第7話 ⑯~⑰

 芽以の意識は、風前の灯火であったが、まだ残っていた。

 もはや何かを考える力は残っていなかった。目の前で、ころころと口調を変えながら独り言ちている美奈の声を聞いても、その奇妙さを受け止める感情はない。

 ぼんやりと、朦朧とした意識が、芽以の中で呆けている。

 そんな状態にありながら、自分の体に新たに起こり始めた異変に、芽以はふと気づいた。

 顔面の皮膚が内側から圧迫されるように膨らんでいく感触。顔面だけではない。頭全体が変形していくような感覚があった。

 芽以には見えていないが。芽以の目の前に立った美奈が、芽以の頭をじっと見つめている。

 全く見えない視界の中で、美奈は感触だけを純粋に味合わなければならなかった。

顔が酷く浮腫んでいるような感じだった。しかしそれはすぐ「浮腫んでいる」という言葉では言い表せなくなり、端的に言って、顔がどんどん「膨らんでいる」のだった。やがて顔の皮膚は裂けんばかりに張り詰め、骨が軋み、肉の筋が悲鳴を上げた。強烈な吐き気と耳鳴りが芽以を襲った。

 働かない頭の中で、芽以ははっきりただ一つのことを自覚した。

 今から死が、訪れる。

 猛烈な恐怖が、下手な思考がない分だけ、ただただ本能的で純粋な死への恐怖だけが、芽以の意識の中で膨れ上がった。芽以は悲鳴を上げたが、膨らんだ頭の根元に位置する喉はすでに機能を果さなかった。

 強烈な耳鳴り、真っ暗な視界、悪夢の中に蹲るように芽以は恐怖に飲み込まれている。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ、子どもの我儘のような拒絶を繰り返す。

 頭の膨張に耐え切れず、皮膚に幾筋もの亀裂が生じた。

 ぴき、と最後の箍が外れる音を芽以は聞いた。

 次の瞬間、芽以の頭は骨も肉も細切れになって、放射状に飛び散った。

 芽以の意識は、もう二度と戻らない。

 ――そうかしら?

「ストップ!」

 美奈の声が響いた。

 するとどうだろう、バラバラに飛び散った芽以の頭の破片が、地面に落下する前に、弾け飛んだ状態のまま空中に停止してしまった。脳漿も、頭蓋も、眼球も、停止ボタンを押した録画映像のように、弾け飛ぶ勢いをその姿に残したまま、ぴたりと止まった。

「邪魔するなよ。もう飽きたんだろ?」

 ぶっきら棒に美奈が言った。

「今の面白かった。もっかい見たい!」

 無邪気に美奈が言った。

「はっ」

 美奈が鼻で笑う。

「研究熱心なのは良いことさ」

 落ち着いた口調で美奈が言う。

「今治すから、もっかいやってよ」

 また無邪気な口調で美奈が言うと、空中に浮いていた破片がゆるゆると震え出し、録画映像を巻き戻すように、弾け飛んだ放射の起点に集まり始めた。パズルのピースのように破片は組み合わさって、やがて芽以の頭を再現した。

 瞼を閉じて血を流した目。左目は大きく窪んでいる。鼻は大きくねじれ曲がり、あらぬ方向を向いたまま鼻孔から血を吹き出している。前歯の折れた口はだらしなく開き、大量の血と唾液の混合物を垂れ流している。その口から、微かに声が漏れている。

 芽以には状況が飲み込めなかった。直前に、自分に起こったことの記憶はあった。一度、自分と言う存在は確かに消えた。意識が完全に途切れて、全てが終わったはずだった。

 それなのに、また自分は、まるで時間が遡ったかのように、消える前と同じ状態で、呆然としている。一瞬眠って、またふと目が覚めたような具合だった。しかしほんの僅かな時間の前、彼女の身に起こったことは、そんなのん気な出来事ではなかった。精神が軋んで砕け散るような絶望と恐怖だった。

 ふと、彼女は自分の顔面に生じた違和感に気付いた。

 顔面の皮膚が内側から圧迫されるように膨らんでいく感触。顔面だけではない。頭全体が変形していくような感覚があった。

 彼女はその感覚をはっきり覚えていた。

「今度はもっとゆっくりやってよ」

 美奈の声が聞こえる。

「うるせぇな」

 美奈が自分の言葉に自分で答える。

 顔が酷く浮腫んでいくような感触。少なくとも芽以は一つ理解した。

 つまりもう一度、自分は同じ苦痛を味合わねばならないのだ。

 津波のように恐怖が押し寄せた。芽以はこれから自分に訪れる恐怖に恐怖した。激しい耳鳴りが始まった。

「浮腫んでいる」が「膨らんでいる」に変わり、顔の皮膚は裂けんばかりに張り詰めていく。しかもその変化は、一度目よりも味わうように、ゆっくりと進行しているようだった。

 もはや芽以の精神は限界を超えていた。圧力に歪んだ喉が、奇妙な音を二三度立てた。それは、笑い声のようにも聞こえた。

 骨が軋み、筋肉が伸び切っていく。限界を超えた皮膚に裂傷が生じ赤い肉が露わになると、またその肉がみちみちと音を立てて断裂していく。細かい繊維から切れ始め、毛細血管はもちろん、太い血管も裂け、溢れだした血が体まで赤く染めていく。芽以の体はがくがくと痙攣し、垂れた血が周りの地面に血だまりを作り始める。

 やがてエキスパンダーのように緊張した筋肉が、限界を迎えた。

 解放された力が放射状に肉を撒き散らす。芽以の周りに多量の肉片が飛び散って落下した。

 美奈がため息をついた。

「もっかい見たら大したことなかったわ」

 ふんっと美奈は鼻を鳴らす。

「本当に勝手な女だ」


 美奈が芽以の体を、池の淵の壁に引きずるように持ち上げて、そのまま池に落とした。頭のない上半身が先に落ちて、下半身は池の外に残った。美奈が芽以の足を掴んで、全てを池の中に沈めようとする。

「あ、ちょっと待って」

 美奈が言う。

「なんだよ?」

 美奈が言う。

「この子、可愛い靴下履いてる」

 美奈が芽以の靴を脱がして、それから靴下を引き抜いた。靴下は汗でしっとりと湿っている。

「もう流石に汚くて嫌だったんだよね、この靴下」

 美奈は血と砂利のこびり付いた自分の靴下を脱ぎ始める。

「おい、その靴下、大丈夫だろうな。この女の漏らしたものが垂れてくっついちゃいねぇだろうな?」

 美奈が芽以の靴下を眺めまわす。

「大丈夫よ、多分」

 美奈がまだ芽以の温もりの残る靴下に足を通す。それから靴も脱がした芽以のものを履いた。芽以の靴はサイズが小さくつま先が少し窮屈だった。その後、池の傍に脱ぎっぱなしにしていた美奈の元の靴を拾って、内部が血でべとべとに汚れているその靴を、池の中に投げ捨てた。

それから芽以の足を掴んで、池の中に落とし込んだ。芽以の体が全て、池の中に沈む。

 美奈は踵を返して、歩き始める。

 ――破片はこのままにして行くの?

「別に良いだろ、そうそう人の来る場所じゃなし、めんどくせえ!」

 ――おいおい、せめて血まみれのジャージだけは脱いで行けよ?

 独り言ちた美奈は足を止めて、自分のジャージを見た。所々に血が飛び散ってこびり付いている。

 美奈はジャージを脱ぐと、血の付いた外側を内側に巻き込むように乱暴に丸めて右手に抱えた。そして玄関に向かって歩き出す。

 下駄箱に辿り着くと、美奈は芽以の下駄箱の扉を開けた。自分の下駄箱にはもう上履きは入っていないからである。芽以の上履きは少し小さくてきつかった。

 美奈が下駄箱の扉を閉め、歩き出そうとした時、目の前に瞳が現れた。

「お、どうした? もう授業は始まってるんじゃないのか?」

 美奈が言う。二時限目の後の休み時間はとうに過ぎていた。美奈の口ぶりはいつもと全く異なっていたが、気に掛けないように瞳が言った。

「田中さんがあまりに遅いから、探しに来たの」

「へぇ、そりゃどうも」

 美奈が歩き出す。立ち止まったままの瞳とすれ違う。

「教室、戻らないのか?」

 美奈が足を止めて振り返り、瞳に言う。

「芽以も探さないとならないから。芽以のこと、見なかった?」

「いや、別に。見てないな」

「そう」

 美奈が向きを戻して再び歩き出す。

「あなた……」

 瞳が呟く。美奈は足を止めた。

「あなた、どうして生きているの?」

 美奈が振り返って瞳の顔を見た。美奈の顔は愉快そうに歪んでいる。

「もう一度、殺してみろよ」

 美奈は瞳を残して、その場を歩き去った。

 教室に向かう廊下で、美奈は独り言ちる。

 ――もう少し、口調を似せる努力をしたら?

「うるせぇな。お前だっていつもと変わらねぇじゃねぇか」

 ――私は元々似ているから良いのよ。

 ――もう少し知性的な話し方を覚えるべきだな。

 美奈は舌打ちする。

「そんなことよりこれ、直してくれよ」

 美奈が左手の親指を見る。指の爪は痛々しく割れたままである。

 ――あ、忘れてた。じゃ、ちょっと替わって。

 美奈は歩いたまま親指を見つめる。

 指を染めていた血が、傷口に逆流して行く。砕けて下の肉に食い込んでいた爪が盛り上がり、元の形に再形成され繋がって行く。内出血して黒く残っていた噛み跡が消えて、元の皮膚の色を取り戻す。

「はい、終わり」

 呟いた後、美奈は自分の親指を動かしながら、見回した。

「まだ血が付いてるぞ」

 ――それ、この子の血じゃないわ。

 美奈は右手に抱えたジャージで親指を拭った。親指は全く綺麗になった。


 美奈と別れた後、瞳は校舎裏に向かった。戻ってこない芽以と美奈に嫌な予感を感じた瞳は、適当な理由を付けて、二人を探すため授業を抜け出してきた。

 瞳はいつもの微笑みを崩さぬよう努めていたが、内心は激しく動揺していた。昨日死んだはずの美奈が、登校してきたのである。美奈が青白い顔をしてくると思って、美奈の顔にばかり注目していた芽以は気が付かなかったが、美奈が教室に現れた時、顔面が蒼白だったのは瞳であった。

 昨晩、瞳は確かに美奈の死体を見た。頭の中身をぶちまけていた。あれで生きていたなどあり得るわけがない。あるいは見間違えたのだろうか。あの時、投身自殺をしたのは、別人だったのだろうか。確かに街灯があるとは言え、夜の道は暗かった。しかし、瞳には確信があった。あれは確かに美奈だった。

 では、今日学校にやって来ている美奈は、一体、誰なのか。

 双子の姉妹? そんなものがいるという話は聞いたことがない。小学校から友達だった理子もそんなことは言っていなかった。

 仮に遠くで密かに暮らしていた姉妹がいたとして、何故、美奈の振りをして学校に来る。真相を知るため? 復讐をするため? そんなサスペンスドラマみたいなことが現実にあるだろうか。

 そしてもし学校に来たのが美奈の姉妹で別人ならば、当の本人の、美奈の死体はどうなったのか。隠すにしても美奈の親だっているのだ。姉妹が入れ替わったことに気付かないだろうか。それとも親もグルなのだろうか。

 瞳は頭を振った。周りに人目がない場所では、もはやその顔に微笑みを浮かべていなかった。自分の思考はあまりに現実離れしすぎていると思った。

 今日現れた美奈が、全くの別人だというのは、本人であるというのと同じ位、現実離れしている。結局どう考えても、今起きていること自体が現実離れしていると言えた。

 あの状態で、奇跡的に美奈が生きていた、と想定することは難しいが、それを推して考えても、今日の美奈の変貌ぶりは異常だった。表情や仕草、身にまとった雰囲気がいつもと全く違う。その点だけで言えば、別人と考えた方が筋が通った。今しがた下駄箱で話した時も、声は同じだったが、口調は明らかに別人だった。

 美奈についての疑問を頭に渦巻かせながら、瞳は芽以についても考えた。体育の授業の後、慌てて校舎に戻って行く芽以を瞳は見ていた。

 それが美奈の上履きや持ち物に何か細工をするためなのは明らかだった。美奈と芽以が二人とも教室に戻ってこなかった。その細工の過程で二人に何かがあったと考えるのが自然だった。そして昨日のことを考えれば、二人の間に何かが起こるとすれば、その場所は校舎裏が相応しく思えた。

 美奈は芽以のことを知らないと言った。信じ難いことだが、美奈が嘘を吐いたことになる。瞳を前にして、あんなに堂々と嘘を吐く度胸が美奈にあるとは思えなかったが。

 下駄箱で美奈と向かい合った時、瞳は美奈が手に怪我をしていることに気が付いた。余りよく見えなかったが、大分血が出たらしい。おそらく傷も深かったのではないか。わざわざジャージを丸めて抱えていたのも、ジャージが酷く汚れたからではないだろうか。普段の美奈を考えれば、全く想像できないことではあるが、美奈と芽以が地べたを転げ回るような激しい乱闘を演じた可能性が示唆されていた。そして、もし本気で美奈と芽以が取っ組み合いをしたなら、芽以が負ける可能性も十分にあった。

 普段、男子に対しても威圧的な態度を取っている芽以ではあるが、身体的には小柄で体力は決して秀でているわけではない。また、その威圧的な態度の裏に、その実、臆病さを隠していることを瞳は知っていた。肝心なところで、心を奮い立てることが出来ない卑屈さが芽以にはあった。そんな彼女を支えているのは、軽蔑すべき躊躇いのなさだった。人を傷つけることに対する遠慮のなさだった。芽以は心の底から人を苦しめることを楽しんでいる。全く因縁のない相手ですら、まるで復讐を果すかのように楽しめるのだった。

 それが芽以の強さだった。しかしもしも、相手も芽以を傷付けることに躊躇しなかったら? 芽以はまるで歯が立たないかもしれない。相手の威圧を前に、心は萎え、無様な失態を晒すかもしれない。

 普段の美奈が相手なら、こんな心配はしない。そんなことは絶対に起こりえないからだ。昨日、瞳達がした仕打ちを考慮してさえ、ありえないと断言できた。仮に一瞬、我を忘れ激高したとしても、それが芽以との立場を逆転させるほど強く長続きすることはない。美奈には根本的に、芽以に真っ向から反抗する度胸も、人を躊躇なく傷付ける度胸もない。たとえそれが恨みのある相手であっても、復讐にすら迷う人間であった。そういうところが、瞳の気に障る部分でもあった。

 しかし、今日は異常だ。そもそも美奈が生きて学校にやって来たことからあり得ないのだ。先程会った美奈の落ち着き様は、乱闘をした直後のようには見えなかったが、.しかし、何が起こってもおかしくない空気を瞳は嗅ぎ取っていた。芽以が美奈に敗北しているような、最悪の事態も想定しなければならなかった。

 それ以上の最悪があるとは、思いもしなかった。

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