第七話:単身アパート
「頼むよ。結構古いアパートだけどさ、この際多少わけありでも良いから入居者を入れて埋めたいんだ」
会社に入ってくるなり、優一を見つけて押しつけるように資料を渡したのは、同業他社の社員で神田という男だった。
「そうは言っても、こっちだって変な入居者を入れて責任問題になっても困る」
突然来て頼みごとをしてくるのはいつもの事だったので、優一はカウンターに出て渋々対応する。
「第一、そんなに急いで満室にしてどうするんだよ」
受け取った資料に目を落とすと、六畳の和室の1K物件だった。賃料は二万五千円。周辺相場からすれば一万程は安い。
「資料上は普通のアパートだが……」
備考欄に、畳表替えはしないと記載があった。
「これはどういうことだ?」
「畳は新品なんだ。ただ、退去の直後に畳替えをしているから、内見の後に表替えはしないってことだよ」
「……退去してからどれくらいになる?」
「二年弱」
指を二本立てて、神田はへへ、と笑う。
「なんだって、そんな急いで替えたんだ」
畳の表替えは、多くの業者が入居者が決まってから業者に発注をする。
内見が続くと畳表が荒れることと、退去と入居の間が空くと畳の色が変わってしまうからだ。見た目が中古の畳表になってしまうと、お客さんも気分が良くない。
「ちょっとしたトラブルで……」
ごまかしの言葉を使おうとする神田は、野辺山が睨みつけている事に気づいて言葉を止めた。
「はあ、わかったよ」
正直に話すから客付けに協力してくれ、と神田は頼み込んだ。
不動産業者が他社の取り扱い物件を紹介することは珍しくない。契約者が支払う仲介手数料は変わらず、二社の仲介業者で取り分を折半するか、入居者を紹介した側に全て渡す。
通常、賃貸物件の管理料は家賃が発生しない限り得られないうえ、空室が目立つと物件オーナーから管理会社を変えられてしまうので、仲介手数料収入を度外視して入居者を探す事も珍しくない。
「前の入居者が、何を勘違いしたのか原状回復を立会いの前に自分で業者を発注してやっちまってな……」
退去時は荷物を全て撤去したあと、管理会社なりリフォーム業者なりが立会をして補修部分の確認と負担割合の打ち合わせをするのだが、以前の入居者は退去立会の前に自分で全て手配してしまったらしい。
「畳は新品。クロスも張り替え済み。決まりとしては畳表費用は請求するべきなんだろうが、流石に無理だったよ」
二重取りと言われたらどうしようもない、と神田は首を振った。
「家賃も当時は三万で、それでも安かったからすぐに入居者が決まると思ったんだがな」
二年前から、この地域の賃料は単身物件を中心に下落傾向にある。新しい物件が増えて古い建物に入居者が入らないのだ。
「それで、五千円も家賃を下げて入居者募集か」
「家主からチクチク言われてるんだ。急いでるからこうして資料を配って回ってる。鍵は現地にキーボックスを付けてる。番号はいつもので」
神田が勤める会社は、管理物件に空きがあると鍵を入れてダイヤルロックが出来るケースを建物のガス管等に引っかけて置いている。
そうする事で、他社が案内に行く際にいちいち神田の会社まで鍵を借りに寄る必要が無くなるからだ。
「分かった。とりあえず資料は預かる」
「頼むよ。面倒ならこっちに投げてくれても構わないから」
案内からすべて神田が引き受け、紹介された形にしても仲介手数料は渡すと言う。
余程困っていたのだろう。
神田は資料を置いて、さっさと次の業者へ向かった。
「ふむ……」
優一は資料へと再び視線を落とした。
家賃は安い。敷金や礼金も不要で、保証会社さえ通れば大丈夫となっている。デスクに戻って電卓を叩いた優一は、初期費用が十万を切る事を確認した。
「一時的に住むなら悪くない……と思う」
呟いた優一は、資料をコピーしてファイルに放り込むと、時間ができたので物件確認に行くと言って会社を出た。
アパートの実物を確認してから、問題なさそうであれば征子のマンションに投函するつもりだ。
社用車を走らせて、アパートへ向かう十分弱の時間で優一は征子に直接顔を合わせる事を何度も考え、迷った。
だが、会えばまた、あのごちゃごちゃした感情が復活する可能性が高い。
「それに、警察が見張っている」
あまり不動産業者が何度も顔を出しているのも不自然だろう。征子は愛人と別れ、恋人とはうまくいくかどうかはわからないが、新しい人生をスタートさせようとしている。
その新しい人生で自分が隣にいない事には思う所もあるが、考えても仕方が無い。
七年前、優一が征子と別れた理由は今となってはハッキリと思い出せない。それくらいなんでも無いような小さな理由だった気がする。
二人ともまだ社会を知らない若造で、自分の気持ちが一番重要だった。
純粋だったと言えばそれまでだが、感情に正直だったからこそ互いをむさぼるような恋愛に没頭できたとも言える。
ほどなくアパートに到着し、敷地内の駐車場に車をとめる。
「……古いな」
外壁はくすみ、スレート葺きの屋根には苔が目立つ。築四十年の重みがそのまま雰囲気としてしがみついているような印象だった。
鉄製の外階段。その手すりに引っかけられたキーボックスから鍵を取り出し、二階の空き部屋へと入った。
前の入居者は想像以上に念入りにリフォームをしたらしい。
小さいながらもキッチンは床のクッションフロアまで新品に張り替えられており、流し台は戸棚の表面が塗り直されている。
キッチンの向かいにあるトイレは洋式になっていて、ここも床や壁の張り替えが終わっている。
浴室も小さいが清潔になっており、全体的にうっすらと埃が積っている。軽く清掃するだけでかなり違って見えるだろう。
引き戸を開くと、六畳の和室がある。
畳はすっかり色あせているが、表面には擦れたような跡は無く、新品とは言い辛いが、未使用ではあるらしい。
畳一畳分の大きさがある押入れに天袋があり、収納力は充分なようだ。
神田が自分でやったのか、キッチンも和室も床に埃は無い。優一は畳に転がり、天井を見た。
「照明があるな」
昔ながらの吊り下げ照明があり、横になる時に当たった紐がゆらゆらと揺れている。
五分程経ってから起き上がった優一は、空調などの設備を一通り確認してから車に戻った。
そして、征子が住むマンションの前に車をとめて、クリアファイルごとメッセージを書き込んだアパートの資料を投函する。
管理室は空だった。共用部分の清掃でもしているのだろう。ぐるりと周囲を見回すと、覆面パトカーらしい車が少し離れた場所からこちらを向いていた。
その夜だった。征子から優一へ電話があった。
『お願い。ちょっとだけ相談に乗ってほしいんだけれど、今からでも会えない?』
征子は警察の監視がある事を知らないようで、何やら焦った様子で電話をかけてきた。
「落ち着いて。電話だと難しいか?」
『でも、電話代が……』
そういう理由なら、と優一からかけなおして話を続けると、征子は物件資料の礼を言った。
『それで、この物件を見てみたいんだけど、保証人が必要だよね?』
征子は保証人を頼めないだろうか、と恐る恐る口にした。
優一は、正春という若者の存在を思いだしながら、答えに窮して荒い息を吐いた。
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