第5話 ⑪~⑫

 それから、数分後のことである。

 既に瞳の姿はなく、美奈の体だけが冷たいコンクリートの上に横たわっている。先程まであった体温は急速に失われて行き、体は石ころのように、ぴくりとも動かない。溢れ出た血や脳漿の表面が、次第に乾き始めている。

 それは、何度目の試行だったろうか?

 真夜中の、底の見えぬ天空の暗闇から、一枚の花弁のようなものが、ひらひらと舞い落ちて来た。花弁は暗闇から街灯の光の中に舞い込み、やがてその光に照らされた美奈の体に着地した。

 天空から落とされた一枚の花弁が丁度人間の死体の上に着地する確率はどれくらいだろう。

 美奈の周りに飛び散っていた脳の欠片の一つが、ぴくぴくと震え出した。その欠片はやがて蛞蝓のように這いずり始め、美奈の頭蓋に向かって動き出した。すると他の欠片も震えだして、一斉に美奈の頭蓋を目指して動き出す。小さな蛞蝓達が、頭から零れ出た脳みその塊まで辿り着くと、それは寄り集まり、一匹の大きな蛞蝓のようになって頭蓋の中に這いずり込んだ。それに合わせて、地面に広がった血の染みも録画の巻き戻しのように収束して行く。

 美奈が目を開けた。

 美奈はゆっくりと立ち合がると、そのままマンションの玄関に入って、自分の家の部屋に向かって階段を昇り始めた。

 美奈が去った後の地面には、ほんの微かな血の染みが一点残るばかりだった。


 家の玄関の鍵は開いたままだった。美奈は中に入ると、鍵を掛け、靴を脱ぎ、自分の部屋に戻ってそのままベッドに潜り込んだ。

 するとすぐに足音がして、部屋の扉が開いて大輔が入ってきた。

「美奈、こんな時間に、どこに行っていたんだい?」

 言いながら、ベッドの中に侵入して来る。

「寒かっただろう、どれ、お父さんが温めて上げよう」

 大輔は娘の華奢な体を抱き締めた。そのまま手先が動いて、器用に美奈のパジャマのボタンを外していく。やがて慣れた手つきで指先が美奈を愛撫し始める。

「美奈、可愛い美奈、ずっとお父さんのものだ」

 そして大輔は美奈の中に侵入した。

 後背位から始まった結合はやがて向きを変えて正常位になり、汗ばんだ大輔の体から蒸れた熱気が立上った。

 大輔が夢中になって行為に励んでいる間、美奈は一声も発さず動きもしなかった。やがて大輔も違和感を覚え始めた。美奈の体にいつもの強張りがない。声を押し殺している様子もない。美奈の体はぐったりと脱力している。体温はある。肌も薄っすらと汗ばんでいる。しかし、まるで死体を抱いているような錯覚があった。

 大輔は一層興奮した。

 大輔が強く腰をうねらそうとした時、それまでぴくりともしなかった美奈が突然、大輔の両頬を手の平で包んだ。思わず大輔は動きを止め、自分の娘の顔を見つめた。美奈は、大輔を見つめて微笑んでいる。

「お父さんは気持ち良いのが大好きなのね」



 深い眠りの中にいた和子は、呻き声に目を覚ました。男の呻き声が、何度も何度も家の中を繰り返し木霊している。

 隣に眠っているはずの夫がいない。和子はすぐに、ついに恐ろしいことが起こってしまったのだと悟った。彼女は夫の大輔が毎晩、娘の美奈の部屋に行っていることを知っていた。ただ今の生活が壊れることを恐れて、それを黙認していたのである。

 呻き声は隣の娘の部屋から聞こえている。しかし、その声は男の声だった。夫が娘の部屋で呻き声を上げているのだ。呻き声は繰り返し、いつ終わるともなく続いている。ついに美奈が大輔に、恐ろしい反撃したのだろうか。

 和子は強烈な恐怖を感じたが、今まで目を逸らし続けていたことから、ついに逃げられなくなったのだというある種の責任感に支えられた。とにかく娘の部屋へ行かねばならない。寝室を出ると、丈夫そうな木製の食卓が置かれたダイニングキッチンになっていて、そこが寝室の隣の美奈の部屋とも繋がっている。美奈の部屋の扉の前に立つと、呻き声は一層はっきりと聞こえた。和子はその呻き声が、一種の嬌声のように艶を含んでいることに気付いた。

 和子はドアノブをゆっくりと下ろして微かに扉を開けた。美奈の背中が見えた。娘が何事もないように立っているので、和子はわずかに安堵した。しかし大輔の呻き声は続いている。和子が扉をさらに開く前に美奈の呟いている声が聞こえた。

 ――何をしたのよ?

 ――ちょっと性的な嗜好をいじっただけさ。

 ――はは、この男、もう夢中だな。

 いつもとはまるで違う口調だった。しかも一人で話しているのに、まるで数人で話しているように言葉の度に口調が変わった。それが酷く和子をゾッとさせた。震えた手が図らずも扉を押して、ゆっくりと部屋の全景が現れた。

 和子は叫び声を上げようとして、あまりの驚愕に喉を詰まらせた。

 立っている娘の向こうにあるベットの上には裸の夫がいて、裁ちばさみを自分の腹に何度も突き刺していた。両手で掴んだ裁ちばさみを高く振り上げ、自分の腹部へ振り下ろす。はさみが根元まで突き刺さる度、夫は呻き声のような嬌声を上げ、引き抜いてはまた突き刺す。血が白いベッドを赤く濡らし、引き抜く勢いで千切れた肉片が散乱する。一際深々と突き刺さったはさみを引き抜くと刃に挟まった臓物がねじけたホースのようにずるりと引きずり出た。大輔の顔が恍惚に染まる。血まみれの腰が堪えきれない様子でくねっている。臓物の絡まるのも気にせずに彼はなおもはさみを突き立て続けた。

 美奈が和子を振り向く。異常な状況とそこで平然としている娘に対して、和子は純粋に恐怖を感じて後ずさりした。美奈が微笑む。和子には目の前にいる娘が、今朝までとははっきり別人だと感じられた。娘がそんな顔で微笑むのを見たことがなかった。美奈が一歩近付くと、和子は本能的に逃げ出した。部屋を背にして、玄関の方へ駆けだそうとした。しかしあまりのパニックが彼女の足をもつれさせた。そのまま体勢を崩し、食卓の角に思い切り額を打ち付けた。

 和子の意識は一瞬空白となり、今すべきことを忘却した。しかしすぐに、額に走る激痛を堪えながら、思考を立て直そうとする。状況を確認する。今自分は足がもつれて食卓に額を打ち付けてしまったのだ。

 本当にそうだろうか。

 確認しなければならない、という思いが和子の中に湧き上がった。

 和子はよろめきながら立ち上がると、美奈の部屋の前に戻って、また駆け出した。少し前の出来事を再現するように、わざと足をもつれさせて転ぶ。食卓の角が額にぶつかる。めり、と食い込むような音を和子は聞いた。

 しかし、和子にはまだわからなかった。自分が転んで食卓に額をぶつけた、と言う感覚が信じられず、とにかくそれを確認しなければならないという意識があった。

 和子はもう一度、立ち上がって、再び転んだ。しかし位置を見誤り、食卓の角が口の中に入って前歯をへし折った。そのまま倒れる時に食卓の縁は歯茎を滑るようにして皮を削り取り口内に大きな擦傷を生じさせた。

 床に突っ伏した後、顔を上げた和子の口からは夥しい血液が零れ出していた。しかし和子は一向に気に留めず、状況の確認を急いだ。

 食卓に向かって転ぶ。今度は角が和子の左目に直撃し眼球を潰した。

 和子は首を捻りながら身を起こし、また同じことを繰り返した。初めの内こそ内出血を起こして青黒く淀んでいた額の皮は、すぐに裂けて、額も目も口も、顔中が血塗れになった。それでも納得できずに和子はいつまでもそれを繰り返すのだった。

それを愉快そうに美奈は眺めていた。ベッドの上では、流石に動きが鈍くなり呻き声が小さくなったものの、まだ大輔が腹部を刺し続けている。

 ――あははっ! あはははっ! あははははっはははっははははははははははははっはははははははははははははははははははっはははははっは……飽きちゃった。寝ましょ。

 ――君達は先に寝ろよ。私はもう少し静かになってから寝るから。

 ――ははっ、明日から忙しくなるぞ。

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