第13話 ㉗~㉘
㉗
理子の首から、二三滴の血液が零れて美奈の顔に当たった。美奈の手がメスを捻り、横に振り抜く。ぱっと血が飛んで、美奈の顔に掛かった。
理子が首を押さえて仰け反る。首から勢い良く吹き出す血が辺りを染めてゆく。傍で腰を抜かして動けずにいる沙月にも降りかかる。
やがて首を押さえていた理子の手が、力なく落ちて、理子の体がゆっくりと倒れた。
美奈が馬乗りになっていた理子の体の下から這い出して身を起こす。手にしたメスを見つめる。
「ああ……あああああああっ!」
美奈は、理子があの手帳を読んだのだと思った。実際には、理子が美奈に向けた罵倒は、手帳を読まなくても想像で言える範疇のものであった。それに、あれだけ破壊された喉が発した言葉が、本当に美奈が聞き取った意味だったかどうか、確かめる術はない。しかし、少なくともあの一瞬、美奈は理子が、沙月に手帳を届ける際に、見なくても良い美奈の秘密を覗き見たと信じた。
そして今、美奈の手には、友達を刺し殺した感触が確かに残っていた。
――お疲れー! よくやったね。少し休むと良いよ。
精神の背後で声がした後、ふっと美奈の魂から重力が消えた。体中の痛みも消えた。しかし手の感触だけは、何故かこびり付いて消えていない気がした。
美奈が立ち上がり、床にへたり込んでいる沙月に向き直り微笑む。
美奈の体は血まみれで、肉体に無数の穴が開き、皮膚が切り裂かれ、肉が露出していた。左目にはまだ深々とカッターが刺さったままになっている。
沙月は恐怖に支配された。
美奈が左目のカッターを掴み、ずるりと引き抜いた。ドロッとした血液と、鼻水のような液体が零れ出す。美奈がカッターを捨てる。床に落下して音を立てる。
美奈は微笑んだまま、目の虚にそっと手を当てる。
美奈の体に空いた穴が、見る間に塞がっていく。沙月は目の前の光景が信じられなかった。初めに理子に切り付けられた足の傷も消えてしまう。美奈が手をどけると、虚はしっかりとした左目で埋まっていた。
浴びた返り血と破れた制服の穴だけを残して、美奈は全く無傷の状態に戻ってしまった。硫酸の飛沫を浴びたこともあって、制服は相当に傷んでいるが、美奈自体の体は、直前に激しい格闘をしたものとは思えなかった。
――治療、感謝する。さ、変ってくれ。
「え? 何言ってんの?」
――元々、私の順番だったんだ。そうだろ?
美奈は不満げに鼻から息を吐いた。それから沙月の方に一歩近づく。
「さ、待たせてしまったね」
沙月は腰を抜かしたまま、後ろにずり下がった。すぐに美奈は距離を詰めるが、不意に顔を顰めた。
「もう邪魔しないでくれたまえよ」
――お願い……先生だけは……。
「強引に私と入れ替わろうったって無理な話さ。君はまだ魂でいることに慣れてないだろう。君の干渉を無視する位、私には難しいことじゃないんだよ」
――お願い……。
美奈は大きくため息を吐いた。
ぶつぶつと独り言を言っている美奈を前に、沙月は不安と恐怖に痺れていた。
「わかった。君は私達を楽しませてくれたからね。この人を、殺すのはやめて上げよう」
㉘
六時間目の社会科の授業を教室で受けながら、瞳は、おかしいな、と思っていた。六時間目が始まる前に理子は教室を飛び出して行った。それから理子が美奈の死体を見つけて、その度胸のなさでしばらく放心したとしても、もうとっくに騒ぎになっているはずだった。
美奈が死んでいるのは確実だ。五時間目が始まって終わるまで、丸々ガスの充満した部屋にいたのだ。
瞳はそれを確認していない。美奈が部屋に入ることすら確認していないのだ。それはもちろん、できる限り理子の責任にしたかったからだ。瞳は自分に掛かる容疑を軽くしたかったわけではない。友達の手で殺されるという状況を、美奈に与えたかったのだ。そんなことは瞳の自己満足と言えるかもしれないが、しかし初めから、全て瞳の自己満足のために始まったことなのだ。
自分で確認していないとは言え、理子が瞳に逆らったり、嘘を吐いたりするとは思えない。ガスの話を聞いてあれだけ必死になって駆けて行ったのを見ても、理子が美奈を理科準備室に閉じ込めたのは確実だ。では何故まだ騒ぎにならないのか。
仮に、美奈が部屋から死ぬ前に脱出していたとしても、それならそれで、美奈も理子も教室に戻ってこないのはおかしい。理子が美奈の死に混乱し泣き伏したまま人を呼んでいないのだろうか。あるいは美奈を救出する際に自分も中毒になって共倒れしたか。これはあり得る話だった。
それならば随分ありがたい話だと思った。瞳は理子のことも軽蔑していたし、理子が理科準備室の鍵を開けて死んだのであれば、美奈が閉じ込められたという事実は消え、単純に二人の生徒が理科準備室に忍び込んで事故を起こした、という話で処理されるかもしれない。もちろん、本当に都合よく進めば、ではあるが。
警察沙汰になって、自分の今後の人生が滅茶苦茶になることなど、瞳にとってはどうでも良いことだった。元々、人生は生まれた時から滅茶苦茶なのだ。瞳は自分が幸せになろうなんて思っていない。幸せな人間が、自分と同じように不幸になれば良いと思っているだけなのだ。しかし、もし自分に損害が及ばないと言うなら、それは儲けものだ。
美奈も理子も死んだ可能性を考えながら、瞳が授業を受けていると、ふと遠くで、悲鳴が聞こえたような気がした。聞こえたのは瞳だけではないらしく、教室が少しざわついた。
授業をしていた社会科の教師が、扉を開け一度廊下を覗き見てから戻って、「なんだろうな」と首を捻った。
どうせ何か下らないことで起きた音が外から流れて来て、反響して人の悲鳴のように聞こえただけだろうと、各自納得して、皆、それ以上は考えなかった。
それから少し経って、他の教室から騒がしい声が聞こえてきた。
ついに死体が見つかったか、と瞳は思ったが、どうも騒ぎ方がおかしい。騒ぎ声が近付いて来る。
瞳のクラスの教室に、別の教室で授業していた教師が飛び込んできた。
「大変だ! 早く非難して!」
社会科の教師が驚いて訊いた。
「一体、どうしたんです?」
「水上先生が……水上先生が凶器を振り回して暴れてるんです!」
全く予想していなかった展開に、瞳は酷く驚いた。もちろん、瞳とは別に、クラス中の生徒が驚いていた。
教師に誘導され、半信半疑のまま教室の外に出る。
廊下には他のクラスの生徒も溢れている。廊下の奥の方の教室から逃げ惑う生徒と共に、沙月が現れた。細い金属棒を持っていて、逃げる生徒の頭を後ろから追って殴りつけた。ぶばっと血が噴き出して、生徒が倒れる。
「あああああああああっ!」
廊下の端から端まで響くような怒号を上げて更に一撃、沙月が倒れた生徒の頭に金属棒を振り下ろす。明らかに正気ではない。
悲鳴を上げて生徒達が逃げていく。その波に飲まれて流されながら、瞳は沙月の背後に、少し離れて、美奈が立っているのを見た。
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