中編
「グッモーニンッ!」
朝、僕の一日はたいてい目覚まし代わりのこの声からはじまる。
佐伯さんが勢いよく部屋に飛び込んできて、ぎし、とスプリングの軋む音が響いた。彼女がベッドに体重をかけたのだろう。
「……おはようございます」
「うん。おはよう」
佐伯さんの声が降ってくる。
目を開ければ、僕を見下ろす彼女の笑顔があった。
「……寒い、ですね」
布団から出ようとして、あまりの寒さに思わず躊躇する。昨日佐伯さんが言っていたように、三月に入ってもまだ春の気配は感じられないのだ。
「わたしは平気です。中にあれを着てるので」
自信満々で言う佐伯さん。
「……君、その話をまだ引っ張るんですか」
「む。寝起きのせいか、反応が鈍い」
「寝起きじゃなくても、もう佐伯さんが喜ぶようなリアクションをするつもりはありませんよ」
そもそも防寒着なのだから何も慌てることはないのだ。さすがに僕だって学習する。佐伯さんとの生活もそろそろ一年になろうかとしているのだから。
「さて――起きます」
「うん。朝ごはん、できてるから」
そう言うと佐伯さんは部屋を出ていった。僕も布団を出る。グダグダしていると、その分だけ余裕がなくなっていくだろう。
部屋着に着替えてリビングに出る。
と、壁にかかったカレンダが目に入り、僕は思わずその前で足を止めた。
(あと十日ほどか)
日数を数えて、そう思う。
何のことかというと――三月十四日のホワイトディのことだ。
佐伯さんにはバレンタインディのときにチョコをもらっているので、お返しをしないとと考えているのだが、まだ何にするか決まっていない。目下のところ、学年末考査と併せて僕の課題だ。
「どうかした?」
カレンダを睨む僕に、佐伯さんが問う。
「いえ、何でもありません」
僕はそう答えてから、顔を洗うため洗面所へと向かった。
お返しはできれば自分で、さもなくば誰かにアドバイスをもらって決めて、佐伯さんには当日まで内緒にしておきたい。だが、最終手段として、彼女にほしいものを聞いて、それを買ってあげるかたちでもいいかと思っている。それならそれで外れがなくていい。
それは――。
§§§
登校して、昼休み。
「矢神、あれ決まりましたか?」
弁当を食べ終わったところで、僕は一緒に食事をしていた矢神に問うた。
「……ううん。まだ」
彼は難しい顔をしながら、そう吐き出す。
実は彼も僕と同じことで悩んでいるのだった。――つまりバレンタインディのお返しである。
「宝龍さんと宮崎さんですよね?」
「うん。そう」
矢神の返事は、非常に気が重そうなものだった。
宝龍さんは、もちろんあの宝龍さんである。日ごろ矢神に世話になっているからと、そのお礼にチョコを上げたようだ。因みに、僕も彼女からもらっている。
そして、宮崎さんとは、宝龍さんが一年のときのクラスメイトで、今は最上級生の女子生徒のことだ。SF作家・矢神比呂の熱烈なファンでもあり、それでバレンタインチョコをくれたのだろう。
ふたりに共通していることは、どちらも矢神が苦手としているという点だ。苦手な相手からチョコをもらって、そのお返して頭を悩ませているというのは、何とも非生産的だ。
「あと、姉からももらってるから、そっちも考えないと」
「矢神、お姉さんがいたんですか?」
それは初耳だった。
「うん。空手では僕よりも強くてね。頭が上がらないんだ」
「……まるでよくある家庭の笑い話みたいに言っていますが、怖ろしいことを口にしていることに気づいてますか?」
何せこの矢神、眼鏡で猫背の気弱な文系男子の見た目に反して、空手の有段者で、めっぽう強いのだ。かつて僕と滝沢が喧嘩をしていたとき、矢神が仲裁に入って僕たちを、無傷でボコボコにしたのである。
その矢神より強いとは、いったいどんな女性なのだろう。願わくば、会いたくないものである。
「でも、それならお姉さんへのお礼を参考にできないんですか?」
「姉の場合、それぞれの好みがわかってるから、あまり考える必要がないんだ」
「そうですか……」
それぞれ、か……。つまりふたりか、それ以上の数の姉がいるということであり、全員が全員矢神より強いのか気になるところだが、やはり怖ろしくて聞けなかった。
身内を含めていいなら、僕もゆーみからもらっている。そして、こちらは矢神のお姉さん以上に簡単だ。なにせチョコと一緒にお返しの指定までもらっているのだから。むしろお返し目当てでチョコをくれたのだろう。まぁ、別にいいけど。彼女が僕の妹でいる間は僕も兄らしいことをするつもりだ。……うん? 何か妙な表現になったな。
「こういうときは経験者に聞きましょう。……ほら、戻ってきましたよ」
誰のことかと首を傾げる矢神に、僕は教室の入口を目で示してみせる。
そこには外から戻ってきた滝沢と雀さんの姿があった。
あのふたりが一緒ということは、おそらく何かの委員か生徒会関連の用事でもあったのだろう。……雀さんには私的な用事で滝沢をつれ出せるほどの度胸はないので。
こちらから僕と矢神で視線を送っていると、滝沢も気づいた。手を上げて合図をすれば、彼も片手を上げて寄ってきた。雀さんもだ。
「ふたりそろって難しい顔をしてるな。何か悩みごとか?」
滝沢は、僕たちが頭を突き合わせて神妙な顔をしているのが面白かったのか、どこか苦笑気味。
「ええ。だから、滝沢に相談しようと思いまして」
「滝沢君、バレンタインのお返しって、どんなのがいいと思う?」
僕の言葉の後を引き取って、矢神が問う。
「そんなもの弓月に聞けばいいだろう。年度ごとに彼女が変わる男だぞ」
「人聞きの悪い言い方を。そもそも去年はバレンタインにかかっていませんよ。今年が初めてです。おかげで気の利いたアドバイスどころか、一緒に頭を抱えてます」
なかなかの美男子であるところの滝沢なら、毎年女の子からチョコをもらっているだろうし、お返しを選ぶのもお手のものだろうと思ったのだが。……いや、実際には、滝沢はいきなり僕に振っただけで、不得手だとは言っていないのか。
「男って、もらったらもらったで大変ね」
そこで雀さんが口を開いた。
「人によると思いますよ。僕たちはこういうのに慣れてませんけど」
ついうっかり矢神を巻き込んでしまったが、その彼は苦笑いをしていた。一緒にされたことではなく、僕に同意してのものだろう。
「ところで、雀さん、お返しは何がいいですか? 雀牌ですか?」
「……あたし、弓月君にあげた覚えなんてないんですけど。あと、麻雀の話はしない」
雀さんが半眼で睨んでくる。
「奇遇ですね。僕ももらった覚えがありません」
「ならなんで言うのよっ」
それからくわっと目を見開き、声を荒らげる。
さて、軽い冗談はこれくらいにして。
「僕はそもそも選択肢にないとして――誰かにはあげたんですか?」
「え? い、いや、別にあげるような男の子なんていないし……」
いつも明晰な話し方をする雀さんにしては珍しくしどろもどろになりながら答える。
僕はさりげなく滝沢の様子を窺った。が、彼は自分には関係のない話の成り行きを窺うかの如く、僕と雀さんのやり取りの行方を見守っている。
どうやら雀さんは本当に誰にも上げていないようだ。
「何をやっているんですか。絶好のチャンスでしょうに」
「ゆ、弓月君には関係ないでしょっ。……もう知りません。少しくらい助けてあげようと思ったけど、一生悩んでたらいいわ」
勢いよく踵を返し、どすどすと歩調も荒く去っていってしまった。
「しまった。自ら蜘蛛の糸を切ってしまったか」
「お前も懲りないやつだな」
滝沢が呆れたように言う。
「雀さんはリアクションがいいですからね。からかいたくなるんですよ。これでも親愛の情の表れのつもりなのですが」
「伝わってると思えないけどなぁ」
今度は矢神だ。
確かに伝わらなければ意味はない。気持ちは言葉にしないと伝わらないし、少し言い方を誤るだけでやはり伝わらない。そんなつもりはなかったと言っても後の祭りである。言葉とは難しいものだ。
ホワイトディには普段お世話になっているお礼も兼ねて、お詫びに何か買おう。日ごろのお礼だと言って女性が男性にチョコを贈ることもあるのだ。男がやってはいけない理由はないだろう。お礼がもらえないって? 来年のバレンタインに思い出して、板チョコでもくれたら十分だ。
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【お知らせ】
2020年7月20日より新作ラブコメ『放課後の図書室でお淑やかな彼女の譲れないラブコメ』がスタートしています。
( https://kakuyomu.jp/works/1177354054917289111 )
2年ぶりの完全新作となりますので、そちらもよろしくお願いします。
8/17まで毎日19時更新です。
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