第21話 ㊴

 瞳の体がぐったりと脱力してからも、しばらくの間、美奈は首から手を離さなかった。

 美奈の手にはもう、息を吸おうと動く喉の感触も、脈動しようとする血管の感触も、伝わってこなかった。

 美奈は瞳の首から手を離すと、瞳の体を床に下ろし、立ち上がった。この後どうするかは、もう決まっていた。美奈は教室を出て歩き始めた。学校の屋上へ向かって。

 体力を消耗したのか、足取りは少しふら付いた。

 ――なあ、君、気は変わらないか?

 精神の背後で声がした。もうすぐすべてが終わると思うと、不思議と恐怖も嫌悪も感じなかった。

 ――私の能力があれば、結構、好き勝手なことができるよ。私達が協力すれば、案外、楽しい生活が出来ると思う。どうだい、二人殺してみて、思ったより楽しいと思わなかったかい?

 美奈の魂がまだ眠っていた時、意識はなかったが、他の魂達がしていた会話は記憶として残っていた。今、美奈の精神の背後で喋っている魂のことを、他の魂がこう評していた。

――カナロってさ、頭良い振りして案外馬鹿だよね。

 そうかもしれないな、と美奈は思う。

 美奈の中学の屋上は解放されていた。その代わりに、高いフェンスに囲われている。

 屋上に着いた美奈は、フェンスを昇り始めた。まだ校庭にいた生徒達が、美奈の存在に気付いて声を上げ始めた。校庭には警官の姿も見えた。

 ――どうしても、気は変わらないかい? そうだ、これを聞いたらどうだい? 君が好きなあの女教師だがね……生きているよ。

 フェンスの外側に下りて、今にも身を投げ出そうとしていた美奈は、動きを止めた。

「どういうこと」

 ――私にもよくわからないがね、タンゲラの気まぐれだよ。君に楽しませてもらった彼女からのお礼じゃないか? あの女教師の怪我を、治していたのさ。

 あの時だ、と美奈は思った。瞳に金属棒で背後から殴られる直前、窓から沙月を見下ろしていた。

 ――どうだ、もう一度、彼女に会いたいと思うだろ? ここで死んでしまったら、彼女と話したりすることも二度と出来ない。

 美奈の心の中に、喜びが満ち溢れた。沙月が生きている、それが心の底から嬉しかった。

 しかし美奈は、精神の背後から聞こえる声に従って、フェンスの内側に戻ろうとはしなかった。最初、美奈は沙月と同じ教室の窓から外に跳ぼうかと思った。しかしそれを止めて屋上まで来たのは、結果を確実にするためだった。もう決めたことだった。変更はない。

 二度と会えなくても、沙月が生きているというだけで十分だった。沙月のこれからの人生に、幸せの満ち溢れることを美奈は願った。

 美奈は、最後に、あの微笑みを浮かべた。沙月から貰った、あの微笑み。美奈にとって、この世界で生きるための、希望だった微笑み。鏡を見なくても、上手く微笑めているのがわかった。

 ――ゲームオーバーか。

 精神の背後で、ため息が聞こえた。

 美奈の体が、宙を舞った。

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