第2話 ②~④

 夏香市立第一中学校2―Aの教室は、国語の授業の最中である。

 昼前の日差しが窓から差し込んでいる。昼食を目前にした生徒達が、ある者は真面目に、ある者は不真面目に授業を受けている。

 教壇に立った女教師が、黒板に歴史的仮名遣いの恋文を書き写していく。その背中を、一番窓際の後ろから三番目の席で、田中美奈が眺めている。柔らかな光のせいかもしれないが、その表情は少し緩んで見える。

 同じ後ろから三番目で、窓際から数えて五列目の席に座っている白石瞳が、窓から差し込む光の中の美奈をふと見つめた。やがて瞳は小さなメモ用紙に何事か書きこむと、前を向いたまま、後ろの席の女生徒にメモを渡した。

 メモを受け取ったのは小柄でショートヘアの女生徒だった。右手の手首に黄と緑の糸で編んだミサンガをしている。彼女はメモを読み、声を殺して笑うと、メモを畳み、窓側の隣席の男子を突いた。男子は戸惑いを顔に浮かべて女生徒を見た。女生徒は威圧的に男子を睨み、メモを差出した。

 男子はメモをあまり見ないようにして受け取り、すぐに隣の席の女子へ差し出した。女子も同じように、出来れば関わりたくないものを扱うように、隣の席の生徒に手紙を渡した。そしてその後は、出来るだけ早く忘れようとでもするように、メモの行方から視線を逸らした。

 メモがどこに行くかはどの生徒も知っていた。

 密かに生徒達の手を渡って、メモは美奈の後ろの席の女生徒の元に辿り着いた。黒く長い髪の少女だった。分けた前髪を、小さな花飾りのついたピンでとめている。

メモを受けとった長髪の女生徒は躊躇するようにメモの出発点、瞳の顔を見た。瞳は彼女を見つめ、澄んだ微笑みを浮かべている。その後ろの席では小柄な女生徒が、楽しそうに下卑たにやけ顔をしている。

 長髪の女生徒は意を決したように、メモを開いて読んだ。一度唾を飲み込み、メモを置くと筆箱の中からコンパスを取り出す。コンパスを開いて、針の先を突き出すように手に持った。コンパスをしばらく見つめた後、顔を上げ、目の前にある背中を見つめた。

「きゃっ!」

 短い悲鳴を上げて美奈が立ち上がる。教室の視線が美奈に集まるが、メモの存在に気付いていた生徒達だけが、不自然に美奈の方向を見ていなかった。

「どうしたの? 田中さん」

 女教師が美奈に尋ねる。

 美奈はそっと後ろの席に視線を回す。後ろの席の女生徒は、視線を逸らし俯いている。美奈は女教師を見て言った。

「いえ、何でもありません」

 女教師は不思議そうな顔をして、

「そう?」

 と相槌を打ってから、美奈に微笑みかけた。

「体調が悪いなら、ちゃんと言ってね」

 答える代わりに微笑み返し、美奈は胸にそっと手を当て席に座り直した。女教師が美奈から視線を外した後も、微笑みを浮かべたまま、美奈は女教師を見続けた。

そんな美奈を、また瞳が見ている。


 昼休みの教室。銘々、生徒達が弁当を開いて食べている。夏香市の中学校は弁当制で、昼休みの時間内なら、自由に好きな場所で弁当を食べて良かった。それでたいていは、仲の良い友達同士がそれぞれ教室の一角に集まって昼食をとるのだった。

美奈の席の周りには、瞳とショートカットの小柄な女生徒と、美奈の後ろの席の長髪の女生徒が集まっていた。

 美奈は席に座り、その前の席の椅子に瞳が座って美奈の方を向いている。二人の女生徒は美奈の机の傍に立っている。長髪の女生徒はのっぽで、小柄な女生徒の隣にいると、一層それが目立った。

 小柄な女生徒が、ミサンガをはめた手に渾身の力を込めて雑巾を絞るのを、瞳は涼し気な微笑みで眺めていた。見るからに使いこまれた雑巾は、床を拭けば逆に床が汚れるのではないかと思われた。その黒ずんだ布が音を立てる程に捻じられて、滴を垂らす。実際はどうかわからないが、絞り出され、滲み出る滴は、その雑巾の成分が濃縮されている印象を与えずにはいなかった。

 雑巾から零れた滴は、美奈の机の上に広げられた弁当の上にポタポタと落ちた。白米の上に濁った水滴が着地して、米粒の間に染み込んでいく。鮮やかなブロッコリーの上に落ちた水滴は、黒ゴマのドレッシングのようにも見えた。美奈は黙って、ただ俯いている。

「ああ、もう限界!」

 小柄な少女がそう言って雑巾から手を離した。

 ばさっと雑巾が弁当の上に落ちる。

 手の匂いを嗅いで、小柄な女生徒は露骨に嫌な顔をした。

「あまり、おもしろくないわね」

 弁当を下敷きにして盛り上がった雑巾を眺めながら瞳が言った。

「やっぱさ、虫だよ虫、足の沢山ついてるやつか、ぬるぬるしてるやつ」

 小柄な女生徒が言った。

「芽以は虫が好きね」

 瞳に言われて、小柄な女生徒、芽以は愉快そうに笑った。

「理子さんは、どうするのが良いと思う?」

 瞳に言われて、今まで黙っていた長髪の女生徒、理子は不意を突かれた様子で口籠った。

「あの……その……」

 理子は雑巾の下敷きになった弁当を前に俯いている美奈を見た。美奈の視線が理子を見た。理子はすかさず目を逸らした。

 落ち着かない様子で前髪の髪留めを指先で弄りながら、おずおずと理子は言った。

「トイレに、捨てちゃうって言うのは……」

「はぁ?」

 芽以に睨まれて理子は口をつぐんだ。

「何言ってんの。見て見て、私の手、赤くなってるの。雑巾を力一杯絞ったから。ここまでやっておいて、トイレに捨てるって、馬鹿なの? それなら最初に捨てるでしょ」

 瞳が手を伸ばして、理子に凄む芽以を制した。瞳は立ち上がって、理子の顔を覗き込むように自分の顔を近付けた。理子は瞳と見つめ合って、唾を飲み込んだ。理子が目を逸らそうとした瞬間、

「理子さん」

 名を呼ばれ、理子は視線を外すタイミングを見失った。目の前で、瞳が涼し気に微笑んだ。

「あなた、ずいぶん酷いことを言うのね」

 瞳はそのまま歩き出した。芽以は慌てて、美奈の手を乱暴に引っ張って立ち上がらせた。

「それ、ちゃんと持って来て」

 芽以が雑巾の乗った弁当を顎で示した。

 雑巾を乗せたまま弁当箱を持って歩き出した美奈に、理子が何か言おうとして、しかし何も言えずに俯いた。そのまま美奈の後ろを理子は歩き始めた。

 瞳が向かったのは、理科室の傍のトイレだった。理科室は美奈達のクラスの教室と同じ三階にあったが、細い廊下で繋がった別棟の端だった。だから普段の教室とは距離的に離れているし、理科室を授業で使っている時でもなければ、わざわざその傍のトイレに来る生徒はいなかった。

 ピンクと薄いグリーンの扉が並んでいる。瞳がトイレの前で足を止め、後に続いていた芽以と美奈、理子はピンクの扉よりに立ち止まった。そちら側に入ると思ったからだった。

「こっち」

 そう言って、瞳は薄いグリーンの扉を開けた。

「誰もいないね」

 中に入りながら瞳が言った。

 芽以も美奈も理子も瞳の行動に驚いたが、すぐに芽以は愉快そうな顔付きになって、瞳の後に続いた。美奈と理子も少し緊張して後に続いた。そんなところに入るのは初めてだった。

 中には個室と、女子トイレにはない小便器が並んでいた。

 瞳が美奈の前にやって来て、雑巾を見ながら

「それ、取って」

 と言った。美奈は弁当箱の上に乗った雑巾を摘まんで退かした。雑巾に付いていた埃や髪の毛がくっ付いて、白い米の上で目立っている。

 美奈の手から弁当箱を受け取った瞳は、そのまま中身を小便器の中にひっくり返した。米、ブロッコリー、から揚げ、色々の具材が小便器の底に落下する。瞳が洗浄ボタンを押すと、食物に排水溝を遮られた小便器の底に水が堪り、弁当の中身を浸した。完全に塞がれたわけではない排水溝が断続的に泡を立てる。その泡を潰すように、瞳の上履きが小便器の中の弁当の雑炊を踏み潰した。

 小便器の中から足を抜いて、瞳は美奈を振り向いた。

「食べて」

 芽以だけが心底愉快そうに忍び笑いを漏らしたが、美奈も理子も言葉を失った。瞳が理子を見て言った。

「理子さんは、本当におもしろいことを思いつく。こんなこと、私じゃ絶対思いつかない」

 理子は驚いたように瞳を見た後、言い訳するように美奈を見た。しかし美奈は理子に一瞥も与えなかった。

 美奈はゆっくりとトイレの床に膝をつき、手をついて、小便器の底に顔を近付けた。アンモニア臭と他の悪臭をない交ぜにした強い臭気が鼻を突いて、意図せず美奈は短い呻き声を漏らした。

「待って、こっちから」

 瞳の声に美奈が振り向くと、顔の目の前に瞳の足が差し出されている。濡れて光る上履きのつま先と裏に、潰れた米とゴミがこびり付いていた。


 男子トイレの扉を開けて瞳が出て来る。続いて下卑た笑みを浮かべた芽以が、最後に理子がトイレから外に出た。扉を閉めながら、理子はトイレの中を見た。小便器の傍に美奈がへたり込んでいる。理子は目を伏せ、扉を閉じた。

 誰もいなくなったトイレで、美奈はゆっくりと立ち上がった。それからすぐ口を押えて、個室に駆け込んだ。嘔吐く声が、個室からトイレの中に響いた。やがて個室の戸が開き、口元を手で拭いながら美奈は出てきた。全部は吐き戻せなかった。

 男子トイレから外に出て、教室に戻ろうとする。もうそろそろ昼休みも終わってしまう。

足が少しふらついた。急激に体調が悪くなった気がした。体内に取り込んだ雑菌は、どの位で体に影響を与え始めるものだろうか。美奈にはその不調が、今しがた食べた物のせいなのか、精神的なもののせいなのかわからなかった。

教室の傍まで来た時、後ろから声をかけられた。

「田中さん、大丈夫?」

 振り向く前に、誰の声かわかった。顔を綻ばせて美奈は振り返った。昼休み前の国語の授業を担当していた女教師、水上沙月がそこにいた。

 沙月はまだ若い、どこかあどけなさを残した教師だったが、その目の奥に宿した光が、頼りがいのある印象を生徒たちに与えていた。

「何だか、ふらふらしているみたいだけど……」

「いえ、その……」

 一度目を逸らしてから、また視線を沙月に向けて美奈は答えた。

「少し目眩がしただけです。昨日、寝るのが遅くて」

「そう、気を付けてね。何か困ったことがあったら相談に乗るから……」

「はい!」

 美奈は元気よく答えて、向きを変え自分の教室に向かった。沙月はその後ろ姿を眺めていたが、やがてチャイムが鳴ったので美奈達のクラスの隣の教室の扉を開け、入って行った。

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