第七話

 風で大きく体が揺れる。慌てて俺は全身に力を入れ、そのまま風に運ばれていかないようぐっと堪えた。

 地に足が付いていない。視界が青く染まっている。風の音しか聞こえない。全身に奇妙な浮遊感がある。撫でつけるような風圧が不安を煽る。

 自分が空を飛んでいるという事実に初めは感動していたけれど、さすがに高度が上がると恐怖が勝る。

 しかし、そんな恐怖も妹の現状を思えば押し殺すことは容易だ。

 馬鹿な妹だが、それでも残念なことに血の繋がった妹であることに変わりはない。

 妹に危険が及べば、それを助けるのが兄としての義務だと全国的に決まっている。

 探さねば。視界に集中するのだ。

 とはいえ、双眼鏡を通しているせいで、少し顔をずらすだけで景色が変わる。

 さっきまでジャスコが見えていたかと思えば、今度は近所の公園が目に入る。どうにも慣れない。自分が今どの辺りにいるのかすら、まったく定かではない。

『百枝くん。気分はどうだい』

「良くはないな。気持ち悪くて吐きそうだ」

『一反木綿に口はないからその心配はないね。人間の姿に戻って落下しないようにだけ気を付けなよ』

 想像してみた。布から肉へ。重みを得て妖怪の効力を失った俺の体は、重力に引っ張られ、高度200メートルから真っ逆さま。走馬灯を見る暇もなく地面へ叩き付けられ――、

「ただでさえ怖いんだから不安を煽るのはやめてくれ」

『私がサポートをするんだよ。大船に乗ったつもりでいれば良いさ」

「まぁ、そこは信頼してるけどな」

「よろしい。――百枝くん。大方、きみは自分の居場所もわかっていないんだろう? 半回転して後方を向いてみなよ。眼下に座生山頂が見えるはずだ』

 春鳥の言葉に従い、体を捻ってみる。といっても、すぐには上手くいかず、しばらくは双眼鏡ごしの景色がぐるぐると入れ替わることになった。

 ジャスコ→近所の公園→うちの高校→図書館→市立体育館→道の駅→田んぼ→パチンコ屋→で、ようやく座生山のてっぺんだ。

 なるほど、双眼鏡ごしにさほど無理なく山頂が視界に入るってことは、けっこうな高さに俺はいるんだな。確か座生山の標高が250メートルほどだったか。てことは、俺は300メートルくらいの位置にいるわけだ。

 ……いま人間の姿に戻ったら、例え斜面へ落ちたとしても命はないものと思った方が良いだろうな。

『見えたかな』

「ああ、なんとか」

『では探したまえ。山頂に怪しい人物はいないか?』

 座生の山頂には、登山客向けの売店やレストラン、それに展望台が設置されている。天気の良い日には富士山が見えるなんていう噂もある展望台だ。

 登山客向けとはいえ、座生はそれほど標高も高くない。山頂にいるのは地元の連中がほとんどだ。芝生には、座生の山道を練習に使う野球部。テラスに、景色を眺めに来たおっさん。

 角度的に展望台の中はよく見えなかったので、身を捻り、なんとかかんとか体を回転させ、高度を下げる。

 中には健康のため登山に勤しむ老夫婦。それに、暇潰しに来た小学生がいた。

『百枝くん? どうだい?』

「地元の連中ばっかりだな。怪しそうな奴なんていない」

『誘拐をするような人間が一見して判別がつくとは限らないよ。そろそろ古段くんも屋上へ到着している頃合いだ。案外、君へ次の指示を飛ばそうとスマホを操作しているかもしれない。スマホをいじっている人間はいないかな?』

 野球部も老夫婦も談笑に夢中、おっさんはぼーっとテラスから街並みを眺めているばかりだし、スマホを操作してるのなんて暇そうな小学生集団くらいだ。

「や、いないなそんなやつ」

 まったく、こっちはこんなに大変な思いをしてるってのに。どいつもこいつも平和そうな面をしやがって。

『……ふむ、見込み違いだったかな。他をあたろうか?』

 ――――――――。

『百枝くん?』

 ちょっと待てよ。

 今、なんか違和感があったような?

 えーっと、小学生。

 小学生は三人組だ。

 三人とも摩訶不思議な服装に身を包んでいる。

 忍び装束がスマホをいじり、ゴスロリがアイスを食べつつその画面をのぞき、残る狐面が他の二人を対面から眺め――――。

 狐面?

「古段の妹じゃねえか!」

 そして忍び装束は俺の妹である!

 何をやってんだ、あの馬鹿は!

『あれ? 見つかったのかな?』

「……あぁ、大当たりだよ。しかもあいつら、のんきにアイス食ってやがる。あれはどうも、誘拐なんてされてねえな」

 監視されてる様子もねえ。学校さぼって遊んでるだけだ。

『なるほど、狂言誘拐ってやつだね。それじゃあ事件解決だ。おめでとう』

「めでたさゼロなんだが」

 そりゃあ妹を心配していたし、早く地面に足を付けたいとも思っていた。事件が解決したこと自体はめでたいに決まってる。

 けど、狂言誘拐? なんだそれ。俺たちはあいつらの遊びに付き合わされただけだってのかよ。あぁあああ苛々する。地獄に落としてやる、あの馬鹿。

「とにかく春鳥、王地たちに連絡してくれ。連中は座生山頂でアイス食ってるから放っとけってな」

『嫌だよ。百枝くんが自分で言いなよ。あくまで私はただのサポートだからね。事件の本筋には関わらないよ』

「……じゃあ構わねえ。地上に降りてから自分でやる」

 どうせなら座生山頂に降りちまおう。妹を逃がすつもりはない。説教タイムの始まりだ。

 まったく、いっつも忍び装束で登校するような馬鹿な妹だが、まさか学校へ向かう代わりに山登りをするほどの馬鹿だとは俺も知らなかった。

 どうせ古段の妹(とゴスロリ)を唆したのはあいつだろう。我が妹が元凶ってのは恥ずかしい。王地に合わせる顔がない。

『降りるまでは付き合ってあげるけど、それで私は帰るからね、百枝くん。これで忙しいんだからさ、私も』

「構わねえよ。悪かったな、こんなしょうもないことに付き合わせて……ん?」

 ――ふと、遠方から金切り声のようなものが聞こえてくるのに気付く。

「なんだ?」

『どうかしたのかい』

 音の発生源に思い当たった。

 知識はあったのだ。

 けれどまさかこんなにも運悪く、俺が一反木綿になっている僅かな時間のあいだに起こるはずはないと、たかをくくっていた。

 春鳥の言葉が思い出される。

 この辺りは強風の地域として知られている。

 そう、強風。瞬間的に台風並の風速となる、突風だ。

 それが今、起こった。

『きゃ……っ』

 貴重な春鳥の悲鳴を耳にしたようにも思うが、残念ながらそれをいちいち気に掛けている余裕はない。

 山中の木々が音を立てて軋むような強風で、高空に浮いた一枚の布が位置を保っていられるはずがなかった。視界から座生の山頂がみるみる遠ざかる。ジャスコも学校も神社も、見慣れた景色はあっという間に消えて行った。

『あれ、百枝くん、きみの姿が見えな…………だけど、無事かな』

「ぜんっぜん、無事じゃねぇ!」

 風圧にやられ、呼吸をするのも辛い状況で、よく受け答えができるもんだと思う。頑張ってる俺、褒めてあげたい。

『……さっきの風で飛ばされ……か。今どこ……る』

「わかんねえな! 絹傘山、は、超えたと思う」

 座生山から半島の先側へ少し進んだ位置に絹傘山はある。観光施設こそないけれど、座生山とよく似た形の山だ。

 目前には二つの山が見えている。

 奥が座生山で手前が絹傘山だろう。

『超えた? とは、……さか、止……ない? 百枝くん、一反木綿……制御……のか?』

「まったく、制御できねえ! ああくそ風がうるさくてよく聞き取れねえな!」

 つうか、布きれだとはいっても、ここまで飛ばされるほどの風速なのか? 台風でもなんでもない、ただの突風だぜ?

 町二つ分くらいはすでに移動してる。こんなことあるもんなのか?

『制御できな………それも、一反木綿の性質なのかも…………ね。風が苦手。……たび強風が吹けば、それに乗っ……どこまでも飛ばされ…………。百枝…………調査は行って……べきだったね』

 妖怪だから物理法則なんてガン無視するってのか。

 ああ本当に、能力の調査をしていなかったのを後悔するぜ。

 視界は滅茶苦茶だし春鳥の声は聞こえねえし、体中は風圧で痛いし。せめて一反木綿を使うにあたって練習くらいはしておくべきだった。いきなり高度300メートルなんて挑戦するのは無茶だったんだ。……ああ、春鳥の忠告を聞かなかった自分を恨む。

『良いかい……くん。いくら一反木綿でも、このまま世界一周なんて…………ならないだろう。……かは止まる。それ……絶対に意識は失うな』

「わかってるよ」

 意識を失う=落下=デッドエンドだ。俺だって、まだ高校生の身で死にたくはない。今月出た某京都在住作家の新作だってまだ読んでないんだ。ローダンもいつか最新作まで追いつきたいと思ってんだよ。

『その……私…………く。だから……』

「あ」

 唐突に耳元へ感覚の余裕ができる。

 どうやら、スマホを落としたようだ。

 スマホ購入の際、両親からは二年間は同じ機種を使い続けるように念を押されている。にもかかわらず、あれからまだ一年と少ししか経っていない。意図的なものじゃないにしてもきっと張り倒される。

 いや、今はそこを気にしている場合じゃないだろ馬鹿か俺。春鳥と連絡が取れないってのがどれだけ死活問題かわかってんのかよ。

 俺はこれからどこへ行き着くんだ? このままいけば海の上か? それとも三重の方まで流されていくか? 妖怪百面相の体で、服すら身につけていない状態で? 

 ごおっと音がして、二度目の突風が吹いた。

 一反木綿である俺の体はいよいよ風圧に蹂躙される。眼下は深緑色。海上に出たのである。そしてあれよあれよと、ついには陸が見えなくなってしまった。

 ああ、こりゃやべえ。

 そう思ったところで、今度は顔面にどでかい衝撃を受けた。

 痛みを堪え、視界を探れば前方にうようよと黒い塊。まるでゼビウスか何かの世界にでもやって来たかのようだ。なんだあれ……よく見りゃ、鳥? 鳥の大群? あぁあ鳥だこいつら。

 不運にも程があんだろ。なんだよお前ら、こんな布きれ避けて飛べば良いだろうが!

 衝撃は止まらない。俺の姿が見えていないんじゃないかというくらいに、思い切り渡り鳥はぶつかってくる。

 幾度も体に衝撃を受け、空の上で蹂躙され、それでも風に流され続け、風圧は変わらず……あー、ホント、これ。

 なんでこんなことになってんだよ。

 このままじゃ死ぬってのに――――意識が――とび――――――――。

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