第5話 神々のゲーム

 「響ね、今日算数の時間に先生にさされて上手く答えられたんだよ!」

 「おー、そうか。響はかしこいなぁ」

 「えへへ。先生にも響ちゃんは最近よく頑張ってるねって褒められたんだ」

 「えらい、えらい」

 パパの大きな手が響の頭をなでる。そうされると、いつも心がぽかぽかしてくる。

 「パパ、見ててね!今度のテストは今までで一番いい点数取ってみせるから!」

 「おっ、大きくでたな。じゃあ、もし響の言った通りに今度のテストで今まで一番いい点数を取ったらご褒美をあげよう」

 「ホントに?」

 「ホントにホント。パパ、嘘つかない。そうだねー、何がいいかな?」

 パパが腕を組んで、お空を眺める。しばらくそうした後―――

 「そうだ、遊園地にしよう。ホテルに泊まっての二日間東京うっさーランドで遊びまくるでどうだ!」

 「やったー」大きく腕をあげ、「やったね、ウサちゃん。テストでいい点取れたら、うっさーランドで二日間思いっきり遊べるよ」

 ずっと抱えていたウサちゃんに話しかける。

 「パパ、ウサちゃんも嬉しいって!」

 ウサちゃんの手を持って、パパに向けて手を振ってみせる。

 「そうか、ウサちゃんも嬉しいか」パパがウサちゃんの手を握る。「でも、響はお寝坊さんだからなー。うっさーランドに行くなら早起きしなくちゃいけないけど、響は起きられるかなー?」

 パパのいじわるな言い方に頬を膨らませる。

 「そんなことないもん。起きようと思えば、ちゃんと起きられるもん」

 「あっれー、遠足の日に寝坊して車で学校まで送っていったのは誰だったかなー?」

 「もー、パパのいじわる!」

 ウサちゃんを抱えていない右手でパパの胸を叩く。

 「ゴメン、ゴメン。じゃあ、約束だ」

 パパが屈んで右手の小指を差し出す。パパの小指に響の小指をからませる。

 「指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ーます。指切った!」

 小指を離す。

 「よーし。うっさーランド目指して勉強頑張るぞ!」

 「がんばれ響ちゃん。ウサも応援してるよ!!」

 パパからウサちゃんの声が聞こえてくる。

 「ありがとう、ウサちゃん」

 ウサちゃんの頭をなでる。

 「よし、ご飯にしようか。ちゃちゃっと準備するからいい子にして待っているように」

 「うん。ご飯ができるまでウサちゃんと一緒に宿題してるね」


 「―――こうしてみくにくアヒルの子は、自分はアヒルではなく美しい白鳥であったことに気付き、他の白鳥たちと一緒に幸せに暮らしました。めでたし、めでたし」

 話を読み終えて、パパが絵本を閉じる。

 「ねえ、パパ。何で他のアヒルの子は白鳥の子をいじめたのかな?白鳥の子は何も悪いことをしてないのに……」

 「そうだね。もしかしたらそれはアヒルの子、一人ひとりが受け継いだアヒルの教えのないかもしれないね」

 大きく首を傾げる。

 「アヒルの教えって何?」

 「生き物には生きていくために必要なことが教えとして、親から子へと代々受け継がれているんだ。アヒルだったら、泳ぎ方や昆虫の捕まえ方とかね」

 「ふーん。じゃあ、そのアヒルさんの教えの中に他の生き物とは仲良くするってあったってこと?」

 「そうだね。生き物は他の生き物を食べなきゃ生きていけないからね。ライオンさんとアヒルさんのように食べる側と食べられる側のように仲良くすることが難しい場合もあるんだよ」

 「白鳥さんはアヒルさんを食べるの?」

 「白鳥さんはアヒルさんを食べないと思うけど……」

 そこでパパは言葉を区切っていろんなところを見始める。パパはいつも考え事をする時にはいろんなところを見る。

 「じゃあ、響に一つ問題」パパが人差し指を立てる。「二匹のアヒルさんがいたとします。一匹は自分を食べようとする生き物以外とは仲良くしたいと考えているアヒルさん。もう一匹は自分と同じアヒル以外には危ないから近付かないようにしているアヒルさん。色んな生き物がいる中で、どっちのアヒルさんが生き残る可能性が高いでしょう?」

 「それは……危ないから近付かないようにしているアヒルさん」

 「そうだね」

 「じゃあ、ヒトが戦争したりするのも、その教えのせいってこと?」

 「うーん。全てが教えのせいとは言い切れないとは思うけど、原因の一つとは言えるかもしれないね」

 仲良くできない原因を代々受け継いでいる。それはとても悲しいことのように思えた。

響の気持ちを察してくれたのか、パパの大きな手が響の頬に触れる。気持ちが落ち着いていくのがはっきりと感じられる。

 「ねえ、パパ」

 「なんだい?」

 「その教えって変えることができるのかな?みんなで仲良くできるように」

 「できるよ。昔は肌の色が違うってだけで、できることが制限されていた時代もあったけど、今はそういうことは段々なくなってきてる。時間はかかるかもしれないけど、みんなで仲良くできる時代がきっとくる」

 「そっか。そういう時代が早くくるといいね」

 「そうだね。さっ、明日も学校があるんだから早く寝なさい」

 パパが椅子から立ち上がる。

 「パパ、おやすみなさい」

 「おやすみなさい」

 電気が消され、安らかな眠りへと誘われていった。


 「ねえ、パパ。明日、楽しみだね」

 いつも通りの二人での夕食。今日の夕食はカレーだった。

 「あれっ、明日何かあったっけ?」

 「えっ?」

 パパの言葉が信じられずに握っていたスプーンを落とす。パパ忘れっちゃったの?ショックで落としたスプーンを見つめる。

 「嘘、嘘。うっさーランド楽しみだね」

 パパの声に顔をあげると、いじわるそうな顔。それを見てからかわれていたことに気付く。

 「もう、パパ。また響のことからかって!」

 「ゴメン、ゴメン。パパが響との約束、忘れるわけないだろ」

 「ウサちゃんも明日、とっても楽しみだね」

 「うん。とっても楽しみうさ。だから、今日は早く寝るうさ」

 「ウサちゃんが言っている通りに今日は早く寝るように。寝坊したら寝坊した分だけ、

うっさーランドで遊ぶ時間が少なくなっちゃうからね」

 「分かった!」

 スプーンを掴んで勢いよくカレーを口に運んでいく。

 「ごちそうさま!響、もう寝るね」

 席を立ってパパに告げる。

 「これまた極端だな」やれやれといった感じのパパの声。「ちゃんと歯磨くんだよ」

 「分かってる」

 食器をキッチンの洗い場へと持っていき、洗面所へと向かう。鑑へと向き合って、一本一本丁寧に磨いていく。口を三回ゆすいでリビングへと戻る。

 「パパ、歯磨き終わったよ」

 「ああ」

 「パパも遅くまでお酒飲んでないで早く寝るようにね。寝坊したって起こしてあげないからね」

 「分かりました。ちゃんと朝起きられるように遅くまでお酒飲んでないで早く寝るようにします」

 パパが響の言葉を繰り返す。それに満足して大きく頷く。

 「よろしい。おやすみなさい」

 「おやすみ」

 明日、明後日に訪れるであろう出来事に思いをはせながら眠りについた。


 世界が大きく揺れた。それが夢なのか現実なのか、響が眠っているのか起きているのかもよく分からなかった。少し時間を置いて、パパが響の部屋に飛び込んでくる。

 「響!早く起きるんだ」

 いつもと違う、パパの声。ぼやけた目で外を見る。外はまだ真っ黒だった。顔をパパに向けると、パパはハンガーにかけてあった上着をとって響を起こしてそれを着せた。

 「さあ、早く外にでよう!」

 言われるままパパに手を引かれて家の外にでる。夜はいつもひっそりしているはずなのに、今日は何だかざわついているように思えた。

 再び世界が揺れる。

 あちこちから悲しげな声が聞こえてくる。揺れに立っていることが出来ずに地面に膝をつく。怖くなって響の体を抱きしめる。そこで初めて気づいた。いない!慌てて周りを見渡す。やっぱり、いない!ウサちゃんがいない!

 立ち上がって、家に入っていこうとするも、それを見たパパが慌てて響の手を掴む。

 「響、どこに行くんだ!」

 「ウサちゃんが、ウサちゃんがいないの。まだ家の中にいるから連れてこなくちゃ」

 「今、家の中に入るのは危ない。後にする―――」

 「ダメッ!」

 力の限りに叫ぶ。

 「ウサちゃんはママが響にくれた大切な友達なんだから。ママは響に言ったもん。『友達は大切にしなさい』って。響がママの言ったことを守れなかったら、ママはきっと悲しむもん。それにウサちゃんもきっと一人で寂しいと思ってるはずっだもん。だから―――」

 気付いたら、涙があふれでていた。

 「―――分かった」パパの、いつどんな時でも響を安心させてくれる優しい声。「ウサちゃんはパパが連れてくる。だから、響はここで待ってるんだ」

 でも、この時は何故だか不安な気持ちが顔を覗かせたままだった。

 「―――パパ」

 不安気な響の声にパパがほほ笑む。

 「大丈夫。ウサちゃんと一緒に戻ってくるから」

 パパが家の中に入っていった後、今までで一番大きく世界が揺れた。

 大丈夫。ウサちゃんと一緒に戻ってくるから―――それはパパが響についた最初で最後の嘘だった。


 また、あの夢。

 夜中にふと目を覚まし、体を起こす。目元へ指先をあてると、水滴の感触が伝わってくる。目覚まし時計を引き寄せて時刻を確認すると、午前三時だった。

 パパとウサちゃんと響。ある家族の当たり前の日常。緩やかに変わりながらずっと続いていくと思ってた日常。もう手が届かないところにいってしまった日常。

 その夢は実際に起こったことを思い出しているのか、願望を夢として見ているのか分からなかった。あの地震で思い出の欠片は全て失われてしまった。胸に手をあてる。残っているのはここだけ。”藤原響”という不確かな存在の中にしかない。

 ベッドから抜け出してベランダにでる。見上げた先では満月が顔を見せている。そう言えば全てを失ったあの夜の月はどんな形だったろうか?分からなかった。

 自らの手を目を塞ぐ。月はあるだろうか?それはあるだろう。でも、それを証明することはできない。世界中の全ての人が目を塞いで月を見ている人が誰もないくなったとしたら、月は存在していると言えるんだろうか?

 パパ、ママ、ウサちゃん、近所のおじさん、おばさん、友達、先生、公園、学校、生まれ育った町―――藤原響の周りにあったものが一瞬にして全て失われてしまったとしたら、藤原響は今までと同じように藤原響であり続けることができるんだろうか?

 それでもアタシは藤原響だ。そう言うことはできるだろう。藤原響を取り囲んでいたものは変わってしまった。でも”藤原響”自体は変わっていない。でも、藤原響を藤原響として認めてくれるモノがいない世界でそう主張することに意味はあるんだろうか?

 みにくいアヒルの子は、いじめてくるアヒルの子たちがいて自分は違うんだと”認識”

することができる。もし、いじめてくるアヒルの子たちがいなければ、自分が何者かを知ることはできなかっただろう。

 悲しいけれど、寂しいけれど、あの日の藤原響はもうどこにもいない。”何か”がそう思わせようとしても、それは幻想なのだから―――。


 また、先のある若者が自ら命を絶った。”ヒト”が住む地球の様子を望むままにどこでも自由に”視る”ことができるこの”鏡”を見るといつも暗澹たる気持ちになってくる。

 ”ヒト”は地球で最も栄えている”種”である。”ヒト”という種の存続を脅かす種は存在しない。ならば、”ヒト”が織りなす社会は安寧なのだろうか?いや、そうではない。敵がいないにもかかわらず、ヒトの世は安寧とは程遠い。生まれた国、肌の色、信じている教え―――些細な違いを見つけ出してきては敵を作りあげる。まるで争わずにはいられないかのように。

 ヒトの持つ可能性は測りきれない。争いから焼野原となった地は何十年も経たない内に天へ届くかのように建築物をいくつも建てるまでにいたった。ヒトは貪欲に進んでいく。地図の空白を埋め、所有する時間を伸ばし、できないことをできるようにし、そしてヒトという種を一瞬にして終わらせるまでのチカラを持つまでになった。

 ヒトの目は外へ、内ではなく外へと向けられて突き進んでいった。

 「アドナイ、また”鏡”を見ていたのか?」

 声に振り向く。天の光を受けて燦然と光り輝く肩まで伸ばされた黄金の髪。私と同じゆったりとした純白のローブを身に纏った、ヒトの世で兄と言うべきヤハウェイが近づいてくる。

 「―――ヤハウェイ」

 ヤハウェイが隣へと並び、身を乗り出して鏡を覗き込む。鏡は地面に叩きつけられた少年を残酷にもはっきりと映し出していた。もう命の灯は消え去ってしまっただろう。

 一瞥しただけで状況を把握したのか、姿勢を正して興味なさそうに呟く。

 「また自ら命を絶ったヤツを眺めていたのか。お前ももの好きな奴だな」

 その場にドカッと腰を下ろす。

 「あるモノはもっと時間を寄越せとあがき、あるモノはもうこんな時間などいらないと投げ捨てる。じゃあ、その二人が住む世界は全く異なるのかと言えばそんなことはない。同じ世界にもかかわらずヒトは全く異なる感応を示す。不思議なものだ」

 ヤハウェイの人事のような口調にいいらだちを覚える。

 「ヤハウェイ」ヤハウェイと向き合うように腰を下ろす。「前々から思っていたことがあります。何故アナタはヒトに対して興味がないんですか?アナタがヒトを創ったと言うのに」

 「そうだな。それ―――」

 「ヤハウェイ!ボールとってくれー」

 オネイロスの元気のいい声が響く。見るとヒピュノスも一緒のようだった。ヤハウェイがボールを掴み、オネイロスへと投げ返す。

 「今日はベースボールってやつか?」

 「ああ。ヒピュノスが天へ向かって打つといきまいてるから、軽くひねってやろうと思ってね」

 「フットボールの時みたいにタナトスにぶつけるなよ」

 「分かってるって。全くタナトスは気が短いんだから。じゃあ、ありがとね」

 オネイロスとヒピュノスがボール遊びへと戻っていく。それを見てヤハウェイが再び腰を下ろす。

 「で、何だっけ?」

 「何故、アナタはヒトの創造主であるにもかかわらず、ヒトに興味がないのか、という話です」

 「ああ、それか。俺をさっきオネイロスとヒピュノスを見ていい例えを思いついた。アドナイ、お前はスポーツに熱狂的なまでに肩入れするヒトがいるのは知っているだろう?」

 「ええ。四年に一度開催される大会などは何億もの人が大会の結果に一喜一憂するみたいですしね」

 「では、ここでアドナイに問おう。結果が分かっている試合と分からない試合。人をより引きつけるのはどちらだと思う?」

 「それは結果が分からない試合でしょう」

 「なにゆえに?」

 「結果が分からないということは次に何が起こるか分からないということ。分からない

からこそ目の前に起きていることに集中しようとするのでしょう?」

 「そうだな。分からないということはヒトだけではなく、俺らも引きつける。次に何が起こるのか、結果はどうなるのか?それを見届けようとする。それが答えだ」

 「―――何がですか?」

 ヤハウェイの言っている意味が分からずに聞き返す。

 「だがら、なんで俺が創造主でありながら、その創造物たるヒトに興味がないのかの答え。もう結果がでたからだよ」

 ヤハウェイの言っていることが分からずに眉を寄せる。それを見てヤハウェイも眉を寄せる。顎に手をあてて視線を彷徨わせる。

 「お前……」半信半疑といった感じで口を開く。「”あのお方”から何も聞かされていないのか?その、この世界の成り立ちとか……」

 「いえ、何も。ただヒトを観察すると面白いぞ、とだけ」

 「マジかよ……」

 額を押さえる。しばらくぶつぶつと独り言を言っていたが、髪をかき上げて大きく息を吐く。

 「どうせ、その方が面白そうだからとかそんな理由なんだろう。しゃーない。いい暇つ

ぶしだ。俺がいろいろと教えてやろう。そうすれば俺の言っていることも理解できるだろう」

 ヤハウェイが姿勢を正して座禅を組む。それを見て同じように姿勢を正して座禅を組む。

 「我らが末弟たるアドナイ。まず”あのお方”とは何と心得る?」

 「我らが創造主にて唯一にて無二の存在」

 「そうだな。同じ創造主と言えども、俺らと”あのお方”では決定的に異なることがある」

 ヤハウェイがマナの地面から土をかき集め、球状へと丸めて息を吹きかける。すると、

土は白い鳥へ姿を変えて大宙へと羽ばたいていった。

 「有から有への変換」

 「そう。俺らにできるのは有から有―――既にある物から別の物を産み出すこと。しかし”あのお方”の創造は違う。無から有―――何もないところから全く新しい物を創りだすことができる。この世界も俺もお前も”あのお方”が無から創られたのだ」

 この世に創りだされた日のことを思い出す。『汝に祝福あれ』そう頭に声が響いたかと思うと、この世に現出していた。その声の前にはどこにも存在せず、その声の後には確固たる存在としてこの世に根を下ろしていた。

 「”あのお方”がヤハウェイを創りだされ、ヤハウェイがヒトを創った」

 「そうだな。しかし同じ創造物でも俺たちと俺たちによって創りだされた種では決定的に大きく異なることがある。それは俺たちは変化ということを知らないが、俺たちによって創りだされた種は変わり続ける」

 「変化を、知らない?」

 自らの両手へと視線を落としながら呟く。確かにこの世に現出してから姿形は全く変わっていなかった。

 「そうだ。俺たちはこの世に創りだされた時から姿形、その姿形を織りなすエーテルも決して変わることはない」

 「しかし蛇は―――」

 その一言でヤハウェイの表情が一変する。ある日、”あのお方”の信任が最も大きかったモノが蛇へと姿を変えられてここから堕とされた。理由は明かされず、それ以降その者の名前が呼ばれることはなくなり、ただ蛇と呼ばれるようになったとだけ聞かされていた。

 「それには一つだけ条件がある。それは”あのお方”の祝福を受け続けること。蛇はそれを失った。ゆえに変化し、堕とされた。それだけだ」

 ヤハウェイの声のトーンにはそれ以上の質問を許さない雰囲気があった。

 「で、俺たちによって創りだされた種は変化するということだが……」ヤハウェイの声のトーンが戻る。「そのことに目を付けたあるモノがある提案をした。”あのお方が今夜青き惑星を創られるらしい。その惑星を舞台にしてゲームをしないか、と」

 「青き惑星というのはヒトが住む地球と呼ばれる惑星のことですか?」

 「ああ、そうだ。豊かな緑と鮮やかな青に彩られた惑星で、誰が産み出した種が最も繁栄するのか?それを競うゲームを行ったんだ」

 「それは……”あのお方”を目指して、ということですか?」

 「さあな」興味なさそうに呟く。「提案した奴の意図がそこにあったのか、それとも只の暇つぶしだったのかは分からん。俺たちにとってはただの暇つぶしだったが、奴にとってはどうだったんだろうな?まあ、もう確認することはできないが」

 その一言でゲームを提案したのが誰だかはっきりと分かった。そして、それ以上質問することが許されないことも―――。

 「―――その繁栄を競うゲームはどのように行われたのですか?」

 「ルールは至って簡単。種を考えて、青き惑星に決められた一定数を創る。で、後は見守るだけ。途中の介入は一切認められない」

 「それでアナタの創ったヒトが最も繁栄した」

 「そうだな」

 「私が見る限り、ヒトは単体としてではなく群れとして行動したときにチカラを発揮するように創ったと見受けられます。そしてそれがヒトが勝者となった原因なのでしょう。アナタの先見の明には驚かされるはかりです」

 「ああ」ばつが悪そうに頭をかく。「そんな深く考えてなかったんだけどな」

 「えっ?」

 「お前は結果がでた後のヒトしか知らないからそう見えるのかもしれんな。確かに今のヒトは他の種が何億年かけれも到底到達できそうにない高度な群れを形成している。だが、最初から高度な群れを形成していたわけでもないし、俺もそれが繁栄のために必要だと思っていたわけでもない」

 「では、問いましょう。ヤハウェイ、アナタはどのような考えでヒトを創ったのですか?」

 「一.ヒトは創造主を崇め、祈りを捧げなければならない。

  二.ヒトは子孫の繁栄に努めなければならない。

  三.ヒトは自己を守らなければならない。

 そして、ヒトはこの三つのルールを守れているときに”幸せ”という感情を覚えることができ、このルールを破れば、苦しみや哀しみを覚える。

 俺が考えたのはこの三つのルールとその結果のみだ」

 「それだけ、ですか?」

 「ああ、この三つだけだ。

 一つ目は、まあせっかく創ったんだから崇めてほしいという俺のつまらん自尊心からだな。それが最初にくるあたり創造主の器の小さなが伺いしれるよな。

 二つ目は、繁栄というからには数を増やさなきゃ話にならんだろと思ってだ。

 三つめは、いわずもな。

 これで内面は完了。で、次は外面なわけだが段々と考えるのがめんどくさくなってきて俺の姿形を模して創ることにした。それがあんな結果になるとはな」

 「ヤハウェイ……アナタの口振りからすると、全く自信がなかったかのように見受けられるのですが……」

 「自信なんて全くなかったさ。実際、ゲームを開始して最初の百年が経過した時、俺は確信したんだ。このゲーム負けたな、と」

 「最初の経過は思わしくなかったんですか?」

 チラと鏡を見やる。今のヒトの繁栄ぶりからはとても信じられなかった。

 「ああ、鋭い牙を持つモノ、巨大な体躯を持つモノ、誰よりも早く駆けられるモノ、大空を我が物とできるモノ―――それらがひしめきあう中で、俺が創ったヒトという種はあまりに脆弱だった。他の種が順調に固定数を増やしていくなかで、ヒトはじりじりと個体数を減らしていった。でも、それは少し考えれば分かることだった。俺がヒトに与えた三つ―まあ、実際は二つのルール。個体を増やしましょう、自己を守りましょう。この二つのルールが勝敗を分かつ重要なものだったとしても、そのルールの点でヒトより優れた種など腐るほどいた。じゃあ、そのルールが重要じゃなかったら?結果は考えるまでもない。少ないルールしか設定していないのに、そのルールに最適化されているわけでもないんだから勝てるわけないよな」

 自嘲気味に告げる。

 「でも、ヒトは勝者となった。何があったんですか?」

 「長い年月の中でいろんなことがあった」昔を懐かしむかのように宙を仰ぐ。「最初の三百年は身体が大きければ大きいほど有利だった。創られた種の中で一番巨大な体躯を鱗で覆った恐竜と名付けられた種が最も繁栄していた。このまま恐竜が勝者になると思われたその時、青き惑星に隕石が落下した」

 「それは”あのお方”の何かしらの意図だったのでしょうか?」

 「その問いに対する答えはイエスでもあり、ノーである……と俺は思う」

 「どういう意味ですか?」

 先を促すとヤハウェイが指を鳴らす。小さな山が出来上がり、頂上に丸めた土を置く。

しばらくすると風が吹いて土は山を転げ落ちていった。それを見てヤハウェイが言葉を続ける。

 「この世界の全ては”あのお方”が創られたものだ。そしてあの”あのお方”に分からぬことなど何もないのだから、今のこの世界ならば、青き惑星に隕石が落下することも分かっていただろう。でも、変えようとはしなかった。そういう意味ではイエスだ。

 しかし、恐竜が栄えるのを変えようと明確な意図を持って隕石を落下させたのかと問われればノーだ。

 つまるところ、たまたまだろう」

 「隕石の落下によって、条件が変わったということですか?」

 「隕石の落下によって土埃が巻き起こり、太陽の光は遮られるようになった。食糧は半減し、今まで有利だった巨大な体躯を持つモノ、つまり生存に多くの食糧を要するモノから滅びていった。ある種が栄える。条件が変わる。滅びて別の種が栄える。それを繰り返していった。勝者がくるくると変わっていく中、ヒトはいくつもの”たまたま”が重なって三つのとっておきを手に入れた。何だと思う?」

 「三つ、ですか?えーと、道具と灯りと……あと一つは……」

 「言葉だよ」答えが出なそうなのを読み取ったのか答えを言う。「道具は鋭利な牙や爪を持たないヒトにとっての武器になり、火は暗闇を照らし、他の種の襲撃を防ぎ、言葉は高度な連携を可能にした。

 この三つを手にした時、他の種はヒトという個を脅かすことはできても種を脅かすことはできなくなり、ゲームは終わった」

 「つまり、アナタが創造主でありながらヒトに興味がないのは、もうゲームの結果がでてしまったからということですか?」

 「まあ、そうだ。ヒトの世界のスポーツでは、試合後に結果の表彰をしたりするらしいが、俺にとっては終わらない表彰をしているようなもんなんだよ」

 ヤハウェイの言葉に釈然としないものを感じ、口を開く。

 「まだ分からないんじゃないですか?」

 「ん?」

 「アナタは言いました。ヒトに与えたルールは創造主を崇めること、子孫を残すこと、

自己を守ることの三つだと。それならば、子を残す前に自ら死を選ぶものがいるのは明らかにおかしい。それはアナタが定めたルールが綻び始めている何よりの証拠なんじゃないですか?」

 「では、問おう。ヒトの世界で年間に命を絶つモノはどのくらいいると思う?」

 「えっ、それは知りませんけど……」

 「約八〇万だそうだ。世界全体の人口が約八〇億。千分の一など全体から見れば誤差の範囲だと思わないか?」

 「それは―――」

 言葉に詰まる。

 「アドナイ。お前は俺のことを誤解しているみたいだから、一つ訂正しておこう。俺は確かにヒト一人一人の個体には興味がない。だが、それはヒトそのものに興味がないとはイコールではない。ヒト全体についての経過は興味をもって見守っている。俺がヒトを創った時は一万人しかいなかった。それが今や八〇億だ。そして未だ順調に増え続けている。例えその中で自ら命を絶つモノがいたとしても、それごときではヒトの勝利は揺るがないよ」

 「―――なぜヤハウェイは自ら命を絶つモノがいると思います。定められたルールに逆らってまで」

 「そうだな、これは俺の見立てだが自ら命を絶つモノは別の答えを見つけてしまったんだと思う」

 「別の答え?」

 「俺がヒトに設定したのはルールとその反応だ。ルールに従えば幸せを、ルールを破れば苦しみを覚えるように設定したわけだ。自ら死を選ぶヒトというには、自己を守らなければならない、というルールにそって苦しみから逃げた結果として死ぬのかもしれない」

 「それ、矛盾していませんか。自己を守らなければならないというルールにそって行動した結果、死を選ぶなんて」

 「死は過程ではなく結果だよ」

 ヤハウェイが再び丸めた土を山の頂上に置くと、土はすぐ転がっていった。

 「坂に石を置けば転がっていく。仮に石が俺は転がりたくないと思ったとしても、そんなことお構いなしに転がっていく。死にたいと思って高い所から身を投げるのと、今抱えているこの苦しみから逃げたいと思って身を投げる。俺にはヒトの正確な気持ちは分からんが、イコールではないだろう」

 「全てではないにしろ、目の前の苦しみから逃れるために命を絶っているモノがいると」

 一つ息を吐いてヤハウェイが空を仰ぐ。

 「『あるがままに~♪』『ありのままで~♪』」

 突然歌いだしたヤハウェイに茫然とする。

 「どうしたんですか、急に歌いだして?」

 「ヒトの世で流行った歌だ。『あるがままに』とか『ありのままで』という言葉を聞いてどう思う?」

 「そうですね、自然ということでしょうか?」

 「自然、ね。”不変”こそが俺たちの本質とするならば、”変化”こそがヒトの本質だと俺は思う。周りの環境にあわせて変化していくことによって、ヒトは覇者となった。ならば常に変化し続けてきたヒトにとっての自然とは何だ?”不変”である俺たちにとっての『あるがままに』は簡単だ。創られた時から変わらないのだから、今、この瞬間ってことだ。ではヒトは?洞穴に住んでいたヒトと天へと伸びる塔に住むヒト。同じヒトではあるが、求めている『あるがままに』は同じなのか?」

 「ならば、アナタが定めた三つのルールということになるのではないですか?」

 「創造主を崇め、自己を守り、子孫の繁栄に努める。その『あるがまま』をし続けることはできると思うか?」

 「それは、そのヒト次第では?」

 「無理だよ。老いないヒトは存在しないからな」

 「それでも、最期のその瞬間まで創造主を崇め続けることはできるんじゃないですか?」

 「俺たちにはヒトを認識することができるが、ヒトには俺たちは認識することができない。原理的にな。そして、進化したヒトの脳は認識できない存在を崇め続けることはできなくなってしまった。神は死んでしまったのさ」

 ヤハウェイが寂しげに呟く。

 「三つのルールを守れていた時もあるだろうが、守り続けることは不可能だ」

 「では、ヒトは苦しむしかないというのですか?」

 自然と語気が強まる。が、「そうさ」お構いなしにあっさりと告げる。

 「あるヒトが言った。『生きることは苦しみであると』俺はこの言葉を耳にしたときに心底恐れ入ったね。この言葉に辿り着いたヒトは創造主である俺よりヒトのことが分かってる。

 そうだ。生きることは苦しみだ。

 何故ならヒトには三つのルールが刻み込まれているから。ヒトを”幸せ”にするためでなく、ゲームに勝つためのルールがね。ルールに従えば幸せを、ルールを破れば苦しみを。幸せを追い求めた結果、ヒトはゲームに勝った。そして積み上げた。いつからかヒトは自ら定めたルールに従って生きるようになった。俺が定めたルールと反することもある新しいルールでな。

 だが、行動の元となるルールが変わっても俺のルールは生き続け、破った人間に苦しみを与え続けている」

 鏡へと目をやる。鏡は苦しみに耐え切れなかったヒトを映し続けていた。

 じっと鏡を見続けていると「アドナイ」とヤハウェイが声をかけてきた。ヤハウェイへと視線を戻す。

 「何ですか?」

 「そんなにヒトが苦しみに押し潰されるのを見るのが耐え切れないか」

 「ハイ」

 「でも、目を背け続けることもできない?」

 「ハイ」

 「例え、それが八〇億分の一でも?」

 「ハイ」

 「目の前にいるヒトを助けた結果、そのヒトが他のヒトに害を及ぼすようになっても?」

 「―――ハイ」

 「そうか―――」

 ヤハウェイが立ち上がり「管理者失格だな」と冷たく告げる。「管理者は”個”ではなく”全”を見れないようでは」

 ヤハウェイの視線に耐え切れずに俯く。

 「だが、それもお前らしい」

 音色が一気に和らぐ。

 「―――ヤハウェイ?」

 「救いたいのか?」

 「えっ?」

 「あのヒトを救いたいのかと言っている」

 ヤハウェイが鏡を指さす。

 「ハイッ!」

 決意とともに大きく頷く。

 「では、チャンスをやろう。俺のチカラによって、あのヒトが身を投げる前に戻してやる。”初めに言葉ありき”―――お前にはヒトに言葉をかけることを許可しよう」

 「でも介入は許されていないんじゃ?」

 「今更どうこう言う奴もいないだろうから気にすることはない。やるのか、やらないのか。お前が気にするのはその事だけだ」

 立ち上がり、ヤハウェイを真っ直ぐに見つめて告げる。

 「やります」

 ヤハウェイがにやりと笑う。

 「いい答えだ」


 フェンスに身体を預けて宙を仰ぐ。その先には真ん丸い黄金の月。手を伸ばすも、手が月を掴むことはない。手を下ろすと共に視線も下げる。学校の屋上から見下ろした街はひっそりと静まり返っている。

 大きく、腹の底から大きく息を吐く。

 何か、もう疲れた。

 「一!」

 闇夜を切り裂く声に振り返る。屋上の入口に肩で息をした藤原さんが立っていた。

 「藤原さん、何でここに?」

 「声がしたの」

 「声?」

 「そう―――ねえ、一」藤原さんがゆっくりと近づいてくる。「一はどうしたいの?」

 どうしたい?

 「天体観測をしてるように見える?」

 自嘲気味に返す。

 深夜の屋上、フェンスの向こう側にいる人間が何をしたいと言うのだろうか?

 「僕は、僕をやめようと思う」

 「そう」

 驚いた様子もなく、変わらぬ速度でこちらに近づいてくる。フェンスを挟んで向かい合う。

 「やめたければ、やめればいい」

 「―――止めないんだ?」

 僕は止めて欲しかったんだろうか?分からなかった。分かっているのは今の”僕”を続けるのは苦しいということだけ。

 「”今”の自分をやめたいんでしょ?だったら、やめればいい。だからそんな危ないと

こいないで、早くこっち来なよ」

 「何、言ってるの?」

 やめればいい。なのに早くこっちに来い?藤原さんが何を言っているのか分からなかった。

 「もう一度聞くよ?一はどうしたいの?」

 「だから、僕は僕を―――」

 「一は死にたいの?それとも今の苦しい状況から抜け出したいの?どっち?」

 「同じことだよ。僕にとってはね」

 僕が僕である限り、この苦しい状況は変わらない。だったら、死んで僕をやめるしかない。

 「ふうん。今が苦しいから死にたいってこと?」

 「そうだよ」

 「ねえ、アタシが前したドーナツの話覚えてる?」

 「ドーナッツの穴はどこにあるって話?覚えてるよ。答えは出なかったけどね」

 「”僕”ってなんだと思う?」

 「えっ?」

 「一は『僕は苦しい』と言う。その僕って何?」

 「何、言ってるのさ。僕は僕だよ。今、ここにいる死のうとしている僕さ!」

 「ふうん」

 藤原さんがすぅーっと左手をあげて、空を指さす。

 「ねえ、月を見てみて?」

 「月が綺麗とでも言うつもり?」

 「いいから」

 空を仰ぐと満月が顔を覗かせている。が、そのことに何の感慨もなかった。

 「見たよ」

 「月が、あるよね」

 「あるね」

 「もし、今この瞬間世界中の人が目を瞑ったとしたら、それでも月はあると思う?」

 「あるさ」

 「それを証明できる?月がその瞬間に確かにあると?」

 「証明する必要なんてないよ。月は確かにそこにあるんだから」

 「そうだね」

 藤原さんが月を見上げ、そのまま言葉を続ける。

 「ねえ、ヒトはどう思う?あるヒトの周りにあったものがある瞬間から全てなくなったとしても、そのヒトは変わらずそのヒトだと思う?」

 「思う」

 「アタシは違うと思う。周りにあったものが変わってしまったのなら、そのヒトは今までのヒトではいられなくなる」

 「じゃあ、何。環境が変わるたびにヒトは別人になってるって言うの?」

 「そうだよ」

 「それは凄い!じゃあ、今の僕は何人目なの?死のうとしている僕は何人目なのかな?」

 声が高くなり、口の端が吊り上がる。

 「じゃあ、一は周りが変わってもヒトは変わらないって思ってるんだ?」

 「そうさ。僕は僕だよ」

 「十年前の一條一と今の一條一は同じだと思う?」

 「同じだよ」

 「例えば、一が将来医者になろうと毎日勉強を頑張っていたとするね?」

 その一言で鼓動が高鳴り、喉が詰まる。

 「例えば、ね」

 「そう、例えば。それで念願叶って医者になることができました。医者として忙しく毎日を過ごす日々。夜遅くまで働き、朝早く起きて鏡を見た一はふと思います。『何で俺医者になったんだろう』って。

 医者になろうと思っていた一と医者になったことを疑問に思っている一。全く別のことを思うことになったとしても、同じだと思う?」

 「―――何が言いたいのさ?」

 「たまに”本当の自分”とか言葉を聞くけど、アタシはドーナツの穴に過ぎないと思ってる。そんなものは存在しない。例え、白鳥として産まれようと周りからみにくいアヒルとしか”認識”されなければ、みにくいアヒルでしかない!」

 断定口調に鋭さを増した言の葉が突き刺さる。

 「随分自信たっぷりに言うんだね」

 「―――経験者は語るってやつだよ」

 「経験者?」

 藤原さんが大きく息を吐く。

 「二年前の一月十七日に何が起こったか覚えてる?」

 「二年前の一月十七日……」記憶を探るも何も見つからなかった。「いや、思い当たるものは何も」

 「一年前の一月十七日に起きた地震により、アタシの周りにあったものは全て無くなり、その時まで確かに存在していた”藤原響”は一緒に消えてしまった」

 かける言葉もなく、ただ茫然と見つめる。

 「『響ね』、『響はね』。

 その時までアタシは自分のことを名前で呼んでいた。叔父さん達に引き取られ、気付いたら名前で呼ぶことをやめていた」

 「―――前、言っていた新しい自分を作成中ってそういうこと?」

 「そう。本当の自分なんて存在しない。ドーナツとドーナツの穴みたいに周りとの関係によって、常に”自分”を創っていくしかない」

 「アタシは全てを失っても、頑張って新しい自分を創ってる。だから、お前も今の自分が苦しいなら頑張って新しい自分を創れ……そういうこと?」

 多分、それが正しいんだろう。でも、ずっともがいてきた僕にはそんな力は残っていなかった。もっと早く出会ってたら、違ってたのかな?

 「僕にはできないよ」

 背を向ける。すると

 「家族がいた時は、家族がいない時に家族のことを思うなんて全くなかったのに、本当に家族がいなくなったらよく思うようになった。

 ヒトって不思議だよね」

 「そうだね」

 「生きるって大変だよね。本当の自分―――それがどこにもないから、必死に求め続ける」

 「―――そうだね」

 「ねえ、一」

 優しい、包み込むような声。

 「頑張れなんて言わない。アタシがやってるんだから、一もやれ、そんなこと言わない。一の傷とアタシの傷、カタチもフカサも同じだとは思わないから。

 ただ、よく考えてもらいたいの。一の本当の望みはなんなのかを」

 「よく、考えてもらいたい」

 言葉を知らない赤子のように、ただ言葉を繰り返す。

 「一が今しようとしていること、そのまま今、一歩を踏み出すことがその望みに続いているのかを」

 「僕は―――」

 見下ろすと、闇がまるで無限かのようにどこまでも広がっていた。この闇に身を任せたら、僕はどこに行くんだろう。どこに行けるんだろう。

 背中にフェンスを掴む音が響く。

 「この先いいことなんかないのかもしれない。新しい自分を好きになれないかもしれない。それでも、それでもアタシは一に生きていてほしいと思う!いいことと悪いことがあるこの世界を歩いていて欲しいと思う!!」

 「僕は―――」

 新しい一歩を踏み出した。

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