第10話 ㉒~㉓
㉒
理子は教室に戻って音楽の教材を置くと、すぐ理科室に向かった。
理科室で、言われた通りに、実験用の大型の机の影に隠れる。準備室の扉を見つめて、理子は美奈が来るのを待った。
あの準備室の中に、瞳はどんな細工をしてきたのだろうか。気にならないではなかった。今扉を開ければ、確認することが出来るが、しかし理子にそうする気はなかった。それを見たところで、自分にはどうする度胸もないのだから。いっそ何も知らない方が心が楽だった。瞳も理子のその心理を見抜いている。だから、準備室を覗くななんて釘をわざわざ刺さなかったのだ。
理子は自分の臆病さが心底、嫌になる。準備室の扉。瞳が先に鍵を開けておくと言っていた。細工した時に、開けっぱなしにして行ったのだろう。瞳が美奈と一緒に来て、自分で美奈を閉じ込めないのは、理子を苦しめるために違いなかった。瞳が間違えて、扉の鍵を閉めて行っていれば良いと思った。そうすれば、美奈も理子も何もしないで済む。扉の鍵を開けろとは、理子は言われていない。
理科室の扉が開く音がして、美奈が入ってきた。理子は緊張した。美奈に気付かれないように息を潜める。理子のせいで計画が失敗したら、瞳は理子を許さないだろう。
美奈自身、瞳の悪意に気付いているはずだが、全く憶する様子もなく、理科室の奥まで来て、準備室の扉を開けて中に入った。扉は外開きで、瞳が準備室に入ったのを確認すると理子は机の影から飛び出し、まだ閉まりかけの扉をぶつかるように閉じると、すぐに鍵を掛けた。
扉の向こうで美奈の声がする。ドアノブががちゃがちゃと激しく音を立てる。
「ごめんね」
理子は扉の前で呟いて、理科室から駆け出した。美奈の苦しむ様を扉越しにも感じていたくなかった。早く逃げ出したいと気が急いていたせいだろうか。準備室の扉に近付いた時、微かに漂っていた異臭に、理子は気が付かなかった。
準備室の中、美奈はドアノブから手を離した。
「閉じ込められた」
――え、それだけ? つっまんないね。
ちっと美奈は舌打ちする。それから咳払いをする。
「おい、何だか、変な匂いがしないか?」
――色んな薬品があるからじゃないか?
美奈は部屋を見回す。狭い部屋だった。窓は無く、左右の壁に沿って薬品や標本の並んだ棚がある。その間に人一人歩ける程度の幅が残っているだけである。
美奈は咳き込んで少しふら付いた。
「いや、ちょっとこの匂いはおかしいぞ」
その時、微かな音が聞こえた。部屋の奥で蓋のしてあるバケツから、空気が漏れだすような音がしていた。鼻と口に手を当てて美奈が近付く。バケツの蓋の隙間から、泡がぷつぷつと吹出している。
「なんだよ、これ」
美奈が蓋を開ける。途端、異臭が強くなる。美奈は激しく咳き込んで飛び退いた。バケツの中は緑色の液体で満たされており、細かい泡がぽつぽつと湧いていた。
美奈は目を押さえる。
「くそ! なんだこりゃ、喉も、目も痛ぇぞ」
――あんまり騒がないでよ。そんなに痛がってだらしなーい。
――おお、もしかして、これは硫化水素かな。
「なんだよ、それ!」
――家庭でも極簡単に作れる有毒ガスさ。でも、どうだろう、違うかもな。まぁ、何にせよ、君の反応を見る限り、あのバケツから出てるのは有毒なガスに違いないよ。
美奈は足がもつれて床に転ぶ。
――ちょっとぉ、何やってんのよ。
「体に力が入らねぇ! 痛みだけならどうでもないがこれはヤバいぜ!」
激しく咳き込む。
美奈は目を見開いて、準備室の扉を見た。目は爛れたように真っ赤に充血している。這いずって扉まで行く。
――もし硫化水素なら、空気より重いから床に溜まる。床に寝たまま移動するのはあまりオススメしないね。
「うるせぇっ!」
美奈の声は酷いガラガラ声に変わっていた。
準備室の扉に寄りかかりながら身を起こし、手を伸ばしてドアノブを掴むと激しく回す。扉を揺さぶり、拳で何度も叩く。拳の皮が剥けて血が滲む。
「駄目だ、力が出ねぇ。タンゲラ、お前の力で治してくれ!」
――無理だよ。この部屋、ガスが充満してるんでしょ? そりゃあ、隙間なく治し続ければしばらくは動けるけど、そもそも鍵が開かなきゃ、幾ら治したって、切りがないよ。
「カナロ、お前の力であの理子とか言うガキの頭を操ってくれ! 扉を開けさせろ!」
――嫌だね。おそらくもう扉の向こうにはいないだろうし、今この体、かなりヤバい状態だよ。力を使うには君と入れ替わらなきゃいけないし、その間にこの体が力尽きたら、僕が消えなきゃならないだろう?
「くそっ! くそっ!」
――君のご自慢の力で扉を壊せば良いじゃないか。あの子の頭みたいにさ。
――そうそう、あ、ごっめーん。アレって生きてる生物の肉体にしか使えないんだっけ?
美奈の手がドアノブから離れ、体がドアにもたれ掛かったまま、崩れてずり落ちていく。
――君は全く、不用意すぎるんだよ。何の準備もせず相手の誘いに乗って、バケツの蓋も無警戒に開けるし。ま、バケツの蓋は開けても開けなくても、時間の問題だったがね。
――自業自得ってやつ。今回一番最初に抜けるのはチヨクロで決定! やーい! 馬―鹿、馬―鹿!
㉓
理科室を後にした理子は、女子トイレの個室に籠っていた。
理科室のすぐ前のトイレではない。しかし自分のクラスの近くのトイレでもなかった。自分のクラスの一階下の、一年生の使うトイレだった。
人の出入りはあったが、少なくとも瞳達が来ることはないはずだった。
理子は気を落ちつけるため、ゆっくりと呼吸を繰り返した。瞳達に加担した後は、いつも動揺して脈拍と呼吸が乱れる。
やがて理子は制服の左腕の袖を捲った。手首に幾筋もの赤い線が走っている。右手をポケットに入れて、カッターナイフを取り出す。
カチカチと音を立てて刃が伸び、理子は左手首にその刃を押し付けた。
僅かに引くと、ぷくりと赤い血が出て滲む。それを見て、理子は少し気が軽くなるような気がした。
これは罰だった。美奈を裏切って、瞳達に加担している自分への罰。自分も傷付くことで、美奈を痛め付けた罪が、ほんの少しだけ許されるような気がした。
理子はカッターをしまい、ハンカチで傷口を拭くと、袖を戻して、自分の教室へと向かった。
休み時間が終わって、五時間目の授業が始まった。教室にはまだ美奈と芽以の姿がなかった。
理子は自分の前の空席を見た。美奈は閉じ込められたままなのだ。
芽以の行方はわからない。もしかしたら、理由はわからないが、勝手に早退したのかもしれない。
瞳や芽以が美奈で遊ぶことに夢中になって、授業に遅刻することは初めてではない。教師もそれを踏まえてはいるだろうが、これだけ長時間現れないと、多少、騒ぎになっているかもしれない。
理子はちらりと瞳の方を見た。瞳は美奈をいつまで閉じ込めるつもりだろうか。多少の遅刻はともかくとして、瞳だって悪目立ちしたいわけではないだろう。昼休みの内に美奈を解放する可能性もあるかと思ったが、瞳は全くその素振りを見せなかった。やはりいつもと違う美奈の態度を、よほど腹に据えかねているのだ。
美奈は今、どうしているだろう。小動物のホルマリン漬けやそういう類のものを、美奈は昔から怖がった。だから、上履きの中の小動物を踏み潰すなんて、本当に、美奈の精神が狂ったとしか言いようがないことなのだ。
小さな部屋に閉じ込められて、怪しい薬品と標本に囲まれて、美奈は本来の臆病さを取り戻しているかもしれない。部屋の中で、一人切り、心細さに震えているかもしれない。しかも恐らく、そこには瞳が仕掛けた何らかの細工もあるのだ。それが何かはわからないが、美奈を苦しめるためのものであることは間違いない。
今、美奈は理科準備室で、きっと絶望に苛まれているのだ。
もし他のクラスや学年で、五時間目に理科室を使っているなら、美奈は助け出されるだろうが、瞳のことだ、そんな時間割になっていないことは確認済みだろう。
美奈は、絶望と孤独の中で、自分のことを恨んでいるかもしれない。そう思うと、理子の胸の奥は酷く痛んだ。理子はポケットの中に手を入れ、カッターナイフをぎゅっと握った。
五時間目の授業が終わった。今日は六時間目まで授業がある。その間の休み時間、理子は何度も瞳に視線を送った。まだ美奈を許さないのだろうか。美奈を早く解放してあげたい。しかし理子には、それを直接、瞳に進言する勇気はない。
ふと、瞳が立ち上がった。理子の方へ歩いて来る。
「田中さんのことが気になる?」
理子の傍に立って、瞳が言った。理子は密かに瞳を見ていたつもりだったが、気付かれていたようだった。
「あ……その……」
理子は目を泳がせて、言い淀んだ。瞳が少し小声になって言った。
「そうだよね、そろそろ、死んでいるかもしれないし」
理子は戸惑って、瞳の顔を見た。
「え?」
瞳が理子に微笑みかける。
「私、理科準備室で、洗剤とかね、少し混ぜてきたの。あそこには他にも色んな薬品があるし、上手く混ぜるとね、人を殺すガスなんて、簡単に作れちゃう。すぐに死ねるようなやつ、前に調べたことあるんだ」
理子は瞳の顔を見つめた。冗談で言っているのだろうか。微笑んでいる瞳。どこまでが本当で、どこまでが嘘かわからない。
理子の体が小刻みに震え出した。
「部屋から出してあげるならね、気を付けた方が良いよ。ガスが充満してるから、ハンカチを口に当てて出来るだけ吸わないようにしないと……」
理子は勢いよく立ち上がった。クラスの視線が思わず集まる。理子は教室の外へ駆けだした。
嘘だ、嘘に決まっている。理科準備室へ走りながら、理子は自分の心に言い聞かせた。いくら瞳でも、そこまでするはずがない。美奈が死んだとなれば、しかも自殺ではなく、誰かが殺したとなれば、今まで瞳や芽以のしてきたことのように、うやむやに出来ることではない。瞳は人殺しの烙印を受けて、これからの人生を歩まねばならなくなる。芽以ならばともかく理性的な瞳が、自分の人生を投げ捨てる程、嗜虐趣味に染まっているとは思えない。
だから瞳が言ったことは、理子を焦らせるための嘘なのだ。こうやって必死になっている理子を見て、嘲笑っているのだ。そうに違いない。そうに違いない。
自分に言い聞かせながら、しかし理子は瞳の微笑んだ顔が頭に浮かぶのを拭い去れなかった。何を考えているかわからない、あの微笑み。瞳なら、ああやって微笑んだまま、ふと人を殺してしまうことも、あるかもしれない、そう思わせる笑顔なのだ。
今日の美奈は異常だった。瞳達と美奈の間にある空気も、いつもと違っていた。どこかの歯車が、狂ってしまっている日だった。その狂いのままに、瞳が最後の一線を超えてしまった。そういうこともあるかもしれない。不安のあまり、理子の目から涙が零れ出した。
理子が理科室に飛び込む。生徒の姿はない。六時間目にもここで授業はないのだ。
「美奈、美奈!」
呼びかけながら奥の扉に近付く。
「美奈っ、美奈っ!」
扉を叩きながら、中に向かってより強く呼びかける。返事はない。理子は扉の隙間から漂う異臭に気付く。理子の顔が真っ青になる。
瞳に返さずに持っていた鍵を挿して解錠する。服の裾を口に当てて扉を開ける。すると美奈の体が足元に倒れ込んでくる。扉に寄りかかっていたのだ。瞳は息を止めたまま、美奈の制服を掴んで、精一杯引っ張る。準備室から出来るだけ遠ざける。
理科室の窓を全て全開にする。窓の外に首を伸ばして、一度呼吸する。教室の中に向き直って、これ以上ガスが漏れ出てこないように、理科準備室の扉を閉める。それから美奈の傍に戻った。
「美奈、目を開けて」
美奈の体を揺さぶる。美奈の顔や手足の皮膚には、淀んだ、痣のような斑点が浮かんでいる。ガスを体に纏っているように、準備室の外に出しても美奈の傍では異臭が濃かった。理子は服の袖を口と鼻に押し付けながら、出来るだけ息を吸わないように美奈を呼び続けた。
六時間目の授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。美奈は一向に目を覚まさない。
理子は美奈の名前を呼ぶのを止めた。
理子の目に涙が止めどなく溢れて零れ出た。絞り出すような嗚咽を理子は抑えることが出来なかった。泣きながら、誰かを呼ばなくてはならないと思った。助けを呼ばなくては。手遅れかもしれないが、救急車を呼んで病院に運ばなければ。急がなければならない。しかし、理子は自分の足に立ち上がる力が入るかわからなかった。
理子の前で、美奈の体は全く力の抜けた状態で倒れていた。泣いている理子は気が付かなかったが、その体に少しずつ変化が起きていた。皮膚に浮かんでいた痣のような斑点が、次第次第に消えて行き、顔色が生気を取り戻してく。
ゆっくりと、美奈は目を開けた。
隣では理子が、顔を押さえて泣いている。
美奈はゆっくりと身を起こした。理子が気付いて顔を上げる。信じられないものを見たような表情になる。美奈が微笑む。理子の表情が、段々と、微笑むように崩れていく。
「美奈っ!」
理子が美奈を抱きしめた。
美奈も理子を抱きしめ返して呟いた。
「おかえり」
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