月下秋乃の赦免 其ノ肆


 わたしが予想した通り、公園に日嗣ひつぎはいた。開いた傘を例の岩のオブジェクトの凹凸している部分にバランスはめ込み自らの肩に立てかけると、その下に座って読書をしている。


 わたしは公園へとずかずかと入り込んでいく。濡れた砂を踏むザックザックという音が雨音の中鳴り渡った。


 わたしは日嗣の前に立つと、あの晩と同じように日嗣を見上げた。すると日嗣も読んでいた小説から目を上げ、私を見下ろす。その目にはやはり獣の影が垣間見かいまみえた。


「おはよう、秋乃。一日ぶり。雨音が綺麗ないい朝だね。学校はどうしたの、まさか私の生活にでも憧れて登校拒否かな」


「違うよ。昨日の晩、父が亡くなったんだ。だから今日は校則に則って正式な休み」


「へえ、それは大変な日ね。友達として御悔おくやみを言わせてもらうわ」


 日嗣はそう言うとオブジェクトの上からわたしに向かって仰々ぎょうぎょうしく頭を下げてみせる。


「別にそんなことしなくていいよ。それより、日嗣」


「何かしら」


 そう素知らぬ顔で返事する日嗣に、ありのままの質問をぶつける。


「あなた、わたしの父を殺したの」


 そう言った途端、わずか一瞬だけ日嗣の紅い唇がニヤリと大きく歪み、汚れのない二つの八重歯が現れたのをわたしはしっかりと捉えた。


「だったらどうするの」


 日嗣は否定の言葉を発しなかった。その事実がわたしの背中を押す。


「否定しないんだね」


「だって、もし否定したところで秋乃は信じないでしょう。だったら否定しても意味ないわ。そうでしょう」


 そして日嗣は小首を傾げた。わたしに同意を求めるかのように。


「そうだとしても、どうにかしてわたしを納得させてよ。そうする責任があなたにはある」


「責任か。そんなもの私が貴女に抱く義理は無いと思うんだけどな。まあ、公園で一緒に語り合い、学校で一緒に弁当を食べた友達の頼みだ。そういうことにしておこう」


 そう言うや否やオブジェクトの頂から傘を持って飛び降り、濡れた砂利に音も無くつま先から着地する。着地する際に膝を曲げて衝撃を吸収したからか、水しぶきは全くと言っていいほど上がらなかった。


 スカートについた雨粒を手で払うと、獲物に襲い掛かる機会を待つ獣のようにわたしの周りを円を描いて歩き始める。


 ズザッ・ズザッ・ズザッと規則正しい足音がわたしを囲んでいく。日嗣はわたしの瞳をずっと見つめたまま円を描く。そして斜め間まで来たとき、ついに急に立ち止まると腰を横に曲げて母親が子供に言うことを聞かずときにそうするように、わたしの顔を下から見上げた。そうする日嗣の顔には思わずたじろいてしまうほど獰猛どうもうな笑みが浮かべられていた。


「じゃあまず始めに、秋乃はサスペンスとかミステリーの小説やドラマなんかを観るかな」


「急に何。そんなことこの話に関係あるの」


 言葉尻を強めてそう言うと日嗣はいいから答えてよと語気を強めて言う。どうやら自分の流れに合わせろということらしい。


「そういう小説は読まないけど、ドラマなら時々暇つぶしに観てるよ」


 そう答えてやると満足気に頷いて、またわたしの周りを歩き回り始める。


「そう。じゃあミステリーとサスペンスの違いは知ってる」


「いいや、そんなの知らないよ」


 だんだん日嗣の玩具おもちゃにされているような気がして、苛立ちが募っていく。わたしがにらみつけた視線を、日嗣は飄々ひょうひょうとした笑顔で真っ直ぐ受け止めた。


「この二つの違いは”視点”だ。ミステリーは探偵、もしくはその助手の視点で物語が進んでいく。そして最後に探偵によって犯人が明かされる。だか、サスペンスはその逆で我々、つまりは視聴者もしくは読書は始めから犯人が解っている。その上で我々は緊張感を持って物語を楽しむ。たったそれだけの違い。内容はさして変わらず、決まって登場人物の誰かが死んだことが問題になるだけ」


「そんなことがどう関係するっていうの」


「秋乃、貴女は今重大な岐路に立たされているのよ。貴女の父親の死という物語を、貴女にとってのサスペンスにするかミステリーにするかのね」


 つまりはそういうことか。わたしが一人で真実を求めればわたしはミステリーにおける探偵となり、ここで日嗣から真実を聞かされればこれはサスペンスで、わたしは犯人を知っていながらそれを隠す共犯者となる。だからどうなりたいかは自分で洗濯しろと。日嗣は暗にそう伝えたいのだろう。どんな状況になろうとも彼女は決して嘘を吐かないつもりなのだ。


 だけども、そんな事はとっくに決断してしまっていた。なにせ今のわたしは悲しむ母を慰めもしないほど良心を失った悪人で、そんなわたしはわたし自身の価値基準によると罰を受けるべき者でしかない。


 だから、獣の瞳をしかと見つめてやる。日嗣が正面で足を止めた。戸惑いの表情を浮かべている。心臓が破裂してしまいそうなほど高鳴った。今度こそ、邪魔されること無く決断を告げよう。そしてわたしは口を開いた。


「日嗣、あなたわたしの大っ嫌いな父を殺したよね」


 それを聞いて日嗣は瞬間、狐につままれたような顔になるとその後直ぐにこれまで見たことの無いほど満面の笑顔で腹をかかえながら声を出して笑い始めた。


「あはははは、いやあ秋乃、貴女は普通じゃないわ。これはもちろん良い意味で言ってるの。貴女は最高よ」


 大仰に、さながら壇上の役者のように大手を広げてそう言う。わたしの一挙一動を観察するのが楽しくてしょうがないといった様子だ。


「ああ、それで父親を殺したかって件だけど、そうだよ私が殺した。秋乃の為にね。それでこれを聞いて秋乃はどうするの」


 そしてさも平然として緑青日嗣ろくしょうひつぎはそう告白した。獣の眼光でもって、そう断言した。だが、それを聞いてもわたしはやはりこれといって罪の意識を感じはしなかった。わたしの為に殺したと言われても何の気持ちも抱かなかった。


 理性は犯罪者になってしまったという絶望感でいっぱいだ。ああ、やってしまったと空虚に叫び声をあげている。だが心では何も感じていない。この世に生まれてから獲得してきた常識や道徳観念といったものが、心に罪意識をしつこく訴えてくる。


 わかってる。わたしは罰せらるべきだ。


 しかしとうの昔に理性から切り離されたわたしの心にそれが届くことは無かった。それは切り傷と似たようなもので、ぱっくり開いた理性と心の切り口は未だ塞がることなく感情を血液代わりに垂れ流している。結局のところいくら理性で罪を感じようともわたしの心にまで罪は到達できない。


「別にどうもしないよ。それにどうも出来ない。どうにかしようとしたらわたしは犯罪者だ。ただ、納得はできたよ。あと一応礼を言うべきかな 」


 感情の無い声でそう言う。


「いいえ、そんなの必要ないわ。だって貴女はもう私の共犯者だもの」


 一方で日嗣は今までに類を見ないほどの上機嫌だ。新しい玩具を見つけた子供のような笑顔ではしゃいでいる。水しぶきで黒のニーソックスが汚れることもいとわずわたしの周囲を跳ね回って共犯者の誕生を喜んでいる。


 今まさにわたしは父の殺害の共犯者となった。なってしまった。しかし心はその事実を潤滑油じゅんかつゆ代わりにして単体で感情の歯車を回し始める。そしてやっとわたしは公園への道中感じた”何か”をもう一度感じることが出来た。だがそれもつかの間、またもや長続きすることなく、正体を明かさぬまま消え失せてしまう。


「そうだ、秋乃。こういうときは記念に何か始めたらどう。いいえそうすべきよ」


 そんなとき日嗣が急に、上がったテンションに任せてそう言ってくる。


「え‥‥‥例えばどんなこと」


 仕方なく困惑気味に尋ねる。日嗣は跳ね回るのを止めて顎に手を当てて真剣に考え出した。


「ううん‥‥‥そうだ。その髪を伸ばしてみたらどうかしら。きっと秋乃は長髪が似合うと思うわ」


「そうかな‥‥‥」


「ええ、きっと今より素敵になるわ」


 確信に満ちた声で日嗣が言った。


 ふと思って公園の時計を見ると家を出てからもう一時間以上経っていた。学校では一時限目の授業が中盤を過ぎた頃合いだろう。学校を思うと連想して伸元の顔が頭をかすめた。彼はこのことを知ったらどう思うだろうか。当然のごとく嫌われるだろう。そう思うと胸が痛んだ。悲しいことにその痛みを感じて安心する自分がいた。


「日嗣、悪いけどそろそろ帰るよ。母さんのことも心配だからね」


 そう理由付けてひとまずこの場所や、日嗣から離れることにした。急に、そうしなければだおかしくなってしまう気がしたからだ。超えてはいけない一線を越えてしまう気がした。急に自分が怖くなった。


 すると日嗣は残念そうな顔をしてからふと何かを思いついたような様子でわたしを見る。


「そう、残念。でもお母さんの為なら止められないわね」


 そして笑顔でバイバイと手を振ってくる。わたしはぎこちない笑顔で振り向くと、日嗣に手を振り返して公園を後にした。


 気がつくと雨は止んでおり、慣れ親しんだ帰り道は雲の切れ目から薄く降り注ぐ灰色の光によって照らされていた。

 

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