第6話 切り札はまだ伏せたままで

 ※ ※ ※


 牧野真樹は、部屋に引きこもっていた。


 昼食はルームサービスで済ませ、今は備え付けのディスプレイでゲームをしている。


 近江匡が部屋を出て、すでに六時間は経とうとしている。


 好きにしていていいと言われたため、全力で楽しもうとしているのだが、どうにも身が入らなかった。

 最初にやっていたシューティングゲームは集中できなくて何度も撃墜されたし、ならばと得意な将棋ゲームに手を出したのだが、普段ならハイレベルのCPUにもいい勝負ができるのに、今は中級レベルのCPUにも苦戦している。


 私は何をしているんだろう。とを考える。


 あと十六手で詰みを読んだ真樹は、投了してコントローラーを放り投げた。

 指が痛い。シューティングゲームの名残だ。手が攣りそうになるほどゲームを続けたのなんて、どれだけぶりだろうか。


 胸の中でもやもやと渦巻くものを、忘れたかった。

 それが逃避行動であることは、彼女自身しっかりと理解していた。それでもいいから、忘れたかったのだ。午前中に感じたあのプレッシャーから、目を背けたかった。

 匡は気にするなと言ってくれたが、それでも気になるのが人間である。


 自分は、あんなにも弱い人間だったか。


 ギャンブルが嫌いだったのは本当だ。

 父との思い出は、ほとんどがギャンブルに対する嫌悪へと変換されている。

 ギャンブルさえなければ、父とももう少しまともな関係を築けたのではないだろうか。そんな思いとともに、賭け事の卑しさに暗い感情を覚える。


 しかし、それでも真樹は、スロットを回してしまった。


 匡に言われたからではない。自分から、真樹はスロットに向かったのだ。

 確かに一度目は、匡に言われて行ったが、その時に出たジャックポットが忘れられなかったのだ。


 鳴り響く当たり音と、祝福の拍手が忘れられない。

 あの感覚をもう一度味わいたいと思ったのは、本当のことだ。

 ――だから、今朝の大負けは自分の責任だ。

 また当たりが出ると確信していた。自分は父とは違う。無欲だから、勝てる。また大当たりを出せる。


 そんな、馬鹿のような欲を出したのだ。

 自業自得というものだろう。


「あー。そっか」

 ベッドにだらしなく寝転んで、蛍光灯を眺めながら、真樹はぼんやりと呟いた。

「悔しいんだ。私」

 もやもやとした感情に、ようやく名前が付く。


 悔しい。


 その感情の出所は様々だ。

 ふがいない自分自身もそうだし、匡の期待に応えられなかったこともそうだ。馬鹿にしていた父と同じであるということも、耐え難いほど苦痛だ。


 ベッドから起き上がって、彼女は時間を確認する。時間は七時過ぎ。

 昨夜と同じならば、そろそろ夕食の時間になるだろう。


「近江さん、遅いなぁ」


 いつ帰ってくるとは言っていなかったので、真樹はただ待つしかない。

「探しに行こうかな」

 いるとすれば、カジノだろう。


 ただ、匡に会いたかった。

 一緒に旅行をしているのに、随分と遠く感じる、あの先輩に会いたかった。


 匡がいるときには、トイレにこもって着替えをしていたが、今ははばかることなく部屋の中央で堂々と着替えることができる。荷物が少ないと匡には言われたが、それでも最低限の服はそろえてきている。


 うすい青色のブラウスに、紺色のロングカーディガンを羽織る。下にはロングスカートを履き、姿見で軽く姿を確認する。


 よし、と気合を入れて、真樹は外に出る。

 この船に来て、初めてまともな服装をした気がする。いかにずぼらとはいえ、気合いを入れるときには入れるのだ。少し服を選ぶだけでも、こうも気分が変わる。

 くじけそうになる心を奮い立たせ、真樹は再度、あの悪夢のカジノへと乗り出した。



※ ※ ※



 近江匡は、手に持ったカードキーを眺めていた。

 引き続き、場所はカウンターバー。

 柑橘系のジュースを飲んで良いを冷ましながら、匡はカードをためつすがめつ観察する。


 船客全員に配られているIDカードとは違う、黄色のカードだった。

 それが、五階以上のカジノに出入りするときに必要な会員カードである。


 匡が誘い出した金融業者は、多くは知らなかった。この船の大元とは程遠く、ただ甘い汁を分けてもらうために、わずかな出資で乗船を許可されているだけの業者だ。


 しかし、それでも聞くだけのことは聞けた。


 この船における目的は、周知のとおり、ギャンブルを公然と行える場を提供することである。その前提はどうやら覆りそうにない。

 実際、この船の持ち主である龍光寺晴孝は、それを目的としてこのクルージングを提供しているそうだ。


 しかし、その裏にある出資者たちの思惑は別にある。

 彼らにとってこの船は、人身売買まがいの借金徴収を行う場である。金持ち達が道楽で行うギャンブルというのも実入りはいいが、その陰に隠れるように、債務者から負債の回収を行っている。


 手口としては、まず債務者をこの船に斡旋し、金を貸す。勝てばそれでいいし、負ければ肉体を担保として提供する。


 ――負けた場合の処遇に関しては、いろいろだ。


 それこそ、若い女ならば限界まで使いつぶされるだろうし、男にしても、労働力として極限までこき使われる。そうでなくても、臓器を売ればそれで金は作れる。それぞれの人間に適切な方法で、金を搾り取る。

 幸い、この船には金だけは余り余っている人間がたくさんいる。そいつらが欲するものを提供すれば、瞬く間に負債分くらいは徴収できるだろう。


 この辺りは、予想通りだ。

 問題は、匡たちが知りたい金融業者だった。


 先ほどの男から、この船に乗り込んでいる金融業者の名前をいくつか聞き出したが、そのどれも、匡の知っているものだった。あと、失踪したAV女優の名前も出してみたが、男は知らないと答えた。


「使えない」

 と匡は苦いものを感じながら吐き捨てる。


 ただ、成果と言えるものは二つあった。


 一つはこの、黄色のカードだ。

 匡は当初、借金をしてこれを手に入れるつもりだったが、匡の尋問に耐えられなかった男が、あっさりとこのカードのことを漏らしたのだ。

 五百万の提示と引き換えに船側から貰うか、紹介人を介して貰うかの二択しかないカード。交渉という名の圧力の結果、簡単にこのカードは手に入った。


 もう一つは、参加している金融業者の名前の中に、気になる名前があったことだ。


 双龍会羽柴組若頭・三司馬修成。


 よりにもよって、という名前が出てきてしまったのだ。



「まったく。てめぇの引きの良さは本物だな、近江よ」

 不意にかけられた威圧的な声に、匡はなんでもないように返す。

「偶然ですよ。ただ、これで少しはお役に立てるかと思うと、気が楽になりますね」


 匡の隣の席に、声をかけてきた男が座り込む。

 森口敏和。

 彼は、バーテンに注文を出すと、横柄な態度を見せつけるようにして言う。


「見てたぞ。あの金貸し、震え上がりながら逃げて行きやがった。随分と、人の追い詰め方がわかってきたじゃねぇか」

「見よう見まねですよ。まだまだ本職には敵いません」


 緊張を隠すように苦笑しながら、匡はできるだけ気安く聞き返す。


「なんでこの船に乗ってるんすか。森口さん」

「別件だ。お前のこととは全く関係ない。――つもりだったんだがな」


 そこで、ようやく森口も、強面の顔を少し緩める。

 さすがの彼も、この出来過ぎな展開に苦笑を隠せないようだ。


 双龍会。

 森口が所属する広域暴力団の母体組織であり、現在の森口組は、双龍会の二次団体となる。

 元々は浪川組の三次団体だったのだが、とある事件をきっかけに独立し、双龍会の直系となった経緯がある。

 そこまではいい。


 問題は、先ほど上がった名前だ。

 羽柴組若頭・三司馬修成。

 羽柴組とは、双龍会の二次団体であり、森口組とは兄弟関係に当たる。序列としては、後から盃を交わした森口組の方が下に当たるのだが、そういった力関係は、現在のところあまり機能しているとは言いがたい。


 簡単に言ってしまうと、羽柴組と森口組は、仲が悪かった。


「うちはまあ、直系とはいえ弱小団体だからな。そのくせに、うちは妙に幅を利かせているから、羽柴の兄貴からすると気に食わねぇんだろうよ」


 と言った風に、以前森口が語っていたことがあったのだが、その確執はなくなるどころか更に深くなっているという。


 そんな矢先に、羽柴組の名前を聞いてしまった。

 しかも、同じ船に、森口が乗船している。

 ここまで面白い情報が揃ってしまえば、想像するなという方が難しい。


「一応、蛇が出ないようには気をつけたんっすよ」

 言い訳がましく、匡は笑いながら言う。

「でもまあ、結果的に大蛇を出しちゃったみたいなんすけど。プラチナの裏取引でしたっけ? 森口さんが言ってたゴタゴタって、これのことだったんすね」

「そういうことだ。このクルーズは浪川の親父が率先して出資している案件だからな。そんな中で、コソコソと裏取引がされていたら、いい顔もしない」

 苦笑を漏らしながら、森口はそう言った。


 プラチナの裏取引。

 なんでも、この船に乗っている富裕層相手に、プラチナの高額取引が行われているのだという話が流れていた。

 このクルージングの性質上、海外への密輸目的ではないので、あくまで国内の富裕層を対象としたビジネスだ。だが、それを船の中でやるのは、やはりそれなりの理由がある。


 つまりは、脱税目的。


 資産価値の高い貴金属であるプラチナをやり取りすることで、総資産や利益計上をごまかすというものだ。それ自体はありがちな話だが、摘発の難しい犯罪である。

 ましてや、船の上で行われれば、その判明は恐ろしく難しくなる。


 どうやら、その取引を、羽柴組の若頭が率先して行っているらしい。


「賭場としてしのぎをしているところに、そんな裏取引をされたら、どんな問題が起こるか分かったもんじゃない。もしこれでマル暴にでも目をつけられたら、カジノ自体がダメになりかねないからな」

「だから、森口さんが調査に乗り出しているわけですね」


 別に、浪川組がこの船での賭博件の全てを握っているわけではない。他の団体や組織も絡んでいるので、一言で解体されるほど、ギャンブルクルーズは甘い闇ではない。

 だが、少なくとも、同じ団体の兄貴分に迷惑をかけるようなことは、するべきではないということだろう。


「表向きは、羽柴組は完全に関与を否定していてな。その三司馬にしても、そんな取引はしていないと言い張っている。だから、なんとかして取引現場を抑えたいと思っているってわけだ」

「そんなに見つけにくいんすか?」

「ああ。そもそも、どこにプラチナを隠してやがるかもわからん。利益を上げるには、相当な量を持ち込んでいるはずなんだが。だから、うちの組員も何人か入って調査しているから、余計なちょっかいを出すなよ」

「わかってますよ。おれの方も、自分のことで精一杯ですし」


 ただ、と。

 匡は探るようなつもりで、提案をした。

「もし、途中でお役に立てるようなら、お手伝いはしますよ」


 その提案に。

 森口は、静かに目を細めた。

「ほう」


 彼の前に、バーテンがカクテルを持ってくる。

 森口はそれを受けとると、バーテンに氷を要求した。自分でやるから、と伝えると、容器に入ったロックアイスが出される。


 森口は、アイスピックを手に取ると、手慰みのように氷を砕き始める。


「なあ、近江よ」

「……はい」


 空気が変わった。

 匡は慎重に、森口の言葉に耳を傾ける。


「何度も言うが、俺はお前のことが気に入ってる。なにより、その度胸だ。少しでも俺のことを知ってる奴は、絶対に俺から金を借りようなんて思わない。それをお前は、まさか脅迫まがいの方法まで取ってきやがった」

「脅迫だなんて、買い被りすぎですよ。あんなの、保険にしかならないって、森口さんだって分かってるでしょう?」

「ああ、そうだな。それを理解していながら、堂々とそのカードを切ってくる辺りが、お前の大胆さでもある」


 アイスピックによって、氷が砕かれる。

 手慣れた手つきだった。本来なら、バーテンの仕事であるが、行き付けのバーで、一人の時にはこうして遊びがてら氷を作ったりもしていた。

 だからだろうか。


「俺たちの商売は、舐められたら終わりだ。だから、なあ。近江」


アイスピックを握っていた森口の右手が、テーブルの上から消えた。



 それと共に、カウンターの下では、匡の右太ももに細い切っ先が突きつけられた。


 痛みは――ない。


 まだ、脅しの範囲ということか。


 切っ先の鋭さを意識しながら、匡は必死で平静を保つ努力をする。

 周囲は、二人の異変に気づいていない。そう言ったところは、さすが本職といったところだ。この大衆な中、死角になる位置で突き付けられる凶器は、いくら冷や汗をかいても足りないくらいだ。


「森口、さん……」

「これからのことを考えて、手は勘弁してやる。手先の感覚は武器だからな。顔も、傷があると交渉に不利だから止めよう。だが、それ以外はなんとでもなる。この俺を脅したんだ。足のひとつくらいは、覚悟してるよな?」


 森口の目は本気だ。

 次の瞬間にも、アイスピックは匡の太股に突き立てられるだろう。


 それをわかっていながら、匡は一言も言わず、黙って成り行きを受け入れる。

 下手な弁解はボロがでるだけだし、命乞いでもしようものなら、容赦なく切っ先は狙いをかえてくるだろう。

 だから、甘んじて受け入れる。


 そもそも、それだけのことを匡は森口にしているのだから。


「殊勝だな、近江」

「……」

「ここでアレを使わないってことは、ちゃんと分かってるってことだな」

「ええ。あの名前は、あくまであなたにとって大切なだけで、おれの命の保証をするものじゃない」


だからこそ、と。

匡は覚悟を決めて言った。


「我が身可愛さには使えないですよ。ここは、使いどころではありません」

「よく言った」


 森口の右手が返される。


 ふと、緊張を解きかけた。



 アイスピックの柄の部分。

 森口は思いっきり、匡の腹部を殴り付けた。



「ぅ、……ッ」



 思わず、声が漏れそうになる。

 足に意識を集中させていたところで、無防備な腹を殴られた。だが、ここで騒いだら目的を果たせなくなる。

 苦悶の表情で耐える匡を見て、森口は静かに嘆息する。


「流石だ。騒いだらただじゃ置かなかった」

「は、はは。面倒事を避けたいのは、お互い様ですよ」

「その通りだ。だから、この場ではこれで勘弁してやる。次はこうはいかないぞ」


 森口は立ち上がると、カウンターにチップを置いていく。

 去っていく森口を見送りながら、ようやく緊張の糸を切りかけた。


「ああ、そうだ」


 その暇もなく、森口が言い捨てるようにして言った。


「龍光寺の息子だがな。やはり、きな臭いぞ。良かったな」

「……はは。なんか、助けられてばかりですね」

「そう思うなら、せいぜい俺の機嫌を取ることだな」


 そうして、ようやく森口は去っていった。


 どっと、冷や汗が全身から溢れ出る。何度も緊張が途切れそうになったが、そのたびに、殺されるような思いを抱いた。


「まったく、おれも日和すぎだろ」


 あの森口敏和を相手に、気を抜いて良い場面なんてあるはずがないのに。


 とりあえず、当面は彼とはあまり関わりを持たないようにしようと誓った。

 森口の手前、手伝えるなら手伝うと言ったことは口にしたが、偶然情報が入ったら告げ口するくらいの気持ちだ。率先して調べるつもりはない。


 しかし、だ。


「羽柴組の三司馬ねぇ……もうホント、この時点で面倒ごとだろうに」


 苦虫を噛み潰すようにつぶやく。

 これで、成瀬の作った借用書が、最終的に行きつく先が、三司馬組だったりしたら笑えない。――のだが、成瀬那留という名の女が作り出すトラブルは、大抵そういった最悪の展開を作り出すのだった。


 最悪の状況は、覚悟しておいた方がいい、ということだ。


 匡は大きく息を吐く。

 こういう時、たばこでも吸えれば恰好がつくんだけどな、とぼんやりと思う。彼は喫煙はしないが、たばこの持つ、微妙な間というものを理解していた。


 目を覚ますために、柑橘系のジュースを頼み、口にする。柑橘系特有の酸っぱさが、ぼやけ始めていた頭に刺激を与える。


 さて。


 これからの方針を考える。


 結局、先ほどの男から借金をすることはなかった。つまり、今匡が使える資金は、三百万程度ということになる。


 真樹に負けてもよいと言って渡した百万は、匡がギリギリ自身で返済できるラインだった。クルージング費用と、それと余分に百万の、合計二百万までならば、自腹での返済が可能とみて、そこまでは使い込むつもりだった。


 つまり、残った三百万はあくまで保険であり、これを失った場合の返済は確約されていないということである。


 金を貸してくれた森口は、知り合いと言えども、けじめはしっかりとつけるタイプである。返せなかったら、それこそこの船で迎える末路と似たような道をたどることになる。

 先程も釘を差されたことだし、甘いことは考えないほうが良い。


「さて、どうすっかねぇ」


 そして、五階のカジノに行くことを考えれば、多少なりとも資金は必要だった。

 匡はカジノの方に目を向ける。

 目の前にあるのは、ブラックジャック台。


「三十――いや、五十くらいは、稼げるかな」


 負けてもよいラインをまず設定し、それ以上は賭けないことを誓う。――その上で、勝ちを定める。希望的観測ではない、確かな計算を基に、負けと勝ちを設定する。

 酔いの回った頭が覚醒するのを待って、彼はバーの席を立った。




※ ※ ※




 真樹はカジノルームにたどり着く。

 まずスロットの台を見て、苦いものを飲み込む。


 なるべくそちらを意識しないようにしながら、階段をのぼる。

 目指すはカジノルームの四階。そこでは、さまざまなゲームが行われている。


 それらのゲームの中で、真樹が明確にルールを把握しているのは、ブラックジャックと、ポーカー程度だった。ポーカーにしても、カジノで一般的なテキサスホールデムではなく、よくカードゲームとして遊ばれるクローズドポーカーしか知らない。


 大小様々のテーブルに、それぞれ数十人の客が群がっている様子は、どこか卑しさを感じてしまう。自分もその一員だったということを考えると、飲み下せない気持ちがせりあがってくるのだった。


「近江さん、どこかな……」


 真樹は軽く周囲を見渡す。匡の姿はないかと思っての行為だが、人の数が多すぎてすぐに見つけることは難しい。

 はぁ、とため息をつき、彼女はすぐそばにあるバーのテーブルについた。とりあえず何か食べようと思った。


 船内では、基本的に飲食は無料だった。バーと言っても、内容は喫茶店とほとんど変わらないようで、メニューには軽食がいくつか記載されている。真樹はホットドックとコーヒーを頼んで、なんとなしにカジノの方へ目を向ける。


 すぐ近くで行われているのは、クラップスというゲームだった。

 ダイスを使ったゲームで、二つのダイスの出目を競うゲームである。見たところ、多くの人が集まっていて盛り上がっているように見える。

 客が一喜一憂しているさまと、それを静かに見つめながらゲームを執り行うディーラーが対照的だった。ディーラーの動きはよどみなく、そして機械的だ。対して客は感情的で、勝てば全力で喜び、負ければ悔しさに顔をしかめる。


 お金がかかっているのだから当たり前だが、必死なのだ。

 楽して儲けようとしているはずなのに、なぜか普通に働く時よりも必死になり、苦しい思いをする。


 不思議だな、と思う。


 ――もし、自分のお金を使えば、あれくらい必死になれるだろうか?


 真樹の中で渦巻いている感情は、悔しさだ。

 勝てなかった悔しさではない。それは、匡の期待に応えられなかったという、いわば他人を理由としたものだった。


 そして、さんざんバカにしてきた自分の父と同じであるという屈辱も、自分自身が危険を冒していないことに起因する。

 結局のところ、失ったのは匡の金だ。真樹自身は、何もリスクを負っていない。言われるがままに賭けて、言われるがままに負けて。そうして、負けの重圧だけを感じて、今ここにいる。


 ――あれ?


 ふと、些細な違和感を覚える。


 ――ああ、全然違うじゃないか。


 真樹はクラップスの台を眺めながら、ハッと我に返り、思う。

 全然違う。

 自分は、あのテーブルの前で一喜一憂している者たちと、全然違う。違うどころの話ではない。自分の方が、よっぽど愚かで、卑しい。


 急に、恥ずかしさが押し寄せてきた。今まで下に見てきた者たちが、実は自分よりも正しい姿なのだと知って、羞恥を覚えた。


 ごまかすようにホットドックの残りを頬張り、コーヒーを飲み干す。胸に残っていたわだかまりは、今や含羞となって広がっていく。まったく。自分はなんて、愚かなのだろう。


 匡を探そう。


 そして、言わなければいけないことがある。

 真樹は静かにテーブルを立つと、心機一転してカジノゲームの渦中へと足を踏み出した。


 真樹は、さまようようにしてポーカー台の周りを歩き、バカラ台を眺め、そして、ブラックジャックの台へとたどり着く。



 ブラックジャック台の一角。



 ミニマムベット千円という、この四階に設置してあるブラックジャック台において最高のレートを誇る台。



 そこに、近江匡の姿があった。




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