第2話 サングローリー号

 豪華客船・サングローリー号。


 豪華客船、という名の通り、豪勢な作りのこの船だが、しかしその反面、利用客層は多岐にわたる。遊覧船として一日のみの航行が行われることもあれば、大規模なイベントのために貸切られることもある。


 乗船料はそれなりにするものの、一般層がまったく利用できない、というほどではない。むしろ、宣伝のためか、船内の一般公開や、観光航行としての利用も多い。


「その船が、年に二回。四泊五日の特殊航海を行うんだ」


 匡が詳細を説明した。


「長期航海自体は、そう珍しいものじゃない。サングローリー号の場合、七日間の遊覧航海は何度もあるし、一か月を超えるクルージングも当たり前にあるくらいだ。だから、五日という日数自体は問題じゃない。問題は、その内容だ」


 パンフレットのページを進めて、遊戯施設の紹介が見せられる。


「遊戯施設として、カジノが設置されてるだろ。普段はメダルゲームとしての役割しかなくて、メダルの交換も現物の商品限りだ。けど、この五日間に限っては、それが変わる」

「……現金との交換がある、ってことですか」

「その通り。ま、本場のカジノと同じになるってところかな」


 本場のカジノと言われると、思い浮かべるのはラスベガスやマカオといったところだろうか。そうした街に行けば、カジノに行くのは当然とすらも言われている。


 しかし――日本の場合は、賭博は禁じられている。


「そもそもカジノ自体、違法じゃないんですか? 日本は確か、賭博法ってのがあるんじゃ」

「違法っちゃ違法だけど、それは風営法と刑法でだけどな。よく勘違いされるけど、賭博法なんて法律はないよ」

「え。そうなんですか?」


 それは知らなかった。

 説明しようとする匡は、「なんて言っていいかな」と、考えるように言葉を濁す。


「そもそも、日本は賭博そのものを認めてないんだよ。だから、賭博法なんて、賭け事をルール付ける法律は存在しない。日本にあるのは、賭博罪っていう罪状だけ。賭博に際する財物のやり取り対する罰則だけなんだ」

「えっと、違いがよくわからないんですが」

「まあ言葉の違いみたいなもんなんだけどさ。例えば、競馬法っていうのはあるんだけど、これは日本において競馬を開催するための法律なんだわ。つまり、どこまで良くてどこまでダメ、っていうルールなわけ。それに対して、賭博に対しては、その法律がない」

「……つまり、最初に近江さんが言ったように、賭博そのものが認められてないってことですか?」

「そういうこと。賭博罪ってさ、刑法なんだ。やるだけで刑事罰なんだ。まあ、賭け事の全部が全部だめってわけじゃないけど」


 近江さんは簡単な例を挙げる。


「例えば、じゃんけんで勝った方が夕食をおごるとか、そんな程度のものを違法にするわけにはいかないだろ? だから、賭け事でも『一時の娯楽に供する物』を賭ける場合は、刑事罰に問われない。極端な話、金銭授受のような『一時の娯楽に供するもの』の範囲を超えたものでなければ、別に罰則はない。その辺を上手いこと利用して、メダルゲームやパチンコなんかは、風営法の範囲で営業しているしな」

「んー。じゃあ、その範囲に、カジノも入っているってことですか?」

「現金の直接的な受け渡しがない限りはな」


 具体的な違いはぴんと来ないが、そういうものなのだと納得しておこう。

 それより、話を進めてもらうことにする。


「カジノ自体が禁止されていない――っていうのは、その、メダルゲーム的なカジノは認められているってことでいいんですよね」

「そうそう。分かりやすい例として、ゲームセンターだな。あれも風俗関連の店舗として、ちゃんと申請した上でないと営業できない。この船の中にあるのも、そのたぐいだ」

「だけど、それじゃあやっぱり現金受け渡しはダメじゃないですか。その五日間の航海って、違法なのには変わりないんですよね」

「ぶっちゃけそのとおりだな。ただまあ、そこはうまいとこやっているというかな」


 きひひ、と笑いながら、匡は言う。


「この船、外国籍なんだよ」

「は?」

「日本で主に航海をして、持ち主も、龍光寺グループっていう日本の会社の総帥で、龍光寺晴孝っつー日本人だけど、船自体は外国籍。そういう、すげーグレーゾーンの船なんだ」

「な、なんですかそれ」


 めちゃくちゃだ。


 しかし――そうか。外国籍の船だから、日本の法律は適用されないとか、そういう話をしようとしているのか。


「日本の領海内ではカジノ行為はできないという制約はあるが、これで一応、法律面はクリアだ。グレーゾーンだがな。あと他にも、多店方式を利用しての換金とか、いろいろ組み合わせてはいるみたいだけど」

「なんていうか、汚いですね……」

「汚いって、この程度で言うもんじゃないぜ。何せ、問題の五日間には、政界の大物とか、VIP連中が大勢参加するんだから」

「なんですかそれ。まるでマンガじゃないですか」

「まるでも何も、完全にフィクションの世界だよ。ばれたら社会的信用ダダ落ちになるような人間がたくさん参加して、初めて支えられてるような船だ。ま、そもそも龍光寺の息子が賭け事好きだから始めたことなんだが、だからこそ、ばれないように徹底されている」


 だけどな、と匡は面白そうに笑いながら、言葉を続ける。


「漫画的なのは、ここからだぜ?」

「え?」

「この船に、債務者を斡旋している業者がいる」


 匡は続けて三つの会社の名前を並べた。そのうちの二つは、真樹もこの会社に入って仕事をするうちに覚えた名前だ。


 いわゆる、闇金――金貸し業者だ。


「簡単に調べただけでもこの三つが、債務者にこの船を紹介している。本当はもっと多いだろうな。ついでに、この五日間のクルーズに出資もしている。この意味、分かるよな?」

「さっきの失踪者の話の続きから、もともと予想はついていましたが……」


 つまり、金が返せない人間にこのクルーズを紹介して、稼がせようという話だ。

 そして、返せなかった場合は――なるように、なるのだろう。


「ま、そうは言っても、どっかの漫画と違って、即刻命にかかわるような馬鹿なギャンブルはやらない。そもそも、小金持ちな一般人も参加するような船だからな。金額は高くても、あくまで『お遊び』の範疇にあるゲームばかりだ」


 ただし、と匡は続ける。


「持ち金なくして、その場で借金して作った金もなくして、負債が増えて増えて、返せないくらいに増えたら――さてさてどうなることか」

「問題の失踪者も、そうなったってことですか?」

「そうなったんじゃねぇかなと思う。ただ、確証がない」


 あっさりと、匡は両手を挙げて降参のポーズをとる。


「そもそも、おれがこの船の話を知ったのも、偶然なんだよ。もともとは、成瀬が扱っていた案件を手伝っていた時に軽く知ったんだ」

「なるちゃんですか?」


 急に同僚の名前が出てきた。


 成瀬那留。

 真樹たちの同僚で、高卒でこの零細企業に就職してしまったという、かわいそうな女の子だ。

 元気のいい、いろんな意味でまっすぐな子だった。それ故に、たまに暴走してしまうところが玉に瑕というところだ。事件誘発体質というのだろうか。彼女が関わって事態がややこしくならないことの方が少ないというのが、社員の総意だった。


 匡は作ったような表情を顔に張り付けて、何でもないように淡々と語る。


「成瀬が扱っていたのも失踪事件なんだが、これがちょっとした有名人でな。どうにもあいつの手に負えそうになかったから、おれが横から手を入れたんだ。それで調べていくうちに、符合する点がいくつかあった。それが、このクルーズ客船だったってわけだ」

「へぇ。……そういえば、なるちゃんもここ数日見ませんけど」


 話の内容よりも、唐突に出てきた那留の名前の方が、印象に残ってしまった。

 真樹の疑問に対して、匡はそっけなく言い放った。


「成瀬なら今、沖縄にいる」

「は? なぜに」

「おれが飛ばした」


 飛ばしたって……どういう意味だろう?

 疑問を顔に浮かべている真樹に、匡はため息をつく。ここでようやく、彼はイラついたような感情を表に出しながら話した。


「あのバカがこれ以上暴走しないように、だ」


 堪えていた苛立ちが次第に浮かび上がってくるように、棘のある口調で匡は吐き捨てるように言った。


「あの小娘、おれよりもやべぇ経歴の失踪者を調べてやがった。下手したらどこぞの黒服でも出てきそうな雰囲気だったからな。そうなる前に、おれが長期出張を命じた」

「そ、そんな勝手に」

「許可なら安曇さんからも取ってるよ。そもそも、こんな案件を成瀬にやらせるなんて、安曇さんの判断ミスもいいところだ。俺が進言したら、安曇さんも認めてくれた。だから成瀬なら今、サトウキビ畑でツチノコでも探してるんじゃないか?」

「…………」


 ほんとこの会社はどうなっているのだろうか。


 ちなみに、安曇というのは、この編集プロダクション兼興信所の社長だ。安曇梓紗という名前で、若干三十六歳と言う年齢で起業し一応の成功を収めている大物だ。この業界では、情報収集においては右に出るものはいないとすら言われている。


 それはいいとして。

 問題を失踪事件に戻そう。


「じゃあ……近江さんの件はともかく、なるちゃんが扱っていたっていう失踪事件は、当たりだったってことですか?」

「ああ、そうだ。そこそこの有名人で、だからこそ、業界から探っていったら、すぐにクルーズの噂にたどり着いた」

「有名人って、私が知っているレベルですか?」

「いや、真樹ちゃんは女だから知らないと思うぞ」


 匡にしては珍しい差別的な言葉に、違和感を覚える。


 対人関係において、匡は相手自身を貶すことはあっても、性差のようなところで貶めることは少ない。そのため、余計に気になってしまった。


 だからこそ、真樹は冗談めかしてこんな風に言ってしまった。


「『女だから』だなんて。近江さんでもそういう差別的なこと言うんですね。へぇ。知りませんでした。そんな性差別をするなんて、軽蔑しちゃいますよ、もうっ」


 ――ちょっとしたからかいのようなつもりだったのだ。


 しかし、その言い方が悪かった。


 さらには、匡の虫の居所もよくなかった。


 匡は「ほぉ」っと目を細めた。


「じゃあお前は、AV女優の名前を知っているというのか?」

「え……」


 後悔しても遅かった。

 もとよりストレスがたまっていたのだろう。ストレスを発散する機会を得てしまった匡は、いたずらに目覚めたサド的な笑みを浮かべて、一気にまくし立ててきた。


「あの移り変わりの激しい業界で、ほんの一年間ぐらいの活動期間で、極一部に人気だった巨乳女優の名前を知っているというのか? 知る必要なんてないのに? 自分の趣味で? あんなマニアックな内容が多い女優を? 一般人なら必ず引くようなアブノーマルなプレイが主な女優を? そりゃあとんだご趣味なことで。さぞ欲求不満なんだろうな。おお、それならいいぜ、今度相手してやるよ。せいぜいヨガってくれよ、なあ?」

「ごめんなさいすみません申し訳ないです私にはわかりませんッ!」


 いやはや。慣れないことはするものではない。

 匡の方も、まあさすがに冗談だったのだろう。気分よさそうに「ふん」と鼻を鳴らすと、話を元に戻した。


「まあ、そういう世界で有名な女だったんだよ。淡島きららって言ってな。作品が作品だったせいで、名前を聞けば、聞いたことはあるかもしれない、くらいのAV女優でな。業界が業界だから、消えてもそれほど話題にはなってなかったんだが、それがどうもこのクルーズに乗っていたらしい。それが、一年くらい前だ」

「一年前って、随分昔じゃないですか」

「ああ。だから足取りをつかむのに精いっぱいで、クルージングのあとはさっぱりだ。というより、クルーズに乗ったところで、消息が完全に途切れてる」

「じゃあ、やっぱり」

「まあ、そうだろうな」


 ふぅ、と。

 二人の間に、息を吐く間が生まれる。


 失踪者と五日間のクルージングの関係。匡もある程度調べた上で確証を持って言っているのだろうが、そんな漫画的なことが本当にあるのだといわれると、なんとなく気疲れした気分になってしまう。別に気を使う必要もないのに。


 と。そこでふと、真樹の中に疑問が生まれる。


「あの、近江さん」

「なんだい、真樹ちゃん」

「いえ。話は分かったんですけど……一体それが、どうしたというんです?」


 考えてみれば、当然の疑問だ。

 ここまでなんだかんだで黙って話を聞いてきたが――その話を真樹にして、どうしたいというのだろう。


「失踪者がそのクルーズに乗った後に失踪している、っていうのはわかりましたけど……だったら、それで解決でいいんじゃないですか? まさか本当のことを話すわけにはいけませんから、依頼主には依頼失敗と伝えればいいですし」

「おいおい。そんな簡単にいくかよ。一応正式な依頼なんだぜ、これ」


 苦笑しながら、それでも匡は、真樹の言葉に賛同するような言葉を言う。


「とはいえ、真樹ちゃんの言う通りでもある。ここまで裏の業界に踏み込んじまったら、調査終了するのが当然だ。安曇さんも、これ以上の調査は止めておけって言うだろうしな」

「だったら――」

「だが、ここで一つ、困った問題が一つある」


 どうやら、ここからが本当の意味での本題のようだった。

 匡は、苦虫をかみ殺すような顔をしながら、そばから一枚の紙を取り出した。


 ちらりと、『借用書』なんていう文字が見えるが――嫌な予感しかしない。


「あの、それ、なんです?」

「見ての通り、借用書の写しだ。ただし」


 借主の名前を指差して、匡がうんざりしたような声で言った。


「成瀬がこさえた借金の借用書だ」


 嫌な予感は、具体的な名前としてそのイメージが形になった。

 真樹は借用書をひったくるようにして手に取ると、書かれている数字のゼロを数えていく。


「い、いち、じゅう、ひゃく……ちょ、ちょっと、三百万って」

「ちなみに、この書面には書いてないが、トイチの福利とかいう暴利だ。年利は実質三千%を超える。あのバカ、闇金に借り作っちまってんだよ」


 吐き捨てるような口調で、匡は言った。

 これまで我慢していたのか、匡の口調が急に荒くなる。機嫌の悪さをまったく隠す気がなかった。


「そもそも、AV女優なんてもんは、裏業界と直通だ。普通じゃ調べられない。そこに調査に入ろうとした過程で、あのバカは騙されてこんなもん書かされてんだよ」

「だ、騙されてってことは、その……実際は、お金借りていないんですか?」

「書面上は借りている。ただ、成瀬自身は使っていない。うかつにも良くわからん書類にハンコ打っちまったんだろうよ。書面はどう考えても後から書かれてる」

「でも、それなら」


 それだけ不正な状況で作られた借金なら、明らかに違法だ。

 違法な上に、こちらに非がない状態ならば、素直に申し出ればいいのではないか。


「闇金の借金なら、確か取り消せたはずじゃないですか?」

「ところがどっこい。こいつは登録された正規の金融業者の借用書だ」

 いっそ笑ってしまいそうな勢いで、匡は言った。


「つーか、そもそも最近の闇金は、こんな分かりやすい借用書を作らない。一体何をどうやったのか知らんが、成瀬の馬鹿は見事にはめられて、三百万の借金を背負わされてる。おれもできる限り穴を探したが、大元がわからんことには話にならん」

「そ、そのことを、なるちゃんは……?」

「知るわけないだろ。こんなこと」


 匡は苦々しそうな表情を浮かべる。

 彼にしては珍しく、あまり余裕がないようだった。


「教えたら、あの馬鹿はさらに余計なことしでかす。自分で責任を取ろうとした結果、また騙されて、挙句に風俗にでも堕ちるのが関の山だ。なりだけは可愛いからなあいつ。んな危なっかしいことさせられるか。責任は取らせるが、それは全部終わってからだ」


 そういって、匡は真樹の手から借用書を奪い取る。

 そして、確認事項を提示するように言った。


「この借用書を無効にする方法が二つある。

 一つ。素直に払う。

 二つ。示談に持ち込む。

 そして、二つ目が行える可能性として、この金融業者は、例のクルーズに出資している可能性が高い」


 指を二本立てて言った匡は、そのまま根拠を話す。


「この借用書は、ダミー会社を介して作られている。だから黒幕の方は分からなかったんだが、そのダミー会社が形だけサングローリー号に出資していることが分かっている。だったら、その大元も、可能性は高い」

「それじゃあ、やっぱりそのクルーズのこと、調べるってことですか?」

「ああ。そして、出資者も当然ながら乗船している。――そこでだ。真樹ちゃん」


 改めるように、匡が正面を向いてきた。

 ――ここまで、真樹はこの話を、自分とは全く関係のない話として聞いてきた。

 よしんば何かしら関係があるとしても、相談事として、何かアドバイスなり知恵を貸す程度だろうと、そんなことを思っていた。

 だから話自体も、「危ない話だなぁ」程度に聞いていて、完全に他人事だった。

 それが、他人事ではなくなる。


「おれと一緒に、この船に乗ってくんない?」

「は?」


 お願い事だった。


 対価を求めるわけでもなく、命令でもなく、純粋なお願い事。

 裏に、もし断ったら成瀬が困る、という条件はあるものの、匡の言い方は、純粋なお願い事だった。


 そんな、理不尽。

 そんな、身勝手。

 自分が、首を振るわけが――


「ま、最悪三百万は事務所が払うことになるけどな。今の時点で半月たってるし、払う頃には五百万なんてレベルじゃなくなってるだろう。この貧乏会社、赤字が増えてつぶれるかもしんないな」

「最後に脅しを入れた!?」


 そんなわけで。

 他人事だと思っていた運命に、いつの間にか立たされていた。




■ ■ ■





 手のひらに重くのしかかる重圧が、黒光りする物体の凶悪さを物語っている。

 プラスチックでできた玩具などではない、鉄のリアルな重さに、恐れが身の内を満たしてくる。


 『彼』はリボルバーのシリンダーに球を一発だけ込めて、それを回す。歯車の回転する機械的な音が連続的に響き、狭い室内を満たした。


 対面に立つ男は、強がりの笑みを浮かべていた。

 しかし、どれだけ虚勢を張っても、首筋に浮かぶ冷や汗だけは隠せていない。


 それを冷静に眺めながら、『彼』は撃鉄を離し、シリンダーの回転を止める。

 これで、どこに弾が入っているのかは『彼』にも対面の男にもわからない。

 それを中央のテーブルに置くと、あらためて『彼』は男を見た。


 目の前にいる男のことを、『彼』はよく知らない。ただ一つだけわかっていることは、男が強運を持ったギャンブラーだということだけだ。無一文同然の状態から、競馬で万馬券を当ててクルーズに参加し、その後もポーカーの大勝負で競り勝ち、一気に大金を手にした男だった。技術や駆け引き以上に、純粋な強運である。


 ならばそれを試さない道理はない。


「ほ、本当に、いいのか」

 男はまず、そう言った。


 自分を落ち着かせるためだろうか、わざと大仰な風にふるまっている。かつては浮浪者然としていた男も、こうしてタキシードを来て堂々としていれば、それらしく見えるのだから不思議だ。


「俺が勝てば、あんたらのグループが独占しているサングローリー号の賭博権の一部を譲り受ける。あんたが勝てば、俺の全財産を譲り渡す」

「そう。単純でいい」


 気迫のこもった男の口調に対して、『彼』は興味なさげに返す。

 勝敗など『彼』にとってはどうでもよかった。そもそも、負けた時の心配などしても仕方がない。負けたら死ぬ――それがこのギャンブルの、避けられない運命なのだから。


 意気込んでいる男を見ると、何かとても哀れなものを相手にしている気分になる。男はおそらく、一世一代の大勝負でもしているつもりなのだろう。ポーカーで成り上がり、それを元手に権力を得て、増長している典型的な例だった。別にサングローリー号でなくてはならないわけではない。男が欲しいのは、自分を変えるきっかけのようなものだろう。


 それが見て取れたからこそ、『彼』は非常に残念に思った。

 こんな男のために、こんな舞台を用意したなんて。


「それじゃあ始めよう。最初はあんたに譲るぜ」

「………」


 中央のテーブルに置いたリボルバーに目をやる。その意味深な仕草の後、『彼』は確認するように問いかけた。


「本当に、私に譲ってもいいのか?」

「ああ。子供相手に大人ががっついても仕方がないだろう」

「そうか」


 それを言うならば、大人が先に道を指し示すべきではないのか、と思ったが、今回に限っては好都合なので構わないと思った。


 通常のリボルバーならば、正面から見ればどこに弾が入っているかわかるため、ロシアンルーレットには向かない。しかし、今回用意したのは特注品で、弾が見えないようにカバーがかけられている。だから、『彼』にも、男にも、弾の位置は分からないはずだった。


「もう一度聞く」


 淡々と、あとで文句を付けられないように、『彼』は問うた。


「本当に、先を譲ってもいいのか?」

「……くどいぞ。それとも何か? ビビッているのか?」


 ハッ、と。馬鹿にするような口調で煽ってくる。低レベルなその煽りに、『彼』の落胆はますます深まる。まったく、どうしてこんな男に興味を持ったのか。


 テーブルにおいたリボルバーを手に取る。ずんと手が重力によって引っ張られるような重さ。それはまさしく、肉を裂き、命を奪うことを暗示する重さだった。

 忠告はした。二度に渡って尋ねたのだから、文句を言われる筋合いはないだろう。


 『彼』はリボルバーをこめかみに当てると、静かに引き金を引いた。



 かちん。



 外れの音が鈍く響く。


 その結果に、対面の男が顔を青くするのが見て取れた。

 まさか最初から当たりが出るとは思っていなかったにしても、これから自分がそれと同じステージに立たなければいけないという事実に、肝が冷えているのだろう。


 くだらない、と。『彼』は思った。


 所詮この男も、天運を信じるのではなく、自己の利益を心配するたちなのだろう。


 ああ――くだらない。

 あまりにもくだらないから――『彼』はそのまま、立て続けに四度、引き金を引いた。


 かちん。


「二ターン目」


 氷点下の冷え切った声が室内に静かにしみいる。

 かちんかちんかちん。


「三ターン目、四ターン目。そして、五ターン目」


 冷徹に数えられる数字は、まるで特別な意味などないかのように空虚に響いた。

 いきなりの暴挙に、男は唖然として彼を見ていた。しかし、その表情はすぐに血の気が引き、蒼白に彩られる。


「次は、六ターン目」

 冷め切った口調で、淡々と『彼』は告げる。

「それはあなたの順番だ。そこまでは飛ばしてやった。だから、甘んじて受けろ」


 ひぃ、と。男が悲鳴を漏らす。

 もはや恥も外聞もないのだろう。慌てて逃げ出そうとして、近くのテーブルにぶつかり転倒した。喘ぐように手を伸ばすが、空を掻くばかりで立ち上がることすらできない。


 狭い室内で、まるで溺れるかのようにのたうつ男を、『彼』はごみ虫を見るような蔑みの視線を向ける。

 胸の内を満たすのは、期待していた分だけの落胆。


 リボルバーの銃口を、床を這いずる男に向けた。


 五発、立て続けに引き金を引いても、放たれることのなかった鉛の弾。


 最後の六回目の撃鉄によって、それははじき出された。火薬の破裂する音と、思考を酔わせる硝煙の匂い。質の良い絨毯には、まるでキャンバスに真っ赤な絵の具をぶちまけたかのように、赤い血が染みついた。


 空になったリボルバーを手に持ったまま、感慨もなく死体を見下ろす。ただ胸に去来するのは、もどかしさに似た痛恨だった。


 携帯電話を耳に当て、いつも通りに連絡を入れる。今回もダメだったと、平坦な口調で告げ、後始末の人員を求める。


 物音ひとつ立たない静けさの中、携帯をおろした『彼』は、そっと思う。




 また生き残ってしまった――と。



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