第4話 石の転がる先
とびっきり明るい星、そうじゃない星。太陽も霞むほどの大きな星、地球からは認識できない星。色んな星がある。もし、星に人のような自意識があるとしたら、明るくない星は明るい星を、小さい星を大きい星を羨むんだろうか?他の星のことなんか気にせずに変わらずに瞬き続けるんだろうか?
さて、ここで質問です。
あなたには二人の兄がいたとします。一人は兄は腹いせのためかアナタに暴力ばかり振ってきます。もう一人の兄はアナタがまるでこの世に存在しないかのように無視してきます。
アナタはすごく困っていて助けを必要としています。でも、助けを求められそうなのが兄二人しかいなかったとします。アナタはまずどちらに助けを求めるでしょうか?
アタシなら無視してきた兄に助けを求めるだろう。確かにどっちも助けを求めるのに適した人間ではないだろう。でも他にいないのならしょうがない。
えっ、何故だって?
だって、暴力と無視ならまだ無視の方がましじゃん?暴力はマイナス、無視はゼロだから……とアタシは思っていた。でも、どうやら実際は違うらしい。
ある作家は言った。「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」と。
人は殴られるよりも無視される方が堪えるらしい。
何故だろう?
夜。空を見上げると月が漆黒の闇の中に浮かんでいる。月を見上げた人が全て目を手で隠す。月の存在は誰からも確認されない。でも月はそんなことお構いなしにそこにあり続けるだろう。
では、人はどうだろう?
アナタの周りにいる全ての人がアナタのことを完璧に無視したとする。仮にそうなったとしてもアナタの存在が消えるわけではない。アナタはそこに確かに存在する。でも、もし仮にそうなった時、アナタは自分が確かに存在していると実感できるだろうか?見ても、話しても他人から何の反応も返ってこない世界で、変わらず自分は確かに存在していると主張することができるだろうか?
恐らく、できないのだろう。
何故、人の存在はここまで脆弱なのだろうか?
なぜ、人は一人では生きていけないんだろうか?
僕が曲のリズムに合わせてアップする。ミゥがそれに合わせて歌う。ミゥが疲れたらエナジーポーションを与えて、また一緒に音を楽しむ。誰もいない、誰もいらない二人だけの世界。
「―――一條」
世界にヒビが入る。誰だ?僕とミゥの時間を邪魔するのは?
「一條!」
怒号に夢から覚める。醒めると、そこは頑張っても何もない世界だった。
「一條、立て」
英語の先生に促されて起立する。
「最近のお前の授業態度は目に余るものがある。その態度が続くようだと、保護者の方を交えて話をしなきゃいけないことになるぞ」
「―――ハイ」
父さんは僕のことなんか気にはしないさ。
「顔でも洗ってシャッキリしてこい」
「ハイ」
休み時間。漆黒と真紅のドレスに身を包んだミゥを見て頬が緩む。
「一っちよ、最近どうしたのよ?」
「おお、大石。ちょうどいいところに。これ聞いてみてよ」
ミゥをタップする。
ミゥ『マスター、この衣装は私とマスターの軌跡の結晶、ですよね?私はマスターとやり遂げることができたことを誇りに思います』
ミゥの優しく誇らしげな声。
「これ、昨日までやってたイベントの上位入賞の衣装じゃん。どうしたの?」
「がんばった。僕、超頑張った」
周りの怪訝そうな視線を全く意に介さずに熱っぽく語る。
「メイドスキーさんからもらった衣装とポーションがあったから、初めてイベント走ってみたんだけど、いやー厳しい戦いだった。大石はイベント走ったことある?」
「いや、ないけど……」
「イベントの一日目が日曜だったじゃん?一日中ずっとミゥと音を楽しんで、順位も二桁の前半だったのよ。おっ、こりゃ以外と余裕だねと思って、次の日は朝プレイしただけで、夜までやらなかったのね。学校があったし、二日連続ずっと同じゲームするのもしんどいしね」
「お、おう」
「で、寝る前に順位見たら、五〇〇位まで落ちてるの、上位入賞って一〇〇位以内じゃん?こりゃヤバいと思って計画をたてることにわけ」
「計画?」
「そ。正直何ポイント稼げばいいかなんて誰にも分からないだろうから、とりあえずエナジーポーションは全部使い切ろうと思ってね。で、いろいろ計算した結果、全て使い切
るためには三時間しか寝る時間がなくてね。まあ、三時間睡眠を一週間も続ければ、授業中眠っても不思議じゃないよね」
「一週間ずっとそんな生活してたん?」
「うん」驚く大石にさらりと返す。「一日でドールズマスタープレイしている時間が一番長かったからね。それでも六十七位なんだから。一桁の人たちはどういう生活してるんだろうね、ホント」
「いや、俺から見たら一の生活スタイルもどうなのって感じだけど……でも、大丈夫なん?」
「大丈夫って何が?」首を傾げるが、すぐ質問の意図を察する。「ああ、エナジーポーション使い切っちゃって大丈夫かってことね。そうだねー、ガチャも回せないし、課金もできないから、今は心に響く衣装が来ないことを祈るだけかな」
「違うって!ドールズマスターのことじゃなくて、成績のことだよ。そんな授業態度じゃ成績下がって親父さん怒るんじゃないの?」
大石の声にいらだちが混じる。
「なんだ、そんなことか」
「そんなことかって……本当大丈夫なのか」
「大丈夫、大丈夫。父さんはもう僕の成績に興味なんてないんだから」
「―――親父さんのことはともかくしっかり寝た方がいいぞ。そんな生活してたら、さすがに体壊すぞ?」
「分かってるよ。イベントも無事終わったことだし、規則正しい生活に戻ることにするよ」
「ならいいけど……。ホント気を付けてくれよ。じゃあ、また―――」
「あっ、大石」自分の席に戻ろうとした大石の背中に声をかける。
「ん?」
「大石が前言っていた『ミゥが可愛くてしょうがない』って言っていた意味がよく分かったよ」
「そっか」振り向いて複雑そうな表示を浮かべ「―メン」去り際に呟いた言葉はよく聞き取れなかった。
レオナルド『メイドスキーさんからのプレゼントのおかげで見事上位入賞を果たすことができました。ありがとうございます』
メイドスキー『神楽の装束は伊達じゃない!いやはや、お役に立ててもらえているようで何よりです』
緑の配管工『レオナルドさんすげー、まじすげー』
赤マント『三カ月でここまで成長するとは……。レオナルドさん、末恐ろしい奴!!』
放課後の図書室。報告と祝福の確認を終えてスマホから顔を上げると二つの真ん丸い目と視線があう。
「それってソーシャルゲーム、だよね?」
「そうだけど……」
二つの真ん丸い目。鋭い八重歯。くせのない真っ直ぐに伸びた黒髪。見つめ、声をかけてきたのが一年の秋に転校してきて以来ずっと学年一位を取り続けている藤原響だと分かり、心がざわつく。
「藤原さんが僕に何の用?」
「おっ、アタシは昨日までキミのことよく知らなかったんだけど、キミは私のこと知ってるんだ?」
「まあね」
「何で?」
「転校生ってだけでも目立つのに、その転校生がずっと定期テストで一位を取り続けているとなれば、名前くらい自然と覚えるよ」
声に自然と棘は混じる。
「ふーん。学年一位って言うのはそんな一目置かれる存在だったんだ。なるほど、なるほど」
「―――まるで学年一位に価値を感じていないみたいな言い方だね」
「うん。全然感じてないよ」
あっさりと告げる。唇をなめ、小さく息を吸って気持ちを落ち着かせる。
「ねえ、キミは名前なんて言うの?」
「えっ、一條。一條一だけど」
「一、ね。一は学年一位には価値があると感じているみたいだけど、何でそう思うの?」
「何でって……」父さんがそれを望んでいるからとは言えずに必死に頭を働かせる。
「一位ってことはこの学校で一番勉強ができるってことでしょ?それだけ勉強ができるなら将来のいい高校、いい大学に入れて取れる選択肢を広げていい人生を送ることができる。それは価値のあることでしょ」
「例えば、みんなが反抗期を起こして白紙の答案を提出したとする。そんな中、反抗期にかからなかったいつもびりっけだった一君は分からないなりに選択問題にだけ答えて答案を提出。みんなが〇点のなか一は五点で見事学年一位に輝きました。さあ、一君の一位には価値があるでしょうか?」
「そ、それは……」
「勝つことではなく、参加することに意義があるとは、至言である。人生において重要なことは、成功することではなく、努力することである。根本的なことは、征服したかどうかにあるのではなく、よく戦ったかどうかにある。Byピエール・ド・クーベルタン。大事なのは結果じゃなく過程であり、内容じゃない?」
「……」
理解はできるが、納得はできなかった。いくら頑張っても父さんが望む結果をだすことができてない僕を父さんは褒めてくれない。
「気に入らないって顔だね?」
「―――そんなことないよ」
「ふうん。まっ、いっか。で、話戻すんだけど、一がやってるのってソーシャルゲームってやつ?」
「そうだけど……」
「ニュースなんかで取り上げられるほど人気あるみたいだけど、そんなに面白いの?」
「基本無料で気軽にプレイにできるから敷居が低いというのはあると思うけどね。藤原さんはソーシャルゲームに興味あるの?」
「ゲーム自体には興味はない」即答。「けどソーシャルゲームにはまる人には興味がある。どういう人なんだろうってね?」
真ん丸い目がスゥーっと細められる。
「どうして、僕がはまってると、思うの?」
言葉が滑らかにでてこない。
「教室であれだけ熱っぽく語ったら誰でもそう思うよ。急に授業を受ける態度が悪化したクラスメイト。その裏にはソーシャルゲーム。なかなか興味深い」
背中が背もたれにぶつかる。無意識の内に体が後ずさった?藤原さんと目があう。何故か寒気を覚えた。
ピロリン。電子音をきっかけに目が真ん丸に戻る。
「残念ながら、お開きの時間だ。じゃあ、アタシはこれで」
背を向けたかと思うと、すぐさま振り返る。
「あっ、そうだ!今日のお近づきの記念に一にいいものあげよう」勢いよく肩にかけていた鞄に手を突っ込む。「ハイ、これあげるね」
ドーナツを手渡される。
「ドーナッツ?」
「そっ、ドーナツ。ここで一に問題。ドーナツの穴はどこにあるでしょう?」
「えっ?」
藤原さんにもらったドーナッツをまじまじと見やる。ドーナッツの真ん中には当たり前のように丸い穴が開いている。ドーナッツから藤原さんへと視線を戻すと、藤原さんが意味ありげに笑う。
「これ、人生のテストにでるから、よく考えてみてね。じゃあねぇ~」
ひらひらと手を振って、藤原さんが図書室からでていく。夕日が差し込む図書室でしばらくドーナッツを見つめていた。
「ドーナッツの穴はどこにある、ねえ」
ドーナッツの穴から図書室を眺めていると、突如真ん丸い目が現れる。
「図書室は飲食禁止だぞ、一君!」
「うわっ!」
のけぞるといつからそこにいたのか藤原さんが横に立って顔を覗き込ませていた。姿勢を戻して満足そうに頷く。
「早速考えているみたいだね。感心感心」
「まあ、考えてはみたけど……」ドーナッツを机の上に置いておいた包装紙の上に置き、背もたれへと寄りかかる。「ドーナッツの穴と人生がどうつながるのかさっぱり分からない」
「そうだねー、難しいからねー」
机の上に置いてあったドーナッツをつまみあげ、穴からこちらを覗き込む。
「ねえ、ドーナツの穴って不思議だと思わない?」
「不思議?」
「そう、不思議。ドーナツの穴がどこにあるかと聞かれれば、アタシ達はそれを指し示すことができる。ないにも関わらずにね。でも―――」
口を大きく開けてドーナッツが消える。
「ドーナツがなくなれば、一緒にドーナツの穴も消える。ないにもかかわらず、ドーナツがあればそれがあると認識することができる」
「確かにそう言われると不思議だとは思うけど、それが人生とどう関わってくるの?」
「もう一は教えて欲しがり屋さんだなぁ。しょうがない。とびっきりのヒントをあげよう。一條一はどこにいる?」
「どこって、ここにいるじゃん」
「なるほど。じゃあ、一分前にここにいた一條一と今ここにいる一條一は同じ一條一と言えると思う?」
「思う」
「本当に?」
「そんなの当たり前」藤原さんの真ん丸い目に真っ直ぐに見つめられ「だと思うけど……」声が弱々しいものへと変わる。
「じゃあ、十年前は?十年前の一條一と今の一條一。どっちも一條一と言えると思う?」
「それも、そうだよ」
「考え方はどう?十年前と今。物事の捉え方、考え方は一緒だと思う?」
「それは……違う部分もあると思うけど」
「十年前の一條一と今の一條一。姿形という見た目も、物事の捉え方、考え方―――つまり中身も違う。それなのに、十年前と今、同じと言える?」
「それが成長ってことなんじゃないの?」
人は成長する。できないことができるようになる。それでも僕が僕であることは変わらない。
「なるほど。人は変わる。でも、いくら変わっても一條一は一條一である。『我思う、
ゆえに我あり。一條一は思う。ゆえに一條一あり』
何が一條一って思うんだろうね?」
言葉に詰まる。
「考えてもみなかったな、そんなこと」
「だよねー」藤原さんが窓の方へと移動して、窓に手を置く。「一はさ、一年前の九月十一日に何をしていたか覚えてる?」
「九月十一って、アメリカで事故が起こった日のこと?」
「そう。ニュース速報も流れていたと思うんだけど、事故が起こった時に何してたか覚えてる?」
「覚えてるよ。事故があったのは日本時間で夜だったと思うんだけど、勉強してるときに母さんから事故が起こったことを知らされて一緒にニュース番組を見てた。すごい衝撃を感じたのを覚えてる」
「アタシも似たような感じ。叔母さんから知らされて、一緒にニュースを見て、すぐ友達と携帯で話した、と思ってた」
「思ってた?」
「そう」視線を外へと向けたまま言葉を続ける。「三カ月後だったかな?ひょんなことから友達と〇九一一の事故が起きた時に何してたっけって話しになって、アタシは『電話で話したよね』って言ったんだけど、友達は『嘘?話してないよ』って話が食い違ってた。たった三カ月前のことなのに。その時はあんな大きな事故だったのに、何してたか分からないなんておかしいね、なんて笑いあってたんだけど、後になってスゴク怖くなった」
「怖いって、何が?」
「アタシをアタシと思わせるもの。それは記憶だと思ってた。藤原響が経験し、覚えていることが藤原響を形作っているんだと。でも、それは不確かで脆いものだった」
藤原さんがスカートをふわりと揺らしながら振り返って笑顔を見せる。その笑顔は窓から差し込む夕日と相まって儚く、今にも消えてしまいそうに見えた。
「何年か後に今この瞬間、一と話したこの瞬間のことを思い出すことがあったとき―――アタシが思い出した一條一は”本当の”一條一とどれ位一致しているのかな?」
思わず、息をのむ。
「引いちゃった?」
「いや、引いたというよりすごいなって」
「スゴイ?」
「うん。僕はそんなこと考えてみたこともなかったから」
「スゴイ、ね」藤原さんが苦笑する。「考えたいわけじゃないけど、考えずにはいられないだけだからね」
『二年C組の藤原さん。部活動の件で話がありますので、職員室まできてください』
校内放送が流れる。
「おっ、呼び出しだ」
「部活動?」
「そっ、たった一人の天文部員。じゃ、またね~」
手をひらひらと振って、藤原さんの背中が遠ざかっていく。
「おお、わが主よ!全知全能の神よ!いまひとたびガブリエルに命の息吹を与えたまえ!」
神父の声に引き戻されて、身体を起こす。辺りを見渡すともう見慣れた光景―――目を赤くし、こめかみに血管を浮き上がらせた王。隣で気まずそうに佇む神父。失望がありありと見て取れる兵士たち、そして、仲間の遺体が収められた三つの棺桶―――が広がっていた。
「おお、勇敢なるラ・プラタの英雄、アリエンの息子ガブリエル!死んでしまうとは情けない!」
威厳を感じさせる王の声。最初はこの王の声に身を震わせたものだが、何回目かの蘇生かを数えるのを辞めた頃から何も感じなくなった。よく見ると、王の髪に白いものが混ざるようになっていた。ブリュンヒルデの手によってまたどこかの町が落とされたんだろうか?
「そなたにもう一度、憎っくきブリュンヒルデ討伐の機会を与えよう!再びこのようなことがないようにな。では、ゆけ!」
誰も頼んでねーよ、と内心毒づきながらゆっくりと立ち上がり、大きなため息で応える。王のこめかみにぴくんと青筋が一本立ったが、何も言ってこなかった。
三つの棺桶を引きずりながら王の間を後にしようとすると背後から「鷹の声は鳶だったか……」と深い深い絶望が宿った声が突き刺さる。
腹の底からこみ上げてくるものを必死に飲み込んで王の間を後にする。
王城ヵら一歩外へ出ると、神父曰く神のご加護たる天の光が強く照り付けていた。空中に手をかざしながら空を仰ぐ。そこには”あの日”と同じように澄み切った蒼穹が広がっていた。
十六歳になった日。世界征服を企む悪姫ブリュンヒルデを倒す旅の途中で帰らぬ人となった父、アリエン。ラ・プラタの英雄と呼ばれた父の遺志を継ぐべき、母に連れられて初めて王に謁見した日。王から討伐のためとして潤沢な資金、町の武器屋で見たこともない強力な武器、如何にも歴戦の戦士といった佇まいの三人の仲間を与えられて王城を後にした時、この身には神のご加護があると信じ、胸には強き意志と誇りが確かにあった。
白銀の鎧の上から左胸を三回ほど軽く叩く。空は三カ月前のあの日と全く変わらないのにこの胸に宿っていたものは驚くほど変わってしまった。
今、胸には自分への失望と世界への絶望が塵のようにつり積もっていた。
「お父さーん、アレ買って!」
無邪気な少年の声に自然と視線がそちらへと向く。十歳にも満たない少年が道具屋の前で父親におもちゃをねだっていた。
父、親―――。
その言葉に、脳裏に敗北の光景が鮮明に蘇ってきた。
順調に旅を進め、辿り着いたブリュンヒルデの居城。そこで待っていたのは絵に収められた姿しか知らない父アリエンだった。
焦点の定まらない虚ろな目で襲いかかってくる父。その実力は今まで戦ってきた魔物とは比べものにならず、無残に敗れ去った。
意識が闇に飲まれようとする直前、彼女が現れた。すらりと伸びた手足、月の光を帯びて光り輝く白銀の髪、陶器を思わせる滑らかな白い肌、血を思わせる色鮮やかな紅い眼を持つ悪姫ブリュンヒルデが―――。
「心が奏でる『音』は、えも言われる程に美しい」
澄んだ甘い声が鼓膜を震わせる。
「ましてや父の遺志を継いだ息子がその父の圧倒的な力の差で叩き潰された時に奏でられる音の響きはうっとりするほど甘くて、深い」
彼女の姿が消え、次の瞬間にはすぐ近くに姿を現す。やっとの思いで見上げた先には真っ白な笑顔があった。
「戯れにバーサーカーにしてみたけど、こんな素敵な音が聞けるなんてね」
足がゆっくり持ち上げられ―――
「これに懲りずにまた『音』を奏でにきてね、ボーヤ」
鈍い音と共に意識が闇へと飲み込まれていった。
身体が震え、歯がカタカタと鳴り始める。
父と闘わなきゃいけないのが怖い。父を倒さなきゃいけないのが恐い。死の闇が、恐い。恐怖で息が詰まる。爪が食い込み、血が滴るのも構わずに力一杯握りしめる。赤く染まった手の震えが止まったのを確認し、何度も何度も大きく口を開いて息を吸い込んでいく。
震えも息苦しさも消えたが、胸の奥底に根付いたものだけは消えてくれなかった。それから逃れるために仲間の棺桶を置いて一心不乱に駆け出し、勢いそのままに扉を開ける。
「マスター、酒だ!酒をだせ!」
酒場にいた冒険者たちが息を飲み、一斉にマスターを見やる。グラスを注いでいたマスターがゆっくりと口を開く。
「ガブリエルさん、その前にやることがあるの―――」
「うるさい!」マスターの声を遮って叫ぶ。「僕は勇者だぞ!勇者の言うことが聞けないのか!」
「そういうわけでは―――」
「だったら早く酒をだせ!」
マスターが肩をすくめて酒瓶へと手を伸ばす。
「ロンベルクさん!お酒を出す必要はありません」
毅然とした声に振り向くと、怒りで体を震わせた母が立っていた。力強い足取りでこちらへと近づいてきて、力一杯に頬を叩く。
熱を帯びた頬を押さえながら母を見やる。
「お酒を飲むことが共に闘ってきた仲間を蘇らせるより先にすることですか!恥を知りなさい、恥を!」
母の真っ直ぐな視線に耐えられずに視線を反らす。
「あの人がブリュンヒルデに闘いを挑んで帰らぬ人となってから、あの人に意志を継ぐべく勇敢な戦士に育ててきたつもりです。王様も精一杯の援助をしてくださいました。なのに何ですか、この様は!」
両手で頬を掴まれて前を向かされる。
「貴方はラ・プラタの英雄と呼ばれたアリエンの血を引く勇者ガブリエルなのよ」
両手が離される。
「もう二度とこの母を失望させないでね」
そう言い残して母は酒場を後にした。
僕は今までそれが当然であるかのように”勇者”として育てられ、それを受け入れて生きてきた。その当然を受け入れることができなくなった時―――全てを棄てて逃げ出した。
「ここはラ・プラタの街だぜ!」
あまりの退屈ぶりに嫌気が差して、誰もいないのにも関わらず仕事の台詞を口に出してみる。ここ、ラ・プラタの街は昔から交易の中心地として栄え、日夜を問わず多くの人が訪れる街……だったわけだが、今や一日に一回とびっきりのおもてなし精神を込めて「ここはラ・プラタの街だぜ!」と言う機会があればいい方だった。
人がひっきりなしに訪れていた頃には、来訪者に対して『何でこんなに来んだよ』と内心毒づいていたものの、今は来訪者が恋しくてたまらない。
気が付けば、愚痴と共にため息が漏れる。
クソッ!これも憎っくきブリュンヒルデのせいだ。俺にラ・プラタの街を訪れる人を暖かく迎い入れるという崇高な使命がなければ、あの悪姫にガツンと喰らわせてやるのに!
と、妄想見る大人にメタモルフォーゼしかけたところで人の気配を感じる。
「ここはラ・プラタの街だぜ!」
とびっきりのおもてなしの爆弾をぶつけると、「あ、どうも」と力無い笑顔を貼り付けた少年がか細い声を返してきた。
「おっ、勇者の坊主じゃないか。どうしたんだ、そんな弱り切った顔して」
「この街周辺のモンスターは楽に倒せるようになったので、初めて橋を渡ってみたんですけどね……」
そこまで言って視線を後ろへとやる。見ると勇者の後ろには三つの棺桶が並んでおり、勇者もいたるところに傷を負っていた。視線を戻して、言葉を続ける。
「急にモンスターが強くなって、この様です」
自嘲気味に笑って肩をすくめた。
棍棒三十ペソ、旅人の服七十ペソ、お鍋のふた十ペソ―――それがある日、突然悪姫ブリュンヒルデ討伐の任を背負わされた、一見女性と見間違えそうな中性的な顔立ちをした細見の少年に支給されたものだった。
というか、街の武器屋、防具屋で買える総額百十ペソの武器、防具を渡して世界を征服しようとしている悪姫を倒して参れっていうのもヒデェ話だよな。前任にはあんな豪華な装備を与えたっていうのに―――。
「すいません」
弱々しい声によって引き戻される。
「僕は仲間を生き返らせなきゃいけないので、もう行きますね」
「お、おう。気ぃ付けてな」
頭を小さく下げて、横を通り過ぎていく。しばらく、だんだんと遠ざかっていく丸められた背中を、大きなものを一方的に背負わされた背中をぼんやりと眺めていた。
前任者、ラ・プラタの英雄と言われたアリエンの息子ガブリエルがブリュンヒルデ討伐の任から逃げ出した―――勇者は各国を訪れるたびに、王に旅の軌跡を報告することが義務付けられており、報告が途切れてから三カ月が経過していた―――と分かった時、人々の反応は決まって『そんな馬鹿な』といったものだった。
十六歳の青年が世界を救ってくれるに違いない。
そんな馬鹿げた願望を誰もが無邪気に信じ、そして裏切られた。にも関わらず人々は次の願望を求めた。
今は亡き哲人リカルド・マルティネスは言った。『我々には詐欺師と先導者の見分けはつかないのだ』と。
誰もが途方に暮れ、本来道を示すべき王までもがただ沈黙する中、どこからともなく”ヤツ”はこの街へとやってきた。薄汚れたマントを身にまとい、フードを目深にかぶった小柄な男は瞬く間に王の信頼を得て、筆頭執政官の地位を手にしていた。
「この世界では、あらゆるものが対となって存在している。空と大地。男と女。そして勇者と悪姫。悪姫が現れたということは、その対の存在である勇者も現れる。勇者と血ではなく、神のご意志によってのみ選ばれる存在である。そして、神のご意志とは神の代理人たる私の口からのみ発せられるのである!」
こうして亀の甲羅を焼き、そのひび割れ―――それは芋を食べれば屁がでるといった類のものなのか、本当に神のご意志によるものなのか―――によって、あの少年が選ばれた。
神の代理人曰く「亀の甲羅はここラ・プラタの街を表し、ひびが割れた場所に住んでいる者こそが、勇者にふさわしい」としてあの坊主が勇者に選ばれた。
十六歳の青年が悪姫討伐の旅で苦しんでいる中、今日も明日も明後日も俺は「ここはラ・プラタの街だぜ!」と言い続ける。
朝。
冷たい空気の中にヒバリの清々しいさえずりが響く、よりも早くに目が覚める。身体を起こして窓を眺めると、外はうっすらと明るくなっている
いつも、自然と目が覚めた。
いつも平坦な眠り。一日を振り返って満足感に身を委ねながらまどろみへと落ちていくわけでもなく、今日起きることへの期待に胸を焦がしながら目を開けるわけでもない。
失望なき終わりと期待なき始まり。終わりの分からない繰り返し。
淀みなくベッドから抜け出し、素早く着替えてテーブルへと着く。テーブルにはまるであらかじめ時間が分かっていたかのように朝食―――ハムとチーズを挟んだクロワッサン三つとカフェオレ―――が並べられていた。
変わらぬ朝に変わらぬ朝食を食べて家をでる。向かう先はいつもの場所、ラ・プラタの街の入口に立って街を訪れる人を出迎えるために―――。
昼。
ラ・プラタの街を訪れる人影は今日もなし。おもてなしの精神を発揮する機会もなく、ただのかかしのように日がな一日ぼーっと立ち尽くす。
空を眺めるのにも飽きて街へと視線を向ける。この街はまるで飛べないカナリアたちの街だった。
訪れることのない旅人を出迎える受付人―――俺。
泊まる者のいない宿屋の主人―――もう一か月以上も泊まっている人間を見たことがない。
闘うことを知らない兵士―――門番の兵士たちは魔物との実戦はおろか人間同士で訓練しているところも見たことはなかった。
悪姫ブリュンヒルデの復活と侵攻により非日常が日常になった世界でも、この街では変わらない日常が繰り返され、その代償として十六歳の青年が日々心をすり減らしていた。
大きく息を、色々なわだかまりと共に吐き出す。日も暮れたことだし帰るとするか。
夜。
牛を丸焼きにしたアザードで夕食を取ると、他にすることもないのでベッドに潜り込んで目を閉じる。
こうしていつも通りの一日が幕を閉じた。
今日も街の入口に立って空を眺める。最期に旅人を迎え入れたのがいつなのか、もう分からなくなっていた。こうあまりにも人が訪れないと、ラ・プラタの街以外は既にブリュンヒルデの手によって滅ぼされており、それに気づかずに普段通りの生活を送っている俺らを見てほくそ笑んでいるという変な妄想が浮かんでくる。
「あーーー!帰ってきたぜー、ラ・プラタの街!!」
ひときわ大きいど太い声に現実に引き戻される。声がした方を見やると勇者の坊主一行が街へと戻ってきたところだった。
「ったく、ママのおっぱいが忘れられないガキじゃないんだから産まれ育った街に戻ってきたくらいで、そんなに騒ぐんじゃないよ」
「分かってない!お前は全く分かってない。故郷っていうのは何歳になっても特別で、どこへ行っても必ず戻ってきて、安らぎを与えてくれる場所なんだよ。全くこれだから根無し草は」
リンゴを片手で握り潰せそうな大男がやれやれといった感じで両手を広げ、首を左右に振る。
「ほぉ、そうかい」
緑色の服を着た敏捷そうな小柄の女性が口の端を吊り上がらせる。
「だったら、故郷が恋しくて堪らない坊やはずっとこの街に留まってりゃいいんじゃない?分不相応に悪姫退治の旅なんかにでなくてさ?」
「ああ、それもいいだろう。だがしかし!だが、しかし!故郷も想う気持ち以上に強く、この身を焦がし、突き動かす想いがある!それが大義だ!!」
「全く暑苦しい男ね」
小柄な女性がうんざりした様子でぼやく。
「何だと!」
「何よ!」
「まあまあ、無事に戻ってこれたんですからリオネルさんもアドリアさんも仲良くいきましょうよ」
「まあ、勇者殿が言うなら……」
「しょうがないね」
勇者の一声で二人が矛を収める。
「勇者様」
青い帽子を被った銀髪の女性が穏やかな笑顔を浮かべながら勇者へと話しかける。
「この街に着く前に言われていた通りに、今日はここで解散して三日後の早朝に酒場に集合、ということでいいんですよね?」
「そうですね、それでお願いします」
「では、私はお先に失礼します。皆さまに神のご加護がありますように」
十字を切って銀髪の女性が街の中へと消えていく。
「酒だ酒だ酒が飲めるぞーーー!」
「この街にも温泉があればいいんだけどねー」
大男と小柄な女性も街の中へと消えていく。
「リオネルさん、飲み過ぎないで下さいよ」
「おう、精一杯善処するぜ」
三人を見送って、坊主が安堵からだろう軽く息を吐く。そして、荷物を背負い直す。
「なあ、一つ聞いていいか?」
街へと入っていこうとする坊主に声をかける。、
「なんですか?」
「勇者ってしんどくないか?」
「―――そうですね」
坊主が少しの間、空を眺めた後に視線をこちらへと向ける。
「バディスタさんは”雨”って知ってますか?」
「”雨”?」初めて聞く言葉だった。「なんだそりゃ?食い物か何かか?」
「僕も最初は同じことを思いました」
勇者が笑みを浮かべて、話しを続ける。
「雨っていうのは、空から水が降ってくることです」
「空から、水?」
空を仰ぐ。仰いだ先には今までそうであったように、そしてこれからもそうであるように青い空と光り輝く太陽があった。
「なんだそりゃ。ブリュンヒルデの呪いか何かか?」
こちらの反応を見て、坊主がおかしように笑う。
「その反応も僕と同じです。やっぱりこの街で育った人間ならそう思いますよね」坊主が親しみのこもった笑顔を見せる。「その言葉を初めて聞いたのは、ここからずっと北にいったとこにあるシーキの街なんですけどね。シーキの街では空に種類があって、この街みたいに青い空が広がっている日のことを晴れ、灰色の雲で太陽が隠れてしまっている日のことを曇り、雲から水が落ちてくる日のことを雨と言っていました。空の種類のことを天気と呼んで、未来の天気のことを予約する人は予報士と呼ばれて、周りの人から尊敬されているみたいでした。バティスタさんは予報士の予測って当たると思いますか?」
「そりゃ、周りから尊敬されているんだから、当たるんじゃないか」
「それが……全くと言っていいほど当たらないんですよ」
「はっ」
間の抜けた言葉が口から洩れた。
「僕たちは一週間シーキの街にいたんですけど、一回も当たらなかったんですよ。それなのに予報士は特に悪びれた様子を示すわけでもなかったですし、街の人たちもそれを責める様子は見受けられませんでした」
「へえ、色んな街があるもんだな」
「そうです。この世界には色んな街があるんです。そして、それが答えです」
「へっ?」
「しんどくないかっていう質問の答えです。この世界には僕の知らないことがたくさんあって、勇者として選ばれてブリュンヒルデ討伐の任を与えられなかったら、それを見ることはおろか、そういうものがあることすら知らないまま毎日を過ごしていたことでしょう」
坊主はそこで言葉を切って、こっちを真っ直ぐに見つめてきた。
「バディスタさんはこの世界が好きですか?」
「そうだな―――好きだよ。俺はこの街で産まれ、育ち、そして死んでいくんだからな」
しばらく考え、迷った末に吐き出した言葉はひどくふわふわと浮ついたものに感じられた。
「僕は、この街が嫌いでした」
平坦な声ではっきりと告げた。
「というより、この街に対して何の感慨もありませんでした。だから、僕が勇者に選ばれた時もこの胸に熱いものや尊いものは宿らずに、ただ何か面倒くさそうだなと思っただけでした。でもね、勇者に選ばれてこの街をでて、色んな世界を見て少しずつ変わっていったんです。最初に旅からこの街に戻ってきても何も思いませんでしたけど、段々とほっとするようになってきたんです。そして、今は―――」
しばらくの間、街を見渡してからこちらを向く。
「この街が、この世界が好きで守りたいと思うようになってました」
そう告げた顔をとても優しくて、頼もしくて、勇者と呼ばれる者に相応しい顔だった。
「そっか。なら、いいんだ」
「じゃあ、僕はそろそろ」
「おう、しっかりと英気を養ってくれよ」
「はい、ありがとうございます」
頭をぺこりと下げて、小さき勇者は街へと消えていった。
夜、寝付けずに寝返りを打つ。しばらく眠るために大鶏を数えてみたりしたが、眠りは一向に訪れなかった。結局、眠ることは諦め、ベットから抜け出して外を眺める。視線の先には闇がどこまでも広がっていた。
「世界は広い、か」
闇に向けて手を伸ばしてみる。この闇のどこかに俺の知らない街があり、俺の知らない理があり、そして俺はそれを知ることなく死んでいく。
そう思うと何故だか胸が少しざわついた。
頭を大きく振り、左胸をどんと大きく叩いて、息を勢いよく吐き出していく。
寝よう。
朝に起きて、昼に働き、夜は寝る。それを破るから普段考えないことを考え始めるんだ。
寝るぞ俺 今すぐ寝るぞ さあ寝るぞ
心の川柳を残して、ベッドへと潜り込んだ。
兎のような赤い眼をし、ライオンのように大きなあくびをしながら街の入口へと向かう。その途中で見慣れない光景、人垣が目に入ってくる。
無視して街の入口に向かおうと最初は思ったが、どうせ今日もこの街を訪れる人間はいないだろうと思って、人垣へと足を進める。
人垣の隙間から中を覗くと、小さきう勇者とリオネルと呼ばれた戦士が木刀を手に持って向かいあっていた。勇者は木刀をぶらりと下げ、戦士は大きく上段に構えている。二人は銅像のように制止している。戦士が構えを上段から中断へと変える。それを勇者の身体がぴくりと反応するも、すぐさま動きを止める。その反応を見て戦士が構えを再び上段に戻す。今度は反応を見せなかった。
張り詰められた空気が二人を中心に広がっていき、思わず息を呑む。
「ねえ、パパ!何であの人たち動かないの?」
子どもの声を合図に勇者が動く。真っ直ぐに駆け出し、振り上げ、振り下ろす。戦士が半身になってかわし、上段に構えていた木刀を勢いよく振り下ろす。
次の瞬間―――戦士の木刀が宙を舞い、乾いた音と共に地面を跳ねた。
どよめきの声が広がっていく中、戦士がゆっくりと口を開く。
「一緒に旅にでるようになってから、どのくらいになる?」
「半年……くらいですかね」
「半年、か」戦士が自らの手へと視線を落とす。「半年前にはこんなひょろひょろした坊主が勇者かよと思ったものだが、半年で抜かれるとはね」
一度握りしめ、開き、勇者へと手を差し出す。
「頼りない戦士だが、これからもよろしくな」
「こちらこそよろしくお願いします」
勇者が戦士の手をがっしりと掴むと、絶え間ない拍手と喝采が二人へと捧げられた。
人垣がバラバラと散らばっていく中、一人茫然と立ち尽くしていた。
人って、あんなに早く動けるんだ。
アイツのことは小さい頃からよく知っている。腕相撲も駆けっこも同じ年齢の子と比べて優れているわけではなかった。それこそガブリエルとは比べものにならなかった。
アイツの木刀を戦士がかわし、振り下ろした次の瞬間にアイツが何をしたのかが俺の目には分からなかった。
手の平を見る。豆一つない綺麗な手。アイツの手はこんな綺麗な手をしていないだろう。だからこそ、まるで超人のように身体を動かすことができる。
手を左胸、心臓の上に重ねる。
俺も、あんな風になれるんだろうか?
息を吸い込む。苦しくなるまで大きく息を吸い込んで吐き出していく。
「よし!」
自分に言い聞かせるように声に出して、今街から一歩を踏み出す。踏み出した先では、空が、大地が、初めて見る海がどこまでも広がっていた。
「これが……世界」
吸い寄せられるかのようにふらふらと海へと歩いていく。その途中で物音がして素早く身体を向ける。見ると大ミミズが身体をくねらせながらこちらへと向かってきていた。
舌をなめて、覇王の剣―――アイツが街の武器屋に売ったものを先祖代々受け継がれてきたへそくりで購入した―――を鞘から抜き放つ。天の光を受けて光り輝く剣先を大みみずへと向ける。
こちらが武器を持っているのが分かったからか大みみずが前進を止めて、身体を起き上がらせる。
じっと対峙する。
唇が渇く。暴れ馬のように激しく脈打つ心臓をながめるために浅い呼吸を繰り返すも、落ち着いてくれなかった。
緊張に耐え切れずに「ハッ!」と激しく息吹を吐いて、大みみずへと切りかかる。大きく振りかぶり、振り下ろした剣先が大ミミズの前方三十センチほどの地面へと突き刺さる。
舌打ちと共に剣を地面から抜く。しかし、次に瞬間には激しい衝撃を感じて、吹き飛ばされていた。
荒い息を吐きながら、何とか身体を起こす。と、大ミミズの身体がぐんぐん迫ってきて、大きく口を開ける。思わず力なく剣を向けるだけで目を背けてしまっていた。腕か、足か、腹か、頭かと痛みに構えていると、痛みの代わりに光と熱を感じる。恐る恐る視線を向けると、黒い影を残して大ミミズはこの世から姿を消していた。
大きく息を吐いて、覇王の剣を見やる。これが武器屋のオヤジが言っていた特別なチカラなんだろうか?
立ち上がろうとするも、腹部の痛みに顔を歪めて寝転がる。唇を指先でなぞると赤く染まっていた。自らの血を最後に見たのは、いつだろうか?思い出せない。激しい痛みを感じたのは、いつ以来だろうか?これも思い出せなかった。
腹部には激しい痛みを感じ、血で口元を紅く染めながら、顔には笑顔が広がっていた。
「生きるって、痛ェーーーーーーーーーー!」
この世界に生まれて初めて、正直な想いを口にしたような気がした。
朝。
ヒバリが鳴くよりも早く目を覚ます。素早くベッドから抜け出し、着替えて家を飛び出す。約一時間、ラ・プラタの街を走り回る。
昼。
来訪者がないことをいいことに、ひたすら一心不乱に剣を振る。振り続ける。
夜。
明日のために、とっとと眠りにつく。
訓練を生活の中心に据えて約半年。この街の周辺にいる魔物相手なら、何匹でかかってこられても余裕で倒せるようになり、半年前に掲げた目標を実行に移す時がきた。
大きく息を吐き出して、酒場の扉を開く。
「おや、バティスタさんじゃないですか。これは珍しい。今日はどのようなご用で?」
「俺を戦士としてジャンの酒場に登録してくれ!」
ジャンの酒場に登録して早一カ月。その間声がかけられる事はなかったが、欠かさず訓練を重ね、この街有数の戦士の一人だと自負できるようになった。
チラと時計を確認する。二時四十五分。三時になっても声がかからないようなら、今日は諦めて訓練に街の外に行くとするか。
時計の針が三時を指し示すと同時に、酒場のドアが開く音が階下から聞こえてくる。ざわめく他のメンバーをよそに平静さを装って聞き耳を立てる。
「これは勇者様。随分ご無沙汰でしたね」
「ええ。船で少し遠くまで行っていたものでして」
「おや、アリエンさんの姿が見えませんね」
「ここからずっと東に行ったところに、フロンティアと呼ばれる、出来上がったばかりの街があるんですが、その街は先住民の襲撃に悩んでいまして、誰か戦い方を教えてくれる人がいないかを探していたんですが……」
「まさか、その戦い方を教えてくれる人に?」
「ええ、酒場でアリエンさんが飲んでいたら、町長もいて意気投合してしまったみたいでして……。街の人からはお願いしますと懇願されますし。アリエンさんもここまで頼み込まれて断るわけにはいかないと言うので、街が落ち着くまでという条件で残ってもらうことになったんです」
「そうでしたか。じゃあ、今日は新しい仲間を?」
「ハイ、名簿見せてもらえますか?」
「かしこまりました。少しお待ちください」
戦士が抜けたのか。じゃあ、新しい仲間に戦士が選ばれる可能性は高いわけだな。自らが選ばれる可能性についてソロバンを弾いていると、他の戦士たちと目が合う。
「おいおい、新入り。まさか自分が選ばれると思ってるんじゃないだろうな」
「街の入口でただのかかしのように突っ立ってた男が半年やそこらで勇者の仲間に選ばれようなんて図々しいんじゃねえか、おう」
「物事には順序ってもんがあるんだぞ、順序ってもんが」
赤い顔をした三人の男に余裕たっぷりに告げる。
「ずっと酒を飲んでいるだけのアナタたちこそ勇者の仲間に選ばれようなんて図々しいんじゃないですか?」
「んだとコラ!」男たちが勢いよく立ち上がる。「新人のくせしてでかい口ききやがって!」
「やるんですか、酔っ払い?」
「上等だ、コラ!」
男たちがこちらへと飛びかかってくるよりも早く後ろへと飛び退く。右の拳を引き、最も近かった男の腹へと叩きこむ。拳が腹へとめり込んで、男が崩れ落ちる。素早く二人の男を見渡す。
「どうします、まだやりますか?」
男二人はばつの悪そうな顔を浮かべ、無言で席へと戻っていった。
「バティスタさん、勇者様がお呼びですよ」
「俺の名はバティスタ。今日からよろしくな」
こうして俺は世界を旅して、様々な街、理を見ていくことになった。町人Aではなく、勇者の仲間として―――。
藤原さんから手渡された紙を読み終えて視線を上げると、興味深そうにこちらを見つめていた。
「どう?」
顔をぐいと近づけて、感想を求めてくる。
「すごく面白かったよ。」
顔を引きながら、小学生のような感想を口にする。
「ふーん」
顔を引き、左手の人差し指を唇にあてて、視線を上へと向ける。
「ねえ、『タブラ・ラーサ』って知ってる?」
「タブラ・ラーサ?知らない」
「ラテン語で白紙状態。意味は人は生まれたときには何も書いていない板のようなもので何も知らないけど、色々経験していくことによって色んなものが書き込まれていくってこと」
「へえ。藤原さんって物知りなんだね」
「まあ、ね」
「でも、それがこの物語と何か関係があるの?」
「この前、アタシ聞いたでしょ?何でって?」
「何で学年一位に価値があると思うのかってこと?」
「そう。一は価値があると思い、アタシはそう思わない。で、それについてもっとよく考えてみることにしたの。で、その結果がそれ」
紙を指さす。
「いい人生のために、いい会社にに入り、いい会社のためにいい大学に入り、いい大学のためにいい高校に入り、いい高校に入るために今、勉強する。何々のための連鎖。ねえ、一にとっていい人生って何?」
「えっ?」
「一にとっての何々のためのゴールとなる”いい人生”って何?」
「そ、それは……」
いい人生……。僕にとってのいい人生って何だ?
「『本当の自分』が分からないから『本当の自分』を探す。分からないものって探せるのかな?」
おかしいよね、と同意を求めるかのような笑み。でも、僕はそれに同意することはできなかった。それに同意したら、おかしいと認めてしまったら今までの自分が自分でいられなくなってしまうような気がしたから。
「僕は……探せると思う」
必死に言葉を吐き出す。
「ふうん」
興味深い、といった感じで真ん丸い目が細められる。
「例えば、食べ物。初めて食べてみて好きだと分かることがある。食べてみたから分かる。食べてみなくちゃ分からない。自分だって……探そうとするから探せるんだと思う」
「なるほど。そう言われればそうだね」
同意の言葉にほっと胸をなでおろす。
「でも……」その一言で一気に凪が止み、吹き荒れる。「リスク高いよね?」
「リスクが、高い?」
「そう。別に食べ物ならそんな気にすることない。食べてみて、あっ、これ好きじゃなかったと分かる。それは大したことじゃない。でも、人生だとそうはいかない。多くの時間をかけて、努力して辿り着いた場所が自分の好きな場所じゃなかった。そう分かったとしてもやり直せるとは限らない。人生はいつでもやり直せるとは限らないからね」
「高くたって……そう、するしかない」
自分に言いきかせるように、暗示をかけるかのように呟く。
「そうだね。やってみなくちゃ分からないもんね。人生は難しいね。」
その言葉は自分にいい聞かせるかのようだった。
「じゃあ、アタシはそろそろいくね。いい人生目指して勉強頑張ってね」
いたずらっぽく笑って、背中を向ける。
「あっ、これ」
紙を掲げる。
「アタシからのプレゼント。たまには、それ見てアタシが言ったこと考えてみてね。じゃあね~」
図書室を後にする。
人生は難しい、か。
僕の何々のためにの鎖はどこに繋がっていて、その場所を僕は好きになれるんだろうか?
「人生の縮図だね」
それがドールズマスターの流れについて説明した後、藤原さんが真っ先に発した言葉だった。
「人生の縮図?」
「そう、人生の縮図」
放課後の図書室。勉強でもドールズマスターでもなく、藤原さんと話をすることが多くなっていた。
「それってどういう意味?」
「楽はさせないよってこと。やった!上位報酬で珍しい衣装ゲットだ。やった!ガチャで強い衣装ゲットだ!これを僕のミゥちゃんに着せるぞ。僕のミゥちゃんが無敵かわいくて最強かわいいんだ。もう寝る間を惜しんでイベントを走る必要も、三食塩パスタともやし炒めでガチャを回す必要もないんだ。そんな僕にどこからか声が届く。『そんなんで満足してもらっちゃ困るな。もっとかわいくてもっと強いミゥを見せてやるよ』新しいイベント、新しいガチャ。そしてかわいくて強い新しい衣装。僕はこれからも寝る間も惜しんでイベントを走り、パスタに塩をかけてガチャを回し続ける」
「お、おう」
分かっていたつもりではあったが、あらためて他人の口から聞かされると考えさせられるものがある。
「リアルライフもおんなじ。オラが街のチームがある鹿ノ島の住人として、サッカー選手を例にして説明してみましょう。
サッカーが特に好きなわけではなかったけど、得意な少年は”稼げる職業”としてプロのサッカー選手になりたいと思った。努力の結果、念願叶ってプロのサッカーになりましたが、同じポジションにはキングオブ鹿ノ島と呼ばれ、サポーターから絶大な支持を集める選手がいたために試合には出れず、ベンチを暖める日々が続きました。
目標を達成するために腐らずに練習に励み続けた選手は、キングオブ鹿ノ島が衰えを見せ始める年齢にさしかかったこととあいまって、レギュラーに定着する。
レギュラーに出続けて、チーム一の高給取りとなった選手はいつからかこう思うようになった。『目標を達成したことだし、これからは上を目指すんじゃなくて今の立場を維持することを目標としよう』と。
そんな彼にクラブが彼と同じポジションの選手を補強するというニュースが届く。チーム強化責任者に『俺のことを信用してないのか』と激しく詰め寄ると責任者は『君には彼と競い合ってもっと上を目指してもらいたい』と告げた。
彼は自分の意思や希望とは関係なしに走り続ける」
「強化責任者と選手の立場の違いってこと?」
「イエッス!ある大統領は言った。『国家に対して何を望むかよりも、自分が国家に何を奉仕できるかを考えるべきである』ってね。その選手がチームがより強くなることを第一に考えるなら楽せずに走り続けることは本望なんだろうけどね」
藤原さんの言葉に深く考えさせられる。
「自分が奉仕したいと思える対象を見つけろってことか」
今の僕にはそれがない。父さんには”医者”という職業がそうなんだろうか?だから、
僕にも医者になって欲しいと思っているんだろうか?
思索は藤原さんの「どうだろう?」の一言で霧散した。
「えっ?」
「例えば、社会に貢献することを会社の使命とし、社長をはじめ安い給料で有名な会社があって、その会社の考え方に共鳴して、その会社に全てを捧げようと決めたサラリーマンがいたとするよね?そのヒトがもし、会社の業績が悪化したことによって、定年を前にリストラされてしまったとする。そのサラリーマンが自分の人生を振り返った時に、マイナスの感情を覚えることがないかはアタシには分からないな」
「―――むぅ」
再びうなる。ちゃぶ台をひっくり返されたような気分だった。
「一って、納得できないことがあると顔にモロにでるよね」
「そ、そんなことはないけど……」
頬を触りながら反論する。
「走り続けてもらうにはどうすればいいか?それを考えるのがソーシャルゲームを運営する人だったり、チーム強化の責任者の腕の見せ所なんだろうけどね」
「藤原さんはどう思う?その、ソーシャルゲームにはまる人って?やっぱりおかしいと思う?画面の中だけの存在に一喜一憂するって」
「うーん」藤原さんが左手の人差し指を顎にあてたかと思うと「ワレワレハウチュウジンダ」と喉のあたりを叩いて声を震わせる。
「はっ」
間抜けな声が漏れる。
「ワレワレハチキュウトイウホシニスムヒトトイウセイブツヲチョウサシテイルノダガ、ナンダコノヒトトイウセイブツハ!ヒトノアタマホドノキュウタイガシカクノワクノナカニハイッタ、ハイラナカッタデナンマンモノヒトガイッセイニウデヲアゲタリ、アタマヲカカエタリシテイル。キュウタイガワクノナカニハイッタカラトイッテソレガナンダトイウンダ。アタマガオカシインジャナイノカ?」
藤原さんの言葉にハッとし、こちらの表情を見て藤原さんがいたずらっぽくニヤっと笑う。
「ある人は言った。『サッカーはただの玉遊びだと』
別の人は言った。『サッカーはスポーツだと』
また別の人は言った。『サッカーはスポーツを超えた何かだと』
宇宙人は言った。『コイツラアタマオカシインジャナイカト』
なので、おかしいかなという一の質問に対するアタシの答えはおかしいかもしれないし、おかしくないかもしれないってこと」
「―――藤原さんって何か断定しないよね?」
藤原さんが眉をあげ、そして笑う。
「いい指摘だ、一君」人差し指を唇の前にぴんと立てる。「言葉は怖い。言葉が一旦生み出されると、言葉は一人歩きを始める。ないものをあるものとして、不確かなものを確かなものとしてヒトに信じ込ませる。だからアタシはよく曖昧な言い方をする。あの日からね」
「あの日?」
ピロリン。メールの電子音が鳴る。
「おっ、お開きの時間だ。一と話してると時間が経つのが早いねー」
「いつもこの時間くらいにメール届くね」
「そっ、叔父さんから仕事終わったの合図。アタシ、リメイク中ってこと」
叔父さん?アタシリメイク中?頭の中をクエッションマークが駆け巡ったが、それらを口に出す勇気は持ち合わせていなかった。
「じゃ、またねー」
藤原さんが図書室からでていく。
一つ息を吐いてスマホを取り出す。ドールズマスターにアクセスして、ミゥを眺める。
漆黒と真紅のドレスを身に付けたミゥを。あれから何回かイベントとガチャがあり、少し前まで最も強かったこのドレスもその座を追われていた。
楽をさせない、か。
”理”がか細い声をあげる。キミは何も知らずに車輪を回し続けるマウスじゃない。ドールズマスターにはここまでという終わりがない。キミはずっとこのゲームをやり続けるのかい?違うだろ?キミにはやるべきことがある。今ならまだ間に合う。やるべきことをやるんだ。
分かってる。本当は分かってる。でも―――何故だかやめることはできなかった。
クラス委員である田中が教壇に立つ。黒板に『文化祭出し物案』と書いてこちらを向く。
「ハイ、では文化祭の出し物として何をやるかを決めたいと思います。何か―――」
「ハイ!」
田中の言葉を遮って大石が勢いよく手をあげる。
「じゃあ、大石君」
「クラスの出し物として、『水樹ゆかり展』を希望します」
それは一時間前の出来事だった。
「文化祭の出し物、ねえ」
大石が頬杖をつきながら、朝の会で配られたプリントを見ながら呟く。
「一年の時って、何やったっけ?」
「射的」
スマホに視線を落としたまま短く答える。画面の中では、昨日のガチャで追加された新しい衣装を身に着けたミゥが喜びの声をあげていた。
「そっか、射的か。ていうかよく覚えてるな」
「誰かさんと違ってちゃんと参加したからね」
「魂は一年A組の教室に置いておいた!」
自信満々に言い放つ大石に顔をあげてため息を返す。
「ていうか、その日何してたの?」
「いやね、俺だって休みたくて休んだんじゃないのよ。参加したかったのよ、ホントに。
でも運悪くちょうど東京ゲームショーと文化祭の日程が被ってしまったのよ。東京ゲームショーでは水樹ゆかりさんのイベントが行われるわけよ。これは悩んだね。一年A組の一員であると同時にゆかり帝国の臣民でもあるわけだからな。分身の術を使えれればよかったんだけど、人の身としてはそれは不可能。結局俺は臣民であることを優先させて、幕張の地へと旅立ったわけだよ」
「東京ゲームショーなのに幕張?」
「舞浜にあるのに東京ディズニーランド。幕張でやるのに東京ゲームショー」
「ふーん。ホント水樹さんのこととなると行動力凄いよね」
「そうだ!」大石が突然席を立つ。「水樹ゆかり展にしよう!」
「いや、それは色んな意味でダメなんじゃないかな?」
「一!」手をがしっと握られる。「熱い一票よろしく!」
本当に提案したよ、この男。大石の一言でクラスがざわめき始める。
「ハイ!涼に質問です」藤原さんが大石に負けず劣らず勢いよく手をあげる。「『水樹ゆかり展』って何をやるんですか?」
藤原さんの真ん丸い目が興味で輝いている。
「いい質問ですね」よくぞ聞いてくれましたとばかりに大石がゆっくりと立ち上がる。
「順をおって説明しましょう。まず水樹ゆかりについて。水樹ゆかりは、その存在をいち早く知っていたことを誇れる日がきっとくる女性声優である。
では、水樹ゆかり展とは何か?それは水樹ゆかりの写真を展示し、水樹ゆかりの歌を流し、水樹ゆかりの出演作を上演する夢のような空間を作りあげることである」
「声優なのに展示用の写真とか手に入るの?」
「声優は裏方というのは昔の話し。声優のグラビアがのった雑誌があったり、ライブを開いたりと進化しているのだ」
「へぇ~」
大石が拳を振り上げる。
「水樹ゆかりの素晴らしさを世にしらしめるため、二年C組よ!私は『水樹ゆかり展』を希望する」
クラスの誰もが茫然と大石を見つめる中、チョークが黒板を滑る音だけが流れる。
「水樹ゆかり展、と。他には、あっ、大石君もう座って大丈夫ですよ」
「あっ、はい」
田中の言葉に促されて大石が素直に席につく。
「ハイ。じゃあ他にやりたいことがある人は挙手をお願いします」
特別なことは何もなかったかのように進行していく田中クラス委員。
「ハイ」右後ろの池田さんが手を挙げる。「あかりはカフェをやりたいです」
後ろから小さい舌打ちが聞こえてくる。何となしに池田さんを見やる。意見を無事表明できたからか満足気な表情の池田さんと何故だか目を細めて池田さんを見つめている藤原さんがいた。そのコントラストを不思議に思いながら視線を前へと戻す。
「水樹ゆかり展とカフェ。二つ案がでましたが、他に案がある人はいませんか?」
田中クラス委員の呼びかけに反応する者はいない。
「他に案がある人はいないようですので、水樹ゆかり展とカフェ。この二つのうち、どちらをやるかを多数決で決めたいと思います。では、水樹ゆかり展がいいと思う人は挙手
をお願いします」
後ろでヒトが動く気配がする。態度を決めかねていると後ろから小突かれて渋々手をあ
げる。
「ハイ、水樹ゆかり展は三人ですね」
三人?
教室を見渡す。僕と大石と藤原さんが手を挙げていた。
「というわけで、クラスの出し物は三‐三十四でカフェに決定しました」
教室が拍手に包まれる中、「俺の提案した水樹ゆかり展は拒絶された。なぜだ」と沈んだ声が聞こえてきた。
「響は天体観測が趣味なんだ」
聞こえてきた言葉に動きが止まる。声のした方へ視線を向けると藤原さんが笑顔で佇んでいた。
「一條君は星、見たりする?」
「いや、意識して見ることはないけど……」
「そうなんだ」藤原さんが胸の前で手を組み合わせる。「一億年前の輝きが光となって今の響たちの元に届く。そのことに思いをはせながら星を眺める。それってとてもロマンチックなことだと思いません?」
お互い無言で見つめ合う。頭の上をはてなマークが飛び交うが、今日のホームルームの時の藤原さんの様子を見て、はてなマークにびっくりマークがくっつく。
「藤原さんってさ……」
「なあに?」
笑顔。
「池田さんのこと嫌いなの?」
「うーん」笑顔が困惑へと変わる。「嫌いってわけじゃないんだけどね……」
視線を宙へと向け、そのまま口を開く。
「一はさ、自分のことを名前で言う女の子ってどう思う?」
「んー、変わってるなって思うくらいかな」
「そっか。アタシは何か気になるんだよね。好きとか嫌いとかじゃなく、ただ気になる。カクテルパーティー効果みたいに自分のことを名前で言う女の子がいると、心がそこに引きつけられる」
一つ息を吐く。視線を戻して困った笑顔を見せる。
「なんでだろうね?」
「うーん。その自分のことを名前で呼ぶ人と同じ名前の人がたまたま知り合いにしたとか」
「少なくてもあかりちゃんって言う知り合いは思い当たらないなぁ」
「そっか。何でだろうね?」
「全くヒトという生き物は不思議だねぇ」
「不思議と言えば、男で自分のことを名前で呼ぶ人って、全くと言っていいほど見ないよね」
「おっ、そう言われれば確かにそうだ。ということは育てられた環境によるのかもしれないね」
育てられた環境、カエルの子はカエル。医者の子は医者。腹の底から湧き上がってくるものを必死に飲み込む。
「―――自分のことを名前で言う女の人に母親も自分のことを名前で言ったりしているのかもしれないね」
「あっ、それありえそう。娘とは友達感覚で接したいって思う母親多いらしいし」
「藤原さんはさ」
唇をなめる。
「んっ?」
「カエルの子はカエルだと思う?」
「そうなりやすいっていうのはあるだろうね。朱に交われば紅くなるって言葉もあるし」
「そう、だよね」
「まあ、でも」こちらの反応に何かを察したのか藤原さんが言葉を続ける。「生まれか環境かは未だ答えがでない問題だからね。その人次第でカエルが竜になったりする余地もあるんじゃないかな?」
藤原さんの優しさに頑張って笑顔を繕う。
「何で竜?」
「竜って、何か強そうじゃない」
同じ親から生まれ、同じ環境で育った兄さんは今東京で父さんが望んだレールを順調に進んでいる。それに対して僕は入口のはるか手前で躓いている。これが差、か。
「―――ありがとう」荷物を片付けて席を立つ。「今日はもう帰るよ」
「あれ、今日は早いね」
「うん。ちょっと用事を思い出したから」
「そっか。じゃあ、またね」
「うん。じゃあね」
藤原さんと挨拶を交わして図書室を出る。ドアを閉めて、もたれかかる。頭をさげて腹
の底にたまったものを吐き出すかのように、苦しくなるまで息を吐き出し続ける。限界まで息を吐き出したところで頭をあげ、ぼんやりと廊下を眺める。この廊下は図書室の他に体育館、音楽室、屋上へと繋がっている。
遊ぶ人は賢者に、町人Aは勇者に、僕は……。
「大石」
朝のホームルーム。テンポよく流れていた出欠の確認が流れる。
「大石は今日休みか。珍しいな」
チラと後ろを見やっても「見ちゃイヤン」と返してくる相手はいない。
「大石以外は全員出席か。テストも近いんだから各自体調管理には気を付けるように」
点呼が終わり、担任が教室から出ていくと同時に教室がざわめき始める。また、一日が始まっていく。
給食の時間。いつもと違って小柴と二人で机を並べる。
「田中が事前予告なしに休むなんて珍しいよな」
「まあ、それが普通なんだけどね」
大石は病気で休むことはほとんどない代わりに、サラリーマンが有給休暇を取得するかのように、「俺この日休むわ」と宣言して欠席することがあった。
「この前はアイツ何で休んだんだっけ?」
「水樹ゆかりのCD発売記念のハイタッチ会」
「事前予告なしってことは本当に病欠なんかね?」
「メール送ってみたんだけど、意味が分からないメールが返ってきたんだよね」
「よく分からないメール?」
「うん」
小柴にスマホの画面を見せる。『今日どうしたの?』というメールに『神は死んだ』とのみ返信があった。
「何じゃこりゃ?」
「分かんない。『どういう意味?』って送っても何の返事もないし……」
「ふーん。神を呪いたくなるほどひどい状態なんかね?」
「水樹ゆかりへの情熱が高まり過ぎて苦しんでいるとか?」
「アイツだったらありえないとも言えないところがすごいよな。まっ、そこまでいくと情熱を傾けるものがあるってのも考えものだよな」
「そうだね」
「で、一はどうなのよ?」
「ん」質問の意図が分からずに目が点になる。「何が?」
「何がって、勉強だよ、勉強。一が情熱傾けているモノっていったら勉強だろ?勉強の方は順調?」
「あー」
呻き、目が泳いだのが自分でもはっきりと分かる。
「まあまあ、かな」
「ふうん。実は一にお願いがあって……いつでもいいので俺に勉強教えてくんない?」
「勉強?それはいいけど、どうしたの?」
「いやね、うちの親父は一んちの親父さんと違って、テストの結果に今まで全く興味を示さなかったのよ。で、俺もそのことをいいことに特に勉強もせずに、テストの結果が悪くても気にしなかったわけ」
「テストの結果、いつもよく見てなかったもんね」
「まあね。なのに昨日いきなり親父に話があるって呼び出されて、今までの結果より五〇点アップしなきゃ小遣い半額とか言い出したわけよ」
「半額!そりゃキツイ!!」
「三野口から一・五野口なんてキツイなんてもんじゃないぜ。毎週ジャンプを買っただけで野口が一人も残らないなんて悪夢以外の何物でもない」
「でも何で急にそんな話になったの?」
その質問に小柴が大きく息を吐く。
「俺が聞きたいくらいだよ。何でって聞いても『学生の本分は勉強なんだから当たり前だろ』としか言わないし。それならそれで早く言えっての」
小柴に同情の笑みをみせる。
「分かった。そういうことならできるだけ力になるよ」
「おお、マジサンキュー」
成績のことで色々あるのは自分の家だけじゃない。そう思うと少し気がラクになった。
レオナルド『今回の追加衣装もなかなかいい感じですね』
放課後の図書室。勉強が一段落ついたところでドールズマスターにアクセスする。ギルドのチャットを確認すると、朝自分が残した履歴が最新になっていた。メンバー各自ドールズマスター自体はやっているみたいだったが、チャットに書き込むメンバーは稀になっていた。
珍しく藤原さんも図書室に姿を見せず、大石からの返信もなし。
スマホをしまって、再び教科書へ向き合う。日が沈むまで勉強をして図書室を後にした。
夜、自室で勉強しなきゃいけない、という思いはあるものの実際に机に向かう気にはならずにドールズマスター内をいたずらに飛び回っていた。この夜だけで何回目になるんだろう?ギルドのページをぼんやりと眺める。お知らせに目がいき、そこに書かれている内容の意味が頭に届くと、驚きで体が起きる。
『ビッグストーンさんがギルドを脱退しました』
信じられない気持ちでお知らせを見つめる。あれほど熱くドールズマスターについて語っていた大石に何があった?
あれこれ思いを巡らせているところに、スマホが震える。確認すると大石からメールが届いていた。急いで開く。
『俺、ドールズマスターやめることにするわ』
とりあえず『何があったの?』と返す。すぐさま『水樹ゆかり 引退で検索すれば分かるよ』と返ってきた。
インターネットにアクセスして”水樹ゆかり 引退”と打ち込むと一番上の検索結果に『結婚。そして引退』とタイトルがつけられた個人ブログがあがってきた。
内容を確認する。そこには一般男性と結婚し、声優業を引退するという報告と今まで声優水樹ゆかりを支えてくれたスタッフ、ファンへの感謝が綴られていた。ドールズマスターのことにも触れられており、ミゥの声優も交代となるらしかった。
『水樹さん、声優やめちゃうんだ』
個人としては特に思うことはなかった。僕にとっては認めてもらえた場の一部が変更になるに過ぎない。でも、水樹さんのファンだからドールズマスターを始めた大石にとってはそうではないだろう。
『うん』
『今日、学校休んだのもそれが理由?』
『うん』
『裏切られたかと思った?』
ファン、と言っていいのかは分からないけど、今回の件にショックを受けてCDを割った画像をブログにアップしている人もいるみたいだった。
『いろんな思いが浮かんでは消えていくからよく分かんないんだけど、多分一番大きい思いは「残念」かな』
『残念?』
しばらく間を置いてから返信があった。
『うん。ちょっと長くなるけどいい?』
『いいよ』
『俺、始めて水樹さんを知ったのが中一の五月だったのね。その頃、俺は小学校の時から好きな子がいて、GWに思い切って告白したんだけど振られてひごく落ち込んでたのね。何もする気がおきなくなって、一週間くらいベッドに横になって、ひたすらぼおっとラジオを聞いていた。
その時初めて彼女の”声”に出会った。ただ意味のない音が流れていくだけだったのに、その時だけ聞きいっていた。乾いた土に水が染み込んでいくように、俺の心に彼女の声が染み込んでいった。彼女が出演しているラジオの時間が終わったら、飛び起きてパソコンに向かって彼女のことを調べていた。
それからは落ち込んでいたことなんか忘れて彼女のことが中心になっていった。毎日ブログを確認して、彼女のことをチェックしてた。出演しているラジオは必ず聞いて、例え一ページでも彼女のことがのっている雑誌は必ず買った。CD発売記念のハイタッチ会にも行った。ドールズマスターのミゥ役に決まった時、彼女は喜んでたし、俺も自分のことのように嬉しかった。
彼女のファンになってからの約一年半。彼女と一緒に歩いているような感覚だった。それが昨日、終わった。
俺は彼女に”恋”をしていたわけじゃない、と思う。だから、結婚は喜ばしいことだし、素直におめでとうと言える。ただ、引退は残念でしょうがない。
俺は”夢”を見てたんだと思う。
彼女はブログで声優を目指そうと思ったきっかけとして、小学校の担任に『キミの声は人を落ち着かせるね』と言われたことをあげ、声で人を癒せるようになりたいと目標にあげていた。
俺は彼女の声に救われた。俺は彼女の声には特別なチカラがあると思った。俺は彼女を応援したかった。
今なら分かる。なんで、そこまで彼女に情熱を傾けていたのかを。俺の”ナカ”には人と違った特別なチカラも、一心不乱に情熱を傾ける対象もなかったから。
夢から醒めた時に残っていたのは変わらず空っぽな俺と思い出だけだった。これからまた俺は空っぽな俺と向き合っていかなきゃいけない。
俺は―――彼女と一緒に夢を見続けていたかった。いつまでも、いつまでも醒めない夢を見続けていたかった。
だから、夢から醒めてしまったことが残念でしょうがない』
『―――そっか』
なんと言葉をかけていいのか分からずにただそれだけを返す。
『悪いな、長々と。あと、ドールズマスター俺から誘ったのに、先にやめて悪かったな』
『いいよ、そんなことは。明日から学校来れそう?』
『大丈夫……だと思う。このまま家にいても落ち込み続けそうだからな』
『よかった』
『悪いな、心配かけて』
『いいよ、それくらい。じゃあ、明日学校で』
『うん。学校で』
大石とのやり取りを終えて、ベッドに横になる。
醒めない夢を見続けていたい、か。でも、どんな夢もいつか醒める。
とても印象に残っている話がある。
中学、高校とグレテ不良だった青年がスカウトをきっかけに大相撲の道へと進んだ。その青年はインタビューを受けるたびに母には今まで迷惑をかけたので恩返しがしたいと口にしていた。その言葉通り破竹の勢いで番付をあげていき、初優勝と共に大関昇進を決めた。そのニュースは青年の過去とセットで報道され、美談として受け取られた。父さんは勝手に道を踏み外した奴が正しい道に戻ったら余計に騒ぎ立てるのか理解できんと苦々しく言っていたので、全ての人がそう受け取ったわけではないんだろうけど……。
そして、夢を達成したその日が相撲取りとしての終わりの始まりだった。
青年はまだ二十代前半で、これからの目標として横綱をあげ、周りも当然それを期待した。今までと同じ努力を続ければ、それは手が届く目標のはずだった。だが、歯車は既に狂い始めていた。
稽古熱心として知られていた青年だったが、大関昇進を機にまるで別人のように稽古をしなくなった。今までは師匠が稽古のし過ぎを戒めていたのに、師匠が言わなければしなくなっていった。当然、力は落ちていく。チームスポーツだったら、スタメンから落とすなどの方法もあっただろう。しかし、個人競技ではただ落ちていくだけだった。
以降、彼のことがニュースとして流れるのは降格と師匠の苦言といったネガティブなものだけになっていった。大関昇進を決めた十年後に彼は前頭として引退した。そのニュースは彼の師匠の「大関になるまでにやってきたことを続けていれば横綱になれたのに」というコメントとともに流された。
夢と共に駆け上がっていった四年間と夢を失って堕ちていった十年間。夢を達成してもそこで全てが終わるわけじゃない。続いていくものがある。夢があれば耐えられたものが、夢を失って耐えられないものへと変わる。
彼は、夢を達成することができて幸せだったんだろうか?その後の十年間をどんな気持ちで過ごしたんだろうか?
分からない、分からない。
僕は、どうすればいいんだろう?それも、分からなかった。
なかった。
職員室前に貼り出された期末テストの上位五〇名。そこに僕の名前はどこにもなかった。
当然、予想されたことだった。授業を受ける態度、授業以外の勉強時間―――それらを考えれば何の不思議もなかった。それでも、ショックだった。
父さんはこの結果を見てどう思うだろうか?今まで考えないようにしてきた”そのこと”。結果がでたことによって目を背け続けるわけにもいかなくなり、吐き気がしてくる。
唾を飲み込み、息を吐く。
もう結果はでてしまったんだ。例え、それが望んだものじゃなかったとしてもどうすることもできない。そう自分に言い聞かせる。右端に視線を一瞬走らせて、その場から立ち去る。右端には前回と同じ名前が書かれていた。
父さんが無言で期末テストの結果が記載された紙を見つめる。その間、判決を待つ被告のように身を縮こませてその刻を待つ。父さんが大きなため息と共に紙をテーブルに置く。
「もういい」
「えっ―――」
「もういいと言ったんだ」
「それは、どういう―――」
ひどく喉が渇く。父さんが紙に視線を落としたまま話し続ける。
「昔、ある少年がいた。
その少年には何の取り柄もなく、常に周りからどう思われているかを気にせずにはいられなかった。そんな自分を変えたくて、自分に自信が持てるようになりたくて、とりあえず勉強と絵を描くことを頑張ってみることにした。少年は絵を描くことが好きだった。絵を描いているときだけ、色んなことを考えずに無心で色を重ねていくことができた。ただ、あまり上達はしなかった。いくら時間を重ねても、絵を描くことでは自信が持てるようにはならなかった。
勉強は違った。少しずつではあるが、やればやった分だけ成績があがっていった。そして、成績があがれば親の、教師の、クラスメイトの見る目が変わっていった。それが自信になっていった。そして、いくつか絵を描くことはなくなっていた。
少年は確信した。大多数の人間にとって、成功へと続くチケットは好きなことではなく、勉強なんだと」
父さんにサッカーをやめろと言われた日のことが脳裏をよぎる。あの時、父さんは自分の少年時代のことを思い出していたんだろうか?
「人は環境が整えば誰しも鷹になれると思っていた。だが、俺が間違っていた」
父さんが顔をあげ、視線が交錯する。
「お前は鳶だ」父さんの表情から失望がありありと見て取れた。「鷹から生まれた鳶。
それがお前だ」
「何で……」
歯がカタカタと鳴る。腹の底のものが蠢き始める。初めて父さんに反論した。
「だったら、何で鳶が鷹になろうと、父さんが望んだものになろうとしているその過程を認めてくれなかったんだ!少しでも認めてくれたら……」
言葉が詰まり、涙があふれ出る。認めてくれたのなら、走り続けることができたかもしれないのに―――。
「兎はライオンに追われて肉離れなど起こさない。何故か?兎だからだ。一泰には出来て、お前には出来ない。何故か?一泰が鷹で、お前が鳶だからだ。
鷹は自分の子供が鷹であることを褒めたりしない。それは当たり前のことだからだ。だったらその当たり前にすら達することができないモノを何故認める必要がある」
涙が止まらない。”モノ”―――その言葉が心に突き刺さる。父さんは一度たりとも、
僕の名前を呼ぼうとしなかった。
「お前は鳶だ」
父さんが”鳶”に力を込めて言う。
「お前にはもう何も期待しない。大学までの学費は出してやる。例え、それが鳶にのみ相応しい大学だったとしてもな。鳶として好きに生きて、鳶として死ねばいい。話は、以上だ」
父さんはそう言い残して、リビングからでていった。
一人取り残され、椅子に座る。力なく頭を背もたれへと預ける。僕は、何だ?ぼんやりと眺めた天井に答えは書かれていなかった。
フェンスに身体を預けて宙を仰ぐ。その先には真ん丸い黄金の月。手を伸ばすも、この手が月を掴むことはない。手を下すと共に視線を下げる。学校の屋上から見下ろした街はひっそりと静まり返っている。
大きく、腹の底から大きく息を吐く。
何か、もう疲れた。
一四年。刻まれた刻としては長く、人生としては短い時間。振り返ると失望の繰り返しだったように思う。父さんに褒めてもらおうと努力するも、結局それは叶わなかった。
いつからか心に穴があき、その穴を埋めることはできずに今、その穴に飲み込まれようとしている。それでも、構わなかった。
僕は、僕はやめよう。今、ここで。
反転して、後ろへと倒れ込む。月が、小さくなっていった。
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