第20話 ㊲~㊳

 美奈は絶叫した。

 それは予想していなかった痛みだった。仮に予想していたとしても、叫ばずにはいられなかっただろうが。

 一度、押し潰された喉から出る叫びは、少ししわがれ、割れていた。

 床と金属棒に挟まれて、美奈の人差し指の先は潰れている。爪が砕け、既に血で濡れている床に、新たな鮮血を補った。金属棒が指から離れる。指先の肉は裂けないまでも、青黒く変色し、内部では骨が砕けていた。

 瞳が再び金属棒を持ち上げる。美奈は慌てて拳を握った。指先を隠すように強く握る。構わず金属棒が振り下ろされる。中指の先の関節の傍を金属棒が突いた。指先を潰された時よりも鈍く重い痛みが美奈を襲った。強烈な苦痛に美奈の顔が歪む。

「そう、その顔」

 瞳が呟く。瞳が、美奈の顔をじっと見ている。

「あなたは、そういう顔をして死んでいかないと駄目なの」

 歪んだ美奈の顔。そこに、もうあの微笑みの面影はなかった。

 これが正しい姿だと瞳は思った。奪われる者は恐怖と苦痛に顔を歪め、そして奪う者が……。

 再び金属棒が振り上げられる。美奈は自分の握り拳が解けているのに気が付いた。

 先程、金属棒が当たった中指がパンパンに腫れ上がっていた。ちゃんと曲げることが出来ない。指先を隠すことが出来ない。

 次に起こる恐怖を予感しながら、美奈は瞳の顔を見た。

 瞳の顔に、いつもの微笑みが浮かんでいた。

「私はあなたの苦しむところが見たいんだから」

 瞳が金属棒を振り下ろした。


 もはや声も出なかった。息が止まって、美奈は痛みにひたすら耐えることしかできなかった。涙がどんどん滲み出て来る。

 瞳が美奈の手首を離す。すぐに胸の前に手を引っ込め、左手で隠すように覆う。やがて、ゆっくりと、指先に目をやる。爪が砕け、二回り以上も太く腫れ上がった人差し指と中指。

 指を見る美奈の首元に、瞳の手が伸びて来る。首を掴み、ゆっくりと締め付け始める。

 首を圧迫されながら、美奈は瞳の顔を見る。

 瞳が微笑んで美奈を見下ろしている。

 それは、美奈が何度も見たことがある、瞳の表情だった。しかし、あの弱々しい瞳の姿を見た後で改めて目の前にすると、酷く異質なものに思えた。

 今、美奈の首を絞めて微笑む瞳と、教師の下敷きになって泣いていた瞳を、一つに結びつけることが出来ない。先程まで、泣いていた瞳が、必死な表情で美奈に襲い掛かって来ていた瞳が、急に普段の悪魔の微笑みを取り戻した理由が美奈にはわからなかった。

 まるで、美奈と同じように、瞳にもいくつもの魂があって、それが入れ替わっているかのようだった。

 もちろん、美奈は瞳の中にも複数の魂があるなどと、本気で思いはしなかった。瞳の微笑みは、瞳がずっと前からし続けてきた表情だ。それを取り戻しただけのことに過ぎない。

 しかし、美奈の頭の中で、瞳の言った言葉が反芻されていた。

「私はあなたの苦しむところが見たいんだから」

 美奈はその言葉と酷く似た言葉を、絶望しながら聞いたことがあった。

 それは理科室で、美奈の魂が目を覚まして、自分の中にいる化物達を説得しようとした時だった。

 化物は言った。

「私達は、君達が苦しむ姿を見たいだけなんだ」

 美奈の首を絞めながら、瞳は微笑んでいる。

 美奈の魂からは、美奈自身姿は見えない。鏡でもなければ、自分で自分の姿が見られないのは当然のことだ。だから美奈の魂は、自分以外の魂が美奈の肉体を操っている時も、美奈の顔がどんな表情をして相手を苦しめているのか、確かに知ることはできなかった。

 しかし今、瞳の顔を前にして、美奈は自分の中の化物達も、こんな顔をして人を殺していたのかもしれない、と思った。

 美奈の中で、化物達と瞳が、重なった。

 呼吸と血流を阻害されて、再び靄が掛かっていく頭で、美奈の思考は不定形に歪んで混乱し始める。いくつものイメージが浮かんでは消えていく。

 目の前で微笑んでいる瞳。同じように微笑んで、美奈の秘密の手帳を読んでいる瞳。その傍で芽以に上に乗られ押さえ付けられている美奈。今、瞳に上に乗られ首を絞められている美奈。苦痛に表情が歪んでいるのが自分でもわかる。目から涙が零れ出している。教師の下で泣いている瞳の姿。教師に侵入され、声を殺して耐えている瞳。深夜のベッドの上で、同じように耐えている美奈。笑い声。美奈の口から溢れ出している笑い声。赤、赤、赤、赤、沢山の赤い血の光景。笑っている美奈。美奈の上で首を絞めて微笑んでいる瞳。美奈の上でカッターを振り上げている理子。メスを持って伸びる美奈の手。降りかかって来る赤い血。理科室。怯えた顔の沙月。腰を抜かしたまま、美奈から逃げるように後ずさって行く。化物を見る目で、美奈を見ている。生徒達を金属棒で殴り殺していく沙月。同じ金属棒で美奈を殴る瞳。そして今、馬乗りになって美奈の首を絞めている瞳。

 一体、何と何が繋がって関係していて、誰と誰が同じで、誰と誰が違うのか。美奈には、まるでわからなくなる。

「あなたと私は違う」

 美奈の上で、瞳が言った。

「あなたは、私の持っていないものを、全部持っている。不自由のない生活、温かい家、優しい家族、気に掛けてくれる人、誰からも愛されて、幸せになるために生まれてきた」

 瞳の手にさらに力が込められる。

「全部全部、奪ってあげる。全部全部失って、あなたは私と同じところに堕ちて来るの」

 一層鮮やかに、瞳が微笑む。

 瞳の言葉を聞いて、美奈の中に、不思議な笑いが込み上げてきた。瞳が、一体、誰のことを言っているのかわからなかった。何もかもが滅茶苦茶だった。薄れていく意識の中で、美奈は瞳の言葉を否定していた。瞳は、美奈と瞳は違うと言ったが、やはり、美奈と瞳は、きっと同じなのだ、と思った。

 自然と、美奈の手が瞳の首に伸びていた。まるで瞳の模倣をするように、瞳の首を絞める。

 その行動が、朦朧とした思考力のせいなのか、ちゃんとした判断の結果なのかわからない。ただ美奈は、もう全て終わりにしようと思った。自分が死ねば、この悪夢のような全ては、終わりになる。そしてその自分の中には、瞳も含まれていた。瞳と美奈は、同じなのだから。瞳の首に手を触れて、美奈は自分の首を絞めようとしていた。

 美奈の突然の行動に、瞳は驚いた。美奈の腫れた指の熱が首に伝わる。思わず瞳の手が一瞬緩んだ。美奈は尽きかけていた酸素を、一呼吸分、補うことが出来た。

 だとしても、馬乗りになっている瞳の首を後から絞めた美奈が、先に瞳の命を奪うなどということは、奇跡でも起きなければあり得ないことだった。

 それでも美奈は微笑んだ。死の恐怖も、指の痛みも、消えたわけではなかった。しかし、目の前にいる自分に、あの微笑みを捧げたかった。

 微笑んだ美奈を見て、瞳の心はざわついた。怒りが生まれた。しかしそれは微かだった。瞳はその僅かな怒りを奮い立たせようとした。だけれども、瞳の心をじわじわと侵食し始めたのは、怒りではなく、恐怖だった。

 瞳の微笑みは、その実、必死の表情だった。自分を保つための、美奈の前で、惨めにならないための、精一杯の虚勢だった。瞳の体の上から教師の体が退けられた後、涙で濡れた目で美奈を睨み首を絞めた、あの形相よりも、ずっと必死な表情だったのだ。

 美奈の、薄ら笑い。顔面を潰し、叩き壊しても消えなかった笑い。教師の体が退かされて、首を絞めた時も、すぐにまた微笑みを浮かべた。指を潰して、美奈が絶叫した時、ようやくその笑いを引っぺがすことが出来たと思った。

 二本目の指を潰されて、その苦痛を味わう美奈の表情は、決して演技とは思えなかった。胸の前で指を隠して、瞳を見つめるその顔には、確かに心の底からの恐怖と当惑が滲み出ていた。その表情のまま死んで行けと、瞳は願った。

 眼球を突き刺されても笑い続けた美奈が、その程度のことで本当に痛みを感じているのか、不安は拭いされなかった。内心に溢れる不安と恐怖を噛み殺して、瞳は微笑んだ。顔を歪ませるのは美奈で、笑うのは瞳でなければならなかった。微笑むのは、奪う者だからだ。美奈が微笑むたびに、瞳は何かを奪われているような気がした。全てを持っている美奈が幸福に微笑む時、瞳は自分が何も持っていないことを、突き付けられている気がした。それが瞳は、怖くてたまらなかった。

 首を絞められながら、しかし美奈は、再び微笑んだ。

 自分にはこの微笑みを、消し去ることはできないのかもしれないと、瞳は思った。激しい恐怖が巻き起こった。しかし瞳はそれを認めなかった。瞳は微笑みを絶やさなかった。内心の動揺が表に現れないように、微笑みを維持し続けた。

 しかし、心の乱れは瞳の体に確かに現れていた。瞳の体は無意識に、微かに震えだしていた。指先は痺れ、力を込めているつもりで、図らずも首の締め付けは緩んでいた。

 早く死ねと瞳は念じた。美奈の手に首を絞められ、瞳もどんどん苦しくなっていく。美奈も苦しいはずなのに、その微笑みからは苦痛の色が感じられない。そして柔らかく微笑んだまま、美奈の手は万力のように瞳の首に食い込んでくる。

 この化物は、何度でも蘇る。蘇る度に殺してやると、そう思った。しかし本当に、そんなことできるのだろうか。こうやって首を絞め合って、仮に今、瞳が勝って美奈を殺しても、この化物は、また平気な顔をして起き上がり、微笑みを浮かべるに違いない。

 瞳の意識も、段々朦朧として来る。死が体感として近付いて来るのがわかる。思考は歪み始め、感情だけが際立って乱れだした。瞳の中で、純粋に恐怖の感情だけが弾けた。

 瞳の手が美奈の首から離れた。自分の首を絞めている美奈の手を外そうと掻き毟る。瞳の爪が食い込み、美奈の手の甲の皮膚を幾筋も裂いた。瞳の顔からはもはや微笑みは消えていた。しかし美奈の手が少しでも緩むことはなかった。

 意識が飛ぶ直前、瞳は美奈の顔を見た。相変わらず、美奈は微笑みを浮かべていた。

 全身から抜けていく力と、消えていく意識の中で、最期の時を悟った瞳は、人生の終点に、自分が浮かべるべき表情を、美奈に見せるべき表情を選択した。瞳は柔らかく、微笑んでみせた。

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