ギャンブルクルーズ
西織
第1話 失踪者
クルーズ客船・サングローリー号。
全長250メートル、全幅28.5メートルの大型クルーズ客船である。客室数520室、最大船客人数900人を記録し、幅広い客層がさまざまな用途で利用している。展望浴室やサウナ、遊戯室などの娯楽施設も充実しており、娯楽には事欠かない。毎回の食事は複数あるレストランかルームサービスを選ぶことができ、快適な海の旅を提供する一級のサービスとなっている。
しかし、このサングローリー号は、半年に一度、裏の顔を見せることになる。
日本をおもに航海するクルーズが、年に二回だけ、特別な航海をすることになる。
※ ※ ※
少なくとも牧野真樹は、他に複雑な感情はいろいろと交えてはいるものの、確実にその一点だけは、譲れないものとして自分の中に持っていた。
近江匡は天才だ。
性格は意地が悪いし、常に余裕綽々の態度は癇に障る。こちらが必死になって取り組んでいることも、彼にとっては片手間で済むのではないかと思うと、惨めになる。
しかしだからこそ、彼は天才だった。
「俺は天才じゃねぇよ」
それは皮肉なのか謙遜なのかわからないが、匡はいつもそう返してくる。
「天才ってのは、誰も持ってない光るものを持ってるやつのことだ。誰でもできることを真似する人間に与えられる称号じゃねぇ」
「近江さんのやることなんて、誰にも真似できませんよ」
みじめったらしい気持ちを抱きながら、真樹は匡にそう返答していた。
本人が否定しようとも、彼が非常に能力値の高い人間であることは、明らかだ。
だから、真樹は思う。
自分は一生、この人から逃れられることはできないだろう。
近江匡という存在を知ってしまった自分は、これから一生、どんな出来事に遭遇しても、必ず匡のことを思い出す。
だから、私は――
※ ※ ※
牧野真樹の人生は、近江匡に出会ったことで狂った。
彼のおかげで、真樹の人生は良くもなったし、悪くもなったとも言える。
就職難と騒がれて久しいこの時代。見事に就職活動を失敗した真樹が、零細とはいえ編集プロダクションに就職できたのは、匡のおかげであることは否めない。
大学時代の後輩と言うだけで相談に乗ってくれて、あまつさえ就職先を斡旋してくれるなんて、そんな都合のいい話はなかなかないだろう。
その点に関しては、良くなったと言っていい。
零細とはいえ給料はちゃんと月給でもらえているし、休みだって希望通りもらえている。まあ、追い込み時の残業や休日出勤くらい、日ごろの待遇からすると笑って許せるレベルだろう。仮眠室広いし。夜食は経費で落ちるし。ネット使い放題だし。ってか光回線だし。
こほん。
その反面、特殊な経験が増えた。
これは悪くなった点だが、この一年半の間に、真樹は三度、命の危険を覚える事件に遭った。
当たり前だが、そんな怪しいコネで入社した会社がまともなわけがなかった。
真樹が就職した編集事務所は、副業として興信所を営んでいたのだ。
というより、そちらの収入の方がメインらしい。一般的な浮気調査や人探しから、少し後ろ暗いお仕事までなんでもござれ。入社から数か月足らずで、真樹も匡とともに案件を任されるようになった。
一つ、例を挙げよう。
それは、失せ物探しの依頼だった。
詳しく話すと長くなるので簡単に省略するが、その依頼を匡とともに遂行しているときに、なぜか顔に傷があったり指が欠けているようなお方たちと鬼ごっこをする羽目になったのだ。
明らかにその筋の方である男たちから逃亡中、さすがにこれはまともな案件じゃないと悟り、真樹は匡と相談して例の失せ物の中身を確認することにした。
すると、中からは白い粉が出現。
挙句には依頼人からも口封じのために追われる羽目になり、決死の鬼ごっこが開始したという感じだった。
その時は匡の人脈(こちらも明らかに893)のおかげで何とか事なきを得たが、一歩間違えばコンクリ詰めで魚の餌になっていたというのだから笑えない。
そんな感じで、命の危険スレスレの事件にあと二つほど遭遇したのだが、そちらは思い出すのも嫌なので真樹は固く口を閉ざしている。
こうしたところは、明らかに『悪くなった』点である。
ただまあ、そんな危険な仕事がホイホイあるわけもなく、事前にやばいと分かるような案件は社長が受けないので、大半は浮気調査や人探しである。……それでも、一年半で三回の命の危険は、さすがに多すぎる気もするが。
そもそも、匡と行動を共にすると、自体がややこしくなることが多いのだ。
匡自身、もめごとが好きな人間だからか、危険な事態になればなるほど、彼は目を輝かせる。「やっべぇ、死ぬ、マジ死ぬ」とか言いながら、満面に笑みを浮かべているような人なのだ。スリルジャンキーほど手におえない中毒者はいない。
そんな匡が、当初は教育係として真樹に仕事を教えていたのだが、実は逆で、真樹は匡に対する体のいいお目付け係ではないのだろうか、と思い始めていた。
実際社長からは、匡の制御係としてあてにされているらしいことを薄々察し始めている。
気付かないふりをした。
さて。
そんな安曇編集プロダクションでの社畜生活も一年半が経ち、いろんな意味で人間的に成長してしまった真樹だったが、その原因となった匡が、唐突に、妙な質問をしてきた。
「なあ真樹ちゃん。パチンコ好き?」
「嫌いです」
藪から棒に、匡が質問を浴びせてくるのはいつものことである。
いつもなら抽象的な話なのが、今日は具体的であるのが気になったが、それ以外に戸惑う点はなかったため、真樹は本心から答えた。
「嫌いです。大っ嫌いです。害悪です。この世からなくなればいいと思っています」
「そ、そんなにか」
あまりの剣幕に、珍しく匡がうろたえた様子を見せる。その新鮮な姿に、なんとなくしてやったりといった気分になる。
しかし、答え自体は本音だった。父親がパチンコ中毒で借金をして、借金取りから逃げる中途で両親が離婚したなどと言う経験があれば、誰だって嫌いになると思う。
もっとも、そんな過去は匡も知らないはずで、「じゃあ」と続けて質問を被せてきた。
「競馬とか競艇は?」
「興味もないです。むしろ反吐が出ます」
お馬さんを見せてあげるとか言われて、父に何度も連れていかれた経験が云々かんぬん。
「それじゃあ、麻雀は?」
「雀荘にいる奴らは、たばこの煙でむせて死ねって思いますね」
オレンジジュースが飲めるとか言われて、煙臭い店に何度も連れられていたなんて言う経験が云々かんぬん。
それらの質問を無下に答えてきたためか、さすがに匡は質問の仕方を変えてきた。
「もしかして真樹ちゃん。ギャンブル嫌い?」
「はあ? 別に嫌いじゃないですよ。興味がないだけです。視界にすら入りません。いえ、それどころか、私の人生には欠片ほども関わりがないでしょうね」
ぶっちゃけ嫌いだった。
大嫌いと言っていい。
パチンコは実害があったのではっきりと否定したが、それ以外にしても、賭け事そのものがあまり好きではない。ゲームは好きだが、そこにお金が関わってくると素直に楽しめなく鳴る。宝くじですら、知り合いが買ったという話を聞くだけであまりいい気がしないくらいである。
そんな真樹に、ギャンブルの話を振ってくること自体が間違いと言えるだろう。
「うーん。その様子だと、ギャンブル狂いになるってことはないかな」
そう匡はぼやくように言う。
どことなく不機嫌そうな様子をちらりと見せてから、彼はようやく本題に入った。
「今、おれが請け負っている案件で、ちょっと面倒なことになってさ」
「面倒、ですか」
いったん作業を止めて、真樹はPCの画面から視線をあげる。
「そういえば近江さん、三日くらいいなかったですよね」
「まー、聞き込みっつーかな。行方不明の調査だったんだけど、多重債務者で足取りがつかみにくかったから、ちょっと手こずったんだよ」
「……多重債務者なら、結果はわかりきってませんか?」
興信所、というか探偵業で一番多い依頼は人探しか浮気調査だ。そして人探しに関しては、失踪者の近況を調べると結果がすぐに分かったりする。今回の場合、明らかに借金苦だ。下手をすると樹海で首を吊っているかもしれない。
それくらいは当然匡も分かっているのか、うなずいて言葉を続ける。
「まあそうなんだが、面白いことにこいつ、借金の返済状況はそう悪くなかったんだよ」
「どういう意味ですか?」
「一つの借金を返すために別の借金を……のループで借金が積み重なるのが、多重債務者の特徴だけどさ。こいつの場合、四年前に一度した借金以上は、まったく増えてないわけ。むしろ、ペースで言えばあと三年以内には完遂できるくらいには減らしている」
「なんだ。真面目だったんですね」
「ところが、定職についていない」
よくなったと思った雲行きが、また怪しくなってきた。
「依頼主は失踪者の親族なんだが、失踪者がどうやって金を返しているのか、不思議だったそうだ。まあ、短期の派遣業務とかはやっていたらしいから、無収入ってわけじゃない」
「でも、定期収入がないんなら、あまり安定しているとは言えませんね」
「その矢先に失踪っていうんだから、そりゃあ気になるというわけだ」
それで……と匡は手前の書類に目を落としながら、話を続ける。
「調べていて余計に訳が分からなくなったのが、これだ」
「ん? なんです、その写真」
出されたのは、雑誌の切り抜きだった。
映っているのが競馬場であるのは一目でわかる。レースが終了した瞬間を、観客席から斜めに撮影するようなアングルで、会場全体が熱狂している様子が映っている。
「これは、失踪者が消える三日前にあったレースなんだけど」
匡は指で写真の人影を差した。
「こいつ。失踪者」
「……楽しそうですね」
大当たりでもしたのだろうか。そこには歓喜を全身で表現した男の姿が映っている。力強くガッツポーズをしている彼の姿からは、失踪するような様子は微塵も感じられない。
「話によるとこのレースは大穴が当たったらしくてな。相応の金額を突っ込んだ奴で、百万くらいの勝ちをやらかした奴がいるらしい」
「それが、その失踪者と?」
「調べていたら、そうとしか思えなくなったな」
そりゃまた、どんな強運だろう。
「ただ、百万単位の金額があれば、残りの総額の半分とまで言わなくても、かなりを削られたはずだ。それなのに、そいつは失踪した」
「もしかして、消されたとか?」
深夜のサスペンス劇場のような話が真樹の頭の中に浮かぶ。大金を当てたとなれば、人間関係の面倒もあるだろう。お金は人を狂わせるとよく言うではないか。
しかし、それに対して匡はかぶりを振って笑い飛ばす。
「おいおい、誰が消すってんだよ。こんなスカピン」
大穴を当てた男をスカピンと言い切った匡は、写真をテーブルに投げた。
「大金と言っても、しょせん百万だ。殺人とかなら、突発的な犯行だから百万程度の金額でもあり得るかもしんねぇが、失踪となると話が違う。口封じするレベルの金額じゃあないな。それに、貸したほうからすれば、黙ってりゃ返ってくる金だ」
「でも、返すのを渋ったのかも」
「コツコツ借金を減らしてきた奴がか?」
それを言われると――確かにおかしい。
いや、そもそも、どうやってその男は、コツコツ金を返していたんだろう。
真面目にお金を返すような人間が、競馬なんてやるだろうか?
「その疑問は妥当だよ。真樹ちゃん」
真樹の疑問に、匡は補足するように告げた。
「とりあえず失踪者のギャンブル歴について調べてみた。そしたら出てくるわ出てくるわ。競馬だけじゃない。競艇に競輪、オートレース。こういう時に恒例のパチンコやスロットに至っては、中毒に近い。派遣の仕事がないときは、ほとんど入り浸ってたレベルだな」
「ま、まさか借金の返済を、全部ギャンブルで勝ってやってた、なんてことじゃ……」
「そうとしか思えない生活態度だよ。これは」
到底信じられる話ではない。
それは匡も承知しているのか、続けて話を進めた。
「基本的には負けが多かったみたいだよ。そりゃそうだ。ああいう公営ギャンブルは、結局のところ胴元が儲けるようにできてる。――けど、それでもたまに勝つこともある。大勝ちして、十万から二十万。そんな金額くらいなら、続けていれば出てくるさ」
「そういうもんなんですか?」
「ま、到底あり得ないが、絶対にないって話じゃない」
そこで――と匡は言う。
「パチンコくらいじゃ、十万くらいがせいぜい。競馬とかでも、本来の大勝ちってのはそれくらいだ。でも、もしもっと、払い戻し率の高い、そして一回の賭け金の大きいギャンブルをやっていたとしたら、どうなる?」
「それは――」
借金返済も、可能ってことか?
いや。
いやいやいや。
だってギャンブルだ。
勝つことがあるってことは、そもそも負けることもあるのだ。負けることの方が多いくらいだ。そんな都合よく勝てるものか。
それに加えて――そんなに払い戻し率の高い賭け事なんて、日本にはないはず。
「まさか海外に行くわけじゃあるまいし……」
「半分正解」
「え?」
「具体的には、グレーゾーンのカジノ」
言いながら、匡は一つの封筒を取り出し、中から書類を出した。
彼が手に持つのは、パンフレットのようなもの。
手渡されたものを見てみると、クルーズ客船のパンフだった。青い海と空を背景に、豪華な客船が日光を浴びている姿が映されている。サングローリー号という名のそのクルーズ客船は、少し前にテレビで特集されているのを見たことがある。
それを差しながら、匡は言った。
「このクルーズ客船の中に、カジノがある」
――この時点で、嫌な予感はしていた。
そもそも、匡がこんな話を、自分に振ってくること自体がおかしいのだ。あの近江匡が、真樹に相談事を持ち込むはずがない。そんなことをしている暇があったら、彼なら一人で解決してしまっているだろう。
とすれば、結果は決まっている。
「なあ、真樹ちゃん」
ニコッと。
悪魔のようないたずら心あふれる笑みで笑いながら――匡は尋ねた。
「ギャンブル、嫌いだよね?」
そしてまた、牧野真樹は巻き込まれる。
近江匡という、逆らいがたい大きな波に、巻き込まれる。
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