第19話 ㉟~㊱

 床に広がる血に浸かって、美奈の魂は肉体を取り戻した。顔面の傷は既に塞がっており、体には痛みや異常は感じられない。嘘のように、あるいは馬鹿にされているように、体は問題なく動いた。

 ただ、肉体の重力から解放された魂で過ごした後に戻る肉体は、やはり少し重い気がする。

 ――元々、君の肉体だから君の魂と親和性が非常に高い、ということかな。そういうことにしておいてくれたまえ。そうでもなければ、私のプライドが保てない。一応ベテランなんだよ。私は。

 美奈の精神の背後から、呆れたような声がする。

 うつ伏せに倒れ込んでいる体を起こす。体の前面が真っ赤な血で湿っている。床に接触していた顔の右半分にも血がこびり付いている。

 美奈は顔を上げて、瞳の方を見る。

 瞳の傍に立っていた教師は完全に床に倒れている。瞳に挿入していた教師も、完全に体勢を崩して、瞳を下敷きにしてうつ伏せに倒れていた。覆いかぶさる教師の体の影になって美奈からは瞳の顔が見えず、様子がわからなかった。

 美奈は立ち上がり、血を踏みしめて瞳に近付く。

 美奈は一瞬驚いて足を止める。瞳の傍に倒れている教師が、目を見開いて美奈を見つめていた。美奈は内心身構えたが、教師が動く気配はない。もはや呪文のような声も出しておらず、微動だにしなかった。

 やがて美奈は自分を見つめているように思えた教師の目が、ただ見開かれているだけで、何も見ていないことに気付いた。美奈が体を動かしても、目は美奈を追おうとはしない。止まったまま、何の反応も示さない。何の表情もそこには見いだせない。

 目を見開いたまま、教師は死んでしまっているのかもしれないと美奈は思った。しかし、教師の口元の床に零れている血の表面が、微かに光の反射を揺るがしているのに美奈は気付いた。気絶しているだけかもしれない。

 ――君のせいだぞ。

 精神の背後で声がする。

 ――君が無理矢理、私の操作を中断するから。この教師共はこれから一生廃人だよ。その辺のこと、わかっているかい?

 それを聞いて、美奈はむしろ安心した。この教師が自分に襲い掛かって来ることはなさそうだ。今は罪悪感よりも、瞳の安否が気になった。思い切って、教師の下敷きになった瞳の元に近付く。

 ――チヨクロに教えてやらないとな。自分勝手な女はタンゲラに限らないって。

 精神の後ろで、呆れたような声。

 教師の下の瞳は、手で顔を覆っていた。重いだろうに、教師をどかそうともがいてはいなかった。押し殺した声が、微かに美奈の耳に入る。瞳は泣いているに違いなかった。

 美奈は胸が締め付けられる思いだった。瞳が泣いているところなど、今まで見たこともなかったし、想像したことさえなかった。いつも、泣くのは美奈の方だった。

 それが今、目の前にいる瞳は、まるで美奈と同じように、無力な少女そのものだった。

 瞳に釣られて美奈も涙を零しそうになる。強烈な空しさともの悲しさに美奈は支配された。一体、今日、何が起こったというのか。結局ただ、力のない者が、良いように弄ばれた、それだけのことだった。

 美奈も瞳も、芽以や理子や沙月も、皆、同じだった。美奈はそんな風に考えたことは、今まで一度もなかった。しかし皆、同じ無力な人間だったのだ。

 美奈は瞳の上に覆いかぶさった教師の体を退けようとした。完全に脱力した大の大人の体は重かった。美奈が教師の体を揺り動かしても、下の瞳は顔を覆ったまま、静かに泣き続けるばかりだった。

 重い体をずらし、最終的には転がすように、瞳の上から退かす。

 仰向けに転がった教師の下半身で、ぬらぬらと濡れた陰茎が揺れる。透明なぬめりの中に、白濁と鮮血の色を交えている。

 美奈は教師の下半身から即座に目を逸らす。すると瞳の下半身が目に入った。こちらの方が、見るのが辛かった。

 瞳の陰部から、どろりと白く濁った粘液が垂れ零れている。教師の体が離れて、蓋が空いたように、辺りに生臭い匂いが漂う。大輔の顔、感触、上履き、芽以の顔。嗅覚を刺激されて、美奈の中でいくつもの記憶が明滅する。

 間に合わなかった、と美奈は悔やむ。もし、もう少し早く、体を取り戻していたならば。

 美奈は最初、ただ茫然と襲われる瞳を眺め、その光景を許容していた。あるいは理子の時も、やはり自分はそうやって目の前の光景を見過ごしていたのかもしれない。

 同じことを繰り返している。自分は一体何をしているのだろうかと、情けなくなって来る。美奈は顔を覆って泣いている瞳に掛ける言葉を持たなかった。瞳を慰める資格も、自分にはない気がした。

 それでも、美奈はそっと手を伸ばした。瞳の顔を覗き込み、その肩を撫でようとした。あるいは美奈は、瞳の肩を撫でることで、自分自身の肩を、撫でようとしていたのかもしれない。

 しかし、美奈の手が瞳に触れる前に、瞳の手が美奈に触れた。顔を覆っていた手が不意に動いて、美奈に伸びた。

 瞳の両手が、握り潰さんばかりに、美奈の首を絞めつけた。


 突然の出来事に、美奈は反応できなかった。

 涙で濡れ、赤くなった目で、瞳が美奈を睨みつけている。その表情から、憎しみ以外の感情を読み取ることは難しい。

 ああ、そうか、と酷く落ち着いた心で美奈は思った。瞳にして見れば、美奈の肉体の中で、魂がころころと入れ替わっていることなど、想像もつかないだろう。つまり、瞳にとっては、犯される瞳を笑って見ていた美奈も、美奈の魂が入っている今の美奈も、同じ美奈に過ぎないのだ。同じ、化物に過ぎないのだ。

 瞳の指が、美奈の喉に食い込んでくる。呼吸が出来ないということだけでなく、喉を圧迫されるということ自体が強い苦痛を伴っていた。しかし、美奈はもうそれに抵抗しようとはしなかった。

 殺されることが嫌だとは思わなかった。むしろ、自分はもう死んで然るべきだと思った。元々、死んだはずの人間なのだ。それが、どうしてか生き延びて、全く大変な騒ぎを起こした。自分はこのまま、死んでいくべきなのだ。そうしてすべて終わりにすべきなのだ。

 ――ものは相談だがね、私と入れ替わらないかい? 正直言って、殺されると困るんだよ。タンゲラはもういないからね。傷を治したり、死んだ肉体を生き返らせたりできるのは彼女だけなんだ。

 精神の背後から聞こえる声を、美奈は一切無視した。

 ――私と入れ替われば、そんな少女は問題にならない。そもそも君の敵だろう? 君が望む死なせ方をさせてあげるよ。

 瞳に殺されるということについて、美奈には全く不満がなかった。確かに、瞳は美奈にとって敵だった。端から見れば、結局その敵に負けて、殺されていくように見えるかもしれない。しかし美奈はもう知っていた。瞳が敵ではなく、自分と同じ無力な人間であることを。

 今の美奈には、瞳に対する恨みなど微塵もなく、むしろ申し訳なさを感じていた。教師達に犯される瞳を、救えなかったこと。

 精神の背後で、ため息が聞こえた。

 美奈の魂から無理矢理、肉体を奪おうとしても、それは不可能だとわかっているのだ。今、美奈の魂と肉体は、まるで溶け合って癒着しているように強く繋がっていた。美奈自身、それを感じていた。何をされても、もうこの肉体を渡す気はない。

 ただ、死ぬ間際に意識が遠のいて、その隙を突かれることは避けなければならなかった。出来る限り、死の直前まで、意思を保たねばならない。呼吸が止められ、血液の流れも阻害され、苦痛はどんどん高まっていく。同時に頭はぼうっとしてくる。それでも、必死で意識を繋ぎ止める。苦痛と、死の恐怖から、逃げてはならない。

 目を閉じて、意識が薄れていくのに、任せたくなる。もう少しだけ頑張る勇気と力を、美奈は願った。

 沙月の顔が浮かんだ。あの、微笑みが。

 死を目前にして、美奈の中に、微かな幸福感が滲み出した。美奈は、ゆっくりと表情を動かした。あの、微笑みに。

 その表情は、死にゆく自分が浮かべる、最上の表情に思えた。同時に、目の前の瞳に、自分と同じように無力な瞳に、捧げる表情としても、それは相応しく思えた。

 美奈を睨みつけて、瞳は手に全霊の力を込めていた。美奈を殺すことだけに意識は向けられていた。首を絞められた美奈が、まるで抵抗しないことも、もはや気にならなかった。

 しかし、美奈の浮かべた微笑みが、瞳の集中を乱した。

 今にも瞳に殺されようとしている美奈が、微笑んだ時、瞳の中に、今突きつけている殺意とは別の、激しい怒りが沸き上がった。

 瞳が今、美奈から命を、全てを奪おうとしているのに、目の前の美奈の顔は微笑んでいる。まるで何も失わないかのように。

 むしろその微笑みには、ある種の慈愛さえ感じられた。困った子どもを、受け入れ、あやす母のような。

 奪おうとしているのは瞳の方なのに、今、立場が上なのは、瞳のはずなのに、どうしてそんな微笑みを浮かべる余裕が美奈にあるのか。

 それはやはり美奈が、瞳の持っていないものを持っているからなのだと、そう突き付けられているようだった。瞳が望んでも手に入らないものを、全て持っているから、美奈はその微笑みを湛えることが出来るのだ。

「あああああああっ!」

 叫び声を上げて瞳は美奈を突き飛ばした。

 死を覚悟し、受け入れていた美奈だったが、手から喉が解放されると体は酸素を求め即座に息を吸い込んだ。

 体の意識が呼吸に奪われたことと、全く予期していなかったこともあって、瞳に突き飛ばされた美奈は体勢を保つ間もなく、あっさりと床に転げた。そのまま荒い呼吸を繰り返す。押し潰された喉は、手が離れても、呼吸する度に痛みが走った。

 美奈は瞳の行動の理由がわからなかった。もうあと一歩で殺せた美奈を、どうして突き飛ばしたのだろうか。

 美奈を殺そうという気がなくなったのだろうか。だとするなら、全く唐突な心変わりだった。

 瞳が美奈を突き飛ばしたのは、美奈が微笑んだ直後だった。あの微笑みが、瞳の中の何かを変えたのだ。しかし、あの微笑みが瞳の中の善心を揺り動かしたと思う程、美奈も自惚れてはいない。実際、美奈を突き飛ばした瞳の手には、未だ美奈に対する敵意が含まれていたように思えた。

 では、何故。荒い呼吸と喉の痛みの中で、死の恐怖から離れて次第に思考が冴えて来る美奈の脳裏に、ふと一つの考えが浮かんだ。

 怖く、なったのだろうか。

 それは、美奈の瞳に対する認識が、以前のままだったなら決して思いつかない考えだった。以前の美奈は、瞳はいつものように微笑んだまま、人だって殺せるのだろうと思っていた。瞳が、人を傷付けることを恐れるなんて、想像もできなかった。

 しかし、今は違う。美奈は、瞳がその実、自分と同じように弱い人間であることを知っている。だとするなら、いざとなって、殺す相手の微笑みを見て、人を殺すということが怖くなってしまうということも、そういう弱さも、瞳にあり得るのではないだろうか。

 そこまで考えた時、まだ床に倒れている美奈に、瞳が近付いてきた。そのまま瞳は美奈の上に覆いかぶさるように、馬乗りになる。

 美奈は荒い呼吸をしたまま、自分の上になる瞳を見つめる。抵抗はしなかった。一度美奈を殺すのを止めた瞳が、次に何をするかわからなかったが、仮に再び殺されるとしても、既に受け入れたことだった。

 そこで美奈は、いつの間にか瞳が、あの金属棒を拾って手に持っているのに気が付いた。絞殺を諦めて、金属棒で殴り殺す気だろうか。

 美奈は、先程、瞳が自分をその金属棒で殺したことを思い出した。その時、美奈の肉体を支配していたのは、美奈の魂ではなかったが。

 一度やった殺し方なら、手で直接ではなく道具を使った殺し方なら、恐怖を超えて相手を殺すことが出来る、そう判断したのかもしれない、と美奈は思った。そして絞殺よりも惨たらしい、あの殺され方を再び自分がされると思うと、心の奥底に恐怖が滲んでこないわけにはいかなかった。

「笑うな」

 瞳がぽつりと言った。

 不意に短く零した言葉だったので、美奈は殆ど聞き逃した。今、瞳は何と言ったのだろうと思考が動いた時には、もう瞳は行動を始めていた。

 美奈の右手首を床に張り付けるように押さえる。手の平が天井を向いた状態で固定された美奈の手の上で、逆手に持つようにした金属棒を振り上げる。殆ど間を空けずに、振り下ろす。

 金属棒が、美奈の人差し指の先を潰した。

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