第9話 ⑲~㉑

 校舎裏に辿り着いて、瞳は驚愕した。

 凄惨な光景がそこには広がっていた。

 辺りには細かい肉片が無数に散らばっている。観察池の淵の壁には大量の血がべったりとこびり付いていた。

 その肉片には見覚えがあった。肉片の中の幾つかは、昨日マンションの前の夜道で見たものと色や形の具合が似ていた。美奈の頭から溢れだしていたものと。

 予想外の光景に瞳の息が上がった。

 無数の肉片と血を残しながら、そこに人の姿はなかった。この肉片と血を撒き散らした大元の肉体がない。肉片を集めても、人一人分には足りそうになかった。

 一体何が起こったのか、瞳には想像できなかった。血の付いた観察池の壁、そこから放射状に肉片は撒き散らされていた。瞳はゆっくりと観察池に近付いた。

 肉片を踏まないように、注意して歩く。足元を見て歩いていると、肉片の中に、小さな丸いピンポン玉のようなものがあった。血に濡れているそれは、眼球に違いなかった。さらに瞳を動揺させたのは、その眼球に深く画鋲が突き刺さっていたことだ。

 この場所で行われたこと、頭の中に浮かんでくる想像は、瞳に吐き気を催させた。

 池の傍まで辿り着く。そこでふと、瞳は池の中に浮かんでいるものに気付いた。

 それは濁った池の水の中で、目立つ白い色をしていた。それは人の皮膚の色だった。瞳の心臓が苦しい位に脈打つ。池の水面に浮かび出ているそれは、人の右手首だった。

 指先の爪の部分に、画鋲が刺さっているのが見えた。指先と手の甲の一部が水面に姿を現していて、それ以外の部分は池の底に沈んでいる。水面下に続いていく腕を目で辿った時、濁った水面の僅か下に、微かに透けて見えるものに瞳は気付いた。

 ミサンガだった。黄と緑の糸で編まれた、芽以のミサンガに間違いなかった。

「あ、ああ……」

 意図せず、喉から声を漏らし、瞳は後ずさった。

 この池の中に芽以が沈んでいる。そして辺りにばら撒かれた肉片は、夥しい血液は、芽以のものだと考えるしかなかった。そしてそうならば確かめるまでもなく、芽以にもう命は残っていない。

 あの下卑た笑顔が心の中に浮かぶ。あの顔をもう二度と見られない。

 これを美奈がやったのだろうか。粉々の肉片を撒き散らすほど、芽以の体を破壊して、その後、池の中に沈めたのだろうか。そんなことが美奈に可能だろうか。いや、仮に美奈でなくても、まともな人間の所業とは思えなかった。

 死んだはずの美奈が学校にやって来て、芽以が惨殺された。異常なことが起こっている。あの美奈は一体何者なのか。美奈は、瞳が憎んだあの日の少女は、もう昨日いなくなったのではなかったか。決着はもう着いたのではなかったか。瞳を嘲るために、地獄から、戻ってきたのだろうか。これ以上、瞳から、何かを奪ってゆくために。

 誰かを呼ぶべきかもしれなかった。教師を呼ぶか、警察を呼ぶか、少なくともこの校舎裏の説明し難き惨状を、まともなら報告すべきだった。しかしこれは、瞳にとって、もはやまともな話ではなかった。

 後ずさる足がもつれて瞳は尻餅をついた。転んだ拍子に、地面の肉片が瞳の手に触れた。反射的に瞳は手を引く。自分が今触れた肉片に目を向けると、それは芽以の眼球だった。血で濡れて、一部に筋のようなものがこびり付いている。そして黒目のちょうど真ん中に、画鋲が突き刺さっている。

 下駄箱で会った美奈の姿が頭に浮かぶ。挑発的な笑みを浮かべて、美奈が言う。

「もう一度、殺してみろよ」

 瞳は芽以の眼球を手に取って握りしめた。

「やってやる……」


 瞳や美奈達の様子がおかしいことを、理子も感じ取っていた。

 理子は朝、出来る限りゆっくり登校する。学校にいればその分だけ、苦しむ美奈を見ていなければならない。幸い登校時間について瞳や芽以から指示されたことはない。放課後は、彼女達の遊びに付き合わされることもあるが。

 今朝、理子が登校すると、既に瞳達と美奈の間に異様な緊張があった。

 普段ならば、既に嬉々として、瞳と芽以が美奈の机を囲んでいるはずだが、瞳も芽以も自分の席に座っていた。

 瞳はいつもの微笑みのまま、授業の準備などしていて、相変わらず何を考えているかわからなかった。一方でその後ろの席の芽以は、酷く苛ついた様子で美奈の方を見張っていた。理子が教室に入ると、芽以に睨みつけられる。いつもの下卑た笑い顔ではない。相当に不機嫌であることがわかった。

 理子は異変を感じながらも、自分の席に向かった。理子は美奈の席の横を通って、美奈の後ろの自分の席に着く。挨拶の声は掛けない。美奈が瞳の標的にされて、それを黙認した時から、理子は自分に美奈と話す資格などないと思っている。

 通り過ぎる時に見た美奈の様子も、いつもと違っていた。芽以が仕掛ける上履きの悪戯に打ちひしがれて、沈んだ表情をしているのが常なのに、今朝は微笑みさえも浮かべている。どういうことだろう。今日は上履きに何もされなかったのだろうか。だから芽以が不機嫌でいるのだろうか。

 理子は美奈の上履きに目を落として、目を見張った。美奈の上履きの生地に赤い染みが滲んでいる。足と上履きの間からミンチになった肉がはみ出している。それから形を残した、小動物の足と尻尾も見えた。ふと鼻に、生臭い匂いが漂ってきたような気がした。軽い吐き気を覚える。

 今日もちゃんと上履きには仕掛けがされていた。おそらくネズミか何かが入れられていたのだ。そして美奈はそれをそのまま履いたのだ。

 まともな行動とは言えなかった。少なくとも美奈が出来る行動ではない。まして、そのまま平然とした微笑みを浮かべるなんてことは。

 昨日のことが、美奈を狂わしたのだろうか。

 理子は、結局、あの手帳の中身を読まなかった。しかしその後の流れを見れば、内容はなんとなくわかった。手帳を奪われた時の反応も、沙月と別れた後の号泣も、やはり普段の美奈の行動の範疇を逸脱していた。それだけ、美奈にとって沙月のことは、侵し難く大切なことだったのだろう。そのことに自分が加担した、と言う事実に、理子は悲鳴を上げたい気分だった。

 小動物をそのまま踏み潰して上履きを履くという行為は、明らかに常軌を逸している。昨日の出来事が美奈の精神を完全に変えてしまったのではないかと理子は心配した。

 そして、この後の瞳と芽以が恐ろしかった。美奈の行動はそれが異常かどうかに関わらず、確かに瞳達に対する反抗だと言えた。美奈は瞳達の行為を、平然と受け止めてはならない。恐れ戦き、無様に震えていなければならないのだ。

 美奈の信じ難い行動に、今は二人とも戸惑っている。瞳はいつものように、平然とした微笑みを浮かべてはいるが、授業前のこの時間に美奈の元に来ずにいるということが、彼女が美奈を遠くから観察しようとしていることの証左だった。しかし、そんな様子見がいつまでも続くわけではない。やがて彼女達の怒りが美奈に跳ね返って来る。その時、自分はまたそれを、ただ黙って見守るしか、出来ないだろう。

 案の定、一時間目が終わると、すぐに芽以が美奈のところにやって来て、体育着を引っ手繰って行った。瞳はまだ観察を続けるつもりらしかった。芽以だけのせいか、いつもよりやり方が乱暴な気が理子はした。あるいは美奈に対する動揺が、ある種の焦りを芽以に生んでいるのかもしれなかった。

 体操着をぐしょぐしょに濡らされた美奈を前にしても、理子は何も言葉を掛けられなかった。その後、二時間目の体育が終わると、芽以が急いで校舎に戻って行くのが見えた。きっとまた良からぬことを企んでいるに違いない。それも、理子は黙って見ているだけだった。

 三時間目の国語の授業が始まっても、美奈と芽以は戻ってこなかった。理子は酷く心配になった。美奈が芽以に絡まれているのではないかと思った。いつもの美奈なら、消極的に怯えるところを、今日の美奈が、何か生意気な反抗をしてしまったのではないだろうか。それが芽以の加虐心に火を点けたとしたら、今、美奈がどんな目にあっているか、想像するのも辛かった。

 生徒が二人いないことを、授業をしている沙月も気に掛けていた。特にその内の一人は、自分との間に、昨日あんなことのあった、美奈なのである。あの場に芽以や瞳もいたことを、沙月は知らないだろうが。

 やがて瞳が、心当たりがあるから探して呼んでくると、上手く沙月を言い包めて、教室から出て行った。理子の心配は一層増した。芽以だけでなく、瞳も加わるとなれば、美奈は更に酷い窮地に立たされることになる。しかし自分には、瞳の後を追って教室を出る上手い理由が思いつかない。いや、単純にそうする度胸が、ないだけなのだ。

 そうして理子は酷く落ち着かない気持ちでいたが、しかし瞳が出て行ってからほんの数分で、体操着姿の美奈が教室に姿を現した。美奈は何かされた様子もなく、全く平然としていた。理子は驚きを隠せなかった。どうしたことだろう。芽以や瞳とは、何もなかったのだろうか。

 美奈が軽い謝罪をし、沙月が一言二言の注意を与えた後、自分の席に向かおうとする美奈に沙月が瞳と会わなかったか訊ねた。沙月の美奈に対する態度は一見いつも通りだったが、事情を知っているものが見れば、どこかに遠慮があるような微かな違和感を見て取れるものだった。逆に美奈は平然と、いつも以上に落ち着いた様子で、瞳は芽以を探しに行くと言っていたと説明した。

 美奈は自分の席に残してあった制服を取ると、トイレで着替えてくると言って、再び教室から出て行った。その間、理子は美奈から何かの形跡を見出そうと、じっと見つめ観察した。美奈が自分の席の制服を取る際に、先に手に抱えていたジャージを袋にしまった。その時、理子は一瞬、そのジャージに血が付着しているのを見た。やはり何かあったのだ。理子は美奈の顔を見上げた。しかし美奈は理子を見ずに、教室を出て行った。

 やがて制服姿の美奈が戻ってきて、その後、瞳も教室に戻ってきた。瞳は芽以を見つけることが出来なかったと沙月に謝った。しかし、理子にはそれが本当かどうか疑わしかった。美奈と瞳と芽以の三人の間で、確かに何かが起こったのだ、と理子は思った。


 四時限目は音楽室で授業だった。

 三時間目が終わると、美奈はすぐに音楽室に行ってしまった。いつもならあり得ないことだ。教室にいないと、持ち物に何をされるかわからない。教室移動の時は、少なくとも瞳達より後に移動するのが、美奈の僅かな防衛法だった。

 美奈が教室を出てから、しばらく遅れて、理子が音楽室へ向かおうとすると、瞳が近付いてきた。理子は内心で身構えた。

「一緒に行こう? 音楽室」

 瞳と理子は並んで歩き出した。

 歩きながら、瞳が理子に言う。

「今日の田中さん、ちょっと生意気だと思わない?」

「そ……そうかな?」

 理子は曖昧に応じた。

「少しね、懲らしめてやろうと思うの」

 瞳の言葉に理子はどきりとした。瞳が制服のポケットから二本の鍵を出し、一本を理子に差し出した。理子は瞳の顔を見る。瞳はいつもの微笑みを浮かべている。理子はそっと鍵を受け取った。

「それ、理科準備室の鍵。こないだ、芽以が盗んで鍵屋で何本か複製してきたの。これでお弁当に標本を飾れるよって」

 瞳がおかしそうに声を出して笑った。理子は愛想笑いを浮かべたが、心の中では、瞳と芽以の趣味の悪さに閉口した。

 理科準備室は、理科室の隣にある小部屋で、ホルマリン漬けの標本や実験で使う薬品が保管されていた。廊下には繋がっておらず、理科室の奥にある扉からだけ出入りできた。劇薬もあると言うので、普段は鍵が掛かっている。

「まあ、今日は、芽以がどこかに行っちゃってるし、ちょっと閉じ込めるだけにしようかなと思うの」

 瞳も芽以の居場所を本当に知らないのだろうか、と思いながら理子は訊き返した。

「閉じ込める?」

「そう、理科準備室って内側から鍵を開けられないの。つまり外から鍵を掛けちゃえば、ね。田中さん、標本とか、嫌いでしょ。良いお灸になると思わない?」

 理子は瞳の顔を見つめた。本当にそれだけだろうか。閉じ込めるだけなんて、瞳のやることにしては手ぬるい気がした。芽以がいないせいでいつもより力が入っていないのか。それとも、何か他の策略があるのだろうか。理子が顔を見ていると、瞳は微笑んだまま首を傾げるようにした。私の顔に何かついてる? とでも聞くように。理子は、理子が瞳の顔を見つめて、その考えを覗き見ようとしていることとに釘を刺されたような気がして、目を逸らし俯いた。

「昼休みに、田中さんを理科準備室に呼ぶから、理子さんは理科室の机の影にでも隠れて、田中さんが準備室に入ったら、鍵を閉めれば良いよ。先に私が鍵を開けとくからさ」

 瞳の本心はわからないまま、理子は手に持った鍵を見つめた。瞳が何を企んでいるにせよ、自分には反抗する度胸などないのだと、もう充分に自覚している。理子はこくりと頷いた。

 音楽室での授業中、授業も後半に差し掛かったころ、トイレに行くと言って退出した。ただのトイレにしては長い時間をかけて、瞳は戻ってきた。何も知らなければ、腹痛だったのだと思うかもしれない。長い排泄時間について、瞳を揶揄おうなどという恐れ知らずな者はクラスにいないが。事情を知っている理子は、何か細工をしてきたのだろうと思った。

 音楽の授業が終わり、生徒達が自分達の教室に戻り始める。四時間目が終わって、これから昼休みだった。

 理子はすぐに音楽室を出て行ったが、来た時と違って美奈は急いで音楽室から出ようとはしていなかった。瞳が近付いてきた。

「田中さん、今日もお昼、一緒に食べよう?」

 美奈は挑発的に微笑んだ。

「良いよ」

 瞳は少し小声になって言った。

「実はね、理科準備室の鍵を手に入れたの。せっかくだから、今日はそこで食べよう?」

 瞳が悪戯っぽく微笑む。

「理科準備室……理科室の奥の?」

「そうそう……じゃあ、先に行ってるから」

 瞳は美奈と別れて音楽室を出て行った。

 瞳が出て行くのを見送ってから、美奈も立ち上がった。既に他の生徒も音楽室を出て、美奈が最後の一人だった。

「おもしろくなってきたな」

 ――あの子、絶対なんか企んでるけど、行くわけ?

「当然だろ、だからこそだよ」

 ――弁当なんて持って来ていないがね。いつもはこの体の母が作っていたみたいだが。

 ――ああ、机の角に頭ぶつけて死んだ人。

「どうでも良いだろ、そんなこと」

 美奈は音楽室の外へ歩き出した。

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