月下秋乃の赦免 其ノ参
ベッドから窓を見上げると、
そうこうしていて結局いつも通りになってしまった時間に、朝食を食べるべくリビングへと階段を下りていく。その間も馴染み深いざあざあという雨音がずっと鳴り続けていた。どこか懐かしくもあり、少し悲しくもあるその雨音は、わたしを包み込んでいるようだった。
そして珍しいことに今日は、父のいびきも怒鳴り声もしなかった。おそらく出掛けたっきりまだ帰ってきていないのだろう。昨日の夜、例のごとく父は母のお金を持ち出すと酒を買いに行くと言って出て行った。まだ街のどこかをほっつき歩いていてでもいるのだろう。そう思いながらリビングの扉を開けると、いつも父が酔いつぶれていたソファーに母が静かに座っていた。
そしてわたしは父の死を知った。
母は湖面のような静けさを
扉を開けたまま、いつもよりほんの少しおめかししたわたしが固まる。確か本当の父さんのときもこんな感じだったなぁとぼんやり古い記憶が蘇えってくるる。あの時もこうやって朝支度をしていざ小学校へ行こう、というときにいきなり伝えられたものだっだった。あのときは雨が降っていた。ざあざあと不規則に鳴る雨音の中でわたしと母は悲しみを共有しあった。思えばあの日からだ。わたしが今日みたいな雨音を聞いて懐かしく感じるようになったのは。
「お父さんが昨日の晩死んだって」
母は真っ直ぐわたしの目を見てそう言ったのだ。それは皮肉なことに父さんのときと全く同じ台詞だった。
だが、それを聞いてわたしは悲しみや喜びや、開放感や、ある種の喪失感でもなく、心臓がはちきれそうなほどの鼓動を感じた。心臓を貫く冷たい恐怖心を感じた。父さんが亡くなったときような悲しみはちっとも浮かんで来なかった。
わたしの脳裏で
「よくニュースでやってる通り魔の仕業だって電話で警察の人が言ってたわ。お酒を買ってコンビニにから帰るときに通り魔に斬り殺されたらしいって。これで通り魔の被害者は九人目だそうよ」
母は感情の無い事務的な声でそれだけ言うと黙り込んでしまった。一方わたしの心臓は爆発してしまいそうなほど激しく脈打っていた。
わたしのせいか。これはわたしの
緑青日嗣は父を殺したのか。その思考がわたしの頭を埋め尽くす。だが、そんなことが可能なのか。すると日嗣の言葉が蘇る。「私には可能だよ」日嗣は確かにそう言っていた。ならばやはり日嗣が殺したのか。
ならばわたしは日嗣に
そうやって無機質な考えを浮かべては否定していくうちに、わたしは気付いてしまった。わたしはすべき、とかそうしなければならない、といった感情でしかこの件を捉えていないことに。つまるところわたしは、父の死に対して何の感情も抱いてないのではないか。
母の目の届かないわたしの部屋に行って、飛んで跳ねて大喜びするような喜びも感じなければ、昔は良い父親だったと、母と共に涙を流すことも無い。あるのは、自分が捕らえられ、法の下罰せられるかもしれない事への醜い恐怖心のみ。
母の頬に残る涙の痕を見ても、やはり私は悲しみも、同情心も、ましてや母を抱きしめる
わたしは、いつからこうなってしまったんだろう。
あんな父でも母は、信頼してた。きっといつか父が元に戻り、壊れてしまった家庭が再生すると信じていたのだ。だから酔って娘に暴力を振るい、毎晩母が稼いだ金で街に繰り出し、朝には母が絶対に付けないようなキツイ香水の匂いをプンプンさせて帰って来る父をそれでも母は許していた。
母は父を愛していた。そんな
わたしは良心をいつ、何処に捨ててしまったんだろう。それは、いつかの父に殴られた夜に、あの公園のゴミ箱にでも捨ててしまったのか。
そしてわたしは捕まるのか。俗に言う殺人の共謀罪というやつで。この場合、確かそんな罪状だろう。以前観た似たな内容のサスペンスドラマでは確かそうだった。
もしそうなら、わたしは捕まるべき人間だろう。捕まえられて当然の人間だろう。良心を持たない人間。捕まるには十分な理由じゃないか。おまけで父親殺しを友達と企んだ。ぼんやりとそう思った。ただ、頭ではそう考えても恐怖心は消えず、今も
だが、どうすれば会える。昨日の発言を思うと日嗣は今日、学校には来ないだろう。幸い、母が言うにはわたしも学校には行かなくていい。
「学校にはちゃんと事情を言って休むって連絡しといたらから」
母はそう言ってから、少し一人にしてと申し訳なさそうに言った。わたしも夜公園にいるとき、こんな表情をしているのだろうか。現実に耐えられないと訴えてくる瞳を。
「いいよ、分かった。わたしはちょっと外の空気を吸ってくるから気にしないで」
そう言って足早にリビングを出た。わたしはあの空間に居るのが耐えられなかった。自分に責任があるかもしれない罪で母が悲しんでいる事実を直視することが出来なかった。玄関で傘を手に取るとそのまま他には何も持たずに外へ出る。後ろを振り返って家を見ると、今まで鋼鉄の塊のように見えたその外見が今日は酷くちっぽけなものに思えた。
そして例によってわたしは公園へと向かう。母を家に残して、いつものように独りで。いつの間にか逮捕されるかもしれない、という恐怖心は薄れていた。もっとも、そんな恐怖心でさえも父の暴力と同様に諦め、受け入れてしまっていただけかもしれないが。
だが、心臓の高鳴りは未だ止まない。恐怖とは別の感情が縛り付いていた。わたしは無意識のうちに、これから起こるであろう非現実に思いを巡らせ興奮していたのだろうか。
手で傘を
これが何か、日嗣と話せばまたわかるのだろうか。父への殺意を気付かせてくれたようにまた、この”何か”も気付かせてくれるだろうか。そんな期待を浮かべてわたしは足を進める。その足取りは普段公園へ向かうときより、ずっと軽やかなものだった。
なんたってわたしは、父を亡くしたのだから。
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