第12話 ㉖
㉖
入口で息を潜めて、美奈と理子を見ていた沙月も、様子がおかしいと思い始めた。ただの水に顔を漬けられているのにしては、理子の反応が大袈裟すぎる。もしかしてただの水ではないのだろうか。ここは理科室だ、と思い出し、沙月は嫌な予感がした。
沙月が理科室に飛び込もうかと思った時、美奈が理子から手を離し、突然、一人芝居を始めた。言っていることは沙月には意味不明で、支離滅裂のように思えたが、まるで数人で話し合うように独り言ちている。
「一つの体に入る魂は三つ、そうでしょ?」
――それは、魂が覚醒している場合の話かもしれない。つまり、あの時、彼女の魂は消えていなかった。変な言い方だが、魂が仮死状態だった。だから私達三人が入ることが出来たというわけさ。
「それがチヨクロがいなくなって、場所が空いたから、目が覚めたってこと?」
――推測だがね。しかしこれは重大な発見だ。つまり次遊ぶ時は……
「もっと皆、連れてこられるってことね」
――ねぇ、一体、何の話をしているの。お願い、もうやめて……
「やめてって、言われても」
美奈が桶の傍に蹲って呻いていた理子の髪を掴んで再び頭を引き上げた。理子が喉から絞り出すように言った。
「やめ……て、お願い……」
「あなたもそんなこと言うの? 私は、やめない方が良いと思うけど」
――お願い!……やめて……
「ま、いいけど……ほら、見て」
美奈が理子の顔の前に再び鏡を出す。理子は、また痛みを堪えて目を開けた。
「もう、この顔ともお別れだからね」
美奈が言った途端に、理子の視界が消えた。しかし視界の消える一瞬に、理子は確かに見た。自分の顔の皮膚が焼け爛れ、顔が崩れていくのを。
「あああああああああっ!」
理子は絶叫した。顔を覆っていた激痛が、さらに新たな波となって襲ってきた。しかしその絶叫は実際には、殆ど声にならなかった。口の中も、喉の奥も、鼻孔の中まで、焼け爛れ発声の用をなさなかったからである。理子は地面に倒れ、顔を抱えるようにして蹲った。
美奈がため息を吐いて言った。
「だからやめない方が良いって言ったのに。私が遊んでいる間は、ずっと治してあげたんだから……」
――そ、そんな……
「何をしているのっ!」
理科室の入口から声を上げて沙月が飛び込んだ。流石に、見過ごしている場合ではない。一体何が起こったかはわからないが、急に変容した理子の顔が沙月の距離からでもちゃんと見えた。
失敗したと沙月は思った。こんなことなら、すぐに踏み込むべきだった。担任するクラスの生徒が薬品で事故。自分の監督責任はどれほど追及されるだろうか。顔は焼け爛れても、命だけは落としてくれるなよと沙月は願った。
「あ、水上先生」
まるで平常の様子で美奈が答えたので、沙月は戸惑った。
「ちょっとふざけていたら、この子が硫酸を被ってしまって。私はやめろって言ったんですがね」
気軽な冗談でも言うように美奈は蹲っている理子を助け起こすと、実験用の机の傍にある水道に導いた。蛇口を捻って緩やかに水を出す。
「洗い流すと良いよ」
美奈は理子に呟く。目まで爛れた理子は視界がなく、音を頼りに手を動かす。
美奈のあまりに動じていない態度に沙月は言葉を失っていたが、ハッと気持ちを引き締めて言った。
「ふざけていたって? 嘘吐かないで」
「嘘? 何で嘘だって言うんです。もしかして先生、さっきからずっと見ていたんですか?」
美奈が微笑んで、沙月はどきりとした。
その時、美奈の隣の理子が、爛れた喉を無理に振るわせて、声にならない悲鳴を上げた。手と顔から湯気が激しく立ち上っている。そのまま床に倒れて痙攣する。
「ああ、しまった。硫酸は水と反応して発熱するんだった」
美奈がわざとらしく額に手を当てた。
理子に駆け寄ろうとした沙月の手を美奈が掴んだ。美奈の顔を見て、沙月は息を飲んだ。
美奈の左右の目が、点でばらばらの方向を向き、顔だけが沙月を見つめていた。振りほどこうとしても、美奈の手は離れない。美奈の口が微かに動いて、小さな声が漏れ出していた。
「今度は私の順番なんだ、邪魔しないでくれたまえ」
――駄目、先生を襲っては駄目。
――つまんないこと言うのやめてよ。
――先生は私に酷いことしたわけじゃないの。確かに悲しかったけど、あれは……。
「何か勘違いしているね。君は」
――一体、何の話をしているの?
――だってあなた達、私の復讐のために来たんでしょう? 私、ぼうっとして何も考えられなかったけど、ずっと見てたの。あなた達は、私を苦しめた人を、やっつけようとしているんでしょう?
沙月の目の前で、あらぬ方向を向いていた瞳の両眼が、まるでカメレオンのようにバラバラに、しかも素早く、ぐるぐる回転し始めた。美奈の異常な様子に沙月は恐怖を感じた。すると美奈が痙攣するようにぷるぷると震え出した。その後、大きな声を上げて
「あははっ! あはははっ! あははははっはははっははははははははははははっはははははははははははははははははははっはははははっは……」
笑い出した。
狂っている、と沙月は思った。
やがて笑いを止めた美奈が、はっきりとした口調で言った。
「私達は、君達が苦しむ姿を見たいだけなんだ。それだけなのさ」
美奈の眼球がくるりと回って、二つ揃って正面を向いた。焦点が、沙月に一致した。思わず膝の力が抜けて、沙月は体勢を崩した。
――大事な人が目の前で死んで、絶望する魂を、内側から見てみたいなぁ、私。あはは。
――そんな、やめて……!
沙月は美奈の手を振り解こうとした。しかしいくら振り回しても美奈は手を離さない。美奈が微笑んでもう一方の手を伸ばす。
その時、突然、美奈が体勢を崩した。驚いて美奈が視線を足元に落とす。美奈の足に赤く長い線が走り、そこから血が滲みだしている。
ぐじゅるるるっ、ぎょぎょっ、ぐじょじぇじゅじゃっ……
耳障りな音がした。その音だけ聞いたなら、誰もそれが人の声だなんて思わないだろう。しかしその音は、美奈の足元で、カッターナイフを振りかざした理子が上げた声に他ならなかった。
理子が立ち上がり、美奈に掴みかかった。その勢いに美奈も床に倒れ込む。思わず沙月の手を離す。
美奈が離した沙月の手に、理子のカッターが当たった。刃が肉に食い込み、痛みが走る。強引に力を加えられた刃が沙月の手に刺さったまま途中で折れた。
じゅべっ、じゅべべっ、じぇじゅぎょぶびゃびっ
馬乗りになった理子が声を上げて美奈にカッターを振り下ろす。焼け爛れた顔面の皮膚はもはや元の面影を残しておらず、変色した目は見えていないことが明らかだった。闇雲に振り下ろされるカッターはしかし満身の力が込められており、折れて短くなった刃が美奈の体に突き刺さって、刃の根元まで食い込み美奈にいくつもの穴を掘り開けた。
沙月はカッターの突き刺さった手を押さえ、すぐその場から離れようとしたが、あまりの出来事に体が震え力が入らなかった。
――理子、生きてたのね!
美奈の魂は喜びの声を上げた。目の前で自分に覆いかぶさる親友の顔は、以前とはまるで変ってしまっていたが、まだ生きていると言うだけで、美奈は何か希望を見た気がした。
美奈の魂がそのように感じられたのは、美奈の肉体が攻撃されているのに、まるで美奈の魂は痛みを感じなかったからである。肉体で起こっていることとの間に、まるでそれをテレビで眺めているかのような距離感があった。
「そうだ、これは君の友達だろう。君が相手してくれ」
美奈の口がそう言った。
ずん、といきなり美奈の魂は重さを感じた。急に重力働いたようだった。そして同時に鋭い痛みが走った。美奈の体の感覚が美奈の魂に戻ってきたのだ。体に穿たれたいくつもの刺し傷の痛みに、美奈は思わず声を上げた。
美奈の魂が自分の肉体の自由を取り戻し、その痛みと感覚に戸惑った一瞬に、理子の振り下ろしたカッターが美奈の頬に突き刺さった。頬を思い切り拳で殴られたような衝撃があり、カッターの刃が頬の肉を突き抜け、柄まで貫通した。そのままカッターは乱暴に引かれ、頬肉を更にえぐって抜けた。激痛に美奈は悲鳴を上げる。しかし理子の手は一向に止まらず、一瞬の間もなく振り下ろされ続けた。
「やめて! 理子っ! 私だよ! 美奈だよ!」
声が届いているのかいないのか、わからない。仮に届いていたとしても、理子にとっては理子の顔面を焼いた美奈も、今、カッターで突き刺している美奈も、同じ美奈なのだ。
何度も振り下ろされるカッターは、刃も更に短く砕け、ほとんど尖った棒と同じようになって、美奈の皮膚と肉を乱雑に引き裂いた。
必死に顔の前に手をやって守りながら、美奈は何度も理子に呼びかけ叫んだ。自分の精神の背後で、別の二つの精神が笑っているのが聞こえる。
理子は美奈の声がまるで聞こえていないように、一心不乱にカッターを振り下ろして来る。顔全体の皮膚が余すところなく焼け爛れ、破け、垂れ、変色し、奇形化している。喉の奥から聞き取り不能の声を上げ、唇があった場所に開いている隙間から、唾液とも胃液ともつかぬ、ぬめぬめとした液体を漏れ零し、それが美奈に降りかかった。
化物だ、と美奈は意図せず思った。激しい恐怖に身が竦んだ。
――良いこと教えてあげる。
精神の背後から声がした。
――ポケットにさ、良い物が入ってるよ。濃硫酸を準備してる時に見つけたやつ。
どくん、と美奈の心臓が脈打った。美奈にはその良いものが何か、記憶があった。
理子は長身で体が大きい。非力の美奈では到底敵わない。このままではもう余り間のない内に、刺し殺されるか、絞め殺されるかするだろう。しかし、武器があれば話は別かもしれない。些細なもので良い。例えば理子が手にしているのと同じくらいの刃物があるだけで。
美奈は自分が恐ろしい考えに足を踏み入れていることに気付く。自分は何を考えているのだろうか。今、自分を殺そうとしているからと言って、その友人を、逆に……。
――今さら何を躊躇っているんだい。
背後からまた声がした。
――私は一つ疑問なんだがね、この理子とか言う少女が君をあの小部屋から引きずり出した時、つまり私達が硫酸を使って遊ぶ前に、チヨクロはもう消えていたんだ。君は、一体何時、目を覚ましたんだい?
美奈は動揺する。
あの夜、マンションから飛び降りて、再び立ち上がった時からの記憶が美奈にはある。しかしそれは、美奈に意識があったことを意味しない。美奈の魂は、何かを考えることも、意思を持つこともなく、目の前で起こっていることを感知し記憶しているということを認識すらしていなかった。意識が戻った状態で思い返してみれば、確かに記憶が残っている、という感じだった。
美奈の意識が覚醒したのは何時だろうか。それは一瞬ではっと目覚め切り替わったのではない。段々、ぼんやりと、意識が浮上してきたのだ。押し込められて保存されていたものが、ふと圧力が消えて、ゆっくりと、徐々に膨らみを取り戻していくように、美奈の意識は蘇った。
あの小部屋で、チヨクロが消えた時に、美奈に掛かる圧力は解けたに違いない。そこから、ゆっくりと、意識が覚醒して行く。美奈が自分の意思を持てる程に、意識が目覚めたのは、一体何時だろうか。
やめてと、魂が叫んだ時に決まっている、と美奈は信じようとした。目の前で虐待されている友達の姿に、ようやく気付けるだけの意識が目覚めて、自分は声を上げたのだ。当たり前ではないか。
しかし本当に、そうだろうか。美奈は自分の意識に自信が持てなかった。苦しんでいる理子を見ている時、本当にあの瞬間まで、美奈の意識は声を上げられるだけ覚醒していなかったのだろうか。あるいはまだ覚醒していないことを、言い訳に自分はしていなかっただろうか。
自分を散々裏切って、ガスの充満した部屋に閉じ込めて命を奪った理子が、再び目覚めた自分に涙を流して抱き着いて来た時、美奈の中には、ほんの少しも、憎しみが湧かなかっただろうか?
理子の攻撃は止むどころか勢いを増して、美奈の体を突き刺して来る。美奈は顔の前で腕を閉じて必死に堪える。時折、手が弾かれて、体や顔にカッターが突き刺さる。
ぎぎょびょびゃぶびぇ じぇじゅぎょびゅべべっ
理子が叫ぶ。理子の叫びは、同じ言葉の繰り返しになっているようだった。
ぎぎょびょびゃぶびぇ じぇじゅぎょびゅべべっ
ぎぎょびょびゃぶびぇ じぇじゅぎょびゅべべっ
――ねぇ、なんかさ、この子の言葉、なんて言ってるか、わかるような気がしない?
精神の背後の声が言う。
ぎぎょびょびゃぶびぇ じぇじゅぎょびゅべべっ
美奈にはとてもそれが意味ある言葉には聞こえない。
――あなたに対するメッセージかも。ほら、よく聴いてみて。
ぎぎょびょびゃぶびぇ じぇじゅぎょびゅべべっ
ぎぎょびょびゃぶびぇ じぇじゅぎょびゅべべっ
美奈は混乱する。自分は何時から意識があったのか、目の前の理子は何と叫んでいるのか、自分は今どうすべきなのか、いくつもの思考が渦になって、何を考えて良いのかわからなくなる。
美奈の混乱が極致に達した瞬間、理子の腕が美奈の腕を弾いて、美奈の顔面にカッターが振り下ろされた。カッターはそのまま、美奈の左目に深々と突き刺さった。美奈の喉から激しい悲鳴が飛び出す。顔の中で、カッターが、ぐりっと動くのがわかった。
ぎぎょびょびゃぶびぇ じぇじゅぎょびゅべべっ
理子が叫びを上げる。美奈の耳に、その叫びが意味を持つ言葉となって聞こえた。
気持ち悪い レズの癖にっ
何かを考える前に、美奈の手は動いていた。制服のポケットに入っていた生物解剖用のメスを取って、理子の喉に深々と突き刺した。
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