緑青日嗣は猛毒である 其ノ弐


「それで、その緑青日嗣とかいう脱引きこもりさんとは、その後何か話したのか?」


 そう言って、男子にしては長い前髪の隙間から特徴的な猫の目のように大きな瞳をもつ目をのぞかせると、わたしと向かい合うようにして座っている男子、瀬乃伸元せののぶちかは興味深そうに尋ねた。


 場所は旧校舎に位置する文芸部部室。普段授業を受ける新校舎の影になるように建つ旧校舎では、いつも人口の明かりに頼りきりだ。長年取り替える事を忘れられ続けてきた蛍光灯は、今日も唐突かつ不規則に点滅する事を忘れない。


 まるで過剰労働を訴えるかのように、蛍光灯の一つがわたし達の頭上で幾度も点滅する。その度にカチカチと軽い音がこだました。


 わたしは一瞬、点滅した蛍光灯を見やってから伸元のぶちかの質問に答えた。


「いいや、何も。その後の授業、って言ってもたった一時間しかなかったけど、それも受けると来た時と同じでいきなり帰っていったよ。終礼もせずにね」


「なんだよ、つまらないなあ。せっかく来たんだから何かしていけば面白いのに」


「何かって、例えば何よ」


「そりゃあもちろん、先生を殴ったり教室で暴れたり、といった話のネタになりそうな事だよ」


 悪戯っぽくそう言うと、伸元は椅子に座ったまま、うーんという声を出して蝸牛かたつむりのように大きく背伸びした。


「ノブチカ、もしそうなった場合一番最初に被害が及ぶのはわたしなんだよ。そういう無責任な発言は控えてくれないかな」


 やや感情を込めた声でそう言うと、伸元が「ごめん、ごめん」と笑って返した。


「ああ、でも変わってる割には可愛いいんだって。他に見た奴らがそう言ってるの聞いたよ」


 反省の色が全くない声でそう聞いてきた。わたしは一瞬険悪な瞳で伸元を見たが、当の本人はわたしの目線に全く気づかないので後仕方なく答えることにした。


「まあ確かに、女の私からしても美人だって思えるほど綺麗だったよ。それに誰も、不登校児があんなに美人とは想像してなかっただろうからね。顔を見て皆驚いていたよ。だけど、一番印象的だったのは顔じゃなかったな」


「というと、どこ」


  好奇心にそそられて深妙な顔つきになって聞いてくる。


「匂いだよ。あの匂い、凄く甘い匂いだった。だけど初めて嗅いだわけじゃない。きっとどこかで嗅いだことはあるんだ。けど、何の香りかは思い出せない」


 緑青日嗣ろくしょうひつぎが隣を通り過ぎたとき、甘い香りがした。どこか背徳的で甘美な香りが。もしそれを受け入れたならば最後、本能や身体に望まぬとも快楽や幸福を無理矢理刻み付けられる、そんな気さえする香りだった。


 今もなおあの香りは、緑青日嗣の笑顔と共に、頭の奥底に紛れることなく残ったままだ。


「へえ。甘い香りねえ。案外香水とか使ってるのかもよ」


「引きこもりなのにお洒落しゃれなんかするの」


 わたしがつっこみ半分疑問半分でそう返す。


「知らないよ。俺は女の子じゃないんだし。秋乃だったらするのか」


「わたしだったら、しないかな。いつもそんな事気にしてたら面倒だし」

 わたしは諦めたような笑顔をしてそう言った。現にわたしはお洒落にはうとい。すると伸元が笑いだす。


「それじゃあ普通の女の子失格じゃないか」


 それを聞いて、怒ることもせずわたしは一緒に笑い出した。言われてみれば確かにそうだ。失格、失格かぁと何度も呟きながら二人で大笑いする。


 わたしには普通がわからない。普通とは言ってもそれが明確な何を表すのか、わたしはもう忘れてしまった。だからただ無知な自分をうやむやに霧散させ、疑問を疑問と捉えず忘れ去るために笑うしかなかった。可笑しさと自嘲をごちゃ混ぜにしてわたしは笑う。


 笑い声が収まり一息ついたころ突然、古惚けた木造りの戸がゆっくりと開けられるガラガラという音が、わたし達の笑い声に覆い被さった。チョコレートを塗りたくったような色をした、今ではもうお目にかかれないほど古めかしい造りをした戸を、壊さないように細心の注意を払うようにして開けたのは、フレームの細い眼鏡をした鋭い顔つきの男子生徒だった。


「部長、遅かったじゃないか。何かあったの」


 伸元がまだ口元に笑みを浮かべながら声を掛ける。部長と呼ばれた男、物部解裏もののべかいりは終礼が長引いたと不機嫌な声で言うといつもの指定席へと腰掛けた。そこはわたしの斜め右側、伸元からすれば斜め左側に位置する席であり、長机の頂のようなそこに座った部長はさながら議会の議長のようだ。


「実は来る時に君達の笑い声を聞いたんだけど何を話していたんだい」


 部長がわたしと伸元の顔を見比べながら聞いてくる。誰かに聞かれていたと思うと少し恥ずかいところがあった。


「秋乃のクラスの不登校の女子が今日来たらしくてさ。その人が随分な変わり者で、しかも何故か甘い匂いがするっていう話だよ」


 伸元が巫山戯ふざけて、わざと取り留めの無い内容で答える。すると、部長が思い当たる節があるという風に眉を細めた。よく今の説明で理解出来たものだ。


「ひょっとして、いやひょっとしなくてもそれは緑青日嗣さんのことかい」


「部長、どうしてしってるの」


 わたしが驚きの声を上げる。


「どうしてって一年の間じゃあ緑青日嗣は結構な有名人だよ。今まで一度も学校へ来てないのにこれといって教師達に問題とされてないんだからね。有名にならない方がおかしい」


 確かにそうだ。そう思うと同時にそんなことも知らない自分の友人関係の狭さに悲しみを覚える。仮にも自分の居るクラスの噂が、どれほどの広がりをみせているのかすらわたしは知らないのだ。


 弁解するなら、わたしはどちらかというと独りの方が好きな性格だ。なので友達が少ない。というかまともに友達と言えるのは伸元と部長の二人だけだろう。そんなことを思うと暗い感情がほんの少し思考を支配するが、どうと言う事もなくその感情は刹那のうちにに霧散むさんした。


「だけど、そんな有名性ゆえ根も葉もない噂が充満しているがどれもこれも取るに足らないただの噂だよ」


「そういう言い方をするってことは、部長は緑青日嗣について真実を知 ってるのか」


 伸元が鋭く問う。この二人の会話は、こと噂話や流行りの事件など、謎を孕んだ内容になると名探偵同士が推論を白熱させているような険しい印象を受けることがある。今がまさにそれだ。わたしは二人のこういうやり取りを見ているのが好きだった。


「一応、不登校になった経緯くらいは知っているとも」


是非ぜひ、聞かせてよ」


 わたしがそうせっつくように言うと伸元も頷く。それを見て部長が、仕方ないなあといった様子で口を開く。今から話す事は口外無用だよという定型句を付け加えて。


「さっきは知っていると言ったがこれもあくまで噂の域を出ない。ただし今ある中で真実にもっとも近いものだ。じゃあ、結論からいこう。緑青日嗣は両親の死を目撃した。それは如何なる不幸もそうであるように偶然が織り成したことだった……」


 話が終わったのは、廊下側の窓から入り込んだ夕焼けの紅色が、わたし達の影を今日一番に長細く木造の床板に映し出したころだった。部長の語った内容をまとめるとこうだ。


 今から約三年前、まだ緑青日嗣が中学一年生だったころ、彼女は両親と三人で暮らしていた。彼女の両親は祖父の代から続く地元の小さな輸送会社の社長で、親子共々裕福な暮らしを送っていたという。そんな中を当時の不景気の波が襲った。試行錯誤の末、結局は何人かの社員をリストラする事になった。それがいけなかった。というよりその人選が。


 ここで、一人の男が登場する。名前は無い。部長が憶えていなかったからだ。仮名としてここでは仮さんと呼ぼうと部長は言っていた。彼らしい遊び心の効いた命名だ。


 仮さんはリストラされた。それはその他大勢と同じくただ一枚の書類で知らされた。解雇通知書には無慈悲な文字列が並んでおり、長々と感情が感じられぬおびを述べたうえで最後に一言、経営上の理由から当社は貴殿を解雇することになりました、と書かれていたらしい。


 仮さんは我慢ならなかった。彼には家族や恋人の類は居らず、ただ仕事だげが彼の尽くす対象だった。その対象に不条理に切り捨てられたことがどうしても許せなかった。それが歪んだ殺意に変貌を遂げることは自然なことだったのだろうか。いずれにせよ彼の殺意の矛先は彼の雇い主、つまりは緑青日嗣の父親へ向いた。孤独な彼の犯行を、未然に止められるものは誰もいなかった。


 ある日、緑青日嗣が中学校から家に帰ると待ち受けていたのは母の無惨な姿だった。家の扉を開けると玄関では母親が身体の数十箇所を刺され血塗れの状態で息絶えていたらしい。緑青日嗣は驚きとショックで声も出せず、玄関に倒れこんだところを父親をいたぶっていた仮さんに見つかったという。


 その後仮さんは娘の目の前でその父親を殺害するという蛮行に及ぶ。その殺害方法はもちろん持っていた包丁で胴体を滅多刺しにする、というものだった。その後、仮さんは自殺した。中学生の娘を殺すでもなく、その場から逃走するでもなく自分の首に、二人を殺した包丁を突き刺さして。その後、緑青日嗣自らの通報で事件は発覚したという。


 わたしが自殺の理由について尋ねると部長は、衝動的に犯行に及んだものの、目的を達成して冷静になってみると自分の犯した罪が恐ろしくなり自殺したんじゃないかなと言った。それを聞いてもまだ、わたしはどこか納得出来ないでいた。恨みで我を忘れ犯行に及んだとして、どうして憎んだ相手の娘を生かしたのか。それに普通、逆だろう。父親を恨んでいるのなら、父親に娘を殺すところを見せつけるはずだ。


 そんな恐ろしい考えを思索的な顔でしているわたしを見て、部長は、犯罪者の心理を一から十まで自分に当てはめて理解しようとするのは無理だよと諭すような口調で言った。それにもし仮に理解出来たとしたらそれはそれで問題だと続けると、和ませるように微笑んだ。


「まあ、さっきも言った通りあくまで噂だからね」そう、部長が付け加えるように言葉を放つ。


 だが、わたしは考えてしまう。いかなる噂話でも聞いたあとそうしてしまうように、もしそれが噂では無く本当の出来事だったら、と頭の片隅で想像を巡らせてしまう。だとしたら、わたしに向けられた、あの思わずたじろいてしまいそうになるほど鋭い眼つきの裏には、今もなお殺意に彩られた記憶が存在しているのだろうか、と。

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