緑青日嗣は猛毒である 其ノ伍
誰かに話せば楽になるとよく言うがあれは嘘っぱちだ。むしろ人によっては閉じた傷口を自らこじ開けてから、さらにそこに塩を
自ら悲劇を語るというのは、自分の手で一度閉じた傷口を無理矢理開くのと同じだ。特に
不幸を受け入れ、よくある日常の一コマとして忘却の
一言発するごとに感情の扉を縛り付けていた鎖が、またもや弛まって行く。しかし今回は先程の何倍も早い。
この世の理不尽に当たり散らしながら言葉を発する。
どうしてわたしなのか。どうしてよりにもよって
何を言っても
そして次にわたしは傍観してばかりの母への不満を口にする。これもまた緑青日嗣はうなずいて返すだけだ。
わたしが一方的に
すると、次第にわたしは感情的になっていき、頬を
何より血も繋がっていない父への怨みや怒り、憤りといった負の感情が濁流のごとく押し寄せてきていた。どうやらとっくに鎖は壊れてしまったらしい。
頭に血が上っていて目頭が熱い。それから少しして、
わたしは泣いていた。ぽろぽろと涙を流して。手の甲についた涙を見て驚きと羞恥が入り混じった
「もういいかしら、
先程から一切変わらない優しい笑顔と声で緑青日嗣は言った。
「いいよ。落ち着いた。黙って聞いてくれてありがとう、緑青さん」
「ああ、そうそう。私を呼ぶなら苗字じゃなくて名前の方で、
「え、ああ。じゃあお言葉に甘えてそうする。それならさ日嗣、わたしの事も名前で呼んでくれない」
そう言うと彼女は少し悩んだ後に
「じゃあそういうことなら秋乃、改めて宜しく」
と言い、それに対して私も
「じゃあ日嗣、宜しく」と返した。
「ところでさ、秋乃はお父さんをどこまで恨んでいるの。もっと不幸になって欲しいってくらい。それとも、いっそ殺してしまいたいくらい」
しばらくの沈黙していた後で日嗣が急にそんなことを聞いてきた。
「そりゃあもう、純粋に死を願うくらいだよ」
わたしが正直な、だけど冗談を言うように軽い気持ちでそう答える。けれど死を願う気持ちは本当だ。
日嗣はそれを聞くと、
「じゃあさ、秋乃。貴女のお父さん、私が死なせてあげようか」
初めて会ったときと同じ
初め、わたしはそれを冗談だと思った。希望に満ちていて、わたしの深淵にある薄汚れた願いを叶えてはくれるが、絶対に実現が許されることのない冗談。
「ははは。そう出来ればいいよね。何度そうなって欲しいって考えたかな。それに、どれだけ救われることだろう。でもそれはやっぱり無理だよ」
そう言ってわたしは苦々しく笑う。
例のよく分からないオブジェクトを見上げると、その頂に鎮座している日嗣は薄っすらと口元を緩ませて、さながら無知な少女を見守る賢者のような、包容力のある笑みを浮かべていた。だがその一方で獣の双眸はちっとも笑っておらず、ただ鋭くわたしを見つめていた。
そのの背後から月光が降り注ぐ。獣の影がいっそう濃くなる。日嗣の背後から吹いた突風が、たてがみを揺らした。また、あの香りがする。風に乗って
「無理、だよ。だってそうでしょ、日嗣」
わたしがはっきりとした声で否定する。周知の事実を確認するように。反論しないでくれと、強く願いながら。すると、日嗣は微笑を浮かべたままゆっくりと二回首を横に振る。
「どうしてそう決めつけるのかな、秋乃。私には可能だよ」
「だとしてもそんなことはやっちゃ駄目」
「どうして」
「そりゃあ世界で、そう来まっているからだよ。人を殺すのはいけないことだって」
そこで、日嗣はふぅと
「その理屈は誰が決めたこと。貴女、それとも世の中。どちらにせよ、貴女はそれをただの言い訳として使ってるだけ。貴女の言うことは正しいよ。人を死なせてはいけない。それは当たり前。だけどそう言うなら貴女の義父が貴女にしていることだって当たり前にいけないことじゃないの」
そう問われてそこでわたしは黙り込む。何も話せなくなってしまう。
「いい、秋乃。世界には殺していい人間は居なくても、死んだ方がいい人間は沢山居るの。そして悪いけど貴女から聞く限り、貴女のお父さんは後者よ。たとえリストラで追い詰められてたとしても、娘に暴力を振るった時点でそれは変わらない。だからね、いいかげん、受け入れるのはやめたらどう」
「だったら‥‥‥だったらどうしろって言うの。あなたに頼めば父を殺してくれるの」
「ええ、そう。頼めばいい。父親を、本気で恨んでるならね」
直ぐにでもこの場所を離れたかった。きっと、この少女はおかしいんだ。そう決めつけてそっぽを向いて帰ってしまいたかった。
だが、先程日嗣の言った言葉が邪魔する。わたしの心に差し込んだ灰色の光が、長年秘めて来た感情を照らし出していく。それはわたしが、初めて父に殴られたときからいつも感じていたもの。その正体を日嗣の言葉が照らし出していく。
「一言。今から私がする質問にたった一言、”イエス”とか”はい”とか答えてくれればいいの」
そう言って確認するようにわたしの目を見つめる。
「じゃあ、質問。月下秋乃、貴女は私に父親の死を願いますか」
そう改まった口調で日嗣は言った。わたしのある一部がその質問を恐れると同時に、それとは別の部分に確かに存在しているわたしの願望がその声に呼応するのが分かる。
わたしが口を開く。ただ本心に従って思いを口に出す。
そのときわたしは何と答えか。”はい” か ”いいえ” か ”イエス” か
”ノー” か、それとも結局何も言えなかったのか。
いずれにせよわたしの声は母がわたしを道路から見つけた合図として鳴らしたクラクションによって打ち消された。
わたしは助かったと思うと同時に、何か大切な物を失ってしまったという風な得体の知れない喪失感を感じた。
その後直ぐに、わたしと日嗣の密談はお開きになった。結局わたしが何と言いたかったのか、そしてわたしな何と言ったのかは自分でも分からないままだった。
母の白い軽自動車へと駆けていく間ずっと日嗣は、例のにこやかな笑顔のまま手を振っていた。だが振り返り手を振り返す勇気は起こらなかった。わたしは、日嗣の目を決して見るまいとして車まで走った。
車の中に入ると母は、わたしの顔をちらりと見てから、無責任な謝罪の気持ちを含んだ声で、大丈夫と聞いてきた。それはわたしの左頬を見て発したのか、それともわたしの赤い目を見て発したのか。けれどわたしはそれに答えなかった。
そのときのわたしはそれどころではなかったからだ。わたしの頭は日嗣が浮き彫りにした父への殺意で埋め尽くされていた。日嗣の言葉は神経毒のようで、末端神経の端まで広がったそれはわたしを憎悪に駆り立てていた。
そこには、父の死を
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