第九話
虫の鳴き声がうるさかった。
辺りは暗闇で木々の輪郭程度しか見えはしないが、おそらく俺は森の中へ落ちたのだろう。地には背の高い草が生い茂っている。
どうやら、九死に一生を得たらしい。
360度見渡してみても木やら草やら、それ以外のものは一切視界に入らない。地面は心なしか傾斜になっているようだから、もしかしたら三重辺りの山中なのかもしれない。
身を起こそうとして、見れば俺の体は裸。人間の姿に戻っていた。
気絶したということは妖怪の転換が起こっているはずなんだが。
体の異常を探してみる。
――――――――。
両手の指の隙間に、水かきができていた。
今度は頭の上に手をやってみる。すべすべする。なるほど、皿か。
これだけ有名な妖怪ならすぐにわかるな。
……とはいえ、転換した妖怪が判明したところでどうするというのか。
幸いにも移動するのに支障はなさそうだが、それより今の俺に重要なのは、ここがどこかってことだ。
そして服。現在位置よりも、重要性でいえばこちらの方が上かもしれない。
どこかしらの町へ辿り着いたところで、服がなければ助けを求めようにも猥褻物陳列で通報されておしまいだ。命だけは助かるだろうけど。逮捕は困る。妖解していなければ、水かきと皿も不審がられるだろう。
「はー……」
思わずため息が出る。
ま、しかし考えるだけ無駄か。正直、なるようになるしかない。何もしないよりは行動を起こした方がまだマシだ。生きてたんだから良いじゃないか。
希望は薄いがとりあえず方向を決めて歩き始めてみようか……。
あぁ、河童なんだし、海を泳いで帰ることができるかもしれないな。
なんて。
俺が諦めかけた瞬間に、いつだって救世主は現れるのだ。
「河童」
言葉は透き通って、俺の耳へ届く。
暗い木々の隙間から、見慣れた姿が俺の目に映る。
「別名、川太郎など。全国に逸話のある水の妖怪。伝承される特徴は数あれど、共通するものは限られている。怪力。相撲好き。きゅうりや尻子玉を好む。尻子玉とは、諸説あるが、ようするに人間の臓物を指す。尻子玉に限らず、河童の好物は人間の臓物であるとする説は多い。他にも、川の側を歩く人間を水の中へ引きずり込むなど、一般的に河童は悪事を行う妖怪として認知されている」
春鳥は制服から学校指定のジャージへと着替えていた。
背中にはリュックサックを背負い、首から双眼鏡を提げている。自前のリュックサックのポケットには水筒や地図が無造作にねじこまれていたりと、随分と使い慣れているようだ。
「百枝くん。ここがどこか知っているのかな。座生の山から30キロ。遠州灘に浮かぶ、神島だ。島だよ島」
「……あぁ、三島由紀夫の『潮騒』の舞台」
「雑学を披露する気力が残っているのかい。結構だ」
春鳥はお札を乗せた右拳で俺の腹へ右ストレートを決めた。
口から何かが漏れたような気がしなくもない。
痛みと共に河童が妖解され、直後に視界が黒く染まった。
慌てて右手で飛来物を受け止めると、俺の制服である。
「早く着なよ」
言われた通り制服に腕を通す。
「どうしてここに」
「私が百枝くんを捜したから。方法は割愛するけど、まぁ手始めにサーファーを脅すよね」
「サーファーを脅す!? それでなんとかなるのか!?」
「手始めに、と付けただろう。それだけじゃない。……でもこうして、なんとかはなったね」
「…………」
まぁ、春鳥なら、俺は探し出すくらいのことは可能だろう。経験で俺はそれを知っている。
しかし、
「じゃあ、どうして捜した」
「うん? どういう意味かわからないな」
心底不思議そうな表情をしやがって。
「お前がどれだけ化け物じみた能力を持ってたとしても、所詮人間だろ。俺の居場所を突き止めるには、こんな夜中に、こんな島にまで辿り着くには、きっと並大抵じゃない労力が必要だろうが。そうまでして、どうして俺を捜すんだって話だよ。放っておけば良いじゃねえかよ」
春鳥が吹き出す。
「ふふ、見つけられた側が言う台詞じゃないね。良かったじゃないか、私がいて」
「……俺とお前との契約で、お前がしなきゃいけないのは、俺が平穏な日常を送ることの手助けだったはずだ。なら、これは契約外だろ。思えば俺が古段の妹を捜し始めた時からずっと契約外だったけどな。しかし、いくらなんでも、ここまでやるのか」
あの、己の欲望至上主義、実利をなによりも重視する春鳥奈散が。
さすがにここまでやるものなのか?
「確かに。君も知っての通り、私は百枝くんが可哀相だから助けてあげようだなんて気色悪い心根の持ち主じゃないよ」
「気色悪いとまで言うのか」
「だけどね」
俺の言葉を無視して、春鳥が手を伸ばす。
黙ってその手を取る。
春鳥が歩き出し、それにつられて俺も足を動かす。
「これは契約とは別の話なんだ。覚えていないかな。あの時、私は百枝くんに誓ったよ」
「あの時?」
「……本当に覚えていないのかな? 壺を開けた時の話だよ。言ったじゃないか」
妖怪壺を開いた時。
走馬灯の続き。
なるほど、それなら脳裏に蘇る。
俺は春鳥の膝の上でその言葉を聞いた。
『百枝くんは、私の命を救った』
『何故なら、この量の妖怪を身に宿したら、きっと私は、命を落としていたから』
『だから非常に不本意だけど、約束しよう』
『ここからは私の番だ』
『百枝くん、妖怪に体を乗っ取られたくはないのだろう?』
ああ、それは嫌だな。
そう俺が答えて、
『だったら』
「私が百枝くんを助けるよ。てね」
再び、春鳥はその言葉を口にした。
その瞳は不死鳥のようにぎらついていた。
俺の全身が吸い込まれそうになるほどの、その瞳。
――あぁ、ようやく気付いた。
この感情は、そういうことだったんだな。
理解したぜ、つまり俺は。
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