第6話 ⑬~⑮
⑬
翌日、美奈は和子と大輔の寝室で目を覚ました。
寝室には和子の化粧台があった。
美奈はベッドから出ると、寝室の扉を開けてダイニングキッチンに出た。床を血塗れにして、和子が倒れている。全く動かず、再び立ち上がる気配はない。顔面はうつ伏せて隠れていた。しかし辺りには血に紛れて細かい肉片と、歯が散乱している。頑丈そうな木製の食卓の角が一部、凹んで変形している。
美奈の部屋の扉を開けると。ベッドの上に大輔が蹲っている。最期に出来る限りの快楽を得ようとしたのだろう、はさみどころか、手首まで切り開かれた腹の中に押し込んで果てていた。
美奈はそんな両親達にほんの一瞥を与えただけで、自分の部屋の洋服箪笥から制服を取り出し、傍に置いてある通学用の鞄を手に取ると、両親の寝室に戻った。
制服に着替えた美奈は、母の化粧品を使って顔を整えた。薄く、自然な印象を与える、控えめな化粧だった。今まで美奈が化粧をしたことなどなかった。近くで良く見れば、化粧をしているのははっきりとわかるような具合だった。そして化粧に気付いた上でその顔を見れば、それはどこか妖艶さを感じさせるものであった。
玄関はダイニングの向こうの廊下の先にあった。ダイニングを横切る時、美奈は和子の血の上を歩かねばならなかった。美奈が一歩、血の上に足を乗せると、まだ乾ききっていない血が粘着質になって美奈のソックスにこびり付いた。足を上げると粘着質の剥がれる音がする。血を踏む音と、剥がれる音が繰り返される。血の上を降りても、ソックスにこびり付いた血の残りが床に張り付き、玄関まで粘着質の音を立て続けた。
美奈はそのソックスのまま、靴を履いて外に出た。
中学校の教室では、芽以が美奈の来るのを今か今かと待っていた。
昨日のことで美奈が今日、学校を休むかもしれないとは考えなかった。瞳や芽以に一日、退屈を味合わせた結果、翌日の遊びがどれ程、充実したものになるか、既に美奈には教え込んでいた。また、芽以の美奈に対する感覚は、慣れて麻痺していた。自分達が昨日、美奈に与えた衝撃が、今までと比べて学校を休む程酷いものであるとは全く感じていなかったのである。
そのため芽以はいつも通り、登校してきた美奈が彼女を楽しませることを疑わなかった。彼女が上履きに仕掛けた悪戯に、美奈がどんな顔をして教室に入って来るか、それが芽以の毎朝の楽しみである。
以前に入れたもののことを考えて、よく思い出し笑いをする。例えば精通した気弱な男子を脅して集めた精液を上履きに振りかけて置いた時、一見、その手のことに疎そうに見える美奈が、自分の靴にこびり付いていたものが何か理解している様子だったのは、何度思い返しても笑えてしまう。
昨日の百足も最高だった。まさか靴の中にいるのに気付かず噛まれる程、馬鹿だとは思っていなかった。
今日は、ドブネズミの死骸を入れておいた。家の傍で捕まえた奴だ。
どんな反応をするだろうか。芽以は待ち切れずに前の席の瞳に話しかけた。
「今日はあいつ、どんな顔で上履きを履いて来るかな?」
「さぁ、履いてこないかもよ」
いつもの微笑みのまま瞳が言った。
芽以は口には出さなかったが、頭の中で瞳の言葉を否定した。上履きはちゃんと履いてくるだろうと芽以は踏んでいた。蛞蝓と違ってひっくり返せば死骸は落ちるのだから。しかし上履きはびしょ濡れになっているかもしれない。ドブネズミの体液がついているだろうから、洗う可能性は高い。
芽以は美奈の血の気の引いた青白い顔を思い浮かべた。強いショックを受けて怯えている顔だ。想像するだけで堪らなかった。
教室の前方の扉が開いた。
ハッとして芽以は注目した。しかし教室に入ってきた美奈を見て、芽以の期待は一気に萎んだ。
美奈の顔は全く歪んでいなかった。何事もなかったような顔をしている。強がっているのだろうか。しかしそういう硬さは見て取れない。と言うよりも、その表情は今までの美奈からは見たことのない表情だった。怯えや自信のなさがない。顔は確かに美奈だが、表情は別人のもののようだった。
自分の席へ歩いていく美奈に芽以はミサンガを付けた右手を軽く上げて「おはよ」と声を掛けた。顔に嘲るような笑みを浮かべて。いつもなら怯えた声で返事をする美奈は、足を止めずに芽以の方を向いて、答える代わりに微笑んで見せた。その余裕ある態度が、芽以の癪に障った。
芽以は立ち上がり、美奈の元へ歩いていった。自分の席の椅子を引いて、座ろうとしている美奈の肩を掴む。美奈の後ろの席の理子はまだ来ていない。美奈が振り向く。芽以は美奈を睨みつけた。
「あんた、ふざけてんの?」
「え、別に?」
芽以の眼光も全く意に介さない様子で美奈が答える。近い距離で美奈の顔を見て、芽以は美奈が薄く化粧しているのに気付いた。だから表情が別人のような印象を与えるのだろうか。芽以は美奈が酷く生意気に思え、その態度に激しく苛立った。その時、足元から奇妙な音がするのに気が付いた。
ぐちゅっぐちゅっとナマモノが潰れるような音だった。朝の教室の喧騒の中でその音は微かだったが、近くにいると確かに聞こえた。芽以は足元に視線を落として、思わず声を出しそうになった。
美奈の右の上履きと足の隙間から、ミミズの尻尾と足がはみ出していた。美奈は立ち位置を変えるように動いて芽以の手から逃れると、椅子を引いて席に着いた。そうやって美奈が体重を移動させたり、足を踏みしめる度に、上履きの隙間から赤黒い肉がミンチになって絞り出されてくる。ぐちゅっぐちゅっという音の中に微かに固い小枝の折れるような音が混じっていた。
「あら?」
椅子に座った美奈が、怪訝な声を上げた。それからすぐに美奈が突然くすくす笑い出したので、芽以は思わず体を強張らせた。
「まだほんの少し、生きてたみたい」
芽以は美奈の上履きからはみ出した足が、一瞬ぴくりと動いたのを見たような気がした。
⑭
「田中さんさ、体操着が汚れてるんじゃないの?」
二時限目の体育を前にして、そう言って芽以は美奈の手から体操着袋を奪った。
「洗ってあげる」
芽以はそのまま教室の近くの女子トイレに向かうと、ついてきた美奈の目の前で和式便器の中に体操着袋を落とし洗浄レバーを踏みつけた。袋は便器の口に詰まり、せき止められた水と空気が騒がしい音を立てた。そのまま行き場を無くした水は便器に溜まり体操着をじっとりと濡らした。
美奈を残して、笑いながら芽以はトイレを後にした。しかしトイレの扉が閉まるとその顔はすぐに歪んだ。すれ違う時、横目で見た美奈の表情がまるで堪えていなかったせいである。いつもなら涙を滲ませた馬鹿面を晒しているのに、今日は微かに笑っているようにさえ見えた。
どすどすと足を踏み鳴らしながら教室に戻る。男子は別の空き教室に移動して着替えており、元の教室には女子しかいない。芽以は手早く体育着に着替え、更に上にジャージを重ね着するとすぐ玄関に向かった。着替えている途中で戻ってきた美奈に芽以は嘲笑の表情を浮かべて見せたが、美奈は涼し気な顔をしていた。
芽以は必死で余裕ある態度を演じようとしていたが、内心は波立っていた。美奈の態度は芽以を苛立たせるのに十分だったし、ネズミを踏みつけた美奈に少なからず狼狽えさせられたことが芽以の自尊心を傷付けていた。
朝、授業前、美奈の異常な行動を目の当りにした芽以は、内心狼狽えて、すぐにそのまま引き下がってしまった。美奈に対してどう動けばよいかわからなかったのである。それは屈辱以外の何物でもなかった。
そういう時、頼りになるのは瞳であるはずだった。いつも、あの微笑みを絶やさない余裕を持って、どんなことでもやってのけてしまう。そう言う信頼を芽以は瞳に持っていた。しかし今日に限っては、瞳は美奈に対して不自然なほどに消極的だった。芽以が美奈について何か言っても、曖昧な相槌を返してくるだけだったのである。
下駄箱につくと芽以は美奈の靴の中にバラバラと画鋲を入れて外に出た。今さら靴の中に画鋲を入れるなどと言う、何のおもしろみもないことを実行する自分が腹立たしかった。しかし仕方がない。今日、靴の中に入れるものはネズミの死骸しか用意していなかったのだ。すぐに用意出来るものは画鋲しかなかった。
芽以の中で、自分が美奈に対して一瞬抱いてしまった恐怖の感情は、美奈に対する強い攻撃性へと転じていた。屈辱を晴らそうとして、あるいは単純に恐怖から目を逸らそうとする精神的な本能から、芽以は即物的で強引な攻撃を美奈に与えようと必死になっていたのである。
芽以は美奈に苦痛を与え、あの余裕を見せる表情を崩してやることだけに執心していたため、画鋲を入れる時、美奈の靴の中を覗くような余裕はなかった。もし覗いていたなら、美奈の靴の内側がべっとりと赤黒く汚れていることに気付いただろう。
美奈が校庭に来たのは授業開始の直前だった。ジャージは体操着と別に持っていたらしく濡れてはいなかった。中に体操着を着ずに、直接ジャージを着ているのかもしれない。靴の画鋲をどうしたかはわからなかった。どうしたにせよ、何事もなかったかのように、何の反応も示さないのが不愉快だった。
授業の途中でジャージを脱ぐ機会があり、教師が美奈の体操着の異常に気付いた。しかし美奈は淀みなく言い訳した。芽以のことは言わなかったが、仕返しを怖れているような様子は微塵もなかった。芽以は一層腹が立った。
授業が終わると芽以は足早に下駄箱へ向かった。美奈が来る前に上履きを処分してやろうと思った。このタイミングでは誰かに見られるかもしれないが、どうせ誰も何も言わないだろう。芽以達が美奈に何かする時は、建前上、人目を避けたり、友達同士の遊びや事故を装ったりすることが多かったが、どれもわざとらしいものであり、周りの生徒は実際のところ皆、それを黙認していた。
美奈の下駄箱を覗き込んで、芽以は一瞬躊躇した。上履きは内側が真っ赤に染まり、荒い生地に肉片が刷り込まれている。死骸の入っていた右側だけでなく、左側も赤く汚れていた。それは元々美奈のソックスが汚れていたせいだったが、芽以には美奈が左足でもネズミを踏みつけたとしか考えられなかった。
右の上履きに入っているネズミの死骸を、わざわざ意識的に左足でも踏み付けたのかと思うと酷くおぞましかった。恐怖に傾こうとする心を芽以は怒りで断ち切った。美奈ごときに自分が恐怖するなど、それこそおぞましいことだった。
ネズミの死骸はそれと分からないほどぐちゃぐちゃになっていたが、土踏まずの辺りには大きな残骸があって、赤く染まっていてもその毛羽立った皮が見て取れた。生地に刷り込まれてぐずぐずになった肉にはいくつかの色があって、それが筋肉だったのか内臓だったのか、元々の部位によって色が違うのだった。細かくなった骨は布地のあちらこちらに突き刺さるようにめり込んでいる。上履きからはみ出ていた尻尾と足は見当たらなかった。歩いている内にどこかに落ちたのかもしれない。
芽以は上履きをあまり見ないようにしながら手に取ると、再び玄関を出て校舎裏の観察池に走った。
池の生臭い匂いが鼻を突いた。昨日、沙月と美奈のやり取りを楽しんで覗き見ている時は我慢できたが、今の気分で嗅ぐとかなり不快だった。芽以は手に持ったおぞましい上履きを池の真ん中あたりに放った。音を立てて水が撥ねた。泡を立てて上履きが沈んでいく。普通に考えても、もはや処分するしかないような状態の上履きではあったが、少なくともこれで、美奈は今日一日、裸足で過ごすことになる。さて、どんなものを踏ませてやろうか。そう考えながら、芽以は観察池に背を向けて、玄関へ歩き出そうと振り返った。
そこに微笑んで美奈が立っていた。
芽以が思わずたじろいだ次の瞬間、脳みそがぐるりと引っ繰り返るような吐き気が襲った。堪える暇もなく芽以は嘔吐した。咄嗟に池へ振り向いたので、吐瀉物は音を立てて池の中へ零れ落ちて行った。殆ど消化された朝食が口から溢れ出し、水を撥ねながら落ちて沈んでいく。
いつの間にか美奈が隣に立っている。美奈は芽以の背中を摩りながら言った。
「保健室、行こうか」
ようやく嘔吐の止まった芽以は美奈を睨みつけた。口の中に胃液の酸味がへばりついている。美奈は芽以の背中を摩る手を止めて、池の淵に腰かけて微笑んだ。
「体調、悪いでしょう? 丁度、私も保健室に用事があるのよ」
美奈は両方の靴を脱いだ後、右足を膝の上に乗せて、芽以に足の裏を見せた。真っ赤に染まったソックスの中に、鈍い色の画鋲の背が点々と浮かんでいる。
「痛そうでしょ? 治療しなくちゃ」
美奈は画鋲の背を一つ摘まんでゆっくりと引き抜いた。生乾きのソックスから糊のように赤い筋がへばりついて伸びた。
芽以の心は酷く動揺した。今日の美奈は明らかに異常だった。異常を目の前にした正常な反応として、芽以の心は恐怖に染まり始めていた。しかし芽以が、自分を見つめる美奈の目の中に挑発の色を見つけた時、最後の意地のように、強い怒りが振り絞られた。
(突き落としてやるっ)
芽以の腕が観察池の淵に座る美奈に向かって伸びた。
しかし、まるで予期していたかのように、美奈はその手を優しく受け止めた。そして、まるで姫の手の甲にキスでもしようとするかの如くに、芽以の右手を持って、その甲を撫でた。
次の瞬間、芽以の親指を激痛が走った。上げようとした悲鳴が喉に詰まるほどの痛みだった。じわりと涙腺から水分が滲み出た。親指の爪の上に、先程まで美奈の足の裏にあった画鋲の背がくっついているのを芽以は見た。画鋲の針は爪を突き破りその下の肉に深く食い込んでいた。穿たれた爪は針を中心にして縦に亀裂を生じ、そこから指を伝って赤い筋が垂れている。芽以が何か言う前に、人差し指に同様の激痛が走った。今度は息の詰まった途切れ途切れの悲鳴になって声が出た。
「あっ……あっあっ……」
芽以は手を引こうとするが美奈の手が離さない。
芽以の目からぼろぼろと涙が溢れだした。それは初め痛みに対する反射的な反応だったが、すぐに恐怖のために溢れだすようになった。しかし彼女に残ったわずかなプライドが、芽以の態度を必死に保たせた。
「離……せっ。離せよっ!」
親指と人差し指の先がじんじんと痺れるような痛みで疼いている。乱暴に引き抜こうとするが美奈の手は固く芽以の手を握って離さない。美奈が足の裏からまた画鋲を引き抜く。ねっとりと赤い糸を引いて短い針が細い体を現す。それがすでに自分の二本の指に根元まで突き刺さっている。芽以はぞっとした。
殴り倒せっ! と芽以の脳が叫んだ。自由な左手で思い切り美奈の顔面を殴り飛ばすのだ。芽以の体は即座に動き出そうとした。しかしまだ微かも動かぬ内に、美奈の視線が芽以の左手に注がれていた。
「そっちの手もやってほしいの?」
芽以は体から、ふっと力が抜けるのがわかった。急激に萎えていく心を止める術を芽以は持たなかった。気付けば全身が小刻みに震えだしていた。
あと三回、芽以は痛みに耐えねばならなかった。
⑮
美奈が手を離すと、芽以は右手を抱えて蹲った。指先が燃えるように熱い。五本の指全てに、ボタンのように丸い画鋲の背が付いている。
美奈は足から残りの画鋲を引き抜いた。手の上に、二つの画鋲が転がった。
観察池の淵から腰を上げ、呻いている芽以の傍に立つ。蹲ったまま、芽以は美奈の声を聞いた。
「あのね、画鋲、もう二つしかないの。もう一方の手に刺すには半端でしょ? どこに刺したら良いかな」
芽以は顔を上げずに、黙って手の痛みに耐えていた。美奈が芽以の髪を掴んで、無理に顔を上げさせる。芽以は必死に美奈を睨みつけようとした。しかし、芽以の精神はすでに負けていた。痛みと恐怖に涙を滲ませた顔は、睨み顔になり切れずに歪んで、滑稽な虚勢を晒した。
美奈は持ち上げた芽以の表情を見てくすくすと笑った後、そのまま、まじまじと芽以の顔を凝視し始めた。芽以も必死で滑稽な睨みを効かせ続けた。美奈は何も言わず、黙って微笑んだまま芽以を見つめ続ける。やがて芽以は不安を感じ始める。どうして美奈は、自分の顔を見つめ続けているのだろうか。一体、顔の何を見ているのだろうか。
美奈の目が、芽以の目と見つめ合っている。芽以は気付いた。美奈の視線は芽以の目から全く離れようとしない。美奈が見つめているのは芽以の顔ではなく、芽以の目だった。そして芽以は思い出す。
美奈の手に今、二つの画鋲があるということ。
芽以は悲鳴を上げようとした。もはや恥も外聞もない。今まで自分が痛めつけていた相手に無様に痛めつけられている。その姿が人目に晒される屈辱などもはや関係なく、目の前の恐怖から逃れるために、彼女は誰かに聞こえるように声を上げようとしたのだ。
叫ぼうと開いた口の中に喉の震えが反響する前に、美奈の親指が滑り込んだ。親指は深く挿し込まれ、芽以は反射的にえずいて嗚咽を漏らした。
「駄目よ、つまらないことしちゃ」
喉を鳴らして、言葉にならない音を立てながら、芽以は美奈を見つめた。
芽以は僅かな反抗心を焚き付けて、美奈の指に思い切り歯を立てた。前歯が美奈の親指の付け根に食い込む。一度口を緩め、今度は奥歯で美奈の親指の先を噛んだ。肉の柔らかい感触と爪の硬い感触を、指を挟んだ歯で感じた。芽以はそのまま渾身の力を顎に籠める。ぴきっと何かが割れる感触があって、爪が砕けたとわかった。芽以は力を緩めずに、押し潰すつもりで顎を閉じようとした。
歯が肉に食い込んでいくのがわかった。爪を砕き、その下の無防備な肉に歯が潜り込んでいく。唾液の中に鉄の味が混ざって行く。未だ激しく疼く自分の指先の感触を思い出す。あの強烈な痛みを、美奈も今味わっているはずだった。
しかし、美奈は表情一つ変えなかった。呻き声を上げるどころか、指を噛み砕かれたまま、微笑んで芽以を見つめている。
美奈は芽以の髪から既に手を離し、口に親指を突っ込んだ手で、芽以の顎を支えていた。
美奈の髪を離した手が、芽以の目元に近付いた。赤く濡れた画鋲を持って、その針先を、ゆっくりと芽以の目に向かわせる。
芽以の顔に恐怖が張り付き、芽以は首を振ろうとしたが、美奈の手が口の中と外から顎をがっちりと押さえている。
芽以は更に顎に力を込めた。美奈の指を食い千切らんばかりに力を振り絞る。しかし、美奈の手は緩まない。表情も相変わらず微動だにしない。画鋲が近付いて来る。
芽以は顎の力を緩めた。今にも眼球に触れようとする針先を前に、彼女は自分の口を指を食い千切るために使うのを止めた。目からぼろぼろと大粒の涙が溢れだしている。芽以は親指を口に入れたまま、喉を震わせた。言葉にならない声を必死で零した。
美奈が、親指を芽以の口から抜いた。根元まで唾液に濡れた親指はぬらりと光っている。肉に歯の食い込んだ痕が血を零しながらくっきりと残っている。爪は真中から砕け、下の肉に押し込まれ食い込んでいた。
親指が消えて、芽以の声はようやく言葉になった。
「やめて……やめて下さい……」
顎の支えがなくなり、首を垂れた状態で、芽以は繰り返した。
美奈はため息を一度吐き、言った。
「じゃあ、こうしましょう。どこに刺すか選ばせてあげるわ。あなたが決めて良いの。でも、おもしろいところじゃないと駄目。つまらないところだったら、やっぱりあなたの目に刺すわ」
それは理不尽な条件だったが芽以の頭は素直に従った。もはや反抗する力など残っていなかった。必死で、代りの刺し場所を考える。
二の腕や太腿は駄目だ。痛くはなさそうだが、何もない皮膚にただ突き刺すだけでは美奈は満足しないだろう。美奈が喜ぶのは、芽以が挿されたくない場所に違いなかった。刺されたくない場所。性器はどうだ。確かに嫌だが、目と比べればずっとマシだ。美奈は満足するだろうか。性器に刺すと言っても、性器のどこに刺すのか。陰核か。あるいは性器の内部かもしれない。
美奈が楽し気に笑いながら芽以の性器に指を突っ込んで、画鋲の細い針で出来る限り奥を引っ掻き回そうとする姿が頭に浮かぶ。それは堪え難く悍ましい想像だった。
もっと他にないだろうか。画鋲は二つある。二つある体の部位が想起される。例えば乳房。乳頭。かなりの痛みが想像に難くない。そして性器と同様に、その部分を美奈に触られるという精神的な苦痛もある。
二つあるもの。鼻孔。鼻ピアスのように、左右の鼻孔の壁に突き刺すのはどうだろうか。見た目は酷く惨めで滑稽になる。美奈もその醜態を笑うかもしれない。
しかしあの美奈の目は、先程、芽以の目を見つめていたあの目は、見透かすのではないだろうか。鼻孔の壁に画鋲を刺したところで、美奈の肉体的な苦痛はたかが知れているということを。芽以の提案が、美奈に満足を与えなければ、画鋲は芽以の眼球に刺さる。
芽以は必死で考える。
首はどうだ。頸動脈の太い血管に、ぶつり、ぶつりと針を突き立てる。そうでなければ、それ以外なら、他には……。
美奈が芽以に許した選択は、あまりにも意地が悪かった。芽以の頭の中でいくつもの思考が弾けて飛び交った。そして混乱する思考の中で、芽以はふと、あることに思い至った。
今日の美奈が今までの美奈と全く違っていることは明らかであったが、今、美奈が自分に突き付けているようなやり口は、芽以の記憶の中にあった。それは酷く似ていた。瞳のやり方と。そう気付いた時、芽以の頭の中に、芽以と美奈を取り巻く状況の、新しい構図が描き出された。
「瞳なの……?」
芽以がぽつりと呟いた。芽以の選択を待っていた美奈は、芽以が声を出した瞬間、パッと嬉しそうな表情を浮かべたが、芽以が発した言葉を聞きとると、ふっと無表情になった。
「瞳があんたに、こうやれって言ったの……? 私を裏切って、今度は標的にするってわけ? その池の影からでも、私を見ているの……?」
大げさに、周りに聞かせるように、美奈がため息を吐いた。
ぶつっと刺さる音が聞こえたような気がした。芽以の目の前が真っ暗になった。
芽以は突然のことに、何が起こったかわからなかった。真っ暗になった視界の中で、目に生暖かい水分が溢れて来る感触があった。瞬きすると、瞼の裏の皮膚が、ごりごりと固い板のようなものが瞼と目の間に挟まっているのを感じた。
「つっまんない。飽きちゃった。ねぇ、チヨクロ、変ってよ」
美奈が呟くのが聞こえた。
ようやく思考が追い付いて、芽以は自分に起こったことを理解した。それと同時に、口から悲鳴が溢れ出そうになった。
しかし、芽以の悲鳴は再び妨げられた。美奈が芽以の髪を掴んで、思い切り芽以の顔面を地面に叩きつけたからである。
「あがっ……」
芽以の口から洩れたのは、そんな短い呻き声だけだった。
髪を掴んで持ち上げられた芽以の顔には、土と細かい石が張り付き、ぱらぱらと剥がれ落ちた。閉じた目から、涙のように血が流れ出している。叩きつけられた衝撃で、鼻からも血が零れている。そのために芽以はだらしなく開いた口で呼吸をせねばならず、その縁からは赤みを帯びた唾液が溢れていた。
「おい、最初にやりたいって言ったのはお前だぜ」
美奈が言った。芽以には意味が理解できなかった。その口ぶりも芽以以外の誰かに話しかけているような具合だった。
「勝手な女だ」
先程までと違う、酷くぶっきらぼうな口調で美奈が言い捨てた。
美奈の手が芽以の髪の毛から離れた。目に走る激痛のせいで、芽以は瞼を開けることが出来なかった。止めどなく溢れる熱い水分の感触と、瞼の裏に擦れる画鋲の背の感触を味わいながら、見ることが出来ない目の前の状況に怯えるしかなかった。
しかし、芽以がゆっくりと怯える間もなく、すぐに次の痛みがやってきた。芽以の顔面に強い衝撃がぶつかり、頭が跳ね上がった。顔面を蹴り飛ばされたのだ。
そのまま仰向けに引っ繰り返った芽以は自分の鼻が歪んでいるのがわかった。火が付いたように熱を帯び、今まで以上の血が溢れだす。口の中も切ったらしい。自分の血に溺れそうになりながら、必死で芽以は悲鳴を上げようとした。
「がばばばばっ!がばばっ!」
喉に詰まった血が、丁度うがいのように泡立って飛沫を飛ばした。
その口に、ハンマーを振り下ろされたような衝撃が走った。美奈が思い切り足を振り下ろして踏み付けたのだ。前歯がバキバキと折れて、美奈の靴下についていた砂利と一緒に口の中の血だまりにぽちゃぽちゃと落ちた。激痛が走る。口の中に納まり切らない程の血液が溢れだし、芽以は鼻も口も塞がれた状態になる。呼吸が出来ずに美奈は暴れる。踏み付けられた頭は、地面に縫い止められたようにびくとも動かない。
「黙れ」
美奈が言った。
凄味のある声だったが、芽以にはそれに従う余裕はない。痛みと恐怖に耐えかねて、そして一呼吸の酸素を求めて、美奈は声に鳴らない声を上げながら手足を振り回し体を跳ね上げた。
「黙れよ」
美奈が再び言ったが、芽以は聞く耳を持たず暴れ続ける。口の中に落ちた歯の破片が喉の奥に沈んできて、芽以は口を塞がれたまま咽込んだ。
美奈は舌打ちすると、芽以の顔から足を離した。そして再び、思い切り振り下ろした。芽以が暴れていたために、落下点はズレた。
美奈の足の踵が芽以の左目に食い込み、眼球ごとずぼりと凹んだ。土踏まずの辺りは芽以の歪んだ鼻を踏み付け更に捻じ曲げた。芽以の鼻は完璧にあらぬ方向を向いた。
その衝撃を受けて、芽以の体は一度大きく跳ねた。それを最後に、芽以の体は動かなくなった。
芽以のジャージの股の部分が、じわりと濡れて、地面にも濡れた染みが出来た。それから鼻を突く悪臭が漂ってきた。
美奈はあからさまに顔を顰めた。
「マジかよ、こいつ……」
それから少し驚いたような顔付きになって、宙を眺めまわすように首を振りながら言った。
「おい、今は俺の番だぜ、割り込むなって……」
ふっと口調が変わって美奈が言う。
「君は乱暴すぎるんだよ。見たまえ、目の前の少女の有様を」
美奈は芽以から足をどけて、その体を支え起こした。
美奈の口から溜まっていた血がだらっと零れ落ちる。その口から、微かに、声が漏れていた。
「生きてはいるけどね、もう何も考えていないさ。こんな状態にしたら、もうおもしろくないだろう。まだまだもっと楽しめたのに」
――別に良いだろ。また他の奴で遊べば。それともタンゲラに修理してもらうか?
――嫌よ、だってもう、その子、飽きちゃったもの。
美奈はため息を吐くと、芽以の体を抱え上げて、観察池の淵に寄りかからせた。それから頭を掴んで、観察池の中に突っ込んだ。
弱々しい泡が芽以の口から洩れて、頬を伝い水面で弾ける。
美奈が芽以の顔を引き上げる。
「これで多少は意識が戻ると良いんだが」
観察池の淵の壁を背もたれにして芽以を座らせ、美奈が芽以の顔の前で手を振る。
「見えるかい? わかってるかい? すまないね。チヨクロは手荒なんだ。もう大丈夫だから気を落ちつけてくれ、ガムでも噛むかい?」
びしょびしょに濡れた芽以の顔は、だらしなく口を開けたまま、その口から微かに声を漏らしているが、他に反応がない。
「ガムを噛むと心拍数が抑制されてリラックスできるんだ。あいにくガムはないが、代わりになりそうなものがある」
美奈はジャージのポケットから取り出したものを芽以の口に押し込んだ。ネズミの尻尾がぴょこりと、芽以の口からはみ出した。
「ほら、存分に噛みたまえ」
美奈が芽以の下顎を下から押し上げ、緩め、押し上げ、緩めと繰り返し、強引に口を動かさせた。しかし芽以の前歯は全て折れていたため、ネズミの尻尾はやがて口から零れ落ちてしまった。
美奈はため息を吐いて首を振った。
「駄目だ、チヨクロ、君に任せるよ、もう処分してくれ」
――カナロ、お前もタンゲラと同じで勝手な奴だ。
――カナロってさ、頭良い振りして案外馬鹿だよね。
ふん、と美奈は鼻を鳴らした。
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