――#16

1.「君は毎日楽しそうですね」

 三月に入り、三学期の終了、ひいては僕の高校二年生という期間の終了が間近となった。

 これはそんなある日、ある朝のひとコマ。


 朝食後、食事の後片付けを終えた佐伯さんは、今は洗濯の最中。かすれたような甘い声で機嫌よく歌いながら、脱衣場とベランダを往復している。学校が近いから平均的な高校生よりも余裕があるとはいえ、短い時間の中で要領よく家事をこなしていく。


 一方、僕はというとそれらを佐伯さんに任せ、リビングの座イスでコーヒーを飲んでいた。ただし、決してのんびりといった調子ではなく、堂々巡りのような考えごとをしている。ここ最近ずっとだ。


「君は毎日楽しそうですね」

「それはもう」


 佐伯さんは迷いなくうなずいた。


「未来は希望に満ちてるから」

「そうですね」


 彼女の返事に僕は笑いながら同意したつもりだったが、それはどこかぎこちなくて、苦笑めいたものになってしまっていた。


 本当にそうならいいと思う。


 僕は先日、ある人からカフェの権利を譲り受け、高校卒業と同時に休業中のその店をこの手で再開させることに決めた。もちろん、ただのコーヒー好きなだけの素人が、決意だけではじめられるほど簡単なことだとは思っていない。


 今は身近な人間から少しずつその話をしている最中だ。いずれは僕のそう広くない人脈を頼りに、現実的な計画を立てていかなくてはいけない。考えれば考えるほど不安だけが募っていく。


「わたしもさ、弓月くんが卒業したら一緒に学校をやめよっかな」


 洗濯ものを干し終え、空の籠を抱えた佐伯さんが言う。


 僕がその現実的な計画とやらを実行に移したとき、そばにいるのは彼女だ。僕は曖昧な言葉ながら、すでにその申し入れを佐伯さんにしている。


「学校に行きながらじゃ十分に手伝えないでしょ?」

「いいえ、君にもちゃんと高校を卒業してもらいます。それどころか大学にも行って下さい」

「えー、どうして?」


 不満げに聞き返してくる佐伯さん。


「うまくいくとは限りませんからね」


 もしかしたらうまくいかない可能性のほうが高いかもしれない。


「何かあったときのために学歴だけはきちんとそろえておいたほうがいいです」

「だったらなおさらじゃない? お店をはじめたばかりのいちばん大事なときにこそ、一緒に力を合わせないと。勉強なんていつでもできるんだから」


 それも一理あるか。

 適切なタイミングでリソースをつぎ込むというのは正しい考え方だ。勉強ならいつでもできるというのも間違ってはいない。それこそ医学部に行けば、一度違う大学を卒業したが医者になるため医学部に入り直した、なんて話は珍しくないと聞く。卒業するころには三十前で、そこから研修医だ。


「まぁ、弓月くんがそう言うならそうするけど」


 と言いつつも、どこか納得しきれていない様子が見て取れる。


「そうするといろいろと遠のくなぁ」

「何がですか?」

「んー、いろいろ? 弓月くん真面目だから、絶対にお父さんとの約束は守るだろうしなぁ。あ、でも、案外ちょっとだけフライングしそうかも。わたしの卒業が確定したしもういいんじゃない、みたいな微妙なフライング」


 佐伯さんは苦笑する。

 ぜんぜん笑えないと思うのだがな。


「何のことかわからないことにしておきますが、君、僕を信用してるんですかしてないんですか」

「もちろん、弓月くんのわたしへの愛は疑ったことはありません」


 きっぱりと言い切った。


「因みに、朝、弓月くんを起こしにいって、そのままあれやこれやしているうちに一時間目に遅刻しちゃうのがわたしの夢です」

「いろんな夢を持っているようですが、それは一生追い続けていてください」


 高校生でそんなことがあってたまるか。


「むー、仕方ない。学生結婚、大学生人妻も夢のひとつだから、そっちで我慢しておくか」

「……」


 まぁ、それなら現実的、か?


 佐伯さんはリビングを出ていった。ひとりになった僕は、再び考えを巡らす。


 僕はもしかしたらこの件に佐伯さんを巻き込むことに抵抗を感じているのかもしれない。もしもこれが、僕が幼いときから抱いていた夢だったならば、もっと自信をもって彼女をつき合わせたのだろう。僕についてきてくれと言えたのだろう。


 だけど、これは償いと自己満足によるところが大きい。果たして、そんなものに佐伯さんを巻き込んでいいものか。


 そして、経営も商売も知らない身で考えていると、これから無謀なことに挑戦しようとしている気がしてならない。様々なことを勉強し、現実を知ったとき、この挑戦はどっちへと転ぶのだろうか。意外と実現可能なのか、それとも思っていた以上に無謀なのか。


 僕はカップに残っていたコーヒーを飲み干した。時間だ。そろそろ学校に行く準備をしないと。


 と、立ち上がろうと背もたれから背中を離したときだった。ふいに後ろからやわらかく抱きしめられた。いつの間にか佐伯さんが戻ってきていたらしい。


「弓月くん、不安?」


 顔を寄せ、彼女は聞いてくる。


「……」


 見透かされていたか。佐伯さんだものな。

 僕は、僕の体を抱く佐伯さんの手に自分の掌を重ね、答える。


「そりゃあ、ね」

「大丈夫だよ、弓月くんなら」

「そう言ってもらえるのは嬉しいですが、残念ながら根拠が弱いです」


 そんな言葉だけで勇気づけられるほど、僕はもう子どもではない。これからのことを実現させるためには、現実を見て、現実的に考えないと。


「じゃあ、『わたしがついてるから』は?」

「……心強くはありますね」


 少なくとも、不安に負けてはいられない気にはなるな。





 私立水の森高校はその区画の角にあるため、その手前には交差点がある。


 僕と佐伯さんは学園都市の広い歩道を歩いて学校を目指すが、まだ登校ラッシュの前とあって同じ方向へ歩く同じ制服の生徒の姿は疎らだ。そして、その交差点に差しかかったとき、路側帯に黒塗りの高級車が停まっているのに気づいた。


 初めて見る車、かどうかは定かではないが、こんなところに立派な車が停まっているというのは、この二年間で初めて見る光景だった。


 気になりつつも通り過ぎようとしたら、僕たちの漸近に合わせるようにして、中から人が降りてきた。高そうなスーツを着こなした、身なりのよい初老の男性だ。明らかに僕たちに用がある様子で近寄ってくる。


「失礼ですが、佐伯貴理華様でいらっしゃいますね?」


 正確には、用があるのは佐伯さんに、のようだ。


 僕たちは顔を見合わせる。


「冴子様のお嬢様である貴理華様とお見受けしたのですが、もしや人違いだったでしょうか?」


 警戒心から返答に窮していた佐伯さんに、彼は再度尋ねた。

 その口から出てきた冴子とは、佐伯さんのお母さんの名前だ。だが、しかし、そのことでむしろ佐伯さんの警戒心は強まっていた。


 彼女は戸惑いがちに答える。


「確かに貴理華はわたしですが……」

「用があるのなら自分から先に名乗るのが礼儀では?」


 困った様子の佐伯さんを見かね、僕が続く。


「これは失礼しました。私としたことが貴理華様とお会いできたことが嬉しくて、つい」


 その人は人懐っこく、それでいて自分の失態を恥じ入るように笑った。


「私は紅瀬こうせ家で執事をしている加々良かがらと申します。私が仕える旦那様――紅瀬怜太郎こうせ・れいたろう様は貴理華様のおじい様にあたる方です。まだお屋敷におられたころの冴子様も存じ上げておりますよ」


 加々良と名乗った彼は、優しげに微笑んだ。


「……」


 佐伯さんは何も言わない。

 察しのいい彼女のことだから、冴子さんの名前が出たあたりから予想はできていたはずだ。


「わたしは母の実家の人たちとは一度も会ったことがありません。話も聞いたことがありません。そんなわたしにいったい何の用ですか?」


 ようやく口を開き、問う。


「はい。ご存知かどうかわかりませんが、先日、旦那様の長男である巧一郎こういちろう様が亡くなられたのです。降って湧いたような交通事故でした」

「え……」


 突然の話に驚く佐伯さん。


 おそらくその巧一郎氏は冴子さんの兄にあたる人なのだろう。佐伯さんからすれば伯父さんだ。彼女が自分で言った通り一度も会ったことはないが、平気な顔をしていられるほど佐伯さんは冷たくない。


 僕はどこかで聞いた話だと思った。


 いったいどこだっただろうか。……ああ、思い出した。アキくんがくる少し前、ニュースで聞いたのだ。資産家の若夫婦が交通事故で亡くなったというあれだ。そうか。あれは冴子さんの実家の話だったのか。


「冴子様が家を出ていかれ、巧一郎様まで亡くなられた今、紅瀬家を継ぐ方がいなくなってしまいました。そこで旦那様が目をつけられたのが貴理華様です。貴理華様をぜひ紅瀬の家にお招きしたいと」


 加々良さんは柔和な笑みを浮かべる。

 きっと彼は心から紅瀬家に仕えていたに違いない。当然、冴子さんにも。その冴子さんが家を出てしまったのは残念だが、その娘である佐伯さんに巡り会えたことがうれしいのだろう。


「あ、あの、母や父は……?」


 佐伯さんが問うと、加々良さんは申し訳なさそうに首を横に振った。


「旦那様は出奔された冴子様にはもう関わらないおつもりのようです」


 つまり佐伯さんだけを迎え入れたいということのようだ。


 それこそ降って湧いたような話に、僕たちは再び顔を見合わせた。

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