6.「もう会えないわけじゃないんですから」
四月から住むことになったこのマンションの一室は、現在、諸般の事情により僕と佐伯さんがルームシェアをしている。
だが、今ここに僕たち以外の第三の人物がいた。
遥か年上の、大人の男性。スラックスにサマーセーターとラフな格好ではあるが、折り目正しい几帳面な性格が垣間見えた。後ろに撫でつけた髪には耳の上あたりに白いものが混じっているが、それでも若々しくエネルギッシュな印象を受ける。体格がいいのもあるかもしれない。
佐伯さんのお父さんだった。
僕と佐伯さんはいつも通りに向かい合って座り、上座に小父さんがいる構図。
小父さんには僕の座椅子を使ってもらっている。僕はフローリングの床の上に座布団を敷いて、そこに正座。そして、佐伯さんはというと、彼女が使っているいつもの座椅子に、不貞腐れたようにもたれている。
重苦しい空気が漂っていた。
テーブルの上には三人分のコーヒーが置かれていたが、それに口をつけたのは唯一佐伯さんだけだった。
「どういうことか説明してもらおうか」
ふたりめとして小父さんがひと口飲み、それをきっかけにして問いを発した。
「その前にお父さんが先よ。どうして手紙と一緒に帰ってきたのか、どうしていきなりここにきたのか。それをおしえて」
しかし、それに反発したかのように、不機嫌全開で佐伯さんが要求した。
「そうだな。それは順番というものかもしれないな」
小父さんがうなずく。
怒っていないわけではないのだろうが、冷静でもあるのだろう。一方的に問い詰めるだけでは話が進まないことも理解しているのだ。大人の態度というものか。
「手紙は読んだか? この夏にロス勤務が終わって日本に帰る予定だったが、もう少し延びそうだということが書いてあったと思うが」
「読んだわ」
佐伯さんがそっぽを向きながら答える、僕にとっては初耳だった。
佐伯さんのお父さんは現在アメリカでの勤務で、この春までは一家でそちらに住んでいたらしい。が、それも近々終わることになり、高校に上がる佐伯さんだけがひと足先に帰国した。それが僕の知る既存の情報だ。
「あの手紙を送った後にいくらかまとまった休みが取れたので、それでこうして帰ってきたんだ。どうやら結果として、手紙と一緒に帰国するかたちになってしまったようだな」
「そんなのメールすればいいだけじゃない。ここにくることもそう。メールも送れない年寄りじゃあるまいし」
「もちろんそうだ。だが、私は肉筆で書く手紙も趣があっていいものだと思っている。異国からの便りなら特にそうだ」
その気持ちは僕にも何となくわかる。便利さと速さこそが常に至上のものではないということなのだろう。
「急に帰れるようになったのに連絡もしなかったのは、お前を驚かせようと思ったからだ。バカなことを考える親だと笑ってくれてもいい」
それに対し佐伯さんは、言われた通りに鼻で笑った。面白くなさそうではあったが。
「さて、じゃあ、次はお前の番だ。どんな生活をしているのかと思ってきてみれば、まさか男と一緒にいるとは思わなかった。これはどういうことか、きちんと説明しなさい」
「……」
言われ、今度はわずかに言葉を詰まらせる。しかし、それこそそれが順番というもので、話さないわけにはいかなかった。
佐伯さんは不動産屋のミスからはじまって、僕たちがルームシェアするに至った経緯を細大もらさず、簡潔に説明する。それを小父さんは、テーブルに両肘を突き、組んだ指を口に当てた構造のまま、目を閉じて黙って聞いていた。
さして長くもない佐伯さんの説明が終わると、彼はまずコーヒーに口をつけた。
「話はわかった」
それから僕を見る。
「弓月君といったね」
「はい」
「契約上のミスがわかったとき、君は身を引くべきではなかったのかな」
「お父さん!」
佐伯さんが声を荒らげ、割って入る。
「聞いてなかったの!? 一緒に住めばいいって言い出したのはわたしよ。弓月くんは悪くないわ」
「もちろん聞いていたよ。まず見知らぬ男女が会ったその日から同居するという時点で言語道断だな。それは、貴理華、お前にも言えることだ」
確かにその通りだ。僕も彼女からその提案を受けたときは面喰ったものだ。
「だからって、必ずしも弓月くんが譲らないといけないわけではないわ。条件ならわたしも同じよ」
「お前はここ以外にどこに行くつもりだ」
小父さんは呆れたように言う。
「その点、彼は多少遠いようだが、実家がある。一旦そちらに引き上げればいいことだ。それに――」
「そうですね。男の僕が譲るべきでした」
その言葉を僕が引き継ぐと、小父さんは少しだけ驚いた顔を見せた。
「……その通りだ」
「何それ」
理解できない様子の佐伯さん。
「こういうときは男が譲るものなんです」
「意味わかんない」
やっぱり納得いかないようだ。
小父さんは話を進める。
「仮にやむを得ない措置として一時的にルームシェアするにしても、その後に新しい部屋を探すなりして、どうにでもできたろうに。どうしてそうしなかったのかね」
問われているのは僕だ。
どうしてそうしなかったのか? その理由は、ある。だが、今この場で言うようなものでもない。
「……申し訳ありません」
結局、ただ謝った。
「お父さん、弓月くんばかり責めないでっ」
「なら、お前にも聞こうか。どうしてこういう事態になっていることを、私や母さんに黙っていたんだ」
「そ、それは……」
佐伯さんは一瞬言い淀む。
「言い忘れたのよ」
「四ヶ月近くもか?」
「……そうよ」
ずいぶん苦しい釈明だ。
小父さんはそれ以上そこに言葉を重ねなかった。かと言って、佐伯さんのあれで納得したわけでもないだろうが。
彼が黙り込んだことで、場全体が沈黙した。
僕はここで初めてコーヒーに口をつけた。すっかり冷めて、温くなってしまっている。
程なく、また小父さんが口を開いた。
「本当は言いたくなかったんじゃないのか」
話の流れからして、それは佐伯さんに向かって発せられたものだ。だが、その言葉は僕をも貫く。どきりとした。ただ単に僕にも言えること、というだけではないのだろうな、やはり。
「……どういう意味?」
僕の内心と同様、狼狽の色を見え隠れさせながら、佐伯さんが問い返した。
「お前たちはどういう関係なんだ」
「……」
小父さんは問いに問いを重ね、一方の佐伯さんは押し黙ってしまった。
「私が入ってきたとき、お前たちは何をしていた?」
「あ、あれはちょっと悪ふざけしてただけ」
「小学生がやるのとはわけが違うだろう」
小父さんはぴしゃりと言った。
荒い語気だ。
それから自分を落ち着かせるためか、コーヒーを煽った。
「年ごろの娘をもつ親としては想像したくない話だが――つまりはそういうことなんじゃないのか?」
彼は直接的な表現は避けたが、要するに僕たちが男女の関係として同棲していたのではないか。そう言いたいのだ。
「違うわ。わたしたちはそんなんじゃない」
「それならそれで問題だな」
ため息混じりの声。
「ああ言えばこう言って! どういう答えがお望みなの」
「どちらにしろ当然あるべき倫理観が希薄だと言っているんだ」
そう言われれば、佐伯さんも口をつぐむしかなかった。
実際、親としては頭を抱えたくなる事態なのだろうな。高校に上がったばかりの娘が男と同棲していたなんて。そこに男女としての関係がなかったとしても、それはそれでやはり問題だ。
佐伯さんは絞り出すように発音した。
「わたしたちはお父さんが考えているような関係じゃない。彼は誠実な人よ。そういうことを一切しようとしなかったわ」
自分の非があることを承知しながらの反抗なのだろう。
「……そうか」
小父さんは重い調子でうなずき、それから僕を見た。
「かと言って、これ以上娘と一緒にしておくわけにもいかない。……出ていってくれるね?」
「……はい」
「お父さん!?」
僕と佐伯さんの声が重なる。
彼女は掌でテーブルを叩くようにして腰を浮かせた。
「わたしが出て行けばいいことでしょう!?」
「だから、お前には行くところがないだろうが」
「弓月くんもっ。弓月くんが出ていくことなんてないっ」
「さっきも言ったでしょう? こういう場合は男が譲るものなんです」
僕は佐伯さんに笑ってみせてから、体ごと小父さんに向き直った。
「このたびは僕の考えの浅い判断でご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」
言ってから深く頭を下げる。
「いや、それについては貴理華も同じだ。君にだけ強くは言えんよ」
「制服や学校のものがありますので、また朝に寄らせてもらいます。荷物は終業式が終わってから引き上げようと思います」
そう告げてから、僕は立ち上がった。入れ替わりに佐伯さんが、脱力したようにすとんと腰を下ろしたのが見えたが、かまわず部屋に入った。
自室で外出着に着替え、とりあえず今いりそうなものを鞄に放り込む。
再びリビングに戻ると、佐伯さんと小父さんは先ほどと変わらぬ位置にいた。小父さんは佐伯さんの話を聞いていたときと似たような構造。ただ、組んだ指は額に当てられていて、思い悩んでいるようにも見えた。
軽く頭を下げてから廊下へ抜ける。
と、
「ま、待って!」
ぱたぱたと佐伯さんが追ってきた。僕は靴を履いたところで振り返る。
「どうするの、こんな時間に出て行って」
「どうしましょうか」
苦笑がもれる。
「気がつけばもうけっこう遅い時間ですからね。下手に家に帰ろうとすると、途中で電車がなくなってしまうかもしれません。まぁ、どこかでテキトーに朝まで時間を潰しますよ」
見れば佐伯さんが今にも泣きそうな顔をしていた。
「そんな顔をしないでください」
「だって……」
「もう会えないわけじゃないんですから。明日もまたここに寄りますし、これからも変わらず同じ学校の生徒ですよ」
会おうと思えばいつでも会える。
「わたし、もっと弓月くんと一緒にいたかった」
彼女はうつむき加減に、つぶやくように零す。
「僕もですよ」
言って僕が肩に手を乗せると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
僕らはしばし見詰め合う。
佐伯さんの長い睫毛が揺れ、その下の大粒の瞳も薄く涙に濡れていた。
そんな彼女を見る僕は、彼女の目にはどう映っているのだろう。みっともない顔でなければいいと思う。
「じゃあ、また明日」
「うん……」
そうして僕は踵を返し、佐伯さんと暮らしたこの部屋を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます