脱走王女と菓子職人
それはとある秋の日の良く晴れた午後のことであった。
「すみませーんっ、ちょっと通してくださいー」
トリステリア王国第三王女メイル・ユイリィア・ユースノース・トリステリアこと、メイリーアは走っていた。腰の近くまで伸ばした金色の髪の毛が風になびいて絡まるのも気にしないで全速力だった。おでこの横あたりで左右対称に結んだりぼんがばっさばさと揺れるのも気にしない。先ほどから大きく動いているので結んでいるリボンがほどけてしまったらさすがに気にするけれど。
王都グランヒールを流れるミッテ河の北側。比較的裕福な市民が暮らすこの界隈の路地を全速力で走りぬけていた。午後の優雅なひと時。広い路地を散策しているのは皆この界隈に住んでいるのであろう身なりの良い服に身を包んだ者たちばかりだった。
そんなのんびりとした空気を切り裂くように大急ぎで人々の合間を駆け抜ける少女が二人。それを追うのは城の衛兵たちであった。といっても凶悪犯を捕らえるような大捕り物を繰り広げているわけではない。
何しろ捕獲対象は彼らの使える王家の姫なのだから。
「メ、メイリーア様…ちょ、ちょっと…」
「んん?な、なにー?」
息も絶え絶えな声が後ろから聞こえてきてメイリーアは振り返った。手をつないでいるのはルイーシャという少女だ。メイリーアの話し相手兼侍女である。声を出すのもつらそうな様子である。つないだ手がどんどんと重くなるのに先ほどから気付いていて、一緒に走る少女の体力がそろそろ限界だとメイリーアも感じていた。
「いたぞー」
大きな声がメイリーアの耳にも届いて、そちらの方を確認するとそろいの濃い赤色の衣装を着た男がこちらの方を指さしていた。
撒いたと思ったのに、もう見つかってしまった。今日はついていない。
「もうちょっとだから頑張って」
ルイーシャに声をかけて彼女の手を掴んでメイリーアは通りすがりの人々の間を器用に潜り抜ける。
うしろの方を見やると衛兵はその距離を確実に縮めつつあった。
捕まるのも時間の問題だろう。彼らに捕まると連れて行かれる先は一つである。
兄の元だ。それだけはなんとしてでも阻止しなければ。メイリーアは通りの先に辻馬車が停まっているを見つけてどうにかそれを捕まえることに成功した。
「おじさんっ!とりあえずどこでもいいから出してちょうだい!」
御者は突然降ってわいた身なりの良い少女二人組に少々驚いた様子だったが、身なりが良いということは運賃の踏み倒しもないだろうと踏んだのか何も言わずに馬車を出してくれた。
「ようやく人心地付けたわね。ルイーシャ大丈夫?」
馬車に揺られて流れゆく街並みを横目にメイリーアは向かいに座るルイーシャを労った。
メイリーアほど運動に慣れていない彼女は肩を上下させながら荒い呼吸を繰り返していたがやがて徐々に落ち着きを取り戻した。
「姫様。何もここまで本気で逃げなくなってよろしいではないですか」
「嫌よ。お兄様の衛兵に捕まるのだけは嫌」
メイリーアはつんとそっぽを向いた。
これだけは譲れない。何しろ心配性の兄が使わした使者なのだ。ここで捕まってしまったら兄の元に送られて絶対に謹慎という名の自室軟禁生活が一週間ほどついてくる。
「ですが宮殿を空けていることがばれるのもまずいですよ」
「それはそうなのよね。できればさっさと帰って、脱走?なんのことですか。わたしずっとお城にいましたけれど、何か?いうのが一番いいんだけれど」
「この期に及んでまだそんなみみっちい工作考えていたんですか…」
ルイーシャがあきれて絶句した。
「みみっちいって失礼ね」
年はメイリーアよりも二歳年下だが年の割に大人びたところのあるルイーシャはしっかり者で頼りになるのだが小言もまた多いのが玉に傷だった。とはいえこうして主のメイリーアに付き合って宮殿を脱走して律儀に衛兵からの逃亡にも付き合ってくれるのだからありがたい。
「とにかく御者の方に今どのあたりを走っているのか聞いてみます。行き先も告げないで辻馬車に飛び乗るなんて。姫様ったら本当に無謀すぎます」
「はいはい、ごめんなさい」
ルイーシャのお説教にメイリーアはおざなりに相槌を打った。ルイーシャは肩を少しだけすくめただけでそのあとは特に何も言わずに御者席へと通じる小窓を空けてなにやら話し始めた。言ってもあまり効果がないことをこの二年の間で十分に学んでいるのだ。
ルイーシャが魚所と話し始めるとメイリーアはなにとはなしに窓の外を眺めた。
ちょうどミッテ河沿いを走っていたのか、日の光を浴びてきらきらと光る水面が目に映った。宮殿を脱走するまで知らなかった景色である。河沿いは遊歩道のようになっていて今日も大勢の市民が銘々散歩をしたり者を売ったりしていた。今の季節は焼いた栗を売っている店が多いのだそうだ。これはこの間宮殿を抜け出した時に通りすがりの人が話をしていたのを聞いて得た情報だ。
そうこうしているうちにミッテ河に架かる橋を渡り始めた。さすがにこれはメイリーアも初めてのことだった。河を挟んで北側に宮殿は位置している。お忍びで遊びに出掛けても河を渡って南側の地区へ行ったことはなかったのだ。
ルイーシャも御者に何かを伝えているのか彼女にしては珍しく焦ったような口調で早口で何かを言っていた。
メイリーアは少しだけドキドキしながら彼女の声に聞き耳を立てていたが、あまり内容は伝わってこなかった。
そうこうしているうちに河を渡り切ったすぐの広場で馬車が停まった。
「ひめ…じゃなかった、メイリーア様降りますよ」
街の中ではメイリーア様、もしくはお嬢様と呼ぶように心がけているルイーシャであるがいまだに慣れないのか混同することが多々あるのである。
「はあい」
ルイーシャに急かされながら降り立った広場は人が多くてざわざわしていた。今まで訪れていた地区とは明らかに雰囲気が違っていて、馬車から下りてきた少女二人に視線が集まったのが感じ取れた。
いつも訪れるグランヒールの街とは違った空気がそこにはあった。
「なんだか雰囲気が違うわ」
メイリーアはぽつりとつぶやいた。
「そりゃそうですよ。このあたりは下町地区ですから」
「ふうん、下町?」
聞き慣れない単語にメイリーアはルイーシャに聞き返した。
「メイリーア様が普段お城を抜け出して遊びに行くクレイス地区は、主に役人だったり大商人などが住んでいる場所ですが、ここはどちらかというとそういう人たちに仕える者たちが暮らしている地域なのです」
「そうなの。同じグランヒールでも場所によってこうも雰囲気が変わるものなのね」
「まだここは下町の入口のようなところです。さあ、さっさと帰りましょう。メイリーア様が行き先も告げずに馬車に飛び乗ってしまったので御者も適当に走らせるしかなかったようです。まさか河を渡ってしまうとは」
ルイーシャは困ったようにぶつくさと呟いていたけれどメイリーアは心ここにあらずといった風に周りの景色を物珍しげに眺めていた。
人の多さも断然こちらのほうが上だし、広場の隅の方には屋台もある。なにやら美味しそうな香りが鼻腔をくすぐるし、子供たちが籠を持って何かを売っている。
小さな路地がいくつも広場から伸びていて、高い建物がまるで森のようだ。
瞳をきらきらさせて辺りをうかがうメイリーアの様子を見てルイーシャは嫌な予感に襲われた。二年の付き合いで嫌というほど知った主人の好奇心の強さである。
「と、とにかくメイリーア様。早くお城に帰らないと殿下への工作もできなくなりますよ」
「…そうね。今回は名残惜しいけれど帰りましょう」
少しだけ後ろ髪を引かれる思いで進路を宮殿の方角へ目を向けた瞬間だった。
見覚えのある顔の男性と目が合った。目が合ったと悟ったのは相手がメイリーアのことを見て、相手が誰かを正式に認識したと分かる表情を作ったからだ。そして、見間違うはずもない濃い赤の制服。
「まずいっ!見つかったわ」
そう言うなりメイリーアは踵を返した。
早歩きで適当な路地へと足を進めた。いきなり走りはしない。けれども可能な限り早歩きで人ごみに紛れてしまおうと思った。
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