スピーディー・スピーディー

 夜。公園内には音もなく、冷たい風が流れていた。

 僕は堅いベンチに座って、目を閉じている。

 遠い幻聴を聞いていた。


 きゃあ、ひゃあ。女の甲高い悲鳴。車のブレーキ音やクラクションと相まって、苛立ちを誘発される響きだ。耳に馴染まない音のせいか、鼓膜の辺りが強ばっていた。奥歯よりさらに奥の歯肉がむずがゆくなって、僕は居てもたっても居られなくて、右頬が引きつる。


 ひどい苛立ち。彼女は素早く中空を舞って、路上を転がった。赤い血液が路面を濡らす。苛立ちは収まったけれど、鼓膜や歯肉の違和感はまだ残っていて、キーンという金属的な耳鳴り。遠く聞こえる周囲のざわめき。僕は自身が歯ぎしりをしている事に気づくも、それをやめられなかった。今にして思えば、目を見開いていたかも知れない。彼女の死は、しばらく僕自身の自律神経を不全状態にさせていた。


 ただ、人も車に撥ねられると凄い速さで飛ぶんだな、という思考が何度か頭に浮かんだ。


 テニスボールがラケットに撥ねられるみたいに、バットが球を打つみたいに。

 幻聴はいつまでも悲鳴やざわめきをランダムにリピートしていた。僕は目を開ける。雲は足早に流れ去って、満月を隠したり現したりした。


 この頃はぼんやりしている事が多いせいか、色んな物事の流れを早く感じる。僕だけ置き去り? あるいは、僕以外にも置き去りの仲間は居るのだろうか。少なくとも、あの一瞬の加速を最後に停止した事故死の女よりは、僕の方がずっとスピーディーだ。


 彼女は僕とまったく関係の無い人物だった。けれどあっという間に僕の心に住み着いた。きっと僕だけではないだろう。あの現場に居たほとんどの人物に、彼女は印象を植え付けた。停止前の急加速。あのムカつく悲鳴は存在証明?


 彼女はあの時、本当は死を望んでいたのだろうか。人目に付きやすい大きな交差点で、ケータイを見ながらの信号無視。よほど何かに集中していなければ、信号待ちの連中を避けてまで赤信号の車道へは出ないだろう。無意識の自殺願望。髪を振り乱して、一見はそれほど違和感が無いのに、穴という穴から血を流す顔。擦り傷だらけの腕や膝。生物から人形もどきへのスピーディーな変貌。あんなもの、僕は見たくなかった。だからこそ強く印象に残ってしまった。気持ちが悪い死にざま。夢にまで見る赤い路面。ふいに聞こえる幻聴。僕はまんまと彼女の存在証明に巻き込まれたのだ。


 どうして僕がこんな目に合うんだ。わけのわからない面倒に付き合わされて。僕はただ信号を待っていただけなのに。右頬が歪む。眉間が強ばって、鼻呼吸から自然に口呼吸に切り替わる。夜風の冷たさからか、背中や肩、首にかけても筋肉が緊張しているのを感じた。しかしもうどうしようもないのだ。怒りをぶつける先は無い。あの女は僕に迷惑をかけるだけかけて、さっさと手の届かないところへ去ってしまったのだ。やはり僕はあの停止した女にさえ置き去りにされている。


 ふっと頬の力が抜けた。すると、目じりまで下がったような感覚。ありとあらゆる力が抜けて、背中や肩、首にかけてが力なく震える。自然とまぶたが下がってくる。けれど、目を閉じるとまた彼女のフラッシュバックに苛まれるのだ。もう嫌だ。頬が下がる。首にも力が入らず、楽になるように俯いた。今度は口呼吸がつらくなって、鼻呼吸に切り替わる。喉の奥がどうも強ばっているようだ。両眉と両頬が、目を圧迫するように緊張していく。えふっ、と口から咳が漏れた。僕だけが置き去り。

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