第18話 ㉞

 コンクリートの地面の上で、血を流して動かない沙月を見下ろした時、美奈の魂も、教室の窓からゆっくりと落ちていく気がした。

 その時、美奈の体を操っていたのは、美奈の魂ではなかったが、精神の背後から、沙月を見つめた美奈の魂は、一度死んだ日のことを思い出した。

 あの日、マンションから飛び降りた美奈が、今、窓の下の横たわっている沙月の死体に重なる。美奈の魂は自分が再び死んだように感じた。

 美奈の魂は、もはや感情を失い、ただ茫然と世界を眺めていた。飛び込んでくる情報を、ただ受け流すだけの管になってしまったようだった。

 瞳が美奈の脳天を打ちすえて現れた時も、体の主導権を持たず、痛みの伝わらない美奈の魂は、慌てもせず、目の前の出来事をただ受け入れた。

 瞳が突き刺すような目で美奈を睨みつけ、金属棒を振り回しても、美奈の魂は恐怖も危機感も覚えなかった。ああ、すごく怒っているな。他人事のように、そう思っただけだった。

 全ては、美奈の魂にとって、自分と関係のない場所で行われていることに思えた。美奈の魂の、死んでしまった心は、もうこの世界に居場所を求めなかった。

 瞳にどれ程自分の肉体が破壊されようと、どうでも良いことだった。逆に、美奈の体の中に入っている他の魂が、瞳に対して何を仕掛けようと、それは美奈の魂が何か感知すべきことではない。もはや瞳に対する怒りや憎しみと言った感情を起こすことすらが、億劫だった。誰に対して何が起きたとしても、ただそれはそこで、起こっている、というだけのことなのだ。瞳が美奈の肉体を破壊して、このまま自分の魂が消えてしまっても、それで構わないと思えた。むしろ、面倒が消えて、喜ばしいとさえ思った。

 だから、美奈の中の、魂に掛かっていた圧力がふと軽くなった時も、美奈の魂は動かなかった。美奈の中の魂が一つ減ったのだとわかった。今まで美奈の体を操っていた魂が消えたのだ。しかし美奈は、すぐに前に出て、自分の肉体を取り戻そうとは思わなかった。それすらも、もうどうでも良くなっていた。

 美奈の肉体を動かす別の魂の背後から、起きている出来事を、美奈の魂はただ眺め続けた。下半身を露出した教師を前に絶叫する瞳の姿を見ても、何も感じなかった。必死で暴れ、声の限りに叫びながら、服を剥ぎ取られ、襲われていく瞳を、美奈の魂は平然と眺めていた。

 しかし、瞳の中に侵入しようとする教師を前に、瞳が悲鳴を止めた時、ふと、美奈の魂の感情が波立った。

 それまで、口を塞がれても叫ぼうとしていた瞳が、悲鳴すら上げられなくなって、ただ目の前に迫る恐怖に怯えている。

 美奈の魂は、無意識に、何かを思い出そうとしていた。

 教師が、瞳に侵入する。瞳が小さな呻き声を漏らしながら、必死で堪え始めた時、美奈の魂は騒めいた。

 今、目の前にいるのは、美奈の魂が知っている瞳ではなかった。傲慢で、悪辣な、それ故に強い少女の姿はそこになかった。そこにいたのは全くの別人であった。ただ怯え、自分に降りかかる現実の恐怖に、泣きながら支配されるしかない、無力な少女であった。

 美奈の魂は、その少女を知っていた。

 何度も何度も、見たことがあった。

 その少女は真っ暗な部屋の中で、ベッドに寝ている。扉が開いて、部屋に誰かが入って来る。ベッドの上の少女は扉に背を向けている。ゆっくりと足音が近付いて来る。少女は目を覚ましている。近付いて来る男の存在に身を強張らせる。男がベッドの中に潜り込んできて、背後から少女を抱きしめる。耳元で、男が呟く。

「美奈、俺の可愛い美奈」

 ベッドの中で美奈は震えている。父親である大輔の手が服を剥いでいく。大輔の手が美奈の体に触れ、ゆっくりと愛撫する。やがて準備もそこそこに、大輔が、美奈の中に侵入する。

 ベッドの上にいるはずの美奈が、今、教室の中にいる。美奈の目の前で、ただただ怯えている。

 自分が死んでしまったはずの世界で、美奈の魂は、再び自分を見つけた。

 手を、差し伸べねばならない。美奈の魂はよく知っていた。目の前にいる怯えた少女が、誰かが自分の手を握って、今いる場所から引きずり出してくれることを、どんなに願っているのかを。

 ベッドの上にいた少女に、そんな手を伸ばしてくれた人はいなかった。しかし今、教室の中にいる少女に、自分ならば手を伸ばすことが出来る。そうしなければならない、と美奈の魂は思った。今、目の前で怯えている少女は、美奈自身なのだから。怯えている自分を、助けて上げなくてはならない、そう思った時、美奈の魂は既に喋り始めていた。

 ――もう、やめて上げて……。

「何だって? おいおい、勘弁してくれよ」

 美奈の口が言う。楽しんでいる最中に水を差された不快感と、信じられないという驚きの色がその口調には含まれていた。

「今、良いところなんだ、邪魔しないでくれ。動物の交尾って言うのは、何度見ても興味深いものだからさ。それに……」

 美奈の口が話し続ける。

「あれは、君の敵だろう? どうなったって良いじゃないか」

 ――いいから、やめて。

「勘違いしてないか。さっき先生を殺さなかったのは、君には体を貸してもらってるし、君自身にも色々楽しませてもらったから、そのお礼だよ。お礼はもう済んだのさ。私が君の言うことを聞く理由がないんだよ。だから、無駄だから、静かにしていてくれないか」

 瞳に腰を打ち付けている教師が立て続けに声を上げ始める。もう、その瞬間が迫っていた。

 ――やめてって言ってるの。

 美奈が体を捻りながら、ぐしゃっと髪を掻き上げる。

「おいおい、冗談だろ。君が魂の状態で動けるようになったのは、今日が初めてだよな?」

 美奈の体がふらふらと揺れ始める。

 瞳の足の間で腰を動かしていた教師が動きを止める。気付いているのかいないのか、瞳はそれでも堪える表情のままでいる。教師の体が細かく痙攣している。しかし瞳の中にある教師の一部は、変らず固く反り返っている。

「ちょっと待ちたまえ。どんなことにも手順というものがある。君、あまり慌てるんじゃない!」

 美奈が両手で髪を掻き乱す。

 ごんっと音を立てて、瞳の腰が床に落ちた。瞳は教師の一人に後ろから羽交い絞めにされ、もう一人の教師に足を脇に抱え込まれ、床から完璧に持ち上げられた状態になっていたが、背後の教師が脱力して瞳を床に落としたのだ。足を抱えて瞳に侵入していた教師も、瞳の落下に引っ張られて腰を曲げた、結果、瞳は腰から床に落下し、尾骨が砕けるような強烈な痛みを味わった。

 瞳を落とした教師は立ったまま、脱力した体をゆらゆらと揺らしている。首が全く座っておらず、揺れる度に首を支点に頭がぐるぐると回った。その口からは途切れることなく、小さな呻き声が漏れる。それは一聴、言葉にならず、ひたすら喉の奥を震わせて、不気味な声を吐き出し続けているだけのようであったが、よく聞くとその呻き声はまるで喋るように細かく変化し、どこかまだ発見されていない民族の呪術を思わせた。その声が、明らかに人の呼吸の限界を無視して、いつまでもいつまでも教師の口から漏れ続けていた。

 そしてそれは、瞳の目の前の、足を抱えた教師も同じだった。教師の一部はまだ瞳の中に深々と突き刺さっていたが、教師の腰はもう動いておらず、辛うじて瞳の足をまだ抱え持ったまま、床に膝をつき、体は前方に傾き、瞳と言う支えがなければうつ伏せに倒れてしまう程に脱力して、口から呻き声を延々と発していた。

 教師達の奇妙な合唱の響く中、美奈の体がふと倒れた。急に何らかの支えを失ったかのように、血に濡れた床にうつ伏せに崩れ落ちる。表面の乾き始めていた血が、重い飛沫と音を立てる。

 同時に教師達の体がビクンと一度、大きく跳ねるように動いた。

 腰の激痛に耐えていた瞳は、自分の中に熱い液体が、染み込むように注ぎ込まれてくるのを感じた。

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