第3章 ニック・ザ・クロコダイル

 どん、と鈍い音をたててテーブルにたたきつけられた右手の甲が、ひりひりと痛む。すごい力だ。本気でおれの腕を折るつもりだったに違いない。ふだんから、せいぜい小魚を食っといてよかった。

「やった! 兄貴……」

 陰険野郎が一歩前に出ようとする。と、その足が、おれの手――禿げ頭と組みあっているのとは反対の、左手に握られたものを見て、はたと止まった。ただでさえ陰険な目つきが、どす黒い怒りに濡れて凶悪な光を放つ。

「野郎!」

 陰険野郎がぴくぴくと頰をひきつらせた。

「悪いな。

 右手をテーブルに押しつけられ、上体を斜めに傾けたぶざまな恰好のまま、おれは言った。せりふのわりにはちとしまらないが、いたしかたない。

「……」

 禿げ頭の顔に、珍妙な表情が浮かんだ。

 おれの左手には、いつのまにか魔法のように拳銃がかまえられていた。禿げ頭の銃だ。勝負のあいだに、その銃は禿げ頭のふところから、おれの左手に吸いこまれるように移動していた。

 むろん、ホルスターにおさまっていた銃が、かってにおれの手に飛びこんでくるわけはない。禿げ頭が勝負に気をとられている隙をついて、電光石火の早業で、ちょうだいしたのだ。

 肝心なのは、思いきりのよさとくそ度胸だ。まさかそんなばかげた手でくるやつがいるとは、だれだって思いもしないから、覚悟さえきめてしまえば、案外うまくいくものだ。

 まあそうでなきゃ、いまごろおれの頭はずいぶん風通しのいいことになっているところだが。

 銃口は、禿げ頭の眉間にぴたりとつきつけられている。

「てめえ、このがき!」

 と、猫背の男がまた咆えた。その右手がすばやくガンベルトにのびる。

「おっと、動くんじゃない」

 と、おれは椅子から腰を浮かせながら、

「形勢逆転だ。たしかに銃がへただとは言ったが、この距離じゃはずそうたってはずれない。大切な兄貴の頭に風穴があいちまうぜ。……酒瓶がはいるくらいのな」

 猫背の男はぎりぎりと歯嚙みしたが、精いっぱいの自制心をふるって、おろしかけた手をゆっくりとあげた。おまえもだ、と、おれはあごで陰険野郎に指図した。陰険野郎は途中まで抜きかけた銃を、ホルスターにそっともどすと、

「くそっ、きたねえまねしやがって……」

 猫背の男と陰険野郎は、視線で人が殺せるものなら何回も殺しているような、ぎらぎらと燃える目でおれをにらむと、それでも両手を頭の上まであげた。

「こずるい野郎だ、抜け目ねえ」

 動じるでもなく、淡々と禿げ頭が言った。恐怖とも怒りとも違う、まるでこの状況をおもしろがってでもいるかのような表情を浮かべている。銃口が肌に接する距離で、頭に銃をつきつけられているにしては、見あげた肝っ玉だ。このまま引き金をひけば、なにせゼロ距離射撃だ、頭の半分は跡形もなく消え失せちまう。

「なにが探偵だ。こんな、手癖のわりい探偵がいてたまるもんか。巾着切りもいいとこじゃねえか。だまされた」

「まあ、そういうなよ」

 と、おれは、真実申し訳ない気持ちになって言った。

「一対三で銃もなしじゃ、ハンデがありすぎるからな。悪く思わないでくれ」

 なにしろ真剣勝負のさいちゅうに、懐中を気にしているやつはいない。ついうっかり油断しちまったとしても、あながち禿げ頭を責めるわけにもいくまい。

 ましてやつの右目は、見えない。そちら側からのばされた、おれの左手の早業に気づくのが遅れたとしても、無理もない。おれのほうがやつらより、ちっとばかしきたない手に慣れていたというだけの話だ。悪党にしてはどうも連中、育ちがよすぎる。

「このちび!」

 猫背の男が、血を吐きそうにくやしげな様子で怒鳴った。

「ぶっ殺してやる。いいか、てめえ、絶対にぶっ殺してやるぞ!」

 おれは首をすくめると、禿げ頭に、

「おたくの舎弟がぶちきれないうちに、おいとましたほうがよさそうだ」

「こいつは、熱くなると見境がなくなっちまうんだ。あんまり怒らすと、おれの頭のことなんか忘れて、うっかり暴れださねえともかぎらねえ。……さっさと、行ってくれ」

 握ったままだったおれの右手を、禿げ頭は心残りな顔つきでようやく放した。

「みすみす女を逃がすのは癪だが、頭のほうが大事だからな」

 しようがねえ――と、今夜二度めの、諦念に満ち満ちたせりふを口にして、禿げ頭は悲しそうにかぶりをふった。もっとも、じつのところ腹のなかでどう思ってるかは、わかったもんじゃない。あまり往生際のよさそうな顔はしていない。おれがいうのもなんだが、くえないタイプだ。

 そうか――おれはようやくぴんときた。ずっとなにかに似ていると思ってたが、でかい口といい、この禿げ頭、ワニにそっくりなんだ。ニック・ザ・クロコダイル――おれの心臓を射ち抜くときにも、さぞや悲しげに空涙を流すことだろう。

 おれは銃口を禿げ頭の顔の真ん中に向けたまま、一歩さがると、右腕をふった。まるで万力で締めあげられていたように、すっかり痺れちまってる。

「女はともかく、銃を返す気はねえか」

 と、世間話でもするようなのんびりした調子で、禿げ頭が言った。これには、さすがにおれも目を丸くした。

「ばかいうな、そんなわけにいくか」

「そりゃまあ、そうだな」

 禿げ頭はあっさりと、

「いいだろう、その銃は女といっしょに、おめえにあずけとく。酒代に換えるんじゃねえぞ。大事な銃なんだ」

 おれはちらりと左手の銃に目を落とした。

「P4か……いい銃だな」

 いささか型は古くなったが、現在でもWGM社往年の名品として世評が高い。そのわりに、市場に出回った数は少なく、いまとなっては入手は困難。やくざが持つにしちゃ珍しい。

 禿げ頭がほうと感心したように薄い眉をあげた。

「おめえにわかるとは思わなかったよ。お調子者なだけじゃねえようだな。……シルバーといったか。おぼえとこう。いずれまた礼にあがる」

「それまでに、もすこし腕力を鍛えとくよ」

 おれはクロディーヌをうながすと、銃をかまえたまま、戸口に向かってあとじさりながら、

「言い忘れたが、おれは左ききなんだ。だからいまの勝負はフェアじゃない。判定は保留だ。今度は左腕で決着をつけよう」

「よしてくれ、おめえとはもう勝負はしねえ。つぎはなにを盗られるか、知れたもんじゃねえ」

 と、禿げ頭は見えないほうの片目をすがめると、

「おい、おれの忠告を聞きな。人並みの分別があるなら、その女にはかまわねえこった」

 おれは戸口にたどりつくと、片手でドアを開け、さきにクロディーヌを外に出した。この酒場があるのは地下一階だ。戸口を出て階段をあがれば、外はすぐに往来、エルバストン一の繁華街だ。連中が追ってきても、いったん人ごみにまぎれてしまえば捕まる心配はない。

 禿げ頭は爬虫類のように粘りつく隻眼をこちらにすえると、なおも、

「……いいか、すぐにほっぽりだすんだ。さもなきゃ――」

 だがおれはそれにはかまわず、天井に向けて二、三発、威嚇のためにぶっ放した。真紅の光条がぱぱっ、と閃いたとみるや、なにかが破裂するような音がして、ばらばらと破片が降りそそぐ。

 照明が激しく明滅し、そのまま息絶えた。悲鳴と怒号があがり、暗闇につつまれた店内はたちまち大混乱に陥った。――たしかにいい銃だ。射った感触も悪くない。逃げ出すための時間稼ぎには、これくらいでじゅうぶんだろう。

 おれはあとも見ずに大急ぎで店を飛び出した。うしろで、酒場の頑丈なドアが重い音をたてて閉まる。おれはクロディーヌの手をひくと、足早に階段を駆けあがった。ひとつない夜空が、無数のネオンとホロサインに霞んで、おれたちを出迎える。

 走りだした背中に、禿げ頭の胴間声が追いすがるようになにか叫んでいる。

「……かかわるな……疫病神……すぐに……わかる……」

 だがその声は、分厚いドアと往来の喧噪にはばまれて、ろくにおれの耳に届いてはいなかったのだった。

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