第六話:あの時見ていた未来
二人の刑事が返ってから、優一はしばらくデスクに向かって無言で仕事をしていた。
パソコンの画面上には賃貸物件管理契約書のフォーマットが開かれており、慣れた手つきで征子が住むマンションの内容を打ち込んでいく。
他の部屋を担当した事があるので、設備なども概ね内容がわかる事も有り、全て作るの然程時間はかからなかった。
「野辺山。矢野オーナーの件はどうなっている?」
「継続して管理させてもらう事になりました。一、二回は家賃を現金で持って行きますが、その後は奥さんの口座に変更予定です」
店長から声をかけられると、やや前のめりになっていた身体を起こし、優一はすらすらと答えていく。
「あと、前に報告した分譲マンションの件ですが」
「ああ、例の矢野オーナーの知り合いが住んでいると言っていたところだな」
優一は頷いた。
入居者の征子が自分の知人である事も、彼女が矢野の愛人である事も伝えていない。それは彼も知らない事にしている。
「警察から室内で亡くなったわけではないと確認がとれました」
「入居者もそう言っていたんだろう? 疑り深いやつだな」
「当然ですよ。自分が殺人犯だと思われるかも知れないと思ったら、嘘かも知れない」
「酷い奴だ」
店長が苦笑いするのを受けて、優一は口元を歪める程度の笑みを浮かべた。
優一としては、そういう評価を受ける程度で良い。
これで入居者の印象は多少良い方向で社内は受け止めるだろうし、そういう雰囲気は矢野の妻にも伝わるものだと考えていた。
「これで今の入居者が退去するなら、売却の方向で矢野さんには話をしようと思っています」
「わかった。任せる」
これで良い。優一は社内の興味がマンションの売却に向き、入居者の内容に向いていない事を感じ取った。
「まずは管理契約書を結びます」
「ああ。できる範囲で売却の為の資料作りもしておいてくれ。知り合いが欲しがるかも知れない」
「マジですか。事故物件扱いにはならなくても、目の前が殺人現場ですよ?」
若手の社員が声を上げると、店長は手を振って気にするなと言う。
「それでも気にしない奴は気にしないんだ。元々、曰くなんて無くても夜には真っ暗になる神社横の狭い通りなんだ。納得して買ってもらう分にはいいんだよ」
別に騙すわけじゃない、と店長は口を尖らせていた。
その間に、優一は管理契約書を印刷する。ミスが無いかを確認してステープラーと製本テープで綴じて完成だ。
「さて……」
必要な印を押してからちらりと時計を見ると、丁度昼時だった。午後一時に来客予定が入っている事を社内ネットワークのスケジュール表で確認し、そのままシステムのボタンをクリックして昼休憩に入る。
「お先に休憩入ります」
そう言って、優一は食事の為に立ち上がった。
「あ、野辺山。ちょっといいか?」
「なんです?」
店長から呼び止められた優一は、立ったままで視線を向ける。
「悪いが食事の帰りにでもコンビニで三色ボールペンを買ってきてもらえないか?」
「いいですよ。一本ですね」
「すまんな」
会社を出ると、歩いて三分程の場所にラーメン屋がある。そこで簡単に昼を済ませてコンビニへと向かう。
信号待ちの横断歩道に向かって、優一は自分が今上手くやれているかという不安に駆られた。
元恋人という立場に足を取られて、余計な重荷を背負っているのは間違いない。ただ、征子に関する全てを放り出して、警察に任せてしまうのが手っ取り早いのも分かる。
社会的にもそれが正解である事も。
「多分、まだ好きなんだろうな」
呟いたと同時に、信号は青になった。
優一は、この数年の間懸命に征子との思い出を忘れるように仕事に打ち込んできた。その甲斐あって、地域の不動産業者では彼はそこそこ顔が売れている。
自己主張は少なく、仕事の時はなるべく相手の事を考える。それだけをしっかりやってきた結果だ。
だが、征子と顔を合わせ、話をしてしまった事で優一の中にあった感情は一気に噴き出してきた。
同時に、征子が矢野の愛人であったという事実が、まだうまく飲み込めずにいる事も自覚している。
そしてもう一つ、征子と話している間に彼女を訪ねてきた正春と呼ばれていた若い男。
今の恋人だろうか。
だとすれば、矢野と不倫をしながら若い男と付き合っていた事になる。
「そういう女じゃ無かった……と思っていただけなのか」
それとも、彼女が変わってしまったのか。
判断が出来るわけでは無く、いくら考えても答えなど出るはずも無いのに優一はどうしても思考の数パーセントが常にそれを考えていた。
コンビニへ入り、店長から頼まれた三色ボールペンを掴む。ついでに自分の分のペンも買っておく。
不動産営業マンは書き物が多い。契約書などに書き込むのは油性ボールペンで無ければならず、他にも調査や説明などでインクをどんどん消費するのだ。
万年筆を使っている者もいるが、気楽に使い捨てできる安物を優一は好んだ。
ボールペンのように、人間関係とそこに存在する感情も簡単に捨てられたなら、どれだけ心の負担は軽くなるだろうか。
そう考える日が無くも無いが、かと言って人との心のつながりが全く無くても平気でいられる程、優一は強くない。
「……飲みに行くか」
サラリーマンらしい楽しみで頭を動かす事にして、午後の来客準備をする為、優一は足早に会社へと戻った。
その夜。11時を回ったところで優一は征子のマンション前に立っていた。
近くの飲み屋を回って、ほろ酔い状態で歩いていると自然に足がここへ向かっていたのだ。
見たいような見たくないような、面倒くさい気持ちを整理するには酒がまわりすぎていて、川沿いのベンチに腰を掛けて頭が冷えるまで待った。
マンションには背を向けて座る。
もしバルコニーを見上げて、万が一にでもそこに征子と正春の姿を見たとしたら、自分の感情がどうなるかわからなかった。
不倫で彼女を責める事もできる。不良のような若者と付き合う事について、苦言を呈する事も考えた。
しかし、今の優一は征子とは他人なのだ。
七年前に別れた時、二人で唇が触れる程顔を寄せて語り合った“将来”はすでに消え失せている。
「変わらず魅力的だった」
口に出してから後悔した。未練がある事を、自分自身で白状したような物だ。
自販機で水でも買って、アルコールで倦んだ様な気分の脳みそを少しでも楽にしようと身体を起こしたところで、声をかけられた。
「あんた、昼に話を聞いた不動産屋だな。野辺山さんだったか」
刑事の三上だ。
「刑事さんですか。奇遇ですね」
アルコールで顔を赤くした優一が泣き笑いのような顔で振り向くと、三上は苦笑した。
「ここらは今、俺たちが重点的に捜査しているエリアだ。奇遇なもんか。ずいぶん酔ってるみたいだな」
「ええ。たまには飲まないとやってられません」
ベンチの隣に座った三上は、缶コーヒーを差し出した。
「すみません。ありがとうございます」
すぐに栓を開けて、少しぬるくなった甘いコーヒーを飲み込む。喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じて、先ほどまでの黒くなりかけた感情をほぐしていった。
「こんな所で何をしてたんだ?」
「会社帰りや外出のついでに、取扱い物件の夜の環境を確認するのは常識です。でも、こう酔っていては意味が無いですね」
熱心なことだな、と三上は自分の分のコーヒーを開けた。
「この川なんでしょう? どのあたりです?」
優一は、目の前を流れる浅い川を見つめながら言った。
捜査上の機密かとも思ったが、三上はすぐに一か所を指差した。
「そこだよ」
コーヒーの缶をぶら下げるように持った手を伸ばし、人差し指だけを伸ばした先は、本当にマンションの目の前の場所だ。
「もし住人の誰かが真夜中に外を見ていたら、第一発見者だったかもな」
三上の言葉に、優一は首を巡らせた。
近くに薄暗く切れかけた街灯一つだけ、電柱に括り付けているだけだ。
「見えますか?」
「さぁな。だが可能性はある」
へっへ、と笑い、三上は背中を丸めたままでコーヒー缶を傾けた。
「刑事さん、例の部屋買いませんか? ここからなら通勤も楽でしょう」
「寝に帰るだけの部屋だ。安アパートで充分さ」
えっ、と優一は三上を見た。
年齢からして家族がいておかしくない。公務員ならばなおさらだろう。
「家族は別れた。俺が昼も夜も無く働いて、家に帰らなかったからな。愛想を突かされたんだ。そういう野辺山さんはどうなんだ?」
優一は寂しそうに笑って首を横に振る。
「似たようなものですよ。朝早く出て夜遅く帰って来る。大した給料も貰っていないし、休みも少ない。春先なんて特にそうです」
一度は家庭を持とうと本気で考えていた。相手は征子だったが、それはもう昔の夢でしかない。
「そうか……それじゃあ、折角の息抜きに邪魔をして悪かった。不審者だと思われないうちに帰って休みなよ」
「あ……コーヒー、ありがとうございました」
「ん。その代わり、また話を聞かせてくれ」
三上が離れたところで、優一はコーヒーを呷って空にした缶を握りしめた。固いスチール缶が、音を立てて歪む。
「そう。夢だ。とっくに指の間からこぼれ落ちた夢なんだ」
優一は立ち上がり、近くにあるタクシーの待機場所へ向かう。
身体が酷く冷えたような気がして、早く家に帰って眠りたかった。
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