第11話 ㉔~㉕

 沙月は校舎内を歩き回っていた。

 自分の担任するクラスの生徒が、三人もいなくなってしまった。

 一人目の芽以は、三時間目から姿を消した。もしかしたらもう学校にはいないかもしれない。家に電話を掛けて見たが、まだ帰宅はしていないらしい。電話口で母親は呆れたように「どこかに遊びにいったんじゃないですか」と言った。芽以が学校をサボタージュすることは、最近ではあまりなかったが元々、小学校の頃からあまり素行の良い生徒ではなかったと話に聞いていた。

 二人目の美奈は、芽以と同じように三時間目の始め、姿を現さなかったが、遅れて教室に戻ってきた。しかし五時間目にまたいなくなり、六時間目が始まっても姿が見えない。

 三人目の理子は六時間目からいなくなった。

 まるでミステリー小説のように、人物が一人一人消えていく。おかしな事態だった。

 芽以のことは、母親の言う通り、勝手にどこか遊びに行ってしまったのだろう、と言うことで職員室内は一段落していた。

 しかし、五時間目の授業を終えた後、美奈がいないと報告を受けた沙月は酷く狼狽した。二時間目の自分の授業に姿を現さなかった時も内心、穏やかではなかったが、後からちゃんと戻ってきたので安心した。それがまた、姿を消した。

 六時間目が始まっても教室には戻っていない。それどころか、理子までいなくなったという。三人もの生徒が、しかも全て自分の担任する生徒がいなくなったとなれば、いくら表向き取り繕っても、沙月が内心平静でいるのは難しかった。

 特に美奈とは昨日あんなことがあったばかりである。

 理子が持ってきた美奈の手帳、その内容は沙月に対する熱烈な恋文であった。

 それを読んで、気持ち悪い、と沙月は思った。生理的な嫌悪感が、じわじわと体を這いずり回った。

 元々、沙月は美奈と言う生徒が不快であった。美奈が二年生になって、その担任になった時、すぐに美奈が瞳と芽以に攻撃されていると気が付いた。

 面倒くさいな、と沙月は思った。そう言う問題は、解決しようとしても解決出来ることではないと沙月は考えていたし、それが人目に付く問題になれば自分の教師としての評価にも関わる。いずれ美奈が自分から訴えて来て、そうなれば多少なり沙月は腰を上げなければならない。想像するだけで億劫だった。

 しかし一向に美奈は声を上げなかった。沙月にとってそれは都合の良いことであったが、それとは別に美奈のことを酷く軽蔑した。他者に攻撃されながら、反撃するでもなく、助けを求め訴えるでもなく、ただただ堪えている。そうすることが偉いこととでも思っているかのように。

 後になって、担任の教師は何もしてくれなかったなどと騒がれても困る。沙月は距離感を考えながら、美奈を案じる振りをした。大丈夫か、と沙月が訊くと、美奈は健気に微笑み返した。

 そのへらへらした微笑みが、沙月は心底、嫌いだった。

「私って、良い子でしょ」とでも言っているような気がした。

 沙月はいなくなった美奈達を探して、教室を見て回りながら、やはりあの場所にいるのかな、と思った。

 昨日、沙月が美奈に呼び出されて行った場所。あの陰気で不快な匂いのする校舎裏。

 昨日あったことは、沙月にとってさっさと忘れたい出来事だった。仮に相手が男子生徒であったとしても全く面倒くさい問題だが、多少は良い気分にもなるかもしれない。しかし、それが女子生徒の、しかも美奈なのである。沙月は自分の不快感が表情に出ないようにするので精一杯だった。

 おそらく、その場が仕組まれたのは、瞳達の力が働いてのことだろうと思ったが、手帳の文字やその長く使っている感じから、その手帳の内容は誰かが即席で作ったのではなく、美奈自身が日々書き溜めたものであることは疑いがなかった。つまりそこに書かれた美奈の沙月に対する気持ちは本心そのもので、それが瞳達の知るところとなって、校舎裏で美奈と沙月が向き合う事態になったのだ。

 出来るだけ後腐れ無く、大人の対応をしたつもりである。だらだらと話を長引かせることなく、きっぱり断って終わりにする。サービスで頭を撫でてやったが、手はすぐに洗った。

 美奈がいなくなったと聞いた時、沙月は美奈が自殺でもしたのではないかと思って、勘弁してくれ、と心の中で叫んだ。勝手に擦り寄って来て、勝手に転んだだけではないか。しかし誰かがあの手帳を読んで、昨日の出来事まで嗅ぎ付けたなら、自分の責任が問われることは避けられなかった。手帳だけでも返さずに処分してしまえば良かった、と沙月は思った。あの濡れた跡や傷のある汚い手帳。きっといつも持ち歩いているせいで、瞳達の被害にあったのだろう。その傷痕は、沙月に対して、酷く恩着せがましい感じがした。

 六時間目になって、美奈だけでなく、理子もいなくなったと聞いて、二人は一緒にいるのではないかと思った。二人は元々、友達だったと聞いている。最近は理子も瞳達の遊びに加担させられているようだったが。

 二人でいるなら、少しは自殺の心配は減るかもしれない。女子生徒二人で心中などということになれば、全く笑えない事態ではあるが。美奈にとって辛い経験のあった校舎裏で、最近は疑わしいとは言え一応友達である理子が、美奈の話を聞いて慰めている。そんなところかもしれないと沙月は思った。

 元々殆ど人が寄り付かない場所であるし、昨日の出来事をさっさと忘れたい沙月とっては、全く近付きたくない場所であったので、見に行くのを後回しにしていたが、やはり行ってみるべきかもしれない。

 理科室の周辺を確認して誰もいないようなら、気は進まないが確認しに行こうと決めて、沙月が理科室に近付くと、中から声が聞こえてきた。美奈達だろうか、それならば幸運であると思って、沙月はそっと中を覗き、目を見張った。

 そこにいたのは美奈と理子に他ならなかった。しかしその光景は沙月が全く想定していないものだった。

 美奈が理子の髪を掴んで、大きな桶の中に理子の頭を押し込んでいた。とても楽しそうな笑みを浮かべながら。しばらくすると理子の顔を引き上げる。濡れた理子の顔が桶の中から現れ、悲痛な呻きを上げながら空気を求めて口を開く。しかし十分に呼吸をする時間もなく、再び美奈が桶の中に顔を押し込む。


 沙月からは見えなかったが、美奈の足元には薬瓶が何本か転がっていた。瓶のラベルには『濃硫酸』と書いてある。

 桶に満たされた液体に顔を押し込まれると、理子は顔面の皮膚が全て焼け爛れるような熱痛を味わった。痛みのあまり液体の中で悲鳴を上げる。液体が入らないように目も口も閉じているが、唇の隙間と鼻孔から激しく泡が噴き出す。

 泡を吐いた鼻孔がその合間に僅かに溶液を吸い込んでしまう。顔の中心を、内側から焼かれるような痛みが来る。

 美奈が顔を引き上げる。理子は自分の顔が爛れ滅茶苦茶になっていると信じたが、しかし彼女の顔は濡れているだけで全くの無傷であった。

 そのため離れて見ていた沙月は、桶に満たされているものがただの水だと考えた。そして理科室の中に入るのを躊躇った。今、入って行けば、沙月はこの状況を目撃したことになる。そうなれば、このことについて何かしらの対処をしなければならない。しかし、美奈の行為が一段落してから登場すれば、沙月は何も見ていなかった振りが出来る。理子が美奈の行為を沙月に訴えるかはわからないが、そうした方が沙月には後々面倒がないように思えた。今までの様子からすれば、理子が沙月に何も言わない可能性も高い。理子が加担した美奈への仕打ちも、バレてしまうかもしれないのだから。

 沙月はしばらく様子を見ることにした。

 美奈が理子の体を桶の中に突っ込む。痛みのあまり理子の体はびくびくと跳ねた。桶が引っ繰り返らないようにもう一方の手で押さえながら、美奈が水面の上にある理子の耳に向かって言う。

「そうだなぁ、じゃあ、ちょっと瞬きしてみようか」

 口と鼻から猛烈に泡を吹いている理子は、最初美奈の言葉を聞き逃した。

「瞬き、して」

 美奈が何度か繰り返す。

 ようやく聞き取った理子は、しかし聞き間違いだと思った。この肌を焼く液体に眼球を晒すなど、出来るはずがない。必死で閉じていても、じわじわと染み込む液体が、瞼の縁を焼いているというのに。

 当然、理子は目を固く閉ざし続けた。しかし、何時まで経っても美奈が顔を押さえ付けたまま引き上げない。

「瞬きしないと、息、させてあげないよ?」

 もはや吐き出す息は底を底を突いていた。必死で息を止め続ける。吸えない息を求めて肺がばくばくと跳ね上がった。このままでは窒息で死んでしまう。

 理子はついに目を開けた。バチバチと素早く瞬きする。眼球が蒸発するような痛みに襲われた。今まで顔面を焼いていた熱さよりさらに熱く、焼き鏝を眼球に直接押し付けられたようだった。あまりの衝撃に、もうぺしゃんこに萎んだように思われた肺から、空気の僅かな塊が絞り出されて鼻と口から吹出した。

 美奈が理子の顔面を引き上げた。

 理子が堪らず大量の空気を吸い込む。口の中に落ちる水滴が口内を焼く。強く吸い込まれる空気に紛れて硫酸の飛沫が気管に飛び込んでいく。肺まで焼かれるような痛みに理子が咳き込む。同時に酸素を吸いこもうとする肺の動きがぶつかって、理子の体は混乱し裂けそうになった。

 濡れた理子の顔を、美奈の手が拭った。これだけ理子を苦しめている硫酸に素手で触れても、美奈は平気な顔をしている。理子にはその平然とした顔も見えないし、美奈のことを疑問に思う余裕もなかった。

「ほら、ね、ちょっと目を開けて見てみて。平気だから」

 理子の顔を拭った手を、制服に擦りながら、美奈が優しい声で言った。

 激しく痛む目を理子は固く固く閉じていた。しかし命令に従わない者に美奈がどれ程冷酷か体験したばかりの理子は、やがて歯を食い縛って強引に瞼を開いた。

 理子の前に、小さな鏡があった。女子がよく身だしなみのために持っている、小さなポケットサイズの鏡だった。

 痛みのあまり止めどなく溢れて来る涙と、目を焼く硫酸の向こうに理子は微かに自分の顔を見た。

 そこには、ただ濡れただけの自分の顔があった。目を長く開けていることができず理子はすぐにまた目を瞑ったが、その僅かな時間に見た自分の顔は、確かに元のままだった。焼け爛れて、もはや原型など残していないと思っていたのに。自分の目も、まだ見えることが不思議な位だった。

「ほら、元のままでしょ。何にもなってない。大丈夫だから」

 美奈が耳元で囁いた。

「もう少し頑張ろうね」

 美奈の手が理子の頭を桶の中に押し込む。激しく吹き出す泡の音の向こうで、美奈の笑い声が聞こえる。

 理子が激しく体を跳ねさせる。その拍子に飛ぶ硫酸が美奈の手や衣服にかかるが、美奈はまるで動じない。美奈の服の液体が掛かった部分が、やがてぼろぼろと崩れていく。

「次はうがい。うがいしてみようか」

 再び恐ろしい提案を美奈がする。

「ほら、口の中に吸い込んで。吸い込んだ? 顔、引き上げちゃうよ」

 理子は躊躇する。美奈の命令には逆らえないと思っても、簡単に踏み切れることではない。

「ねぇ、顔を引き上げた時に口の中に入ってなかったら、すぐわかっちゃうよ。もしそうなったら、次は何がしたい?」

 美奈が言った。いくつもの恐ろしい想像が、理子の頭の中に湧き上がった。

「じゃあ、顔、引き上げまーす。3、2、1……」

 もう躊躇している暇などなかった。理子は思い切って硫酸を口の中に吸い込んだ。

もはや味など感じている場合ではない。下が、歯茎が、口内の全てが一気に焼け爛れる感覚。全ての皮がべろりと剥がれて、その下の薄皮まで焼き尽くされるような痛み。理子は反射的に吐き出しそうになった。

 その瞬間、美奈が理子の顔を引き上げる。

 理子は寸でのところで、口内に少量の硫酸を残すことが出来た。

「じゃあ、うがいして。はい、がらがらがらがら~」

 髪を引かれ、理子は強引に上を向かされる。硫酸が喉の奥に流れ込んできて、激しい刺激に理子は上を向いたまま咽込んだ。より深く硫酸が流れ込み理子の喉を焼く。体が反射を起こし身を震わせてえずく。美奈が髪を押さえているため、理子の頭が傾いて硫酸が零れ出すことはなかった。ただし理子の口からは細かい飛沫が跳ね上がった。

「はい、がらがらがらがら~」

 美奈の楽し気な掛け声に遅れて、理子は鼻から息を吸い込み、喉からゆっくりろ息を吐き出した。鼻で呼吸する時、一緒に硫酸も吸い込まれて、理子の顔を内部から焼いた。吐き出した息が、口内の硫酸を泡立てる。撹拌される硫酸が、染みわたるように喉の隅々までを焼いた。うがいしながら、理子は苦し気な呻きを上げた。

「そうだなぁ、じゃあ次は、それ、飲み込んじゃおうか?」

 美奈が言った。驚いたように理子が喉を鳴らす。ごぼっと大きい泡が出て、飛沫が飛ぶ。

 ――もう止めて!

 ふと、理子の髪を掴む美奈の手が緩んだ。殆ど反射的に理子は顔を下げ、桶の中に硫酸を吐き出した。

「ちょっと、誰、今の?」

 美奈が言った。

 ――私じゃない。

「カナロじゃないのはわかってる。私でもない。なら、誰なのよ」

 ――止めて、もう止めてよ。

 ――チヨクロが生きていたわけでもない。少女の声だ。そうか、君は。

「嘘でしょう? そんなことってあり得るの?」

 ――美奈、君は美奈だね?

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