さらば忌まわしき青春よ
三月葵
第1話 緑青日嗣は猛毒である
エピローグ
月下秋乃は人殺しになった。それが事の
もちろん、それまでに起こった幾つもの殺人も、
だが、それはあくまで過程でしかない。一番重要なのは、わたしが彼女を殺したってことだ。
ふと見た先の、彼女の頭部から不自然に突き出した斧の柄が、現実を突きつける。
普段見慣れた
普段、黒と茶色と白色しか存在しない
モノトーンな教室の中に、場違いな紅い花びらが撒き散らされたようなこの在り様は、ここが時折見る悪夢とも吉夢ともつかない奇妙な夢中であるように思えた。
教室の中央で少女が後頭部に突き刺さった斧の隙間から紅い花を咲かせたまま、その隙間から漏れる紅い蜜を茶色い床板に草の根状に這わせていっている。窓から入ってくる三日月の明かりに照らされた”それ”は、赤黒くヌラヌラと輝いていた。わたしは無機質な目で”それ”を見下ろす。”それ”はわたしの左手から流れ落ちる血と混ざり合い、絡みあうとやがて木目の隙間を紅い河となって流れていく。そうやって床板の隙間に幾つかの小川が形成されていく。
教室内のどれもこれもが普段通りでは無くなっていた。備品の一つ、本の一つに至るまで、血の汚れがあった。その血がわたしのものか、彼女のものかはわからない。
そんな中に、不思議なことに一つだけ、返り血を全く浴びてない机があった。位置も全く乱れてない。
それを見つけてわたしは、はっとした。それは彼女の席だった。それが判った刹那、走馬灯のようにこれまでの、彼女と出会ってからの三ヶ月間を思い出した。
始まりは晩夏の九月。季節外れの蝉の鳴き声が
* 一章 緑青日嗣は猛毒である*
残暑の残る九月、空いた窓からは生暖かい風と共に
わたしはというと、とっくに諦めていた。岸に打ち上げられた魚の様に机にうつ伏して、暑さと窓から差し込む日光によって蒸し焼きにされていくことを容認している。
だが流石にこれでは姿勢があまりにも悪く、悪目立ちするだろうと思って恐る恐る黒板に目をやる。そこでは、二十代半ばの若い男性教師が、白色のワイシャツを腕まくりして脇と首元に汗の染みをつくりながら、よく分からない数学の説明をしていた。
大丈夫、わたしのことなんて気にもとめてない。こんな小柄で、大して美人でもなく、しかも髪も真っ黒ストレートで、地味な少女が一人くらい干からびた魚になっていても気づくことはないだろう。
ならばすることは決まりだ。大人しく三大欲求に従い眠ろう。春を待ち、冬眠する変温動物みたいに。
そして目を閉じた。だが、自然が眠りを許してはくれない。 肌に纏わり付いた熱気が不快感となって、眠りかけの意識を呼び覚ましていく。そして幾重にも重なった蝉の大合唱が、不安定な協和音を奏で、頭の中を共鳴し合って、うるさい。耳を二の腕にくっつけて塞いでも、大して変わらなかった。
ミーン、ミーン、ミーン。
甲高い蝉の鳴き声が、意識の中で反響し跳ね回る。
仕方なく目を開けると、わたしの右隣にある空席に目がとまった。いや、とまったというより吸い寄せられた、というほうが近いかもしれない。
説明すると、その席にはいくらか謎があった。どこの学校の、どの学年でも有りそうなありきたりとも言える、年相応の好奇心を持つ高校生なら誰もが惹かれるような謎が。
というのもわたしはその席に一度も、人が座っているところを見たことがなかったのだ。
もちろん、わたしは不登校というわけではない。風邪などの理由でどうしても学校へ行けない日以外は、登校している。そして記憶が確かなら、わたしはまだ風邪で一度しか学校を休んでない。それ以外の全ての日において、真面目にといえるかは分からないが、一応は学校生活を送っている。その中でその席に、本来座っているはずの生徒を、一度も見たことがなかった。
それは、他のクラスメイトも同じようで、本当は入学当初から行方不明になっているとか、入学式前日に亡くなったものだから
いつだったか好奇心から、先生の持っている生徒名簿を盗み見たことがある。そこに乗っていた名前は、
彼、もしくは彼女は、今どうしているのだろう。どこかでわたしのように暑さにうたれているのだろうか。はたまた、自宅の冷房装置の効いた自室の中で、流行りのニートというやつにでもなっているのだろうか。
もし後者ならなんと羨ましいことだ。わたしだって出来ることならそうなりたい。全てを諦めることが出来れば、どれだけ楽なのだろうか。
ミーン、ミーン、ミーン。蝉が鳴いている。時季外れの蒸せ返るような暑さの中でも鳴き止む気配は一向にない。
夏の暑さと、蝉の鳴き声。今存在する全ての自然を、敵にまわしてしまったようなこの空間で、緑青日嗣へ羨望と敵意の念を密かに向ける。
すると、そんな空気を破壊するように、蝉の声に混じって廊下から、コツ、コツと規則正しいが荒々しく、怒れる荒馬が蹄鉄を地面で打ち鳴らすような足音が聞こえてくる。
足音は教室の前で止まり、次の瞬間中にいる者達がいくら驚こうかま構いやしない、とでもいうように明らかに強過ぎる力で、教室の引き戸が開かれた。
木と鉄、戸とそのレールが摩擦し、削れ、ぶつかり合う。暑さも、蝉の声も、気怠さも、汗の不快感すらも、その轟音で、一瞬のうちにかき消された。教室にいる皆の意識が戸の方へと向けられる。数学の男性教師ですらもただ唖然と、開かれた戸を見つめるだけだった。
さっきと同じように茶色のローファーの
少女が真っ直ぐ、先生の方へと近づいて行くにつれて、先生が「お前は…」とか「なぜ来たんだ…」と、小さく呟いている。そんな呟きをさっぱり無視して、少女は教卓の前で立ち止まると獲物を探す虎の如く、鋭い目つきで辺りを見渡す。するといきなりわたしに視線を向けると、教卓を直角に曲がり、教室の真ん中をこちらへ向けて進んで来る。
「え、ちょっと」と自分の予想以上に情け無い声を出す。
すると少女は、何食わぬ顔で、ゆっくりと優雅にわたしの隣りの席に腰掛けた。そして、他の皆と同じように唖然とした顔をしている私に向かって、少女は。驚くほど人なっこい笑顔を向けて自己紹介をした。
「
もう蝉の声は聞こえなかった。
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