第15話 ㉚~㉛

 先程まで沙月のいた教室に、美奈が入って来る。

 殴り潰された生徒達の死体が散乱し、床は肉片と血で満たされている。

 美奈が窓際に近付いて、下を覗く。コンクリートの地面に沙月が倒れているのが見えた。頭から落ちたらしく、血が頭を中心に零れ出している。

 ――どうして! 先生は殺さないって、言ったじゃない。

「別に私が殺したわけじゃない。彼女が勝手に死んだんだよ。自分の生徒を手に掛けない、優しい心さえあれば、死なずに済んだんだがね」

 ――ね、替わってよ。

「急にどうした? タンゲラ」

 ――どうしたじゃないでしょ、これであなたの番は終わり。次は私の順番よ。

「ふむ」と美奈は鼻から息を吐いた。

 美奈がじっと窓の下の沙月を見つめる。下から教員が美奈を見つけて、何か呼びかけていたが、まるで聞いていない様子で、美奈は沙月を見つめ続ける。

 突然、美奈の脳天に衝撃が走った。血が噴き出し、美奈の顔を再び血が染める。今度は返り血ではなく、自分の血である。美奈が動き出す前に、さらに二回、頭に衝撃。背後から殴られているのだ。

 美奈が身を翻して、窓から離れる。振り下ろされた金属棒が美奈に躱され窓のサッシを叩いて歪める。

 血で満ちた床に尻餅をついた美奈が顔を上げる。そして微笑んだ。

「あらぁ? 逃げてなかったの?」

 美奈の目の前には、沙月の持っていた金属棒を手にした、瞳が立っていた。


 人の波に飲まれて逃げていく時、沙月の向こうに美奈を発見した瞳は、三階から二階に降りた段階で、波から抜け出てそっと隠れた。避難する生徒達が流れ切った後、瞳は階段に戻り、慎重に階段を昇った。明らかに正気を失っている沙月に鉢合わせるのは危険だった。

 一体、沙月に何が起こったのか。それはわからない。しかし、それにはおそらく美奈が関係している。沙月の向こうにいた美奈は、全く逃げる素振りも見せていなかった。瞳が美奈を見たのはほんの一瞬であったが、美奈は沙月を見ながら、むしろ楽しそうに微笑んでさえいたように見えた。

 美奈は瞳が理科準備室に充満させたガスの中毒で死ななかったのか。どうにかして脱出したのだろうか。普通ならそう考えるしかない。しかし瞳は、昨日確かに死体を確認した美奈が今朝、何事もなく登校してきた事実を知っている。

「もう一度、殺してみろよ」

 と美奈は言った。そしておそらく、瞳は美奈を再び殺した。

 そして美奈は、また蘇ったのだ。

 瞳はもはや、美奈を人間とは認識していなかった。美奈は、化物に違いなかった。粉々の肉片を撒き散らして芽以を惨殺する化物。きっと戻ってこない理子も、芽以と同じような目にあったのではないか。そしてこの化物は何度殺しても、蘇ってくる。

 何のために蘇ってくる?

 瞳はあの日のことを思い出す。寒空の下、その幸福を瞳に見せつける美奈の姿を。

この世界において、美奈の存在そのものが、瞳を嘲笑うために存在しているに違いなかった。

 つまり美奈が何度も蘇って来るのは、全くただ一つの理由だと言えた。

 瞳を嘲笑うために、美奈は何度でも瞳の前に姿を現すのだ。

 階段を昇って三階に辿りついて、影からそっと覗く。

 廊下で沙月が、すでに床に倒れている生徒の死体を更に金属棒で殴り続けていた。そして沙月から少し離れた場所に、美奈が立っているのも見えた。死体を一心不乱に殴っている沙月にはもはや、美奈に優しく微笑みかけるあの面影はなかった。

 沙月について、美奈が抱くような感情を瞳も持っていたわけではない。瞳にとって沙月は、他に大勢いる教師と何ら変わりない。しかしただ一つ、美奈に微笑みかけるという点で、沙月は瞳の注意を引いた。

 沙月は、美奈のことを案じて、よく微笑み掛けた。沙月は元々、柔和な顔つきを崩さない性格のようだったが、美奈に微笑みかける時の表情は、他の時とは少し違っているように見えた。

 それは美奈にだけ向けられる、特別な微笑みだった。

 それもまた、瞳には与えられず、美奈には与えられたものに他ならなかった。

 校舎裏で、美奈の思いが沙月に届かなかったあの時、瞳は表には出さなかったが、内心、喜びに満ち溢れていた。瞳が持っていない美奈の持ち物を、傷付けてやれたことが愉快でたまらなかったのである。美奈の泣き顔が、心地良くて、その表情を何時までも見ていたいと思った。

 それが今、あの微笑みの面影を失くした沙月を前にして、沙月の向こう側に立っている美奈の表情はどうだろう。心から楽しそうに、微笑んでいる。

 どうやったかはわからないが、美奈が沙月の狂気の原因であるならば、美奈は沙月のあの微笑みを、自分から捨て去ったことになる。自分の手で、沙月から微笑みを奪い取り、そしてそれを楽し気に見つめているのだ。

 瞳の中に込み上げてきた感情は、人知を超えた美奈に対する恐怖などではなく、より純粋な怒りと憎しみだった。

 瞳の脳裏に、父に手を握られ、父のポケットに一緒に手を入れた時の、美奈の喜びを感じさせない表情が思い出された。

 そうやって、自分の持ち物を、ぞんざいに扱って見せるのだ。それが、全て持っている者の特権だとでもいうように、瞳に見せつけ、嘲笑って来る。

 やがて沙月が教室の中に入り、教室の外から、美奈がそれを眺めていた。瞳のいる階段からでは教室の中の様子はわからなかったが、美奈は心底楽しそうに見物していた。

 そして、瞳の耳にも届く程の生徒達の悲鳴が、校庭から聞こえてきた。

 美奈が教室の中に入っていく。急いで瞳は教室の扉まで、出来る限り静かに走った。

 教室の中を覗く。美奈が入った扉は開けっ放しになっていた。窓の傍に美奈が経っている。開いた窓をくぐって、校庭の声が聞こえる。どうやら沙月が窓から落ちたようだった。

 美奈が窓から下を見ている。沙月を見ているに違いなかった。背後にいる瞳からは、美奈の表情は見えない。しかし見るまでもなかった。楽し気な笑みを浮かべているのだと、瞳は確信した。

 瞳はゆっくりと教室に入った。足音を忍ばせるが、血に濡れた教室の床は無音では歩けない。しかし、校庭からのざわめきが大きいせいか、沙月を眺めることによほど夢中になっているのか、美奈が気付いた様子はない。床に落ちていた金属棒を拾う。先程まで沙月が使っていたものだ。慎重に美奈に近付き、振りかぶる。

 美奈、持ち物を捨てるのはお前じゃない。お前の持ち物を捨てるのは、私だ。私がお前から、奪って、傷付け、壊すんだ。お前が自分で捨てて、弄んで、壊して、その上、笑うんじゃない。お前が自分で捨てたものを見て笑う時、その顔は、私を嘲笑っているんだ。

 瞳は渾身の力を込めて、金属棒を振り下ろした。

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