第8話 ⑱
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あの日の夜、瞳は美奈の住むマンションを、近くの公園のベンチから見つめていた。もしかしたら、と予想はしていた。
夜の街は寒かった。白い靄になって漂う息を手に吹きかけて擦り合わせた。こんな真夜中に外で、起こるかどうかもわからない事件を待っているのは、あるいは滑稽であったかもしれない。
しかし瞳にとって、それは丁度良い暇つぶしでもあった。どうせ、しばらくは家に帰ることも出来ないのだ。
学校で、瞳の家庭のことを知っている者は殆どいない。一部の保護者と教師、例えば担任の沙月等は知っているが、瞳は普段から全く自分の家庭のことを話さなかった。
中学に入って一緒に行動するようになった芽以が瞳の家に遊びに来たがったが、一度本気で睨みつけたらもう言わなくなった。
瞳の家は小さな安アパートだ。わざわざ遠回りして帰る程の気の回しぶりで、他人に家を見せたことはない。家の中はアルコールと化粧品と、生々しい据えた匂いが混ざり合っている。毛羽立った畳の床には幾つもの染みが付いている。
母がよく、酒を零すからだ。
母は草臥れたホステスで「あんたがいなければ」を口癖にしている。父は瞳が生まれる頃にはもうどこかに消えてしまっていた。
真面目に貯蓄すればもう少しましな家に住めるだろうが、瞳の母は真面目などと言う言葉とは無縁だった。稼いだ金は大抵男に貢いでしまった。
決まった男がいる時は狭いアパートに男と三人で暮らすことになる。母の仕事のない日、あるいはまだ朝にならない内に帰ってきた日は、母が男と情事を行うため瞳は家から追い出された。それは真夜中の、瞳が眠りに付いた後のこともあったが、構わず瞳は叩き起こされ追い出される。瞳もそんなもの見たくないので素直に従う。
幼い頃は母に追い出される理由がわからなかった。冬の夜に追い出された時は寒くて心細くてたまらなかった。家の扉の前にいても怒られるので、アパートの外の、少し離れた道路の端に蹲って、部屋の扉が開いて母が入室を許す呼びかけをするのをひたすら待つしかなかった。
瞳が小学二年生だったある時、その晩は外に出なくて良いと言われた。瞳はとても喜んだ。
その時に瞳の母と一緒に暮らしていた男は偏った性癖の持ち主で、彼は幼い少女に見られながら情事に及ぶことに強い興味を示していた。瞳の母は惚れた男に反対するということを知らない。
瞳は目の前で母と男が始めた奇妙な行為の意味が分からなかった。裸になって絡みあう二人。荒々しく呼吸をする男。男に圧し掛かられ苦し気な、しかし同時に快楽的な声を上げる母。部屋に充満していく据えた匂い。瞳はその悍ましい光景に恐怖した。目を閉じて耳を塞いでしまおうとした。しかし男の手が伸びて瞳の手を掴み、耳から引きはがした。
「見ろ! 見ろぉ!」
男が殆ど怒号に近い声で言った。
瞳は震えながら顔を上げた。男の血走った目が瞳を睨みつけている。腹の下で母を押さえ付けながら、顔だけはじっと瞳を見つめている。瞳は顔をくしゃくしゃにして泣きながら、男と母の行為を見届けさせられた。
男と一緒に暮らしていない時でも、しばしば母はどこからか男を連れ込んだ。瞳は外に出ることに文句を言わなかったが、母は瞳がそのことに不満を持っていると決めつけていた。
「仕方ないだろぉ、喰ってくためなんだから」
と母は瞳に言葉を投げかける。それから
「あんたがいなければ、すぐにでも男に拾って貰えるのに」
と続けた。
嫌ならば、そんなことをしなくても、ホステスの仕事と政府の援助金で何とかやりくりすることも出来るはずだった。瞳自身、母がそうしたいと言うならば、自分が働いても良いと思った。しかし瞳は知っていた。母が男と寝る時、場合によっては母が男に金を払っていることがあることを。
瞳が処女を失ったのは、小学五年生の時だった。母は仕事に行っていて、アパートにはその時一緒に暮らしていた男と瞳の二人きりだった。男はべろべろに酔っぱらっていて、部屋の隅に蹲っている瞳を見て、急にこう言った。
「お前、初潮は来たのか?」
瞳は首を振った。
授業で習ったので、瞳も初潮のことは知っていた。初潮が来ると、体が子どもを産む準備が出来るようになる、と教師は言った。初潮が来ないと子どもが産めないのだと瞳も理解した。それを、初潮が来なければ子どもを作らずに好き放題出来る、と解釈する人間がいるなんて、思いもしていなかった。
明け方、母が帰ってきた時、男は泥酔してぐっすりと夢の中だった。その隣に、使い終わった瞳の体が横たわっていた。張られた頬が赤く腫れ、押さえ付けられた手足が内出血を起こし黒い痣を作っていた。服ははぎ取られ、股から、赤い血と白濁液が零れ出していた。瞳は立ち上がる気力すらなく、糸の切れた人形のようにただただ倒れていた。
その光景を見た母は激怒し、瞳の身を起こすと、思い切り頬を張った。乳房を抓りねじ切らんばかりに捻った。悲鳴を上げる瞳を裸のまま部屋の外に追い出し扉の鍵を掛けてしまった。
瞳は涙と鼻水で腫れあがった顔を濡らしながら必死で扉を叩き、中に入れてくれるよう懇願した。身を揺する度に、瞳の股から白濁液が零れて部屋の前の床を濡らした。
母は娘が自分の男を寝取ったことが許せなかったのである。
瞳の母のことは、同じ小学校の保護者にも知られていた。もちろん瞳がそこまでの仕打ちを受けているとは想像しなかったかも知れないが。
同じ小学校に通う多くの生徒が、瞳と友達になってはいけないと親から言われていた。何人かの生徒はそれを、瞳は蔑むべき人間だ、という意味に理解した。実際、間違った理解ではなかったかもしれない。
自分に向けられる蔑視への反発が、瞳に他人への攻撃性を与えた。他の生徒と瞳の間には問題が絶えなかった。そして多くの場合、その原因は瞳の方だとされた。
瞳が処女を失って、しばらくしてからのことである。その日、母は仕事が休みで、男との休日を楽しんでいた。二人でいちゃついている間は瞳も部屋にいることを許されたが、二人がそれ以上のことをする段になって、瞳はいつものように追いだされた。朝まで帰って来るな、と言われた。時間はまだ夕食時だった。日の落ちた町はすでに冷え切って、着古して薄くなった粗末な上着しか持たない瞳は小刻みに震え歯をカチカチと鳴らした。
小五の頃にはもう、外に追い出されることに瞳も慣れていて、もっと幼い頃のように、家の前の道路で蹲って待つようなことはしていなかった。凍える体をさすって当てもなく道を歩きながら、朝までどこで過ごそうかと考えた。
あまり人目に付かないところが良い。警察に補導されるようなところはまずい。小学生が深夜に一人で歩いているのだ。見つかれば当然、補導される。以前に一度補導された時、瞳は母から厳しい仕置きを受けた。またそうなるのは御免だった。特に、その頃一緒に暮らしていた男は暴力的なところがあったので、今再び補導されれば、その男も参加して、酷い目に遭わされることは確実だった。
思案しながら歩いている内に、家から大分離れた通りまで来てしまった。駅の傍で、店の看板や灯りがそこら中できらきら輝いている。瞳も金を持っていれば、どこかの店で凍えずに時間を過ごすことが出来るのだが、そんな小遣いは当然与えられていない。それにもし入れたとしても、小学生の女子一人で、朝まで居座れるわけがない。
瞳はため息を吐いた。息が白い靄になって消える。
ふと、向かいの道を歩く家族の姿が瞳の目に入った。自分と同じ位の少女が、両親と思われる男女に挟まれて道を歩いている。家族で外食をした帰り道、と言った感じだった。両親は笑顔で、特にその母親の方の笑顔が、人生の全てが、本当に鮮やかな幸せに彩られていると信じて疑わないような笑顔で、その家族の幸福な生活ぶりを思わせた。
その家族の姿は、瞳を強烈に腹立たせた。
両親に挟まれた少女は暖かそうな服に身を包んで、とても恵まれているように見えた。隣にいた父親が、それでもまだ娘の寒さを拭い去ってやろうとするかのように、少女の手を握って自分のコートのポケットの中に一緒に入れてやった。父に手を握られた少女は、しかし笑顔にはならず、少し戸惑ったように顔を伏せた。照れているのだろうか、わからないが、その反応は瞳には、酷く贅沢なものに見えた。それがまた瞳を苛立たせた。気付かぬ内に、瞳の寒さに震える歯は固く噛み締められ、瞳は瞬きすら忘れてその家族を睨みつけていた。
そうして瞳は自分の中にこびり付いている、強烈な怒りの感情を知った。瞳が持っていないものを、何の苦労もなく享受している人間に対する、堪えようのない憎しみの感情に気が付いたのである。
それまで、あからさまな喧嘩や諍いが主だった他の生徒と瞳の間の問題が、より陰険で、歪んだ方向に向かったのはそれからである。
小学校を卒業する段になって、瞳は通常入るべき中学校ではなく、少し離れた中学校に入ることを望んだ。このまま同じ中学に進むであろう同級生達との関係は最悪であったし、自分の蔑むべき家庭の事情を知っている人間と一緒にはいたくなかった。
その頃、過去に比べれば、瞳と他の生徒の間の軋轢は減ったように見えたが、それは瞳のやり方が変わったために、目に見えなくなった、と言うだけに過ぎなかった。人の目の届かないところで、それはむしろエスカレートしていた。
教師の一部は、確証はないが、それを肌で感じ取っていた。そのため瞳の希望はスムーズに実現した。今の同級生達とは離した方が良い、と学校側も判断したのである。厄介払い、というのに近かったかもしれない。
そうして瞳は夏香市立第一中学校に入学した。
この新天地で、瞳はまた密かに自分の中の怒りを発散し続けた。標的を見つけて、追い詰めていく。飽きたら標的を変える。
教師には基本的にばれなかった。あるいは多少事実が発覚しても、薄い謝罪と誤魔化しで大事にさせなかった。しかし夏休みに入る前には、少なくとも同級生の間で、瞳は危険人物とみなされていた。
そんな瞳に自分から近付いて来る人間などいるはずがなかった。しかし、一人だけ瞳に近寄ってきた女生徒がいた。それが芽以だった。
初め、瞳は芽以が保身のために自分に近付いてきたのだと思った。つまり、芽以自身が瞳の標的にならないために、瞳の仲間になりに来たのだ。そう考えると酷く癪に障った。手にミサンガを付けているのも、瞳に芽以がミーハーで悩みのない人間であるように思わせた。
そんなに仲間になりたいなら、仲間にしてやる、と瞳は思った。
ある日の放課後、丁度その時、瞳の標的だった女生徒を前にして、瞳はその女生徒のノートを芽以に渡した。ノートの中は綺麗に纏められた授業内容が書かれていて、そこかしこに色ペンで付けられたちょっとしたマークや印が、今は俯いている女生徒の、本来の明るい性格を思わせた。
「破って」
と瞳は微笑んで芽以に言った。
芽以の手を汚させてやろうと思った。瞳は躊躇う芽以の顔を予想していた。結局は自分の保身のために人を傷つける癖に、まるで自分がそんな非道な人間ではないと言い訳するかのように、ほんの少しの逡巡を見せる。その滑稽な姿を見てやるつもりだった。
色んなことをやらせて、人を傷つけさせて、その偽善的な罪悪感とかいうやつで苦しめば良い。散々そうさせた後で、尻尾切りのように見捨ててやる。瞳はそう思った。
しかし、ノートを受け取った芽以に迷いはなかった。殆ど間髪入れずにページをビリビリに引き裂いた。そしてその顔が、心底嬉しそうに、下卑た笑みを浮かべているのが瞳をなお驚かせた。
「ねぇ、次は? 次はどうする?」
破ったページを女生徒に投げつけると、目を輝かせて芽以は瞳を見た。
「これ、トイレに捨てちゃおっか? それとも燃やす?」
ページの抜けたノートを嬉々として芽以は振ってみせた。
芽以が自分に近付いたのは、保身のためではなかった。しばらく芽以と過ごして瞳は理解した。芽以は嘘偽りなく、人を傷付けることが好きなのだ。だから、純粋におもしろそうなことをしていると思って瞳に近付いてきたのだ。
話を聞いても、芽以の家庭は至って平凡で、平凡という意味で幸福な家庭だと言えた。どうして芽以の性格がそんな風に歪んでしまったのか、想像のしようもなかった。
本来なら、芽以もまた瞳の敵かもしれなかった。不自由ない環境を持った上で、他人を苦しめるのが何よりも好きなどというのは。しかし何故か瞳はそんな芽以に対して怒りが湧いてこなかった。
瞳が自分でも、やりすぎかもしれないと思う提案をしても、芽以はそれを否定しなかった。むしろ喜んで、瞳を肯定した。そうして芽以の支持を得たことで、瞳の行為は加速度的にエスカレートして行くのであるが、兎に角、そんな風に自分を受け入れて貰えたことは、瞳にとって初めての経験だった。
芽以と出会って、夏休みを通り越して、二学期になった。
夏休みが明けてから、秋の体育祭に向けて練習が始まった。
他のクラスと合同での練習があった時、ふと瞳は、普段関わらない他クラスの生徒の中に、気になる顔を見つけた。瞳から少し離れた場所で、長髪でのっぽの女生徒と一緒に、その女生徒はいた。その顔に瞳は見覚えがあった。
まだ残暑の熱気が続いていた。だと言うのに、瞳の体は刺すような寒さの感覚を思い出していた。
そこにいたのは、あの日見た家族の少女の顔だった。あの両親に挟まれて歩いていた、幸福な少女に間違いなかった。瞳はその顔をじっと見つめた。
「何、どうしたの?」
隣にいた芽以が訊いた。
「あの子」
と瞳はその女生徒を指さした。女生徒の方は瞳に気付いていないようだった。芽以は瞳の指の先を見て答えた。
「ああ、何だっけ、隣のクラスの……田中美奈とか言うんじゃなかった?」
「田中美奈……」
瞳はぽつりと言った。
「次、あの子にしようか」
それはあまりにも唐突な提案だった。芽以にして見れば、何の脈絡もない。瞳は芽以の顔を見た。
芽以は下卑た笑いを顔一杯に浮かべていた。新しい標的で遊ぶのが楽しみで仕方ないと言った様子だった。瞳は思わず声を出して笑った。
芽以の特有のその下卑た笑いは、人間として軽蔑すべき表情に違いなかった。しかし瞳にとっては、愛すべき笑顔だった。
美奈の手帳が沙月に明かされた日の深夜、もしかしたらと思いながら、公園のベンチで瞳はマンションを眺め続けた。
警察のパトロールが来ないかだけ気を使っていた。
何も起こらない可能性の方が高かった。しかし明け方まで家には戻れないし、他にしたいこともありはしない。もしかしたら何かが起こるかもしれない、退屈なマンションの姿を眺めて夜を過ごすのも悪くなかった。
ふと、マンションの屋上に人影らしきものが見えた。まさかな、と瞳は思った。その人影らしきものは、瞳が注目も、興奮もしない内に、やがてふらりと揺れて、屋上から落下した。
それを見ても、瞳はピンとこなかった。どこか現実離れした光景を見ている気がした。あるいはただの、見間違いではないか。瞳は立ち上がると、公園を後にしてマンションに向かった。
マンションの目の前の道に、人影が倒れているのが見えた。
ようやく、瞳の心拍数が上がり始めた。
倒れた人影は、街灯に照らされていた。瞳はゆっくりと歩を進めた。
倒れているのはパジャマ姿の少女だった。うつ伏せに倒れていて、影になってはいたが、顔の一部を見ることが出来た。
それは間違いなく、美奈の顔だった。
砕けた頭からどろりとした肉がはみ出して、辺りに飛び散っている。体はぴくりとも動かない。完璧に死んでいる。
「何日か、かかると思ってたけど」
誰に聞かせるでもなく、瞳は呟いた。
「案外、早かったね」
瞳はすぐ踵を返して、マンションを後にした。死体の前にいるところを、誰かに見られでもしたら面倒だ。
まだ家に帰るには早かった。当所なく歩きながら、段々と今見たことを現実として認識出来るようになる。
そうして瞳の中に湧き上がってきた感情は、歓喜に他ならなかった。
胸が高鳴って、足取りが軽い。どこまでも歩いていけそうな気がした。
今まで瞳が標的にした人間で、死んだ者はいなかった。そこまで行ってしまえば、流石に黙殺することはできない。今回の美奈の死がきっかけで、瞳の今までの行為が公になれば、瞳の人生も大打撃を受けて終わってしまうかもしれない。
しかし、瞳には、そんなことはもはやどうでも良かった。
ついにやったと思った。
私は勝った、そう瞳は確信した。
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