ドーナツの穴はどこにある?
@frontriver
第1話 石は転がり続ける
ニンゲン三原則
第一条 ニンゲンは神を崇め、祈りを捧げなければならない
第二条 ニンゲンは子孫の繁栄に努めなければならない
第三条 自己を守らなければならない
この三原則を守れているときにニンゲンは”幸せ”という感情を覚えることができ、この三原則を破れば、苦しみや哀しみを覚える。
「グァーーーーーー!!」
鋭い牙を持った四足歩行のケモノが怒号をあげる。その叫び声に四足歩行のケモノを取り囲み、その距離を縮めていた二足歩行のケモノの足が止まる。その手には棍棒と松明が握られている。お互いに顔を見合わせ、再度足を進めようとするも、その足は叫び声によってすぐに止まる。
四足歩行のケモノと二足歩行のケモノが距離を保ったまま睨み合う。しばらくそのまま睨み合っていたが、二足歩行のケモノの一匹が一歩前にでる。その動きを見て四足歩行のケモノが三度の怒号をあげるが、ひるまずに距離を縮めていく。一飛びで飛びかかれる位置まできたところで、四足歩行のケモノが身体を地に這わせる。
二足歩行のケモノが棍棒を高々と掲げて叫び声をあげる。その声に呼応して他の二足歩行のケモノも棍棒を掲げようとするが、怒号に動きが止まる。が、進み出たケモノの再度の叫び声に導かれて声が連なっていく。
それを合図にして、二足歩行のケモノが四足歩行のケモノへと飛びかかる。高々と振り上げられた棍棒を振り下ろす―――よりも早く四足歩行のケモノの爪が穿ち、吹き飛ばされる。地面に叩きつけられ、動かないのを見てケモノの口が歪む。が、次の瞬間には鈍い音と共に苦悶で歪む。身体を素早く反転させ、その勢いのまま二足歩行のケモノを吹き飛ばすも、すぐさま別のケモノが飛びかかっていく。
いくつかの鈍い音が鳴り、一体の四足歩行のケモノと何体もの二足歩行のケモノが横たわる大地に歓喜の雄叫びが響き渡った。
荘厳なる大聖堂で銀の鎧に身を包んだ騎士が聖母マリア像の前で膝を付き、目を閉じて祈りを捧げている。どれほどの時間そうしていたのだろうか?祈りを終えた騎士が立ち上がり、大聖堂の出口へと向かう。
「―――ブイヨン」
騎士が大聖堂をでたところで、平服の男が話しかける。
「ボードゥアン」
騎士が足を止めて、男と向き合う。
「本当に行くのか?」
「―――ああ」
「お前も聞いているんだろ?今までの遠征を、本来の意義から遠くかけ離れたその実態を。今回の参加者の顔をよく見てみるがいい。どうせ一山あてようと考えている輩ばかりだろう。約束されたものがあるお前が参加する理由なんてどこにもないじゃないか?」
「約束された場所、ね」
騎士がそう呟いて空を仰ぐ。
「ボードゥアン、その場所はどこに続いているんだ?」
騎士の言葉の意味が分からずに男が眉をひそめる。
「どこって……領主としての地位だろう?」
「違うよ」天から地へと戻してかぶりを振る。「私が聞きたいのはその先さ。領主という地位はどこに続いているんだ?」
「お前は何を……分かった。じゃあ、逆に問おう。お前は今回の遠征がどこに続くと思っているんだ?」
「分からない。だからこそ、参加するんだよ」
「ブイヨン―――思えばお前は不思議な奴だった。もう会えないかもしれないから聞かせてくれないか?お前の眼は何を見ていたんだ?」
深く、深く息を吐き、足元に転がっていた石ころを拾い上げる。ほうり投げると、弧を描いて地面へと落ちる。
「石ころを投げると地面へと落ちるよな?」
「そうだな」
「私にはそれが不思議だった」
「お前―――」
男の反応を見て騎士がすぐさま言葉を重ねる。
「ああ、勘違いしないで欲しいんだが、私は神の存在に意義を唱えているわけじゃない。神のご意志によって、石が地面に落ちるというなら、それで構わない。私が不思議だと思うのは、他の人はそれを受け入れられるのに、何故私はそれを受け入れられないのかということだ。神のご意志によって全ての物は地から離れることができない。ある人は言う。
それは加護だと。別のある人は言う。それは呪縛だと。どちらに捉えようと現象自体は受け入れているように見える。私には、まずその現象を受け入れることができなかった。”理解”はできても、”納得”することがどうしてもできず―――どう表現していいか分からない不安がつきまとっていた」
「ずっと、か」
「覚えている限り」大きく息を吐き、再び空を仰いで澄み切った蒼穹へと手を伸ばす。「私はずっと手を伸ばしていたんじゃないかと思う。何かに対して、その何かが分からないにもかかわらず」
「分からないんだったら―――」
「そう、掴めるわけがない。だから、参加しなきゃいけない理由なんてないんだよ。多分ね」視線を戻して笑みを見せる。その笑顔は二十代の青年には似つかわしくない、拭いきれない疲れが滲んだものに見えた。それを見た男が唇をかみしめ、振り絞るように声をだす。
「帰ってこいよ。掴むべきものを掴んでな」
「そう、願ってるよ」
騎士はそう言い残して旅立ち、そして帰ってこなかった。
「種をまけ、しかし地主のためではなしに!
富を築け、しかし馬鹿者のためではなしに!
衣服を織れ、悪漢に着せるだけではなしに!
武器を鍛えよ、おまえたち自身を保護するために!」
目は血走らされ、手にはハンマーを持った男たちが工場へと突入していく。魂の慟哭かのような歌を叫びながら、ハンマーで彼らの代わりとなるものを打ち壊していく。その光景を離れたところから冷めた目で見つめている若い背広の男がいた。
「馬鹿な奴らだ」
「キャリック様」年配の男が背広の男の背後に立つ。「いかがいたしましょうか?警察へと通報する準備はできておりますが」
「ほおっておけ」
背広の男は視線を彼の工場へと向けたまま、ぶっきらぼうに答えた。
「よろしいのですか?」
「ああ、何事も中途半端はよくないからな。徹底的に破壊されれば、ハーグリーヴス候にも言い訳がたつ。『あそこまで破壊されてしまっては、この地での操業は不可能です』と」
「では、ノッティンガムからは撤退すると」
「ああ、彼らの大いなる勇気を讃えて、彼らの望みを叶えてあげようじゃないか」
背広の男の口の端が吊り上がる。
「大きな損害になりますね」
「リターンがあれば、リスクもある。得することもあれば、損をすることもある。大事なのは、一喜一憂することではなく、状況に適応することだ。適応できれば栄え、できなければ滅びる。ただ、それだけの話だ」
「適応、といいますと」
「ノッティンガムでは工場が破壊されたから撤退する。他の地域では工場は破壊されていないから操業を続ける。簡単な話だろ?」
「この運動が他の地域に広がってはいかないでしょうか?」
「さあな。ある人物が人を殺した。その知らせを聞いた人がこう心配した。『別の人も人を殺すんじゃないでしょうか』と。その心配に俺はこう答える。『やった人がいるのだから、他の人もするかもしれないし、しないかもしれない。確かなことはそれが犯罪だということだ』」
「ノッティンガムだけの話であってほしいですね」
「坂道を転げ落ちる石もいつかは止まる。この運動も落ち着くべきところに落ち着くだろうさ。どう望もうが、な」
「…………」
年配の男の言葉が返ってこないのを不思議に思って、背広の男が背後をチラと見やる。年配の男は苦悶の表情を浮かべている。
「そんなに不安か、アルフレッド」
「ハイ。私にはこのような運動が起こるなど微塵も想像できませんでしたから」
「確かにな。羊にも牙があったとは……」
背広の男はそこで何か思いついたのか足元に置いていた鞄から双眼鏡を取り出して工場へと向ける。しばらく覗き込んだ後、顔に笑みが広がっていく。
「アルフレッド、これで工場を覗いてみろ」
双眼鏡をアルフレッドへと差し出す。主人の意図が分からずに戸惑いながらも双眼鏡から工場を覗く。
「工場を壊している男たちを見て何か気付くことはないか?」
「気付くこと、ですか?彼らには狂気が宿っているとしか」
「男たちの服はどうだ?」
「服……ですか?あっ」双眼鏡を一人の男に向けたかと思うと、すぐ別の男へと向ける。「彼らの着ている服の大半は我が社の工場で作られているものです!」
「彼らの職を奪おうとしている工場から作られた服を着て、その工場を壊す。いやはや、全く彼らの行動には笑わしてもらえる。アルフレッド、彼らの着ている服を見て俺は確信したよ。例えこの運動がイギリス全土に広がったとしても、俺らにとって望まざる結果にはならないと」
「と言いますと?」
「俺らが一番恐ろしいことは何か?工場が壊されること?違う。工場から作り出された商品が売れないことさ。商品が大衆に受け入れられるのならば、何も問題はない。ノッティンガムに工場を作れないなら、イギリスのどこかに、イギリスが無理なら、世界のどこかへ。世界は広いんだからな。工場の存在を憎む者にさえ受け入れられる商品を作れているかぎり、俺らの富は増え続ける」
「―――キャリック様」
「何だ?」
「一つお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
年配の男の神妙な面持ちに、背広の男が体を向き合わせる。
「何だ、言ってみろ?」
「キャリック様の事業に打ち込む姿はとても真摯で、そのお姿にはとても心打たれるものがあります。しかし、同時に不安にもなるのです。その姿はまるで御身を削っているかのように見えて、何がキャリック様をそこまで突き動かすのでしょうか?」
「何が、か」背広の男が呟いて、視線を遠く彼方へと向ける。「父と母が死んで何年になる?」
「―――二十年で御座います」
「二十年、か。アルフレッド、お前は神を信じるか?」
「信じています。いや、信じたいと言った方がいいかもしれません」
「全ては神の思し召し―――ならば、父と母の死にどんな思し召しがあったと言うんだ?何故父と母が殺されなくてはいけなかったんだ?」
「キャリック様……」
「父と母を失ってからずっと考え続けてきた。なぜ人はいなくなるのか?なぜこの世界は不確かで脆弱なのか?なぜ俺、マイケル・キャリックはそのような世界に生を受けたのか?周りのものに確かなものがないとしたら、俺は何を求めればいいのか?そして、辿り着いた」
背広の男が視線を年配の男へと戻す。
「富だよ」
そう告げて歩き出す。年配の男が少し遅れてそれに続く。彼が立ち去ってからしばらくした後、破壊された工場内に男たちの勝利の叫び声が響き渡った。
肌の黒い男が一人ざわついた街の中を歩いている。その目は一点に留まることなく動き続け、連れ添って歩く人々を捉えてはまた動き出す。
男が立ち止まって大きく息を吐く。街を歩く人々には行く場所があるようだったが、男には行く場所がなかった。男が空を仰ぐ。空は故郷の空と変わらず青かったが、空を見つめる男の心には同じには思えなかった。
首を振って再び歩き出そうとした男の耳に野太い歓声が突き刺さる。目を歓声がした方へ向けると、一軒のパブがあり、歓声が寄せては返す波のように何度も湧き起っていた。
男が上着のポケットに手を突っ込んで中を探る。その手には硬貨が七つ握られていた。しばらくその硬貨を見つめていたものの、強く握りしめてパブのドアを開ける。
薄暗いパブには、煙草の煙が充満し、ガタイのいい男たちが肌の黒い男には目もくれずにじっとテレビを見つめていた。男はおずおずとパブの中を進んでいき、隅の席に腰を下ろした。注文を取りに来たウェイターにビールを注文する。街での彼と同じように忙しなく目を動かしていると、すぐにビールが届く。それに一口、口をつけて彼もテレビへと視線を注ぐ。テレビの中では赤い服と青い服を着た男たちが丸い球状のものを蹴り合っていた。
青い服が赤い服から球状のものを奪って前方へと大きく蹴る。二秒も経たないうちに球状のものが返ってくる。再び蹴りだそうとしたところを赤い服がかっさらい、そのまま勢いよく駆けあがっていく。白い線、その直前まで一直線に突き進み、右足を振りぬく。球状のものが弧を描き、男と同じ肌の色をした男の頭にピタリと合わさる。弾丸と化したものがネットへと突き刺さる。刹那―――パブは歓喜に包まれ、その光景は彼の心の何かを確かに動かした。
次の週、黒い男は同じパブの同じ席でビールをすすりながら熱心にテレビを見つめていた。テレビの中では赤い服と白い服の男たちの間を球状のものが飛び回っている。球状のものはどちらのネットにも飛び込んでいくことなく、時間だけが経過していく。決められた時間が走り去って、休み時間に入ろうとするその直前―――白い服の男が球状のものを足元に置く。赤い服の男が誰も近づいて来ないのを見て、鎌のように鋭くボールを刈り取る。男の意思が乗り移ったかのように、球状のものが虚をつかれ反応の遅れた男の必死に伸ばした手をかすめてネットへと突き刺さった。白い服の男が両手を広げ、パブに罵声が響き渡った。
休み時間に入り、黒い男は前を向き、視線を少し落としてゆっくりとビールを減らしていく。そこへ髪を短く刈り込んだ肌の白い大男が近づいてくる。白い大男は黒い男に何やら呼びかける。黒い男は聞き取れなかったのか、ただ白い大男を見つめている。白い大男が隣にいた白い小男に言葉をかけ、小男が言葉を返してパブが笑いで包まれる。それに気をよくしたのか、大男は一気に黒い男に捲し立てていく。黒い男は変わらず、ただ大男を見つめている。黒い男の態度に気分を害したのか、黒い男の肩を強く押して親指で出口を指さす。周りの男たちが手拍子と共にリズムよく同じ言葉を叫ぶ。その言葉は理解できたのか、戸惑いの表情で白い男たちを見つめている。力なく首を振り、椅子から腰を上げる。と、その時テレビから大きな歓声が流れ込んでくる。休み時間を終えて、赤と白の男たちが出てきたところだった。黒い男が白い大男が押しのけてテレビの正面へと立つ。白い大男が黒い男の肩を掴む。それを払いのけ、テレビを指さして短く、鋭く告げる。指さした先では黒い男と同じ肌をした、白い大男と同じ服を着た男がいた。白い小男が拳を振り上げて黒い男に詰め寄ろうとするも、白い大男がそれを止める。白い大男が黒い男に短く告げて、男の座っていた隅の席を指さす。黒い男が大きく頷いて席へと戻る。それを見て白い男たちも元いた場所へと戻っていった。
一か月後、黒い男が一人ざわついた街の中を歩いている。その目は一点に定められ、目的地へとむけてずんずんと進んでいく。パブの前へと着き、勢いそのままにドアを開けて中へと入っていく。パブにいた肌の違う男たちと軽く挨拶をかわし、指定席となった隅の席へと腰を下ろす。すると注文を取るよりも前にウェイターがビールを持ってきて笑顔で彼に差し出す。彼も笑顔で受け取って口をつける。ビールを半分にしたところで試合が始まる。パス、タックル、シュート、そしてゴール。試合が動くたびにパブの客はまるで一つの物体のように感情を共有する。
笛の音が鳴り響いた時、一か月前にはいがみ合っていた肌の違う男たちは肩を組んで歓喜の歌を歌っていた。
「アナタ、太陽のことで相談があるんだけど……」
自宅のリビングで仕事の資料に目を通していると妻に声をかけられる。太陽?視線が空を泳ぐ。僕に太陽をどうしろと言うんだ?鉄腕アトムのように太陽に突っ込んできて(ハート)とでも言うんだろうか?そこまで考えてから正解に辿り着く。ああ、息子のことか。
ため息を、あからさまに大きなため息をつく。
「―――何だい?」
「実は太陽の担任の先生から連絡があって……」
妻はそこで言葉を区切って、視線を俯かせる。再度大きなため息を付きたい気持ちを必死で堪える。どうして我が妻君は端的に話すということができないんだろうか?全くイライラさせられる。
「最後まで話してくれなきゃ分からないよ」
努めて優しい声をだす。「あ、うん」声に促されて言葉を続ける。
「実は、ここ最近太陽の様子がおかしいらしいの」
「様子がおかしい?」
「うん。毎日家をでる時間は一緒なんだけど、よく遅刻しているみたいで。太陽に直接聞いたら登校途中で気分が悪くなって公園で休んでたって言うんだけど……。そんな頻繁に気分が悪くなるなら病院で診てもらおうと言ってもちょっと休めば治るから言って行こうとしないし」
ふーん、そうなのか。それ以外の感想は浮かんでこず、興味も一瞬で失せた。
「家のことはキミに任せるって言っただろ」
話はおしまいとばかりに仕事の資料へと再び向き合う。
「そうだけど……」いつもはその一言で引き下がっていた妻が珍しく食い下がってきた。「部活も休みがちだし、休日も部屋にこもってばかりで外に出ようとしないし……。アタシが何かあったのって聞いても生返事が返ってくるばかりだから、一度アナタから聞いてみて欲しいの」
視線を仕事の資料へと向けたまま、息を吸い込み、吐き出さずに飲み込む。何なんだろうね、このヒトは?どうして自分の役割を果たせないんだろうか?資料をテーブルに置く。
「太陽が起きるよりも早く家をでて、太陽が眠りについた後に帰宅する、休日も仕事のつき合いで外出ばかり。僕に太陽と話す時間はないよ」
「だけど……」
妻が自身の髪の毛に触れて指に絡まらせる。付き合った頃から続く彼女の癖。付き合っていた頃は可愛らしいと思えたその仕草も、この場面では余計にいらだちを増加させた。
「だけど?」
正直な気持ちを押さえて、先を促す。
「仕事が大切なのは分かるけど、家族のことにも気をかけて欲しい」
消え入りそうな声で願望を口にする。我が妻君は父子の会話をご所望らしい。ヤレヤレ、どうして会社と違って家庭とやらはこんなにもめんどくさいのかね。要求と報酬がセットになっている会社と違って、家庭にあるのは要求ばかり。何の苦行だよ、これは。
「―――分かったよ。今度太陽と話してみるよ」
「ホント!?」
沈んでいた妻の表情がパッと明るくなる。
「次の太陽の空いている休みはいつ?」
「あっ、ちょっと待ってて」妻がリビングから姿を消し、一枚の紙を手にすぐ戻ってくる。「次の日曜。次の日曜は部活もないから空いていると思う」
「分かった。次の日曜に太陽と話してみるよ」
「ありがとう。ゴメンね。休みの日も仕事の付き合いで忙しいのに。でも、アタシだけじゃ解決できそうになくて」
そう思うなら家庭のことは一人で切り盛りできるようになってくれませんかねぇ。
「いいよ、夫婦なんだし」
「うん」
自分の言葉に吹き出しそうになる。微塵も思っていないくせによく言うよ。
「あっ、そう言えば太陽の部活って何だっけ?」
「えっ……」
よほどの驚きだったのか妻が口に手を当てる。
「何、どうしたの?」
「野球部―――アナタ、太陽の入学祝いにグローブ買ってあげたでしょ?」
「そうだったっけ」頭の中を探るが、何の光景も浮かんでこなかった。「じゃあ、たまにはキャッチボールでもするか」
キャッチボールという単語に心が浮き立つのがはっきりと感じられる。久しぶりにキャッチボールができるなら父子の会話も悪くないような気がしてきた。
「じゃあ、太陽には今週の日曜にキャッチボールするから空けておくように言っておいてくれ」
「―――分かった」
妻の何か言いたげな視線を無視して資料へと手を伸ばす。すると、心はすぐさま仕事へと切り替わっていった。
バシッ!昼下がりの公園にボールがグローブに収まる音が響く。やっぱりこの音はいいなあ。この音を聞くだけで心がワクワクしてくる。ボールを取り出して息子である太陽へと投げる。緩やかな弧を描いてボールが鈍い音と共に息子のグローブに収まる。すぐさま一直線のボールを投げ返してくる。
しばらくお互い無言でボールを投げ合う。十分ほどそうしていると、うっすらと汗をかいてくる。さて、そろそろ本題である父子の会話を開始するとするか。
「太陽!」
ボールと共に言葉を投げる。
「何?」
「最近、どうだ調子は?」
「別にどうってことないよ」
「そうか」ボールと言葉が返ってくる。「最近、登校途中に気分が悪くなることが多いらしいな」
ボールと言葉を投げると、ボールだけが返ってくる。
「学校で嫌なことでもあるのか?」
再度ボールだけが返ってくる。一つ息を吐いてボールを投げ返す。
「まっ、いろいろあるわな。中学生にもなると」
「小学校の時は、上の学年のことを気にすることはなかったのに、中学になると気にしなきゃいけなくなるし」
「入る部活によっては、ここは軍隊かよって言いたくなるとこもあるだろうし」
「先生だって、理解できないことで怒り出す人だっているだろうし」
ボールと違って、返答を期待せずに一方的に投げかけていく。ボールだけが何往復かした後―――
「父さんは”死”について考えたことある?」
息子の言葉に投球動作を止める。
「死んだら、どこに行くとかそういうことを考えたことがあるかって意味か?」
「違うよ。死そのものとは何かってこと」
死そのもの?こいつは何を言っているんだ。
「ないな」ボールを投げる。「お前はよく考えるのか?」言葉も投げる。
「うん」
「今までずっとか?」
「いや、父さんも知ってると思うけど、今年の五月にクラスメイトが交通事故で亡くなったんだよね」
「ああ」
思い当たることはなかったが、話を合わせるために間髪置かずに頷く。
「あんまり仲良くはなかったんだけど、そのクラスメイトのことを考えるとすごく不思議に思えて。事故よりも前には確かにいたのに、事故の後にはどこにもいない。クラスメイトが出会った”死”とは何だろう?僕はここにいる。確かにいる。でも、いつかいなくなる。死によっていなくなる。じゃあ、死って何?そう考えだすとたまらなく怖くなって気持ち悪くなる」
「それが遅刻の原因か?」
「―――うん」
自分の息子が何を言っているのかさっぱり分からなかった。話を聞くまで自分の息子と思えていたものが、自分とははるかにかけ離れた異形のもののように感じられる。さて、どう言ったものか。
「太陽」
「何?」
「ボールを上に投げたら地面に落ちるよな」
「そうだね」
実際にボールを放り投げる。弧を描き、二、三回弾んで動かなくなる。
「お前はボールが地面に落ちることについて考えることがあるか?」
「―――ないよ」
「そっか」ボールを拾って息子の形をした異形へと投げる。「死については考えるが、ボールが地面に落ちることは考えない」
「そうだね」
「正直な話、俺にはその違いが分からん。俺に言わせれば、どっちもただの事象でしかない」
異形からの返事はない、構わずに言葉を続ける。
「ある人は言った。『死とは生物が生み出した最高の発明だ』と。俺の考えを言おう。死も重力もルールだ。死は生物の、重力はこの世界の、逃れることのできないルールだ。考えようが、恐がろうが、嫌だろうが、受け入れられないことだろうが、決して消えることのないルールだ。だったら、ルールそのものについて考えるのではなく、そのルールの中でどうやっていくかを考える方がいいんじゃないのか」
「―――そうだね」
「さて、そろそろやめにするか」
「うん」
任務完了ってとこか。さて、問題も片付いたことだし、明日から心置きなくバリバリ働くとしますか。
顔をパソコンに向けたまま、視線を左へと寄せる。上司はパソコンに画面を凝視しており、席を立つ気配はない。今度は視線を右へと寄せる。先輩は髪をかきながら書類と睨めっこを続けている。大丈夫、誰もアタシのことを見てはいない。
画面一杯に開いていたエクセルを小さくして、ブラウザを立ち上げる。ブラウザのウインドを小さくして、体に隠れて背後からは見えない位置に移動させる。再度左右に視線を走らせて状況に変化がないことを確認したうえで、SNSサイトにアクセスする。昼休みに本日のランチを投稿した記事には誰のコメントもいいねもついていなかった。忙しくてまだ見れていないだけ。そう自分に言い聞かせようとするも鼓動は高鳴り、息苦しさを覚え始める。アタシのことなんか誰も気に留めていないんじゃないか?不安だけが積み上げられていく。
友達からの紹介で始めたSNSサイトへの登録。最初は何でみんなが熱心に記事を投稿するのかも分からずにつき合いで一週間に二、三回投稿するだけだった。アップルパイが上手に焼けたこと、カフェのカプチーノが美味しかったこと―――日常の何気ない一コマ一コマにコメントがつき、いいねが押されると何とも言えない満足感を覚えることができた。それからはあった出来事を投稿するのではなく、投稿できるような出来事を探し求めるようになった。投稿したら投稿したでコメントがついているか、いいねが押されていないかを欠かせずにチェックする日々。
ため息と共にブラウザを閉じる。エクセルをフルサイズへと戻して仕事を再開させる。しかし三十分も経たないうちにSNSサイトのことが気になり始めて仕事に集中できなくなる。周りを確認してSNSサイトにアクセルする。コメントもいいねもなし。仕事に戻る。時間を置いてSNSサイトにアクセルする。ない。仕事に戻る。仕事の時間中ずっとそれを繰り返した。結局、今日の投稿にコメントもいいねもつくことはなかった。
就業時間を一時間ほど過ぎ、閑散としたオフィス―オフィスにはアタシと上司の二人しかいない―にキーを叩く音だけが聞こえてくる。SNSサイトのことをひきづり、沈んだ気持ちのまま身支度を整えて席を立つ。
「お先に失礼します」
「あっ、宮本君ちょっと待って」
挨拶をして帰宅しようとしたところで、上司に呼び止められる。
「ハイ、何でしょうか?」
「今日、提出してもらった資料なんだけど、数値間違ってたよ」
「あっ、すいません」
勢いよく下げた頭に上司の嘆息が降りかかる。
「頭、あげて」
平坦な声に「ハイ」と消え入りそうな声とともにおずおずと頭を上げる。
「言われなくても分かってると思うけど、資料作成のミスこれで四回目だからね」
「本当にすい―――」
「謝罪はいいから」謝罪の言葉は上司の言葉で遮られる。「本当に悪いと思っているなら、ちゃんと仕事してよね。キミも新入社員じゃないんだから、今の仕事を満足にこなせないのならこちらとしても、キミの処遇を考えなくちゃいけなくなる」
「―――ハイ」
「分かったのなら帰っていいよ。お疲れさん」
「お疲れ様です。お先に失礼します」
さらに沈んだ気持ちでオフィスを後にした。
視線を俯かせたまま、重い足取りで歩いていく。気付けば、口からはため息。また、やっちゃったか。SNSサイトのことが気になって仕事に集中できずにミスばかり。こんな態度じゃいけない、仕事に集中しなきゃと言い聞かせてもやめることが出来なかった。
何でアタシはこんなにも他の人からのコメントやいいねを欲しているんだろう。答えは分からず、分かっているのは実害がでているにも関わらずやめることができそうにないという事実だけだった。
立ち止まって顔を上げる。すると、通路に簡易な台を設置した占い師らしき中年の女性と目があう。目が一瞬にして細められ、上から下、頭のてっぺんからつま先までを見回される。
「そこのアナタ!」女性の強い意志が込められた太い声に体がビクッと震える。「ちょっとアナタ、こっちに来なさい!」
どういていいのか分からずに、体を強張らせてバッグの紐をぎゅっと握りしめる。
「何してるの!早くこっちに来なさい!」
女性の声に引き寄せられるかのようにふらふらと歩いていく。
「ホラ、早く座って座って」
椅子に座るやいなや、ぐいっと女性の顔が近づけられて、目の奥まで覗き込まれる。迫力に圧倒されて体をのけ反らせそうになるが「動かないで!」の一喝でピタリと止まる。
どれくらいそうして見つめられていたんだろうか?女性が姿勢を正して目を閉じる。居心地の悪さから小刻みに体を動かしていると、女性の目がカッと見開かれる。
「アンタ!アンタ、このままじゃ絶対に幸せになれないわよ!」
吐き出された言葉の内容と強い断定口調に激しく心が突き動かされる。唇をなめて大丈夫、大丈夫と言い聞かせる。まず不安を掻き立てるというよくある宗教の勧誘パターンだ。アタシの何かを見抜いてそう言っているわけじゃない、大丈夫、真に受ける必要なんて全然ない。
「アタシはこれで―――」
「他人の眼を病的なまでに気にせずにはいられない!」
浮かしかけた腰が止まる。
「えっ」
「だから、SNSサイトの反応が気になって、気になって、気になってしょうがない。頭ではダメだと分かっていてもやめることができない!」
唾を飲み込み、視線を彷徨わせる。このまま立ち去るべきか?話を聞くべきか?
「そして、何故そこまで気にせずにはいられないのか、”アナタ”には分からない!」
より強調された”アナタには”という言葉が頭の中に鳴り響く。意を決して腰を下ろし、女性の目を真っ直ぐに見つめる。
「じゃあ、アナタには分かるんですか?」
女性の口の両端が吊り上げられる。
「勿論」
「なら教えてください!」
身を乗り出すも、女性の手で制される。
「そんなあわてないの。順を追って話しましょう。アナタは宗教、仏教とかキリスト教には詳しい?」
「いえ、どちらも詳しくありません」
「じゃあ、”解脱”とか”原罪”という言葉は?」
「聞いたことはありますけど、詳しい意味とかは……」
「ふうん。じゃあ、まず結論から言いましょうか。それはアナタが”ヒト”だからよ」
「ヒト、だから?」
「そう。仏教もキリスト教もアプローチこそ違えど、その根っこにあるものは同じ。解脱とはヒトを脱してホトケになること。原罪とは生まれながらにして罪を抱えているということ。生まれながらの罪とは何だと思う?」
「神様が食べちゃイケないと言われた果実を食べたとかそういう話ですか?」
「違うわ。生まれながらの罪とは、不完全なヒトとして生まれたこと、不完全だからこそ脱しなきゃいけない。キリスト教も仏教も言っていることは同じなのよ。ヒトではダメだと。そう言っているの。アナタの他人の眼を気にせずにはいられないのもその証。特別なことじゃないの」
胸に手を当てて、ブラウスを握りしめる。
「私だけじゃ、ないんですか?」
「そうよ」優しい、母を思わせる声。「アナタの苦しみはアナタだけの苦しみじゃないの。みんな抱えているものなの。ただ、鈍いヒトは気付いていないだけ。辛かったわね、苦しかったわね」
女性の手が頬に触れる。次の瞬間には涙が流れ出ていた。
「―――ハイ」
「でも、もう大丈夫。アナタの苦しみは今日この瞬間から止まる」
女性の力強い断定口調が体に染み込んでいく。苦しみに溺れ、もがいていたアタシに救いの手がもたらされた。そう、思った。
全てを、委ねよう。
「私は、どうしたらいいですか?」
「それはね―――」
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