とにもかくにも売り子デビュー
さて、ルイーシャが最後まで警戒していた体で返せ、という言葉だったが、ルイーシャの予想通りしばらくアーシュが経営する『空色』で働けということだった。これを聞いた時ルイーシャはホッと胸をなでおろした。そしてメイリーアは一人だけ異様にやる気に燃えていた。
アーシュとしてもやる気のある人間は嫌いじゃないので内心すこし感心した。てっきりいやいや働きますという態度を隠しもしないだろうと思っていたからだ。
しかしこの件で一番のとばっちりを受けたのは彼女のお付きをしているルイーシャとアーシュの弟子であるフリッツの二人かもしれない。
メイリーアが働くとなれば当然ルイーシャもお伴をしないわけがない。そうそう家を抜け出すこともできないので週に三日ほど、午後の数時間だけしか働けないと彼女から申告を受けアーシュもそれを了承した。アーシュにしてみれば別に人手不足解消を狙ったわけでもなく、完全な意趣返しなので別に週に何日だろうが、一日何時間勤務だろうが構わなかった。今までだって多少不便ではあるが男二人で何とか回してきた店である。アーシュとしては貴族の令嬢をしばらく働かせて世間の厳しさを教えることができればそれでよかったのだ。しかしアーシュは世間で言うところの深窓の令嬢というものを分かってはいなかった。いや、分かっているつもりだったのが部下として使おうとすると、ここまで使えない人種だということを理解していなかった。
そうなのだ。深窓の令嬢がいきなりやってきて今日から働きます、で働けるわけがないのだ。街の人間ならば物心ついたころから親に家事を手伝わされる。幼いころから自然に覚える掃除や台所回りの仕事も、基本使用人にかしずかれて生活をしている令嬢には未知の領域なのだ。未経験とは一番に恐ろしいことであると、ここ数日のメイリーアの働きっぷりを見てアーシュは痛感した。
昔売り子を雇っていたことがあったので彼女らが使っていた制服―といっても当時適当にその辺で売っていたものを買ってきたものだが―を渡して売り子でもさせようと店頭に立たせてみたのだ。それが騒動の始まりだった。というか新手の嫌がらせではないのだろうかというくらいの出来の悪さであった。出来るのは元気のいい挨拶くらいなものである。
メイリーアのお供をしているルイーシャという年下の少女のほうがまだ飲み込み早かった。まだ、とはいってもせいぜいメイリーアに毛が生えた程度ではあるが。彼女も侍女とは名ばかりでどうやら普段はメイリーアの話し相手を主につとめているらしい。それでもメイリーアよりも普段から身の回りのことはするらしく掃除やら雑用やらも教え込めば覚えはメイリーアより要領よくこなすことができた。
白いブラウスに紺色のスカート、水色のエプロンを身につけたメイリーアは本日も盛大にやらかしてくれた。店に通うようになってから何度目かの出勤日。少しはましになったかと思った。しかし本日、彼女はよりにもよって商品を床に落としたのだ。うっかりとか悪気はないとか、そういう言葉では済まされない。まだ店の前の掃き掃除をしてほこりまみれになってくれていた方がましだった。
アーシュにとって自身の作ったお菓子たちが客の口に入る前に台無しにされることのほうが大問題なのだった。思わず怒鳴り声をあげた。さすがに悪いと思っていたのか、アーシュが詰っても言い返してはこなかったし、殊勝にうなだれたままだった。こちらも頭に血が上っていた。だから気付かなかった。あの天板はまだ熱を持っていたかもしれなかったのに、フリッツの言葉でようやくその可能性に気付いたのだった。余裕がないのは自分も同じだったらしい。久しぶりに店の中にフリッツ以外の人間を入れて、それがあまりにも使えなさ過ぎて余裕がなくなっていたのだろう。いくら貴族嫌いとはいえさすがにやけどの心配くらいはする。そういうところに気付けなかったのは完全に自分の落ち度なのだ。大丈夫とは言っていたけれど、もやもやとした何かがアーシュの心の中にくすぶっていた。
「難儀していますね師匠」
店じまいをした後である。厨房の片隅に置いてある椅子に腰かけていたアーシュはフリッツの言葉に顔を上げた。
やわらかい声の持ち主であるフリッツの声は耳に妙になじむのである。
「難儀っていうか…。まあ、いいや」
アーシュは大きく息をついた。ここ最近の夜の日課にもなっている。
「彼女も一生懸命頑張っていますよ」
「今日は人の作った菓子を台無しにしたけどな」
今まで頭の中に浮かんでいた相手のことを話題に振られて、アーシュはつい憎まれ口をたたいた。
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