緑青日嗣は猛毒である 其ノ肆
起きてからの記憶は、ひどく
まず、頭に直接叩きつけられるような
恐る恐る部屋から出て階段の
ただひたすらに、父の知らない場所へ逃げたいと思った。だが唯一の逃げ道は他ならぬ父によって塞がれている。
そんな事を考えているわたしに向かって父は、先程とは打って変わって静かな、だけど罪人にはめられる
そんな考えとは裏腹に、怯えたわたしの本能は、父の言葉に従ってしまう。階段を
バチンという音と共に
ほらやっぱりこうなった。言わんこっちゃない。頭の中でそんな声がした。
そしてまた、怒鳴られる。いつもと何ら変わらない。
怒鳴っている内容も、怒鳴られている理由も全く分からなかった。父は
そんな様子をわたしが無言で見つめていると一旦証明を止めて、そして今度は反対側の頬をさっきよりも強い力で
わたしを二度叩いて、
そしてわたしは家を出た。
気がつくと
父は初めて会った当時からわたしのことを嫌っていた。ただ単純にソリが合わなかったんだろう。だがそれでも父を愛した母はわたしのことなどお構い無しに父と再婚した。それはわたしの本当の父さんが亡くなってから
きっと母は寂しかったのだろう。父さんという後ろ盾の無いことが不安で耐えられなかったのだろう。
結婚当初、父はまだわたしに暴力を振るうような人ではなかった。どちらかというと、今ほど酒も飲まず、大人としてのモラルは持っている人だった。だから結婚生活は周囲の家庭とさして変わらないものだった。
しかしそれは当時父が、勤めていたコンピューター系の会社をリストラされたことによって崩れた。
そう、わたしも緑青日嗣の噂と一緒だ。リストラや社会経済、そんなものの余波で人生を狂わされた。
涙なんて出てこない。そんな
これは悪夢なんだ。ふとした居眠りの合間に見た悪夢が今もなお続いているに過ぎない。どんな悪夢も、目が覚めてしまえば
そんなことを考えていると不意に、ある物に目が
家を出たときからずっと握りしめていた拳に
これが普通なんだろうな。ふと、そう思ってしまう。これがいけなかった。
その幸せは、わたしにとっての当たり前ではない。一旦そう考えてしまうと、わたし自身を
すると
我ながら、らしくない暴力的な考えだったと思う。これも父の影響だろうか。これじゃあいけないとわたしは、これ以上何も見ず、何にも影響されないように下を向いて歩く事にした。規則的に続く街頭の灯りと、どこまでも続く真っ黒なコンクリートが再びわたしの精神に静けさを取り戻すまで。
いつの間にか、わたしの足は自然といつもの避難場所へ到着していた。
そこは近所にある公園だ。わたしは家に居られなくなるとここへ逃げ込む。ここは母が仕事から帰って来る際には必ず通らなければならない道だ。だからわたしは、わざと道路から見えやすい場所に立つ。そして、母がわたしを見つけるまでを、何とも言えない複雑な心境で待つ。しかしながら、母の仕事が終わる時間まで食料も無しに待つとなると、せめて財布でも持って来れば良かったと
お腹空いたなあと思いながら、わたしはいつものように公園に足を踏み入れる。
すると、そこに彼女はいた。
事故防止のため、市によって
夜風に吹かれた彼女のしなやかなロングヘアが、影の中でセーラー服やスカートの
その
わたしがどうするべきか迷っていると、緑青日嗣がいきなりわたしの気配を察知したかのようにこちらを向く。
目が合う。父のときとはまた違った緊張感がわたしを包み込む。
だが、緑青日嗣は直ぐに目を
どうしようもなくわたしはその誘いにのる。獣の巣に立ち入る慎重さでもって、緑青日嗣の影に足を踏み入れた。
「月を意味するルナの語源であるラテン語のルナシィは狂気を意味するそうよ。昔、外国では月が発する霊気あてられると気が狂うって信じられていたの。全くもって
緑青日嗣はまるで長い間連れ
わたしはというと、疲れと緊張で、すかっかり混乱してしまっていて返す言葉に困る。だが、そんなわたしを尻目に彼女は話を続ける。
「だけどね、人間、用心に越したことはないものよ。それに最近通り魔も出るらしいし。夜道の独り歩きは避けるべきじゃない。特に
そう言うと彼女はくすくすと笑った。
「あなたもわたしと同じ女子高生じゃない」
さっきまでずっと
そんなわたしの言い草に対して彼女はわたしの目を見つめて、はぐらかすように小首を
「そんなことより月下さん。確か月下であってたよね。それでどうしてこんな夜遅くにこんな場所にいるの。別に、わざわざ満月を鑑賞しに来たわけじゃないでしょう」
どきりとした。心臓が高く跳ねる。やっぱり
「いや、あのう‥‥‥」
思わず情けない声が出る。うまくはぐらかせる嘘を探すものの中々思いつかない。わたしはなす
すると緑青日嗣が月明かりに照らされたわたしの顔を、じいっと見つめていた。しまった、と思う。その目はわたしの左頬に向いていた。
「ああ、そうだね。訊ねた私が
変に気遣った声で発せられたその台詞は、事情が全て分かったということを暗に示したものだった。
わたしは肝を抜かれた。適当なことを言ってはぐらかす気力も削がれる程に。ただ、それでも否定の言葉を発そうと
「別に怯える必要はないよ、月下秋乃。それに畏れる必要もね。だけど信頼はして欲しいな。だから貴女の好きなように答えていいよ。もちろん答えなくてもね。だけど嘘は駄目」
彼女はそう言うと、その美しい口元に薄っすらと笑みを浮かべて口を閉じる。
どうしよう。どうするべきなんだろう。これまででこんなシチュエーションは何度かあった。一番記憶に新しいのは中学生のときだ。クラス担任のお節介な年配の女教師に傷の事を深く問い詰められた事があった。そのときは確か腕の傷で、それは確かいつものように父がささいな事に腹を立てて壁に投げつけたビール瓶の破片が偶然わたしの腕を切り裂いて出来たものだった。
その傷を見た担任は、他人事にもかかわらずひどく親身になって事情を聞いてきた。だがわたしはそれを
もちろん父や、父の暴力を見て見ぬ振りをする母を
もし、父に暴力を振るわれていますとでも言ってしまえば途端わたしの印象は、一人の中学生から父に暴力を振るわれている可哀想な中学生へと変貌してしまう。自分で
あの目は、これまでの人生の中で何度も見てきた。その
そんなとき、あの目を見るたびに考えてしまう。あの目は動物を見る目だと。決して人を見ている目ではないと。
ペットショップでゲージの中で縮こまっている動物を見るとき、人は幾ら口々に可愛さを表す形容詞を並べようとも目だけは、にこやかな笑みの裏に
あんな目で見られるのはまっぴらだった。人としての尊厳すら失ってしまう。わたしはちっぽけなプライドでもってそう考える。
ならば、目の前の彼女はどうだ。身の上話を打ち明けたとしたらわたしを何と見る。人か動物か。両親を殺されたかもしれない元不登校児の少女はわたしを憐れむだろうか。自然とそうはならないような気がした。
そう思ったのは部長から聞いた噂話からでもなく、理由はどうあれ彼女がたった独りでこんな時間にこの公園にいたからでもなく、ましてや下らない同族意識からでもない。それは酷く単純なことで、わたしがこの
だから語った。わたしの憐れな身の上話を。
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