4.「悪い人ではないんですけどね」

 朝、

 登校の準備を整えてリビングに出ると、そこには誰もおらず、我がルームメイトであるところの佐伯さんはまだ部屋にいるようだった。


「佐伯さん、早くしないと先に行きますよ」

「あ、待って待って。もう用意できてるからっ」


 ドア越しに声をかけると、すぐに佐伯さんが慌てた様子で姿を現した。が、その姿たるや……彼女は制鞄を脇にはさみ、あいた手でスカートのファスナを上げながら出てきたのだった。目を覆いたくなるというか、頭を抱えたくなるというか。


「……君、それを用意ができてると言うには無理があります」

「大丈夫。これを上げたらもう終わりだから。……はい、完了っと」

「……」


 いや、まぁ、別にいいのだが。少々なら待つので、次からはそんなはしたない格好で出てくるのはやめてもらいたい。


 それでも準備ができたのは確かなので、リビングを出て玄関へと向かう。


「あんなところで手間取るなんて、少し太ったんじゃないですか」

「失礼な。夏に水着を着るつもりで、ちゃんと気をつけてるんだから。疑うなら触って確かめてみろと」

「遠慮しておきます」


 学校指定の革靴を足に引っ掛け、先に外へ出る。爪先で床を蹴って乱暴な履き方をしていると、一旦閉まったドアがすぐにまた開き、佐伯さんが出てきた。


「と言っても、キャミソールトップに、ボトムもホットパンツだから、そこまで神経質にならなくてもいいんだけどね」

「……」


 そんな話をされても受け答えに困るので、僕は玄関の鍵を鍵穴に差し込みながら黙って聞いていた。まぁ、ゴールデンウィークには過激なことを言っていたが、意外に大人しいデザインのものを選んだようで、少し安心したが。


「と、油断させておいて、実はそれとは別に対弓月くん用を用意していたり?」

「!?」


 思わず動揺のあまり鍵をへし折りそうになった。


「念のため聞きますが……冗談ですよね?」

「さぁ? それは夏のお楽しみ」


 僕が鍵をかけて佐伯さんへと振り返ると、彼女もまた同じようにして体の向きを変え、マンションの階段を下りていった。僕も彼女の不思議な色合いの髪を見ながら、後をついていく。


 それきり佐伯さんはこの話題を二度と口にしなかったので、結局、それが彼女流の冗談なのかわからずじまいだった。





 通い慣れた道を通って学校へ行き、昇降口のところで佐伯さんと一旦別れる。そうと決めているわけではないが、お互い靴を履き替えてからまた合流するのがいつもの流れだ。


 上靴を履き、立ち並ぶ下駄箱の列から抜け出て佐伯さんを待つ。

 程なく少し離れた下駄箱の陰から姿を現した彼女は、クラスメイトらしき人物と一緒だった。


「……」


 男子生徒だ。身長はさほど高くなく、佐伯さんよりもわずかに高いくらい。かわいらしいとまではいかないが、線の細い中性的な顔立ちをしている。


「お友達ですか?」

「うん。同じクラスの浜中君。……で、こっちが弓月くんね。すぐ近くに住んでるから、朝はよく一緒になるの」


 佐伯さんは僕と彼――浜中君に、それぞれを紹介した。


「どうも」

「浜中です。よろしくお願いします。弓月先輩」


 言葉少ない僕に、彼は男子にしては十分に丁寧といえる挨拶を返した。


「じゃあね、弓月くん」

「あ、はい。では、また」


 と、僕。

 失礼します、の言葉を残し、浜中君も佐伯さんとともに去っていった。


「……」


 しばし佐伯さんの背中を見つめてからようやく、今日はいつもと違ってここで別れるのだと理解した。


「あら、珍しいわね」


 そこに不意打ちじみた声。横に立った声の主は宝龍美ゆきだった。


「ああ、宝龍さん。おはようございます」

「おはよう。あの子が恭嗣以外の男と一緒なんて、初めて見るわね」

「そうですか?」


 僕は宝龍さんから、というよりは、この話題から逃げるようにして足を踏み出した。しかし、当然彼女もついてくる。


 確かに佐伯さんが男子生徒と一緒にいるところを見るのは初めてかもしれない。前に変なのにまとわりつかれていたことはあったが。


「でも、まぁ、そういうことだってあるんじゃないですか」

「気になる?」

「まさか。相手はただのクラスメイトでしょう?」


 佐伯さんたちが上がっていったであろう手前の階段は通り過ぎ、今日はもうひとつの階段を使うことにする。こちらのルートでも距離に大きな変わりはない。


「自分のほうがまだ優位に立ってるとでも言いたげね」

「……」

「……」

「僕も僕で単なるルームメイトだから気にする理由はない、という意味ですよ」


 誤解のないように――と僕は付け足した。





「浮かない顔してるけど、どうかした?」


 昼休み、

 部室に行くと言って席を立った矢神と入れ違いにやってきたのは、我らが雀さんだった。


「ああ、実はこの前、麻雀の点棒のかたちをしたヘアピンを見つけたのですが、雀さんに買ってきてあげようかと……」

「いりません!」


 即答で断られた。


「それは残念です」


 尤も、欲しいと言われても困るのだが。


「それはそうと、そんな顔してますか?」

「してるわよ。何か悩み?」


 雀さんは僕に問いかけながら、矢神の席に座った。


「特に何もありませんよ。まぁ、一方で慢性的な悩みを抱えているとも言えますが」

「どっちよ!?」

「いえ、やっぱりないことにしておいてください」


 少なくともつい最近――特に今日の朝に、何か悩みが発生したということはないはずだ。


「でも、気になることはあるのよね、恭嗣は」


 宝龍さんだった。彼女は隣の席の机に軽く腰かけるようにして立つ。


「あ、やっぱりあるんだ」

「ありませんよ、そんなもの」


 思わずむっとして言い返した。雀さんは宝龍さんの言うことなら、何でも正しいと思うから困る。


「そんなことよりも、今日もまた放課後、残るんですよね。例の英語の課題で」

「そうね。ナツコと滝沢君が忙しいみたいだから、機会は逃さないほうがいいわ」

「そうですか」


 僕はしばし考え――そして、立ち上がった。


「ちょっと出かけてきます」

「そう。じゃあ、私もついていくわ」

「……」


 なぜ?


「ごゆっくりー」


 雀さんは雀さんで、笑顔で手を振ったりしている。どうも僕の周りには、僕の欲しないところを施してくれる女の子ばかりいるようだ。


 教室を出て、昼休みの騒がしい廊下を歩く。


「僕がどこに行くか、わかってるんですか?」

「あの子のところでしょう?」


 あっさりと、考える素振りもなく言われた。


 あいかわらず宝龍さんの見えない力は凄まじいもので、彼女を見ると皆、廊下の端まで寄って必要以上に道をあけてしまう。友達同士ふざけてはしゃいでいた男子生徒なんか、すぐ近くまで宝龍さんがきているのに気づくや、慌てて飛び退いていた。


 近くの階段を使って三階を目指す。


「ついてくるのはかまいませんが、佐伯さんの前には出てこないでください」

「あら、どうして? 彼女のため?」

「僕の精神的安寧のためです」


 すかさず訂正。


「あの子、私と恭嗣が一緒のところを見ると、冷静ではいられないみたいだものね」

「そして、それは巡り巡って僕の悩みの種になる。つまりはそういうことです」


 階段を上りきった。


「この際だからはっきり言っておきます。あまり佐伯さんを挑発しないでください」

「……」


 宝龍さんに返事はなく、押し黙ったままだった。


 そうこうしているうちに佐伯さんのクラスに辿り着き、そこで運がいいのか悪いのか、今朝見た顔に出会ってしまった。どうやらどこかに行くところだったらしい。


「えっと、確か浜中君でしたよね?」

「ああ、先輩か。何の用です?」


 しかし、彼は今朝方とは違い、まるで厄介ものと接するかのようにぶっきらぼうな態度だった。僕はわずかに面喰らいながらも続けた。


「佐伯さんがいたら呼んでほしいのですが」

「……」


 彼は何やら面倒くさそうな目で僕を見――程なく、


「……ちょっと待っててください」


 そして、言葉の前にはかすかな舌打ち。彼は転進して教室の中に戻っていった。


「マズいですね。彼、なかなかユーモアのある性格のようですよ」

「そうみたいね」


 宝龍さんも朝の彼を多少なりとも知っていたらしく、唖然としているようだった。


「それはそうと、そろそろ離れててもらえますか」


 僕がそう言うと宝龍さんは黙って肩をすくめ、踵を返した。彼女が階段のところまで戻って陰に隠れたのを確認してから振り返ると、ちょうど佐伯さんが出てきたところだった。


「弓月くんがきてるって、浜中君が」


 だが、その彼女はなぜか口を尖らせ、不機嫌顔だった。


「しかも、女づれで」

「……」


 浜中君め。そんなことまで言ったのか。ますますもって楽しい性格をしている。


「……宝龍さん?」

「彼女もこのあたりまでくる用事があったので、一緒にきたんですよ。もう行ってしまいました」

「ふうん」


 果たしてそれで納得したのかはわからないが、それ以上は追求してこなかった。


「で、どうしたの? 弓月くんがこっちにくるなんて珍しい」

「ああ、そうでした。……今日もまた放課後、例の課題で残りますので」

「……」

「……」

「それだけ?」


 妙な間があってから、彼女は聞き返す。


「そうですが? でも、言っておかないと君、またこっちまでくるでしょう?」

「うん。まぁ、そうなんだけど……メールでもよかったんじゃないかなって」

「……」

「……」

「……」


 ああ、言われてみれば確かにそうだ。


「たぶんあれですね……あ、いや、何でもありません。どうも頭の回転が悪いようです」


 君の顔が見たかったんですよ――本当はそう言おうとしたのだが、口にするのはやめておいた。それは冗談や誤魔化しではなく、たぶん本当のことだったからだ。





 そうして放課後、今日も先日と同じようにいつもの五人が集まっていた。矢神と僕が出席番号の関係で席が前後に並んでいるため、自然とここが中心になる。僕の後ろの席に滝沢が座り、隣の列に宝龍さんと雀さんだ。


 今日は僕たちだけではなく、他に2グループほどいるようだ。


「はい」


 雀さんが挙手。


「どうせならみんなで弓月君の家に行きたいです」


 出し抜けに妙なことを言い出した。


「近いんでしょう?」

「近いのは近いですけどね」


 徒歩十分。だからと言って、人を招くことができるかは別問題だ。むしろ絶対に人の侵入を許してはいけない家と言える。


「さては人に見せられないものがあるのね。不潔だわ。これだから男のひとり暮らしは」

「あ、あのですね……」


 すぐに返事をしない僕を見て、雀さんは何やら愉快な誤解をしてくれたようだ。僕は身の潔白を説明する言葉を探しつつも、目は助けを求めるように宝龍さんのほうを向いていた。


 彼女はかすかに笑ってから、


「じゃあ、ナツコ。今からナツコの部屋にみんなで行っていい?」

「え? いや、それは……。準備も片付けもできてないし……」

「そういうことよ。いきなり押しかけても恭嗣だって困るわ」

「そ、そうですね。……ごめん、弓月君」


 ようやく納得の雀さん。


「またの機会にってことで」


 というのは、もちろん社交辞令だが。


「ま、恭嗣も男だから、隠したいもののひとつやふたつ、あるかもしれないわね」

「……」


 またよけいなひと言を。……ありますよ、大きな秘密が。知ってるくせに。


 ところで、さっきから滝沢と矢神が黙っているのは、やはりとばっちりを喰らいたくないからだろうか。


「それよりも時間が惜しいので、やるべきことをやりませんか」

「それもそうね」


 賛同したのはさっきまで騒いでいた雀さんだ。


「例の英語の課題、矢神のおかげで会話文自体はできてるわけですが――さて、そこで提案です。この英訳は滝沢と宝龍さんにお任せするのはどうでしょう? 学年でもトップの成績のふたりなら、これくらい簡単でしょう」

「ほう、なるほど。適材適所の役割分担だな。……それで、お前は何をやるんだ」

「……」

「……」

「やはりダメですか。ま、凡人の僕としては楽をしたくて試しに言ってみただけなんですがね。因みに、楽ができるのは僕だけでなく、雀さんもです」

「ちょっとぉ、私まで巻き込まないでよ!」


 そんなこんなで結局、まずは会話の中での役を割り振り、それぞれが自分の台詞を英訳した後、みんなで答え合わせをすることになった。





「はい、じゃあ、後はそれぞれ自分の台詞を暗記してくること。近いうちに通しで練習しましょ」


 そうして今日の作業が終わったのは、一時間ほどが過ぎたころだった。


「俺は生徒会室に寄ってから帰るよ」

「あ、私も行きます。聞きたいことがあるので」


 真っ先に滝沢が立ち上がり、それに雀さんが続いた。クラス委員のふたりが出て行った後、僕と矢神と宝龍さんも自然とかたまって一緒に廊下へ出る。


 と、そこに佐伯さんがいた。


 まずは僕を認め、それから宝龍さんを真剣な顔でじっと見つめた。宝龍さんも視線を返す。胃が痛くなるようなシチュエーションだ。


 しばらく見合った後、宝龍さんは深いため息をひとつ。


「矢神君、部室によるわ。つき合って」

「え? あ、はい」


 矢神は飛び上がらんばかりに驚き、返事をした。


「そういうわけだから、恭嗣、また明日ね」


 そう言って宝龍さん(と矢神)は、この場を離れようとする。


「なんですか、それ。余裕ですか?」


 しかし、それを佐伯さんが呼び止め、むっとしながら問うた。


「別にそんなのじゃないわ。でも、そうね。余裕というなら、あなたのほうは少し余裕がないんじゃない?」

「……」


 佐伯さんはぐっと言葉を詰まらせる。そして、宝龍さんは彼女の口からもう反論は出てこないと見切ると、改めて足を踏み出し、去っていった。


「先に帰ってればよかったのに」


 宝龍さんと矢神が十分に離れてから僕は口を開いた。佐伯さんの登場以来、初めての発言だ。


「余裕ないから」

「……」


 それを僕に言われても困るのだが。


「まぁ、今さら言っても仕方ないです。帰りましょうか」


 僕が歩き出すと、佐伯さんも黙ってついてきた。


 さすがに終礼終了から一時間以上も経っているだけあって、廊下にはほとんど誰もいなかった。まれに僕たちみたいに教室に残っている生徒もいるようで、開いたドアから姿が見えたり、閉め切られたすりガラスの向こうから声が聞こえたりする。


「わたし、やっぱりあの人のこと好きになれないかも」


 僕の横で佐伯さんが不貞腐れたように言う。


「そうですか。悪い人ではないんですけどね」


 確かに頭の回転が速いから、独特の考えをすることはある。それに観察力があるようで、少々人の心に踏み入り過ぎることもある。だからと言って、悪気があるわけではないのだ。


「弓月くん、あの人の味方するんだ」

「別に誰の味方だ誰の敵だというわけではありませんよ。ただ単にそう思ってるだけです。去年一年同じクラスでしたし、かたちだけとは言えつき合っていたこともありました。知り合ってからけっこうたちます」

「ふうん」


 返事はそれだけだった。


 歩きながら隣を見ると、彼女は思いつめたような顔をしていた。果たして何を考えているのだろうか。少なくとも僕の言ったことを納得してはいないようだった。


 仲よくしてほしいとまでは思わない――それはそれで恐ろしい事態のような気がするので。だが、もう少しどうにかならないものだろうか。誰かと誰かの仲を取り持つために東奔西走するというのも得意ではないし。頭の痛い状況だな……。

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