第2話 新世界への誘い

 息を大きく吸い込む。肺の中に冬の澄んだ空気が染み渡っていく。精一杯吸い込んで吐き出すと、白い吐息となって夜の闇へと消えていった。視線をそのまま空へと向ける。向けた先ではあまたの星が瞬いている。今の星と”あの日”の星―――同じに見えても同じじゃない。

 星座の起源は約五〇〇〇年前のシュメール人やアッカド人だったと言われている。その人たちは星座を見て何を思ったのだろうか?何でただの星の散らばりに”星座”という形を与えたのだろうか?

 アタシはなぜこうして飽きもせず、寒い思いをして星の散らばりを眺めているのだろうか?

 アタシがそうしようと決めたから?

 自由意志……他から束縛されず自らの責任において決定する意思のことを言うらしい。

 今、アタシの目の前にミネラルウォーターのペットボトルとコカコーラの缶があったとする。コカコーラの缶へと手を伸ばし、ごくごくと大きな音をたてながら飲んでいき、飲み終わったと同時にぷはぁーとコマーシャルのように豪快に息を吐き出したとしよう。

 アタシはその時、何者にも束縛されず、自らの責任においてコカコーラを飲むという決定をしたのだろうか?

 まず、何で飲み物を飲もうと思ったのか?喉が渇いているから。喉が渇いているという生理的欲求はアタシ自身のものであることに疑いはないが、アタシの意志によるものではない。死ぬほどつらいこと、悲しいことがあって消えてしまいたいと思っても、身体は消えないし変わらずに喉は乾く。アタシから湧き上がってくる、コントロールできない欲求に従って行動している時にアタシは他から束縛されずに自らの行動を決定していると言えるのだろうか?

 次に何でミネラルウォーターとコカコーラの選択肢の中からコカコーラを選んだのか?コカコーラが好きだから、甘いものが取りたかったから、炭酸飲料が好きだから……何かしらの理由があってコカコーラを選んだとしたなら別に問題はない。アタシはこれこれこういう理由でミネラルウォーターではなく、コカコーラを選べましたと言えるのだから。では、何となくという理由でコカコーラを選んだ場合はどうだろうか?何となくそうしたいと思っているが、何故そう思うのかは分からない。その時、何かに束縛-科学者や商品デザイナーの意志-されていたのだろうか、何からも自由だったのだろうか?

 そうやって考え始めると、アタシという存在だけでなく、社会も不確かで脆弱な存在に思えてくる。

 大人であれば、いついかなる時でも自分が行ったことへの責任が求められる。寂しかったから、切なかったから。どんな切実な想いを抱えていようがじゃあ、しょうがないよねとは言ってくれない。ルールを破った者には罰が与えられる。なぜなら、ヒトには自由意志があるから。アナタは何からも束縛されずに自らの責任においてそれを行ったんですよねとなる。

 ヒトの自由意志というものは社会の基盤にできるほど確固で、明白なものなのだろうか?

 『ヒトの自由意志?ああ、もしかしたら他から束縛されずに何をするか決定できている瞬間もあるかもしれないね。でも、ほとんどの瞬間は生理的欲求と欲望の操り人形だよ。万物の霊長たるヒトはね。どんなに高いビルを建てられるようになったところでそれは変わらない。えっ、じゃあ自由意志を基盤として社会を設計しているのはおかしいんじゃないかって。ああ、そうだね。君の意見は全く持って正しい。本来ならば自由意志は社会の基盤にできるほど明確なものではない。

生まれか育ちか?今なお議論される問題だが、どちらにしたって大した問題ではない。ヒトは生まれにも育ちにも影響を、とても大きな影響を受け、そのどちらも自分で選ぶことは出来ないのだから。でも、よく考えてもらいたい。じゃあ、どうすると。キミもたまに目にするだろう。世間の注目を集める残虐な事件があった時に加害者の弁護人が精神鑑定を要求することを。精神鑑定の結果、責任能力がないと判定されたとして無罪になったとしたら、被害者の関係者もしくは世間は納得すると思うかい?納得はしないだろう。重要なのは正しいことではなく、納得できるかなんだよ。ヒトに自由意志はないというより、自由意志があるという主義・主張の方が多くのヒトは納得できる。だからこそ、その前提で社会は形成されている。例え、それが幻想だったとしてもね』

 劣悪な環境に生まれ、その環境に生を受けたことを憎み、その憎しみの刃で社会に切りつけた者がいたとしよう。何の資格があるのか分からないコメンテーターはきっとこう言うだろう。『環境は言い訳にはならない。同じように恵まれない環境に生まれながら、全うに生きてる人はたくさんいる』と。その意見は正しい。少しの反論の余地もなく、完璧なまでに正しい。でも、アタシはそのコメンテーターに言いたい。『アナタはそんな環境で生まれたんですかと。もし生まれていないのなら、アタシはどんな資格があってそんなことを言っているんですか』と。そのコメンテーターは何と答えるのだろうか?

 もし、全く異なる環境で生まれた時にはその行為をしなかった場合、社会はどのように考えるべきなのだろうか?環境は言い訳にはならないと断罪すべきなのだろうか?冷酷な社会の犠牲者として、更生への道を示すべきなのだろうか?

 分からない。アタシには全然分からない。

 一時期、自己責任っていう言葉が世間を賑やかしたことがあった。

 最初から持っているものも、途中で与えられるものを選べない世の中で、その選べないものが自分を形作っていく中でどうやったらそれを”自分”として責任という概念を受け入れることができるんだろうか?



 大きく息を吐いて、ゆっくりと吸い込んでいく。それが儀式だった。定期テストの結果を確認する時の―――。

 唇をなめ、『大丈夫、大丈夫。きっと、大丈夫』と言い聞かせる。

 まばらな人ごみから声が上がる。見ると職員室から学年主任が出てきたところだった。

手には定期テストの上位五十人が書かれているであろう紙が収められている。

 俯いて、再度『大丈夫』だと言い聞かせる。言い聞かせれば、それが現実になると信じているかのように何度も何度も言い聞かせる。

 『よし!』

 意を決して顔を上げる。順位表へと恐る恐る視線を向ける。

 一位、二位、三位に自分の名前がないことを確認して、小さく息を吐く。唇をなめて視線を左へとゆっくりと動かしていく。

 四位ない。

 五位、ない。

 六位も、ない。

 視線が左へと動くたびに心臓の鼓動が暴れ馬のように高鳴っていく。色と音が失われていき、冷たさが腹の底から喉元へとこみ上げてくる。それを必死の思いで飲み下す。

 七位……ない。

 唾を飲み込む。、

 八位 一條一 四七五点

 あった。

 安堵とともに大きく息を吐き出す。

 「響また一位じゃん。すごい、すごい!」

 「まあね」

 「なんだってーーー。『そうだよ、私が学年一位だよ、勉強ができるんだよ。アナタ達とは違うんです』だってー。余裕シャクシャクじゃないか、コンチクショーーー」

 「いや、そんなこと一言も言ってないし」

 世界に色と音が戻ってきた。横から聞こえてきた声に自然と視線が一位へと吸い寄せられていく。

 一位 藤原響 五〇〇点

 そこには去年の秋に転校してきてからずっと満点で一位を取っている少女の名前があった。

 すごい、また満点で一位だ。

 もし―――もし僕が藤原さんのように五〇〇満点で一位を取ったのなら、父さんは兄さんのように僕を褒めてくれるんだろうか?

 満足気な表情―僕に対しては一度も見せたことのない―を浮かべて兄さんのことを褒める父さん。それを少し離れたところから眺める僕。物心ついた頃から何度も繰り返されて

きた光景。

 視線を一位から八位へと戻す。これなら、大丈夫かな?

 「おっ、おっ、おっ」

 すぐ近くから聞こえてきた声に振り返ると、クラスメイトである大石涼がすぐ後ろに立っていた。

 「一ちゃん、今回は十位以内じゃん」

 「まあね」

 大したことないよと言わんばかりに無関心を装う。

 「あら、今回もあまり嬉しくないご様子。一ちゃんったらホント目標が高いんだから」

 目標が高いのは僕じゃなくて父さんなんだけどね、と呟きかけた言葉を飲み込んで曖昧な笑みを返す。

 「大石の家はテストの結果で何か言われたりするの?」

 「点数がよかったらがんばったな、悪かったらもう少し頑張れ。とまあ、一言二言言われるくらいだな」

 「―――そうなんだ」

 「一ん家はどんな感じなん?」

 前回の二十八位のテスト結果を渡したときの父さんの苦々しい顔が脳裏をよぎる。何だこの順位は?言葉を聞くまでもなく、その表情で父さんが思っていることがありありと読み取れた。

 「今までは、何だこの順位はって感じかな」

 「何だこの順位はって、一、前回確か三十位以内だったよな?」

 「うん」

 苦笑いとともに応える。

 「キビシー!二百人いる中の三十以内でそれかよ。流石親がドクターな家は一味も二味も違うな。これはもう平の凡な家に産まれたことを神様に感謝だね」

 大石の言葉にふと考えさせられる。僕の家では努力して三十位以内に入っても認められない。大石の家では努力して三十位以内に入ったのなら、恐らく褒められるのだろう。この差は何なんだろう?

 「なになに。そんな大きなため息ついちゃって」

 大石の言葉で知らず知らずのうちにため息をついていたことにハッと気づいて、慌てて返事をする。

 「いや、家によって反応もまちまちだなと思って」

 「そうだな。『人は生まれた家を―――』」

 「大石、サッカーしようぜ」

 言葉が途切れる。声がした方を見やると、サッカーボールを手にした少年が立っていた。

 「おう、今いく」その声に応えた後、大石がこちらに向き直す。「じゃあ、俺はボールと触れ合ってくるので―――おっ、そうだ。一っちもたまにはボールと触れ合ってみねえ」

 その提案に心が動かされたことをはっきりと自覚する。でも―――。

 「いや、僕はいいよ」

 「むぅ」大石が残念そうに頬を膨らませる。「それは残念。小学校の時みたいにボールと触れ合いたくなったら、いつでも声かけてくれよ」

 「―――わかった」

 「んじゃ」

 勢いよく階段を駆け下りていく大石の背中をじっと見つめる。小学校の時みたいに、か。

あの頃は時間が少しでもあればボールと触れ合ってたっけ。

 息を吸い、吐いて再び順位表に目をやる。

 八位 一条一 四七五点。

 左胸を軽く二回叩いて、その場を後にした。


 「フンッ!」

 父さんの荒い鼻息に中間テストの結果が記載された紙を持つ手が止まる。制止した手をやっとの思いで動かして紙を手渡す。父さんが結果を確認している間、視線を俯かせて審判の刻を待つ。

 一瞬が永遠にも感じられる中、脳裏には三カ月前、一学期期末テストの結果を渡した時のことがありありと浮かび上がってきた。


 「お前は―――」

 父さんの威厳を充分に含んだ重い声に身体がビクッと震える。産まれてきて十四年間、

ずっとこの声を聞いてきたのに、未だに慣れることはできなかった。

 「中学に上がる時に自分が何と言ったか覚えているか?」

 唇をなめる。息を一つ吐いて、重い重い頭を持ち上げる。

 「覚えて、います」

 「何と言った?」

 「将来の目標、医者になるための努力を毎日欠かせずします、と」

 「そうだ。お前は確かにそう言った。で、その結果がコレだ」

 父さんがテスト結果の紙をテーブルに置いて、太い指で結果をなぞっていく。

 「国語八〇点、数学七〇点、英語九十五点、社会九〇点、理科八〇点―――合計四二五点で二十八位」

 父さんは”二十八位”の部分をはっきりと力強く発音した。

 「これがお前の努力の結果か?」

 「―――はい」

 運動会の駆けっこで一位になったこと、風景画のコンクールで入賞したこと、毎日掃除を頑張って先生に褒められたこと。父さんにとってそれらは価値のないものであり、道端に転がっている石ころも当然だった。父さんにとって重要なのは、医者―父さんの家では代々医者を務めており、僕もそれが当然であるかのように医者になることを義務づけられていた―になるのに役に立つかどうかが全てだった。

 父さんが大きく息を、ありありと失望の色が滲んだ息を吐く。

 「中学は義務教育だ。望む、望まざるにかかわらず誰もがその道を通る。ということは、だ。その中にはダイヤモンド、社会というピラミッドの上に立ち、日本を引っ張っていく者もいれば、石ころ、ピラミッドの底辺で無駄に時間を浪費していくだけの者もいる。お前はその玉石混合の中でさえも上位十番の中に入れない」

 上位十人。その言葉を心の中で繰り返す。

 「これから先、玉だけが集まる環境の中で上位に立っていかないといけないにもかかわらず、そんなことで目標が達成できると思っているのか?」

 「―――思いません」

 『でも、順位も点数も前のテストよりは良くなっています』という言葉を飲み込んで父さんが望んでいるであろう”反応”を返す。コミュニケーションを会話のキャッチボールと表現する人もいるけど、僕と父さんが会話のキャッチボールをしたことが今まであったんだろうか?

 「だとしたら、これからお前がしなくてはいけないことが何だか分かるな?」

 「―――ハイ」

 父さんが背もたれへと体を預ける。

 「分かったならいい」


 「国語九五点―――」

 父さんの声に現実に引き戻される。

 「数学九〇点、英語一〇〇点、社会一〇〇点、理科九〇点で八位、か」

 父さんの次の言葉を期待に胸を膨らませて待つ。が―――。

 「分かった。行っていいぞ」

 「えっ?」

 それだけ?テスト結果に対して何のコメントもなし?前よりも五十点も点数をあげた

のに、二教科で満点取ったのに、十位の中に入ったのに、何の言葉もなし?

 風船のように膨らんだ期待は父さんの感情も伴わない冷めた声によってしぼみ、一瞬

にして消え去ってしまった。

 「何だ?何だあるのか?」

 「えっ、いえ―――」

 「分かったなら行け」

 審判の刻は一瞬で終わり、父さんがウイスキーをグラスへと注いで経済新聞へと手を

伸ばす。頭を下げてリビングを後にする。ドアのところで立ち止まって、チラと父さん

を見やるが、父さんの視線は経済新聞へと落とされたままだった。


 自室へと戻ってドアを閉める。ドアへと寄りかかって大きく息を吐く。

 テスト結果が悪ければ叱責、良くても無反応、か。

 小さい頃から父さんが価値を感じないもの、身体を動かすことが好きだった。逆に父さんが最も価値を感じる勉強は嫌いだった。身体を動かしているときは、わき目も振らずにその行為だけに集中することができたが、勉強となると思考はあっちこっちへと飛びまわり、どうしても目の前のことに集中することができなかった。

 僕は父さんの希望に沿って、父さんの希望まで走ることができるんだろうか?

 もう一度大きく息を吐いて、ベッドへと寝転がる。ポケットからスマホを取り出してロックを解除する。メールを確認すると大石からメールが届いていた。

 『閻魔様の反応はいかがだったかね?』

 父さんの冷めた声を思い出して、重い気持ちで文字を選択していく。

 『ノーコメント』

 『えっ、何?そんなにお怒りだったの?』

 すぐさま返信がくる。

 『だから、ノーコメント。テスト結果について何のコメントもなし』

 『本気と書いてマジっすか?』

 『マジっす』

 『閻魔様は学年八位でもお気に召さないのか』

 『本当だよ』と打ち込んで手を止める。

 授業が終われば、ほぼ全てのクラスメイトが部活動へと向かう中、一人図書室で一日の復習をし、帰宅してからも次の日の予習を欠かさずに行うようになった。それも全て父さんの”十位以内”という言葉があったからこそだった。十位以内に入れば、父さんも僕のことを褒めてくれると思って頑張ってきたのに……。

 『現実はどんな時も甘さ控えめ。少なくともウチでは、ね』と付け加えて送信する。

 『学年八位じゃダメなんですか?って言ってやりゃよかったのに』

 大石が一時期話題になった女性政治家の台詞を引用する。そのニュースを見たとき、父さんが『こんなことを言う女を政治家に、ましてや大臣にするなんてこの国はどうなってるんだ』と苦々しい顔で呟いたのをよく覚えていた。

 『こういう奴がいるから、日本はダメになっていくんだBy父。ダメに決まってるだろの一言でバッサリと切り捨てられて終了だよ、きっと』

 『ハードルが高い家はホント大変だな』

 ハードル、か。

 お前は玉石混合の環境でも上位に入れないのか、と父さんの言葉が蘇ってくる。父さんの期待に応えるためには玉が集まってくる高校、大学で上位に入り続けなければならない。

中学で既に青息吐息の僕にとって、それは高いハードルどころではなく、棒がない状態で棒高跳びをクリアしなくてはいけないように感じられた。

 不安で腹の底がズシリと重くなり、慌てて話題をそらす。

 『大石の家はどうだったの?』

 『俺んち?今回は何故か前回より大幅によかったからな。よく頑張ったじゃないかというお褒めの言葉とともにステーキゲットだぜ!』

 『嘘っ!マジで!?』

 『マジマジ大マジ。大石涼嘘つかない』

 『いいなー、いいなー、ステーキいいなー』

 『いいだろー、って一の家だったら、ステーキなんて余裕のよっちゃんじゃないの?』

 『ウチの食卓に豚さんや牛さんがあがることはないんだよね。もちろん外に食べにいくこともない。だから、焼肉屋にいったこともなし』

 今まではメールを送ればすぐに返信があったが、今回は少し間を置いてから返信があった。

 『今明かされる衝撃の事実。あまりに衝撃すぎて時が止まったぜ。何でまた?』

 『父さんの好みとしか……』

 『一っちの親父さんはベジタリアンなん?』

 『ベジタリアンではないんだけどね。魚は普通に食べるし、肉も鶏肉だけはでるし。牛や豚は体に悪いから、上に立つ人間が食べるものではない、ってことらしい』

 『一っちの親父さんは地震雷火事親父って感じのヒトだな』

 『そうだね』

 首だけを持ち上げて、部屋の隅にあるステンレスの棚を見やる。そこには薄汚れたサッカーボールともう足が入らなくなったスパイクがあった。

 サッカーが好きだった。大好きだった。フリータイム、昼休み、放課後と時間があればいつもボールを追いかけていた。アイドル―憧れた存在と言えば海外のサッカー選手だった。深夜に週一で放送されていた海外サッカーの試合を眠い目をこすりながら見て、次の日からはその姿をイメージしながらボールを蹴っていた。

 中学にあがっても、今までと同じようにボールを蹴り続けるだろうと当たり前のように思っていた。その当たり前は父さんの一言であっさりと消え去ってしまった。

 「中学に入ったら、球遊びは卒業して勉強に一層身を入れるように」

 一條家では父さんの言葉は絶対だった。それは提案や忠告ではなく命令であり、逆らうという選択肢は初めから存在していなかった。

 その日から体育の授業以外では一度もボールを蹴っておらず、クラブチームのセレクションに合格できるかな、部活の先輩はやっぱり上手いんだろうな、練習についていけるかなといったワクワクを含んだ不安を感じる出来事には出会えなくなっていった。

 そのことを思うと、今でも心が深く深く沈みこんでいきそうになる。

 メールの着信音。頭を振り、何回か深呼吸をして、何とか心をこれ以上沈み込ませないようにする。

 『そんな何かとストレスを溜めやすい一っちに今日は効果絶大な癒しアイテムを教えて進ぜよう。一っちは”ドールズマスター”を知っているかね?』

 『ドールズマスター?何それ?』

 『おっ、知らないってことはまだやってないってことだな。よし、ここは一つ人助けだと思って、俺が招待するからドールズマスターを始めてくれんかね?』

 『だから、ドールズマスターって何よ?』

 『おお、すまんすまん。ドールズマスターっていうのは、グリゲーで配信されているソーシャルゲームの一つで、ホムンクルスの少女を育てていくゲーム』

 『ソーシャル、ねえ』

 スマホで気軽にゲームができるとあって、急成長していることは知っていたけど、進んで遊んでみようかという気にはならず、今まで遊んでみたことはなかった。

 『おっ、何やら否定的なご様子。百聞は一見に如かず。食わず嫌いはよくないぞ』

 『でも、やらなきゃいけないことあるから時間ないし』

 『なるほど、確かにそうだ。我々は時間と情報に追いかけられまくる現代人。ゲームに多くの時間を割いている余裕は確かにないのかもしれない。

 では、ここで国民的RPGファイナルクエストを例にとってみよう。ファイナルクエストは知っての通りプレイヤーが勇者を操作して魔王を倒しにいくRPGで、ファイナルと銘打たれながらも二年に一度、最新作が発表されているゲームで御座いますね。

 ファイナルクエストのプレイヤーは次のような流れを繰り返していくことになります。

新しい町に着く。町の人の話を聞く。町の周辺を徘徊しつつ、魔物を駆逐してお金をゲットだぜ!する。町の武器、防具屋で強い装備を購入する。パンツ一丁に頭巾とマントを付けただけの変態という名の盗賊を倒す。

 あなたの分身である勇者様は勝手に行動してはくれないので、どこに行くのかを逐一指示してあげなければずっと日なたぼっこしますし、魔物とどう戦うを指示してあげなければ、ずっとにらめっこしてしまうので確かに時間がかかります。

 では、次にドールズマスターを見てみましょう。

 新しいエリアが開放される。仕事をこなしてお金をためる。ゲームに挑戦してドールを成長させる。ガチャで強い装備をゲットする。

 同じじゃないかと思ったそこのアナタ。いい勘してますねえ。そうです。基本的な流れは同じです。でも全て同じというわけではありません。ドールズマスターは何かと忙しい現代ピープルにあわせて町の移動などの贅肉部分を大胆にカット!カット!!カット!!!してちょっとの時間とポチポチとボタンを押すだけの単調な操作で今までのゲームと同じエッセンスを味わうことができるんです。

 さ・ら・にドールズマスターはソーシャルネットワークゲーム。一緒にゲームをやっている仲間と気軽にかつ簡単に繋がることができるんです。

 ああ、何と素晴らしいことでしょうか』

 長っ!

 『で、人助けっていうのは?』

 へんに質問すると更に長くなりそうだったので、話題を変える。

 『うむ、二つある。

 一つ目。ドールズマスターでは、紹介によって新しいプレイヤーがゲームを開始したら紹介した人にゲーム内で使えるアイテムが貰えるんだ。まあ、正直コレは大して重要じゃない。

 大事なのは二つ目。ドールズマスターでは、ドールである少女が喋るわけだが、少女の声を担当しているのが声優の水樹ゆかりさん。俺はこの水樹ゆかりさんをめっぽう応援していて、ゆかりさんの声を一人でも多くの人に知ってもらおうと思って、微力ながら日々頑張っているわけよ』

 『ふーん』

 インターネットにアクセスし、検索サイトに水樹ゆかりと打ち込む。検索結果の一番上に表示されたウェブ上の百科事典ページにアクセスする。ページには簡単な紹介文と出演作の項目があった。出演作のところを詳しく見ていくとドールズマスターの項目のみ”ミゥ”というキャラクターの名前が記載されており、他の項目は生徒A、少女Aといったものばかりだった。

 『その水樹ゆかりさんって新人なの?』

 『おうよ。CD出したりはしてたんだけど、アニメやゲームでは今までは名前のない脇役ばかりだったからな。ドールズマスターで大抜擢されたってわけよ。水樹ゆかりで検索したら、事務所のホームページが表示されるから、そこでサンプルボイス聞いてみ。ゆかりさんマジエンジェルボイス』

 大石に促されて事務所のホームページにアクセスする。アクター一覧のページから水樹ゆかりの詳細ページへと飛ぶ。そこにはアイドルと言っても通用しそうな髪を左右で束ねた二十代前半の女性の写真がのせられていた。一旦アクター一覧のページに戻って他の声優を見てみても可愛い人、綺麗な人ばかりだった。声優ってそういう人ばっかりなんだと感心しながら水樹ゆかりの詳細ページへと戻り、サンプルボイスのボタンを押す。スマホから綺麗な透き通った声が聞こえてくる

 『確かに綺麗な声だね』

 『だろ、だろだろ。マジ、エンジェルボイスだろ。声だけじゃなく、顔も可愛いゆかりさんマジ天使』

 『声優って綺麗な人多いんだね。写真見た時、アイドルかと思ったし』

 『まあ、アイドル声優って言葉があるくらいだしな』

 『アイドル声優?』

 『CDだしたり、ライブを開いたりとアニメに出演するだけじゃなくて、色んな方面に活躍する声優の総称。写真集だしたり、大きな玉ねぎの下でライブ開いたりする人もいるくらいだからな』

 『大きな玉ねぎって日本武道館のこと?』

 『オフコース』

 『マジか!?アイドル声優ってすごいんだね』

 『おうよ!で、俺はゆかりさんがそんな存在になれるまで応援する覚悟を決めたわけよ。俺はまだ登り始めたばっかりだ、このゆかり坂をな。というわけで、ドールズマスター始めてくれるかな?』

 『どうしようかな?』

 『一緒にゆかり坂を上ろうぜ!』

 顔を上げ、もう入らなくなったサッカーのスパイクを見、中間テストの結果を見る。僕にはやらなくちゃいけないことがある。僕が、僕であるために―――。

 『やっぱ僕はいいかな』

 『いやいや、そこを何とか。ホント、時間がかからないから。一日一分、朝起きてスマホからドールズマスターにアクセスするだけ。ねっ、簡単でしょ?勉強の邪魔にもならないでしょ?』

 『やっぱりいいよ』

 『一もゆかりさんの声綺麗だって言ったろ?ドールズマスター始めたら、毎日この声が聞けるんだぜ。やろーぜー』

 大きく息を吐く。やると言うまでこのやり取りが延々と続きそうだった。

 『―――分かったよ』

 『おー、分かってくれたか、心の友よ。では、気を取り直してもう一度。ドールズマスターを始めてくれるかな?』

 『いいとも』

 『OK、OK。じゃあ今から俺が紹介のメールを飛ばすから、そこにアクセスしてドールズマスターを始めてくれたまえ』

 『登録するだけでお金がかかるとかないよね?』

 『ないない。登録するだけなら、ずっと無料で御座います。ただ一点注意。一部有料のアイテムとかあって、それを買うと本当に金取られるから要注意な』

 『分かった』

 『よし!じゃあ何か分からないことがあったら気軽に大石先生に聞いてくれよ』

 早速大石から紹介のメールが届く。気は進まなかったが、やると言った手前仕方なくメールを開き、メール書かれていたページにアクセスする。メールアドレスを入力する項目があったのでメールアドレスを入力して送信ボタンを押す。しばらくすると、ドールズマスターよりメールが届く。再度メールに書かれているページにアクセスすると、ニックネーム、生月日、性別の入力を求められたので、レオナルド―憧れていた海外のサッカー選手の名前、四月四日、男と入力する。すると初期登録が完了したようでドールズマスターというロゴとゲームを開始するというボタンが表示されたので、早速ボタンを押す。


 レメリオ:レオナルドよ、お前が私の元で魔法の修行に励むようになってから早くも一年になる。


 画面にとんがり帽子、マント、杖といかにも私は魔法使いですといった格好をした老女が表示される。どうやら魔法使いの卵という設定らしい。


 レメリオ:そこでお前には、修行の一環として今日からホムンクルスのマスターとしてホムンクルスの面倒を見てもらう。私も出来る限りサポートするので、いい成果を期待しているぞ。では、早速お前が今日から面倒を見るホムンクルス、ミゥを紹介しよう。


 腰まで伸ばした銀色の髪、青い瞳の少女が表示される。


 ミゥ:マスター、今日からよろしくお願いします。


 少女が事務所のページで開いたサンプルボイスとは打って変った感情の乏しい声で話しかけてくる。


 レメリオ:それでは、早速ミゥの育成を開始しよう。ミゥには知力、音力、体力と三つのパラメータがあり、それぞれゲームに挑戦しクリアすることで成長することができる。今日は知力を成長させるクイズに挑戦してみよう。あっ、君はライフポイント分だけミニゲームに挑戦できる。ライフポイントは一定時間経過するか、アイテムを消費することで回復することができる。

 では、いってみようか。


 渦巻きメガネに鉢巻をした女性が姿を現す。


 クイズのおねーさん:ミゥちゃんの知力を鍛える早押し四択クイズ。

 ハイハーイ!それでは、早速問題をだしちゃうぞ!

 アマゾンのアラグロリ河流域で起こる、河の水が逆流してしまう自然減少を何というか?

 A.プロロッカ

 B.パロロッカ

 C.ポロロッカ

 D.ぺロロッカ


 あっ、これ漫画で見たやつだ。Cを選択する。


 クイズのおねーさん:エグザクトリー。正解、正解、大正解!見事初めてのゲームをクリアした君にはガチャを一回引くことができるガチャチケットをプレゼント!早速ガチャを回してみよう。


 レメリオ:ガチャでは様々なアイテムを入手することができるぞ。早速ガチャチケットを使ってガチャを回してみよう。


 ボタンを押すと、水晶が表示され、水晶に触れると水晶が弾けてメガネの絵が描かれたカードが表示される。


 レメリオ:素敵なアイテムが入手できたな。それでは、ミゥに装備させてみよう。


 装備のボタンを押すとミゥがメガネをかけた姿へと変わる。


 ミゥ:マスター、素敵なアイテムありがとう御座います。


 相も変わらず色のない声でお礼を言われる。


 レメリオ:お疲れさん。チュートリアルのクリア記念に三千コインをプレゼントだ。では、レオナルド、今後も一緒に頑張っていこう!よろしく頼むぞ


 ふーん、ソーシャルゲームってこんな感じなんだ。時計を確認すると五分ほど経過していた。確かに大石の言っていた通り、気軽にプレイできそうだった。まあ、これなら勉強

の息抜きにはちょうどいいかな。

 スマホを充電器にセットして一つ息を吐く。

 じゃあ、今日の復習をするとしますか。

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