話した。
その間、森口は神権な表情で耳を傾けていた。その様子は、まるで話のあらを探しているようにも見え、匡は生きた心地がしなかった。
「――というわけで、借金元を探しにサングローリー号に乗船することになったんです」
匡の話が終わると、しばらく森口は黙考する。
しばらくのち、口を開いた。
「サングローリー号は、浪川組の方で、しのぎにしている。普段なら、俺は関係ないんだが、少し今ゴタゴタしていてな。そのタイミングでお前から船の名前が出たから、それに関わっているんじゃないかと疑った」
「……疑いは、晴れた感じですかね?」
「七割、といったところだな」
中々辛い採点だ。
匡の説明の中に、何か気にかかることがあったのかもしれない。
しかし、こんなふうに打ち明けてくるということは、ほとんど疑いは持っていないということだろう。
「それで、その軍資金を俺のところから借りたいってことだな」
匡が差し出した借用書――森口組が取り扱う闇金の、仮の借用書と同じ形態で書かれたそれには、五百万の融資をしてほしいという旨が書かれている。
それを受け取った森口は、じろりと猛禽類を思わせる鋭い目つきで、内容を見ていく。
その視線が、ある一点を注視し、数秒止まったことを匡は見逃さなかった。
「……おい。近江よ」
先ほどの凄みの聞いた声など、比べ物にならない。
それは、地を這うような、どすの利いた声だった。
正に、声だけで人を殺せると確信できる。
覚悟はしていたため、身を竦ませるような無様な真似はしなかったが、それでも冷や汗をかくくらいには、重圧のある声だった。
匡はじっと森口を眺めたまま、彼の様子を観察する。
森口はただでさえ威圧感のある存在だが、彼自身が意図的にそれを利用するのは、本当にブチ切れている証拠だ。
――それを確認して、匡は賭けに勝ったことを悟った。
同時に、森口は自身の負けを悟ったことだろう。
森口は、息を一つついて、尋ねた。
「この名前は、冗談と言うわけではないんだな」
「冗談で出すには、少々扱いに困るカードですから」
軽口で返しながらも、匡はピリピリとひりつくような緊張感に耐えていた。
ここで気迫負けしてしまえば、すべてが台無しになる。
それほどに、森口敏和にとって『その名前』は、ジョーカーなのだった。
この場においては人質に近い形で『その名前』を出したが、もしここで多少なりとも彼の機嫌を損ねようものなら、匡はこの場で殺されるだろう。それを分かった上で、使いどころはしっかりと見極め、交渉材料として提示した。
匡の本気が分かったのだろう。森口は不機嫌そうに「ふん」と鼻を鳴らした。
「五百万だな。明日までに用意しよう」
「ありがとうございます」
「しかし――な」
ねめつけるような目をこちらに向けて、森口は疑問を口にする。
「お前の話をまとめると、要はお前らが借金をした闇金の大元を突き止めればいいんだろう? それなら、それこそを俺に依頼すればいいんじゃあねぇか?」
「…………」
「はっきり言うぞ。今聞いただけでも、すでに三つほど候補が浮かんでいる。俺なら、そんな回りくどいことしなくても、すぐに見つけて借金をチャラにしてやれる」
淡々とつげられる声には、ただ事実だけが乗せられている。余計な感情を交えないソレは、まるではじける前の静寂のようで、より一層空気を張りつめさせる。
そんな無言の中の攻撃を、匡はじっと耐え忍ぶ。
並みの精神力では不可能なことを、彼はやってのけていた。
覚悟、あるいは信念。
そういったものがなければ不可能な芸当だ。そうなるように、森口は自身のポテンシャルを存分に扱っている。
「お前が、俺に――と言うより、極道の看板に極力頼りたくないと言う気持ちは分かる。俺としても、そう軽々と利用されてもらっては困るからな。だが、それこそこの状況なら、俺も無関係ではない。事情だけを聞けば、情報提供だけでもできる」
つらつらと、確認事項を提示していくように述べていく。
そしてとうとう、森口の追及は核心へと迫る。
「もしかするとお前は、借用書の破棄ではない、別の目的があるんじゃあねぇのか?」
「――――」
さすがだ、と匡は心中で感嘆の言葉をあげた。
いや。確かに、最初から無理があったのだ。ギャンブルクルーズなんていう無法地帯に借金を取り消すために借金をしてまで入り込むなんて、何がしたいのかわからない。もちろんそちらの目的が第一だし、『もう一つ』の目的が、ついでであるのは変わりない。
しかし、匡の中での比重の重さは、『ついで』の方が重いのも事実だった。
そこを騙したままでは、森口との間に亀裂が入りかねない。
それを早々に悟った匡は、己の心中をカミングアウトすることにした。
「実は――」
そして三日後、匡は500万を手に、サングローリー号に乗船するのであった。
※ ※ ※
カジノにおいて、もっとも盛り上がるゲームは何かと言われると、これだけは必ず挙がるといわれるゲームが一つある。
バカラ。
チップを賭けた本人が勝負をするわけではなく、仮想の人間である『
それぞれに配られたカードの下一桁の数が9に近い方が勝利という、単純明快なルールである。
このゲームは、客自身が勝負をするわけではないため、駆け引きなどの要素はまったく入り込まない。
確率による勝負の予想も難しいため、完全なる運のゲームとなる。
そうしたところも人気の理由であるが、何よりも一番盛り上がる理由は、大金が動くためだろう。
バカラは、大金が動く。
通常、カジノゲームにおける一般的な最少掛け金、ミニマムベットは、1ドルや50セント程度であり、気軽に遊びやすい金額が設定されている。
しかし、バカラの場合は10ドルや20ドルといった金額が当たり前であり、それ故に、一度の勝負で大金が動きやすいのである。
バカラは人気ゲームであるため、他のカジノゲームとは別に特別な区画を設けてある場合が多い。サングローリー号のカジノでも、カジノルームの一角に設けられたバカラエリアのテーブル群は、多くの人間に囲まれていた。
その中に、近江匡の姿がある。
髪の毛はまるでかきむしったようにぼさぼさで、着ている服も、どこかだらしなさが目立つ。追い詰められているのか、表情は血色が悪く、目は軽く血走っていた。
彼は、バカラ台のそばで腕を組み、攻撃的な空気を放ちながらディーラーを見つめていた。
ゲームが始まる。
客はまず掛け金をテーブルに置く。バンカーかプレイヤー、あるいは引き分けの三種類が選べる。引き分けの場合のみ配当は掛け金の八倍であり、バンカーとプレイヤーは1倍。バンカーに賭けて勝った場合、払い戻しの中から5%だけ徴収される。
盛り上がったバカラのゲームは、テーブルに座っている人間だけではなく、後ろに並ぶ人間も次々にチップを賭けていく。
このクルーズにおけるバカラのミニマムベットは千円。
テーブルには千円チップが何枚も積み重なり、中には一万円チップを賭ける者もいる。テーブルの上には数え切れないほどのチップが並び、かろうじて他人とのチップの山が判別できる程度である。
近江匡は一万円チップを二十枚取り出す。マックスベットを、『プレイヤー』側に賭けた。
ディーラーがカードを配る。プレイヤーとバンカーに、それぞれ二枚ずつ。裏返ったままのカードは、まだどんな絵柄が描かれているかわからない。
ちなみに。
基本的にカードをめくるのはディーラーであるが、バカラの中でも大バカラと呼ばれるゲームでは、掛け金の一番高い人間がカードをめくる権利を与えられる。
その際、カードをめくるときに、端の方から少しずつ除いていく『しぼり』と呼ばれる方法を取るのが、バカラの醍醐味とも言われている。
端を少しだけめくり、そこにスート(カードのマーク)が見えるかどうかで、カードの絵柄を推測していくのだ。少しずつカードのスートが推測されていく過程が、不思議な臨場感を生み、運否天賦の勝負を駆け引きのように盛り上げる。
プレイヤー側の最高賭け金を出したのは、匡だった。
匡の手元にカードが渡される。一枚は、余計な手間をかけずにさっと開く。スートはスペードの2。そして――もう一枚に、匡は『しぼり』をかける。
緊迫した空気の中、一辺の短いカードの頭から見ていく。
確認されたスートはダイヤ。それも二つ。
スートが二つ確認されたため、このカードの数字は、4から9までの6種類に限られた。
次はカードの長辺である。
血走った匡の目が、カードを凝視する。周囲のほかの客たちも、その姿をじっと見つめる。
その時、バンカー側の結果が出た。
バンカー側の点数は7。
バカラはバンカー側が8以上で強制的に勝負終了なので、かろうじて続行という形になった。
これで、プレイヤー側が勝つには、バカラにおける最高点数をたたき出すしかなくなった。
プレイヤーのカードの点数が5以下の場合、三枚目のカードが配られるのだが、匡が確認した二枚目のカードは、長辺側にスートが二つ見える。
考えられるカードの数字は、4か5のどちらかである。
「………ぐッ」
その瞬間、プレイヤー側の勝利はなくなった。
あとは、5が出て、一枚目との点数を合わせて7となり、引き分けるしか、損失を生まない方法はない。
カードを握る手に力を込めながら、匡は気迫のこもった様子でカードをめくる。その鬼気迫った様子に、場は静寂に包まれる。
そして、めくられたカードは――
※ ※ ※
午前中に行われた牧野真樹の大負けは、多くの人間に目撃されている。
昨夜のジャックポットの影響もあり、周囲の真樹に対する注目度は高かったのだ。それ故に、派手な負けは印象に残り、傍らにいた匡のことも自然と注目を集めていた。その負け方は壮絶であり、泥沼にはまりやすいカモとして目に映ることだろう。
近江匡は、バカラ台で三十万負けていた。
はたから見た彼の姿は、悲惨の一言に尽きるだろう。
カウンター式のバーの片隅に、彼の姿がある。
度数の高い酒を飲み散らし、乱れた服を直そうともせずにうなだれている彼の様子を見れば、誰も近寄りたいとは思うまい。負け越したギャンブラー特有の悲愴さがにじみ出ていた。
そんな彼に、声をかける男がいた。
「少し、話をしてもええか? 兄ちゃん」
茶色の背広に眼鏡をかけた、いかにも怪しげな男だった。
整った身だしなみの割に、ガサツな空気を放った男は、三十後半から四十くらいだろうか。怪しげな関西弁に、怪しい恰好という、いかにもな男だ。
男は、いわゆる金貸しだった。
このサングローリー号に出資している金融業者の中ではフリーに近い立場であり、それ故に、自分たちで客を探さなければならなかった。
ギャンブルに負けて落ち目の客が目当てであり、昨日から目を付けていた近江匡に、今近づいたのだった。
うなだれた匡は、顔を上げようともしない。その隣に座りながら、男は砕けた口調で小馬鹿にしたように言う。
「さっきは派手に負けとったのぉ。いやいや、傑作やったなぁ?」
ぴくり、と。匡の身体が反応を見せる。
それを目ざとく見た男は、態度とは裏腹に、視線は慎重に匡を観察する。
相手が欲する言葉を慎重に選びながら、言葉を続けていく。
「兄ちゃんみたいな豪快な奴は、好きなんや。こんだけ大負けしたんや。次は来ると思わへんか? なぁ」
プライドを刺激し、次もまた、勝負を行えるように煽る。
ギャンブル中毒者にとって一番逆らいがたいのは、『次は勝てるかもしれない』という希望である。
少し勝てばそれが続くと思い、大きく負けてもたまたまだと言い張る。
そうやって、勝負の深みにはまればはまるほど、勝ちよりも負けが多くなる。
勝負がしたいはずだった。
負けた金額が大きければ大きいほど、惜しいと思う気持ちが先立つ。それを回収したいと思う。――それこそが、深みだと気付かずに。
「休憩はいつまでや? はよ行かんと、せっかく負けて貯まった運が、逃げてしまうで?」
「……あいにく」
そこでようやく、匡は口を開いた。
アルコール度数の高い酒を飲んでいたからか、声は枯れ果てていた。絞り出すような苦しげな声で、彼は言葉を続ける。
「もう種切れでな。せっかくだが、おたくの期待にゃ、応えられないな」
「なんだそういうことかい。タネ銭なんて、作ろう思おたら、いくらでも作れるで?」
男の言葉に、ちらりと、匡の充血した瞳が男の方に向けられる。その裏にあるかすかな期待を、男は見逃さない。
かかったと、心の中で男は喝采を挙げる。
内心の感情を表面上はおくびにも出さずに、男は言葉を続けた。
「俺はまあ、あんたらのように、早くに金をなくしちまったもんに融資しとるねん。だって悲しいやろ? まだ二日目、ほとんど初日のようなもんやのに、遊ぶこともできへんなんて。せやから、どや? 金、借りへんか?」
「……悪いが、返す当てがない」
「なに弱気になっとるんや! 勝って返せばいいやないか!」
勢い込んで言いながら、少しだけ焦り過ぎたかと反省する。
今は勝負の熱が冷めて消沈しているからか、匡の様子は落ち着いている。返済のことを考えることもできないくらいに、気分を高揚させてからにすべきだったか。
「勝てば、……か」
しかし、匡は顔を伏せたまま、ぼやくように言った。
「ああ、そうだ。あとちょっとだったんだ。……あのダイヤが、あと二つ。後二つ増えていたら、勝ちだったんだ。それなのに……」
なんだ、と。男は冷めた瞳で匡の様子を見る。
返済のことを気にしつつも、彼はまだ、先ほどの勝負への未練に縛られているのだ。
ならば――返済の当てさえつければ、踏ん切りもつくというものだ。
男はしっかりと見ていた。
近江匡が昨夜連れていた女が、スロットでジャックスポットを当てたことから、今朝方大負けしたことも。その時、匡は真樹に対して声援を送っていたが、その様子は、はたから見ればギャンブル中毒者のそれにしか見えなかった。
昨夜彼女が勝ったから、今日も勝てるだろうとゲンを担いで女に勝負させた。
そんなところだろう。
見たところ、あの女は素人同然だった。それに対して匡の気合いの入りようはすさまじかった。
――勝負がしたいはずだ。
女がスロットの手を止めようとした時も、たえず声援を送り、プレッシャーをかけ続けた。女への気遣いなんて全くなかったこの男ならば、女よりもギャンブルをとるはずだ。
勝てばいい。
その免罪符があれば、たやすく崩れる程度の、関係だろう。
「この上にな、もういっこ、賭場が開かれ取るんねん」
男は、この船において一番の切り札を切った。
「そこなら、もっと高レートで勝負ができる。マックスベットが高々二十万程度のちんけなギャンブルじゃない。むしろ、ミニマム十万が、ゴロゴロとある」
男の言葉に興味をそそられたのか、匡がちらりとこちらを見る。
「なあ兄ちゃん。どうしてこのカジノが、円でチップのやりとりしとるかわかるか?」
「……日本人がやりやすいからじゃねぇのかよ」
「半分正解や。もう半分は、この上の賭場にある」
にやりと笑みを浮かべ、男はギリギリまで引っ張るように間をとる。
沈黙に耐えられなかったのか、それとも興味を押さえられなかったのか、先に根を挙げたのは匡の方だった。
「早く。教えろよ」
「やれやれ。そうせっつくんやない。それはな――この上には、カジノゲームだけやない。ほかにもいろいろ、ゲームが用意され取るんや。丁半博打、花札、麻雀。普通のカジノゲーム以外にも、いろいろそろっとる」
「そりゃあ……」
すげぇ。と、匡は感嘆の息を漏らす。
どうやら興味がギャンブルそのものに移行してきたようだ。
とくに、麻雀などは、日本でもひそかに金銭のやり取りが行われているだけあって、なじみ安いものだろう。目をぎらつかせている匡に、男は続ける。
「この船のオーナーの息子が、大のギャンブル好きでな。おかげで本来ならカジノにはないギャンブルもそろおとるんや。あいにく、紹介制なんが面倒なところやけどな。なんやったら、紹介してやってもええで? 金のことは心配いらへん。担保さえあれば、それこそいくらでも、貸してやる」
「担保……。何を、担保にすりゃいい?」
いまだにこちらを直視しようとはしないが、匡の声にはやる気がみなぎっていた。ここまで盛り上がれば、もはやちょっとのことでは心変わりするまい。
「なぁに。兄ちゃんが連れて来とる、あの嬢ちゃんがいれば、それでええんや」
「……女。ああ、『真樹』を。か」
何の感慨もないような口調で、女の名前を呼ぶ。
親しみも感じられない。その様子ならば、一も二もなく承諾するだろう。
そう思い込んでいた男だったが、続ける匡の言葉は意外なものだった。
「あいつは、いくらくらいになる?」
「そ、そやな」
まさか直接金額を訪ねてくるとは思わなかった。
それほどまでに割り切っていることに驚きつつ、男ははっきりと答える。
「上のカジノは、最低でも五百万はないとダメやし。――六百万。あの嬢ちゃんやったら、それくらいは融資できるわ」
「六百万……」
人ひとりの金額としては高いのか安いのか。
倫理的な面を見れば安いに決まっている。
しかし、借金の形という意味では、むしろ高いとすら言えるかもしれない。
もし返済できなかった場合、担保とされた女がどうなるかはわからない。それはその時だ、と男は思う。ただ、もし女が手に入ったとしたら、例えどんな扱いをしたとしても、六百万以上の利益は上げさせるが。
「そっか。六百、か。くくく」
それはくぐもった笑い声だった。
まるでおかしくて仕方がないとでもいうように、笑いを堪えている。顔を伏せた匡の表情は、横顔が歪んで見える。
気が狂ったのか、とでも思ってしまいそうな様子だ。
その反応を見て、男は確かな手ごたえを感じた。
しかし――次の瞬間、その判断を撤回することになる。
「安いな」
急に。
これまでうつむいたままだった匡が、頭をあげてこちらを直視する。
生気のなかった表情には、いつの間にか血が通っていて、血色がよい。充血していた瞳には強い意志が宿り、悲愴に満ちていた空気が一瞬で払拭される。
豹変、と言ってもいいほどの変化だった。
「六百。かははっ。真樹ちゃんを売るにゃあ、六百万は安いなぁ。安いぜ、安すぎる。ああん? あんないい女を、その程度のはした金で売るのはもったいねぇ。その倍は持ってきやがれ! ……と、言いたいところだが――いいぜ、話だけは聞いてやる」
あまりの変わり様に、男は言葉を失ってしまう。
それに対して、匡の様子は楽しそうだった。楽しくて仕方がないとでもいうように、表情を笑みで染めている。それは、ギャンブル中毒者のものではない。
現実において、自身の力で何かを成し遂げた者が持つ、自信に満ちた笑み。
「さて。話をするんだったら、ちょっとの飲み物がほしいな。マスター。注文お願い。ホーゼスネックって作れる? それ、二つ頼む」
ホーゼスネック。
馬の鬣という意味で、幸運を呼ぶと言われるカクテルである。ギャンブルのゲン担ぎなどに使われるお酒だ。
注文の後、匡は楽しそうに笑いながら、続けて言った。
「それじゃあ。いろいろ聞かせてもらうぜ、おっさん。そりゃもう、たっぷりと――な」
その、いっそ邪悪な雰囲気すら感じる笑顔に、男はここにきてようやく、近江匡に声をかけたことを後悔し始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます